・口当たりがまるでジュース
・のどごしが日本酒より甘ったるくない
・1本200円350ml(ワンカップは180ml)
・それがどこでも買える
・1度に2本買ったらアルコール依存症予備軍
お賽銭に10円玉が縁起が悪いというけど、いつ頃から言われ始めたのだろう。
10円玉ということは、1951年以降の青銅貨になってからできた話なんだろう(10円金貨をお賽銭に使うとは思えない)けど。
https://anond.hatelabo.jp/20200103200150
https://anond.hatelabo.jp/20200105130342
https://anond.hatelabo.jp/20200117164052
https://anond.hatelabo.jp/20200122205940
https://anond.hatelabo.jp/20200124094237
https://anond.hatelabo.jp/20200124102302
https://anond.hatelabo.jp/20200126213021
https://anond.hatelabo.jp/20200130212946
https://anond.hatelabo.jp/20200131133454
ゴミおじ冷えてるか~?
私(シス女性・ヘテロ)にはFtMの親友がいる。これから、私から見たその親友について、彼と初めて出会ったときから順番に時系列で書いてみようと思う。
この記事を書こうと思ったのは、ツイッターやネットには、ジェンダーについていろんな意見が飛び交っているけれど、LGBT(この言い方は性自認と肉体の問題であるトランスを性志向の問題であるLGBと一緒くたにしていてあまり良い言い方ではないと思うが)の当事者とヘテロの人との関わりについて、ヘテロ側から書いた記事が少ないなあと思い、そういう視点からの話があったら何かしらの意義はあるかもしれないと思ったからである。
最初に断っておくが、私は「性別なんて結局関係なくて全ては人間同士の問題だ」といった浅はかな話を伝えたいわけではない。私の親友は現在進行形で社会のトランスジェンダーの人々への不理解・不寛容による様々な不利益を被っている。そのような不利益はなるべく早くこの世から無くすべきだし、そのためには多くの人々がジェンダーにまつわる問題を自分事として、リアルに考えられるようになることが必要である。そのために、この記事が少しでも世の中のジェンダーにまつわる問題を考える人の参考になったら幸いである。
↓以下自分語り↓
彼とは中学で出会ったけれど、初めて出会ったころからしばらくは彼はまだ「彼女」として生きていた。お堅い私立の女子校に入った割には少しやんちゃなタイプで、4月早々の初めて一緒に帰った日に寄り道禁止の校則を破って一人で新宿で電車を降りようとした私に、彼女は「面白そう!」と言って付いてきてくれた。
一緒に帰ってる子がいるのに勝手に寄り道しようとするところから察せられると思うが、当時の私は集団行動がとにかく苦手だった。あと、謎のプロフィールカードを回して(書くのが地味にめんどくさい)、趣味とか性格とかをやたらと自己開示して同じ雰囲気の人同士で固まっていく、女子特有のあの謎の雰囲気にも全然なじめなくて、あんまり友達ができてなかった。彼女は一緒にいても無理に私のことを聞き出したり、自分のことを話したりもしなくて、そういうサッパリしたところがすごく楽で私たちはすぐに意気投合した。
毎日一緒に新宿で降りてその日のノリで無意味にアルタとか世界堂とかを気が済むまで一緒にぶらついた。私は可愛いアクセとか服とかをよく買ったけど、彼女は最新のごついボールペンとか、銀粘土という私が知らない謎の粘土(それを使ってクロムハーツっぽいかっこいい系のシルバーアクセを作っていた)とかを買っていた。お金がない日はパックのジュースをコンビニで買って地元駅のベンチで座ってずっとだらだらどうでもいいことを喋っていた。彼女も私もあんまり家に帰りたくないタイプだったので、無意味に夜の9時くらいまでベンチで喋っていた記憶とかあるけど、何をしゃべっていたのか全然思い出せない。多分最近やったおすすめのゲームとかそういう他愛もないどうでもいい話をずっとしていたんだろうと思う。中二の頃は二人してゲーセン通いにハマって、大金をつぎ込んでハウスオブザデッドをラストまでクリアしたり(金の無駄すぎる)、夏休みを全てクイズマジックアカデミーに溶かしたりした。マジアカに関しては昔は1クレで2回遊べるような気前のいい設定のゲーセンが結構あって、二人で交互にお金を出すと1000円もかからずに一日中遊べた。答えるジャンルは彼女は理系学問と歴史の担当で、私はアニメゲーム芸能の担当だった。あと彼女はクレーンゲームを一度やると取れるまで諦められないという悪癖があり、月のお小遣いを一瞬で溶かしてどうでもいい景品を取ったりしていた。いつだったか、彼女がクレーンで私のために戦国BASARAの伊達政宗のフィギュアを取ってプレゼントしてくれた時はすごくうれしかった。
中学二年生できっちり中二病になった私が突然ロリータに目覚めてピンクのフリフリドレスを着だしたときも、「似合ってるしいいんじゃね」の一言でそれ以上特に何も突っ込んでこなくて、その雑さがかえって楽でありがたかった。
とまあとにかくこんな感じで彼女と遊ぶのはとても楽しかったけれど、仲良くなるにつれてだんだんと、そして確信的に、私は彼女が他の「女の子」とはどこかが違うということを感じつつあった。何が違うのかはまだはっきりとはわからなかったけど、とにかく彼女は他の女の子と何かが決定的に違っていて、そして、違っているからこそこんなに気が合うんだろうなあと漠然と思っていた。
中学二年の終わりごろのある日、彼女が急に長かった髪をバッサリ切って学校にやってきた。私服の服装も、ワンピースとカーディガンみたいな感じから、Tシャツにジーパンみたいな男の子っぽい服装に変えた。他の子は「すごい大胆にイメチェンしたね~!」とか言ってたけど、私は彼女のそれが「イメチェン」なんかじゃ絶対ないことが何となく分かっていた。自分の性別についてとか、そういう話を彼女としたことは無かったけど、その時は漠然と「多分彼女は本来の自分の姿に戻ろうとしてるいるんだろう」と思った。私がロリータを着だしたとき、「うちのお母さん宝塚とか好きだからさ、そういうの着て欲しそうにするんだけど、嫌なんだよね。」とポツリと言っていたことを、何となく思い出した。髪の毛は、お母さんはもったいないから切るのやめなよ!そんなに短くしたら男の子みたいだよ!って言って反対したらしいけど、自分で勝手に美容室に行って切ったと言っていた。「そっちのほうがしっくりくるじゃん!」って彼女に伝えた。
中三の頃から、お母さんとの折り合いが悪いとかで、彼女の元気がない日が多くなっていった。私はそういうことに無理に相談に乗ろうとするタイプじゃなかったし、彼女も多分それを望んでないだろうと思ったので、元気がない日はとりあえず一緒に遊んで、彼女が家に帰らずに済むようになるべく長い時間一緒にいるようにした。ジョナサンのドリンクバーで追い出されるまで粘って、彼女が授業を休んだ分を一緒に勉強したりした(完璧に教えられるほど私が頭が良くなかったのは申し訳なかった)。一緒に夜遅くまでいると彼女の携帯にお母さんからしょっちゅう電話がかかってきていたけど、そうなると彼女は携帯の電源を切っていた。確か彼女の携帯はストラップも何もついていない、青いシンプルなソニーのやつだった。
高校生になると、彼女はだんだんと学校に来なくなる日が増えた。学校になじめないとかそういうことじゃなくて、多分、彼女が「彼女」でいることが限界を迎えつつあったんだと思う。たまに学校に来られる日はむしろ楽しそうにしていたし、学校はすごく楽しい、全然嫌じゃないって言っていた。今にして思えば、女子校で性別が一つの空間だったから、自分が男の子に対する女の子だっていうことをことさらに考える必要が逆に無くて、彼女を苦しめる色んなものから解放される場所だったんだと思う。
けど、そういうことを彼女のお母さんはどうやら絶対にわかってくれないようだった。学校の先生も「何でいじめもないのに来ないんだ」って感じだったし、周りの大人は誰もかもが、何か彼女の根本的な何かを理解してなさそうだった。私もその時はまだはっきりと彼女の苦しみを理解できていたわけではないけど、ただの思春期の悩みとか親子関係のもつれとかではないだろうことはぼんやりと感じていたし、そして多分、私が彼女のことを根本的に救うことは出来ないだろうということを感じていて、何とも言えない気持ちになっていた。私にできることはただ今までと変わらず仲良くすることだけだよな~と思って努めてそうしようとしていたけど、先生とかに「〇〇さんと仲良くしてあげてね~」といかにも不登校の子のケア的な感じで言われるたびに、そんなことずっと昔からとっくにしとるわ!と白けた気持ちになった。
彼女は結局高二高三と結局ほとんど学校に来られなかった。私はアホなりに頑張って何とか大学に合格したけど、彼女はそんな調子だったから、何とか卒業はできたけど当然現役で受験するのは無理で浪人することになって、春休みに会ったときに予備校に通うことにしたと言っていた。大学に入ってからは私も忙しかったし、彼女も親と一緒にいるのが限界で一人暮らしを始めたりした関係で、初めて半年くらい会わない期間があった。その半年の間に、私は女子校を出て男という存在に実に小学校ぶりに接触し、この世界には男と女がいてそうやって社会が成り立っていることを久方ぶりに思い出した。何なら初めての彼氏まで出来た。
そんなある日、サークルの部室でスマブラでもみんなでやろっか~ってなったときに「ゲームとかやったことある?」って何気なく男の子に聞かれて、その瞬間、「ああ、「男の子」と「女の子」っていう、こういう感じの雰囲気、あったな」という感覚が自分の中に鮮烈に蘇ってくるのを感じた。私は小学校の頃からゲームが大好きで結構いろいろなソフトを遊んでいたけど、女の子でゲームが好きな子は小学校のクラスに一人もいなかった。男の子が新作ゲームの話で盛り上がって「今日俺んちで一緒にやろうぜ!」って言ってるのを聞いて、混ぜて欲しいなあって思っていたけど、何故か言えなかった。そういう小さいころほのかに感じていた違和感とさみしさが心の中にバーッと思い出されてきた。小学生までの私はずっと一人でゲームしていてすごくさみしかったし、一緒に気兼ねなくゲームしてくれる友達がいればいいのにな~ってずっと思っていた。だから、男だからとか女だからとか考えずにとりあえず一緒にゲーセンに通って、アホほどマジアカやれたのが、あんなに楽しかったんだなあってことがようやくしっくりきたのだった。
夏の終わりころ、「引っ越し終わったから会おうよ」って連絡が来て、家に遊びに行って半年ぶりに会った。一人暮らし始めたてだという部屋はめちゃくちゃ殺風景で、唯一あるデカめな本棚に河合塾とか駿台のテキストに混ざって横光三国志とかジョジョとかいろいろな漫画がたくさん詰まっていた。プレステがない事にちょっとがっかりしたが、「浪人してるので親に止められた」って言われてまあそりゃそうかって納得した。けれど、親に干渉されない空間で前よりだいぶ生き生きしているようで安心し、それからちょくちょくまた一緒に遊ぶようになった。
最近はよくそういう話もするけれど、どういうタイミングで性同一性障害とか、FtMとか、そういう話を彼から聞くようになったかを私は何故かはっきり覚えていない。大学生になってからだというのは覚えているが、はっきりとしたカムアウト的なことを受けたのがいつだったか、記憶があいまいなのである。もしかしたらそういうはっきりしたカムアウトも無くて、「男なんだよね~」「そっか、まあだろうね~」みたいな感じで、ダラダラ喋ってるときにノリで言われたのかもしれない。どのみち、私は大学に入って自分の中で「男」という概念を思い出した時点で、ああ、彼女はやっぱり完全に「男」だったなという確信を持っていた。肉体の上での性などどうでもよく、長年一緒にいて相手のことを知りつくした結果、彼女が「女」では絶対にないということが理性を超え出でて感覚レベルでしっくりくるものがあったのである。性別というものは全くもって不思議なものだなあと思う。とにかく、大学生になってからは私の中では彼女だったあいつは完全に「彼」になった。もっとも、私は中学生のころからきっと、もともと彼のことを特別に彼「女」とも思っていなかったけれど。
けれど、「彼」として彼と一緒に過ごすようになってから、私は何回か彼のことを配慮のない言葉で傷つけてしまったことがある。例えば、「久々にプールでも一緒に行かない?」って何気なく誘ったとき。中高のときは家も近かったし、ゲームの合間にたまに区民プールに一緒に行って泳いだりしていたのだ。彼は泳ぎがとてもうまかった。けど彼は「水着が着られないから行けないよ。もうずっとプール行ってないな。」って、ちょっと悲しそうな顔をして答えた。私は、ああそうか、まだ一緒の更衣室で着替えていたあの時も、彼はずっと気まずい思いを抱えて過ごしていたんだなあと思って、そういうことにひっそりと苦しみながら誰にも言わずにずっと耐えていたことを思い、ものすごくつらい気持ちになると同時に、無神経に誘ってしまって申し訳なく思った。あとは、彼が中高の共通の友人の結婚式に出るのを断ったと聞いて、行けばいいのに!って言ってしまったとき。なんで行かないのって聞いたら、まだオペしていないから男物のスーツを着て行って浮きたくないし、何より「女子校時代の友人」って言われるのがつらいって言われて、ああそうかごめん…と思った。私の結婚式はドレスコード何でもOKで、「昔からの超マブダチ」みたいな感じでぼんやり紹介するから来てよって言ったら、それは行くわと言ってくれてうれしかった。
とにかく女として見られることがつらいので、彼は大学生になってからは名前の漢字も男の子っぽい名前に名乗り変えて(予備校で事情を説明して対応してもらったらしい)、高校を出てからは基本的に男として過ごしていた。だから、予備校で知り合った友人に私を紹介してくれたときも「高校の友達だとだけ言っといて!どこの学校か聞かれたら適当にごまかすから」と私に言った。何でわざわざぼかすの?って聞いたら、女子校出身だってバレたくないから、ごめん!って言われて、なるほどそうか…と思い、私はよく分からない共学出身の人としてその彼の友人とよく遊ぶようになった(ちなみにその人はすごく理解のあるいい人だったので、最終的には彼がFtMで女子校出身ということもきちんとカムアウトしてすっきり過ごせるようになった)。
とにかく、彼と友人として共に過ごしていく中で、私は世の中がいかにトランスジェンダーに対して無関心で配慮が無いかということを、図らずも身に染みて思い知ることが出来た。私は元々ジェンダーに対してあまり意識が高くなかったけど、彼は大学に無事合格してからはそういうジェンダーにまつわる問題に取り組むサークルに入って、この社会が抱える色々な、特にトランスジェンダーに関する問題について、私に色々と教えてくれた。「病院で保険証出してあれ?みたいになるときマジ困るんだよね~ここばっかりは女っていうよりしょうがないけどでもやっぱ嫌なんだよね~」みたいな、彼の身近な問題から分かりやすく説明してくれて全然押しつけがましくないのが、彼らしくて良いなあとよく思う。
つい最近、彼が昔の話になったときに、「一度だけ学校の先生に『自分は男なんだ』と相談したけど、その時『言ってる意味が分からない』と言われて否定されてすごくつらかった。それから中高の時にはそういうことを言えなくなってしまった。けど、お前に自分が男なんだってことを言ったとき、『やっぱそっか、私にとって〇〇は〇〇で男でも女でも変わらないけど、今度から男って思っとくわ!』とあっさり言われたのが、すごく気楽で救われた。自分の性別について否定されるのはつらいけど、逆に気を遣われすぎるのもつらいから。」と彼に言われた。私はマジで思ったことをそのまま言っただけで意識してそう言ったわけではなかったけど、そう言ってもらえたのはすごくうれしかった。これからもずっと、大切な友人として、過ごせたらいいなあと思っているし、彼を取り巻くあらゆる不利益が一刻も早くなくなるよう祈り、自分ができることをやっていきたいと思っている。
親の愛情というものを実感できないままいい大人になってしまった。ただの愚痴です。
けして全く愛されてなかったとも思わないし、虐待されていたとも思わない。
だけど二人とも心の底から子供を思いやってくれる親ではなかったと思う。
母親は自分の「理想の家庭」に拘り続け、気に食わないことがあるとすぐ怒りだした。
「食事中にテレビを見るならご飯は食べるな。感謝の気持ちが無いなら食べるな。」
「やってもらって当たり前だと思っているでしょう。」
事あるごとに責められ、何かを手伝ったとしても「1回だけでしょ」と無かった事にされた。
次第に一緒に食べるのが苦痛になり、部屋にこもってインターネットをする事だけが家での楽しみになった。
父親は早々に母親と本気でコミュニケーションをとる事を諦め、テレビゲームに没頭するようになった。
最初は子供の前では遠慮していたかもしれない夫婦喧嘩も常態化し、高校生になるころには目の前で歪みあっても「またか」と思うだけになってしまった。
父親もそういった子供の精神面での配慮をする親でもなく、ほぼ放置だった。
だけど不器用なだけで、本当はもっと「父親」をやりたかったのかもしれないと今は思う。
とびぬけて裕福ではなかったけども、金銭面では不自由した事はなく、最終的には大学まで出してもらったので、その点は本当に感謝している。
両親は十年以上にわたって揉め続け、子供も成人してずいぶんたったころ3年ほどの別居を経てようやく離婚した。
その間にいろいろあって、自分は今母親とは現在ほぼ絶縁状態になっている。
こういう家庭環境だったので、「ちゃんと育てられた」という自覚がない。
精神面で自分を育ててくれたのは両親ではない。たくさんの本と、インターネットの向こうにいる無数の顔の無い人達だ。
それがずっと心の奥底で傷になってこびりついている。
高校生の頃は特に「普通」の自信がなくて、周りからひとつひとつ「普通」っぽいものを模倣してなんとかやっていた。
この時にできた友達がとてつもなく良い子で、初めは「こうなりたいの理想」のお手本として、明確に「この人に気に入られたい」と言う理由で接していた。
家に遊びにいったのは数回だけど両親もめちゃくちゃ良くしてくれて、「愛されて育ったんだなあ、いいなあ」と思った。
誰からも愛されるタイプだったのでその子には無数に友達がいて、なんとか特別になりたいと思っていろいろやった。良い子すぎてやっかむ人間もいたが、100%ガチの味方をし続けた。
結果おそらく仲良くはなれて、大学も一緒に行ったし、結婚式も呼んでもらった。今も仲が良いと思う。自分は今も何があってもその子の味方でいようと思っている。
数回だけしか遊びにいってないのに、その子の結婚式に出席した時、ご両親がお見送りでなぜか自分の名字呼び捨てですごく嬉しそうに握手してくれた。
何故か自分を気に入ってくれてたらしく、「家でよく話してたから覚えてくれてたんだよー」と後から教えてくれた時、自分の親にプライベートの話をしたのはいつが最後だろう と思った。
まだ母親と交流があったころ、母親に心底疲れ果ててボロボロになって初めて誰かを頼った時、母方の叔母が助けてくれた。
無意識に電話をかけ、泣いている自分に「どうしたの?」と声をかけてくれた。それまで何年も会ってなかったけど、叔母はたぶん「大丈夫な人」として心の片隅にあったのだと思う。
身内だからこそわかる母親の話をしっかり聞いて、こたえてくれて「親世代ってこんなにちゃんと会話ができるものなのか」とショックをうけた。
叔母は男二人を育てており、一人はいわゆる不良で、さんざんやんちゃしまくったが落ち着いて子持ちの父親となった。
外から見ても大変だった子育てを経ても叔母は「でもやっぱり自分の子供は甘やかしちゃうんだよね」と言い切っていた。
それが心底羨ましくて、自分という存在が無くなったとしても、どうしてこの家に生まれなかったんだろう。と思わずにはいられなかった。
友達の家も叔母の家庭も、実際はいろいろあると思う。無条件に子供に尽くせる親というのはたぶんそんなに多くない。
だけど、「親だけは何があっても自分の味方なんだ」と実感したかったと願うのをやめられない。
今は自分の事が自分でそれなりに好きだし、これまでの人生に後悔はない。それなりに生きている。
でも、自分という存在の真ん中に小さい穴が空いているし、それがずっと埋まらない。
6歳ぐらいの頃、いつになく大きかった両親の喧嘩に心を痛め、ベッドの上で声を殺して泣いていたら、母親が「大丈夫?」と一緒に寄り添って眠ってくれたことを思い出す。
この時は確かに愛してくれていたはずなのだ。同じシチュエーションで泣いていた時、次からはベッドに母親が来ることはなかった。
最近の若者は軟弱になった
[朝田理論][朝田理論][朝田理論][朝田理論][朝田理論]
[朝田理論][同和利権][朝田理論][朝田理論][朝田理論]
[朝田理論][朝田理論][同和利権][朝田理論][朝田理論]
[朝田理論][朝田理論][同和利権][朝田理論][朝田理論]
[朝田理論][朝田理論][朝田理論][朝田理論][朝田理論]
これ思うのは知らない単語への語彙力っていうのか、知らない単語がわりとよく知られてる言葉だったりするんだよな
なのでかなり遠いキーワードからでも何度か検索することで範囲を狭くできてすぐに目的の言葉にたどり着くことが多い
俺もどれだけググっても見つからないという経験がないんだけど、それは知りたい言葉への語彙力がないからだと思ってる
でも知りたい情報にたどり着くかどうかはまた違う話だけど
情報そのものは誰かがどこかにアップしてくれないとたどり着けないし、誰かがアップしてくれてる言葉を予想しなきゃたどり着けない
まだ昭和の昔に模型雑誌に連載されてた可変飛行機の漫画のことずっともう一度知りたくて年に何度かググってたけど見つからず、雑誌の名前も何もかも情報が見つからず、こういうのはさすがにたどり着けない
(ツイッターで模型クラスタの誰かが偶然古本の画像を上げてて、そこで知れたけど、そういう偶然がなければ今もたどり着けなかった)