はてなキーワード: 成果物とは
ふわっとした要求に対してふわっといい感じの成果物をセンスで作って納品すればいいタイプの仕事は食われるだろうな。
構造的にそういうタイプの需要が全体のほとんどを占めるという業界もあるだろう。イラストとかはおそらくそういう構造なんだろう。
絵描きで食いたいなら、コンセプトからデザインまで全体として整合性のとれた絵を出して欲しいという方向に舵をきって行くしかないんじゃないか。
「いい感じの絵を描く」以外のスキルも要求されるっちゅうことだな。ただそんなカッチリした仕事は需要がそんなにないからパイは縮小するだろうが。
音楽のサンプリング問題と同じ話だって言われればそうなのだろうが・・・。
研究だけで使うってのなら、まぁわかる。
けどそれで稼ぐって話がな。
学習に他人の絵を使っているが、元の絵を描いた人にはお金は流れないわけでしょ?
すげーって騒がれているが、学習させている画像が、すげーと言われていたり、壮大な感じに見えるものをディレクションして集めてきたってことにしか思えない。
まだ、ある領域の近接領域には、統計的にこういった模様や色の物があるだけだって性能しかなく、
その性能に見合った画像を集めて来てるのでは。
あと絵は正解がぱっと見で判断出来ないこと、多くの人が判断を言語化し難い所を狙ったなっていう気がしている。
自分の絵に似ているって異議申し立てしても、類似してるかしてないか、人によって判断が分かれる。
でだ。
親としては子供には少しでも上位階級に立ってもらいたいし、そのために金をかけるわけなんだけども、今の社会で「勝つ」というのは自力で金を生むクリエイター職(いわゆる手に職を含む)の中で、なおかつ金を出してもその成果物を買いたいと言わしめる人なんだよね。
でも、基本的にはみんな何者にもなれない人だから給料という鎖で縛られた奴隷として、上位奴隷か、下位奴隷か、という違いでしかないわけさ。
そんな苦界じみた社会で子供を増やそうなんて、なかなかチャレンジだと思うんだよね。
生まれた子は、見た目、知性、体力、忍耐、本人の才能でどうこうなるものはともかく、足りないところは親の投資で何をどうカバーして育成するか、親のやる気がないと初っ端から底辺奴隷まっしぐらなわけですわ。
子ども一人の育成コストが高い、正確には上級に据えようとする場合の育成コストが高すぎる中で、ポンポン3人生むとか正気ではない。
本文にあるように『その成果物とやらを偉そうに語れるような人間ではない』のでは、そもそもそんなんでマヌコビチャビチャになるような人間なら幸せそうで素晴らしいね。
本文にあるように『その成果物とやらを偉そうに語れるような人間ではない』のでは、そもそもそんなんでマヌコビチャビチャになるような人間なら幸せそうで素晴らしいね。
私は今、政府系機関で働いている。小さな頃から大して努力はしなかったが地頭はよかったらしく、世間的には一流の中高大と進んできて現在に至っている。そんな訳で現時点では比較的挫折もなく、恵まれた人生を辿っていると言っても差し支えないだろうか。
しかしながら私には、「幸せ」というものがよく分からない。と言ってもこれは日常生活に楽しみが一切ないという訳ではない。知人と食事をしたり、好きな音楽を聴いている時間はそれなりに楽しいものだとは思っている。ただそれらは"刹那的"な楽しさでしかないと感じてしまう。
私の考える「幸せ」とは、"永劫的"なものである。知人と食事をしても、その僅かな時間では楽しいと思えるが、ふと我に帰って自己のことを考えるとどうしても憂鬱な気分になってしまう。私の身に覆いかぶさっているものの大半がこの憂鬱である。
この憂鬱の原因としては、主にこの先に横たわっているどうしようもなく長い人生と、その中で自分は何も為せずただただ衰亡していくということを考えてしまっていることによる。 (前文で"自分は何も為せず"と書いたが、『じゃあ何かに挑戦すればいいのでは』という話ではなく、その成果物とやらを偉そうに語れるような人間ではないというだけのことである。)
お金とやらもあまり興味がなく、それに大して残忍琥珀に振る舞う人とあまりかかわり合いになりたくないことから、一応自身がすり減らないようにそのようなところで働いてはいる、それが正解かは分からないが。
結婚して子供を生んだりすればそれなりの楽しみにはなるかもしれないが、同時に第二の私を世に放つことになるのは言うまでもないことである。もちろん、環境が変わることでこの厭世感が簡単に晴れると思い込んではいけないことも忘れてはいけない。高校、大学、そして社会と段々期待すべきものではないと頭では分かりつつも何処かで期待をして、打ち砕かれてきた。
そして、どうしようもない日々を浪費していくと、どうしても"ー"が”+”を上回ってしまう。人生はその積み重ねであり、本当に日々がしんどいものでしかない。不安を酒でかき消す生活を送り続けていたら少しづつ身体にも異変が出てきたが、他の人間はどうやってまともに日々をこなしているのだろうか。
脳内空っぽ偏差値30田舎ヤンキー的思想(100%偏見)があれば、余計なことも考えられずに済んで「幸せ」に感じられるのかもしれない。ただ、あいにく私にはそのようなものは持ち合わせていなさそうで悲しいものである。
人生が幸福に向かって進んでいくとはとても思えない私には、ただただ彼ら彼女らの精神性の素晴らしさに感服する他ないのだろうか。
この一、二年で頭がおかしい
車を運転すると15分ぐらい経過すると車を停めて横になりたくなるぐらいダルくなるし頭痛が生じる体温が上昇する
以前は5時間ぶっ続けで運転しても平気な程度であって運転がペーパーで不安というのも無い
仕事の締め切りが守れなくなった
それは取り掛かろうとすると頭痛がする為で横になり休みたくなる
体温上昇に連動しているのかと思っているが運動して呼吸が上がると頭痛がしてくる
運動強度は大学時代サークル活動ではなくガチの運動部での部活動をしており運転強度への耐性を有していた
人の話が分からなくなった
大学院まで進んでおり学習法学習習慣は出来ていたはずが机に座り長時間なにかをするというのが困難になり横になりたくなる
現職が設計職なんだが頭を使う仕事なのに頭がおかしくなっているのでどうしたらいいのか
もう職辞めるしかないのかな
よくブラック部活のやり玉に挙がる部活といえば、文化部だと吹奏楽部が筆頭だろう。
でも論文を書く系の部活だって、いくらでもブラックになりうる。
それも大学院の研究室とかでありがちな、ピペドなどとは全く違う次元で。
そもそも初等・中等教育レベルの児童・生徒が書く論文なんて、その内容が訴える「科学する心」で読者をいかに感動させるかくらいしか、評価できるものがない。
だから研究テーマも、実験結果も考察も、全てはその手段に過ぎないわけで。
こういう事書くと特に博士持ちの奴が色々うるさく言ってきそうだけど、学部とか院とかの学生やプロの学者が書く論文とは、そもそもゲームのルールが違うんだよ。
このルールの違いを理解していてもなお異論がある先生方は、トラバにでも書いといてください。
さて、とにかくこの「科学する心」の表現は、「めちゃくちゃ頑張って、たくさんのボリュームをきちんと綺麗にまとめた感」をどう出すかがポイントになる。
これなら多少科学リテラシーのないアホでも形になるので。
そうなると、論文原稿も昔だったら万年筆手書きが鉄板だったけど、流石に今の時代はパソコンでいいとは思う。
ただその場合はページ数を稼ぎにくいのと、高品質な組版ソフトに高品質な商用フォントを揃えるのがほぼ必須になるので、多分結構なカネがかかると思う。
そしてページ数を稼ぐのに忘れてはならないのが実験データで、これは数字が連続してたくさん出てくる内容のものを、数十ページにわたってひたすら並べて印刷したものと、それをこれまた長大にグラフ化したものの両方を用意する。
これを全ての実験で行えば結構な量になるので、最終的には200~300ページの成果物を目指す。
関係者への謝辞にも、きちんと頭を悩ませる。学生らしい爽やかなイメージを稼ぐ貴重な箇所なのだから。
ポスターはレイアウトはもちろんカラーパターンにも熟慮し、フォントのサイズや種類も複数用意する。
この他にも凝ろうと思えばいくらでも凝ることができるが、大抵ここまでやると週末も出てくる必要があるし、夏休みの合宿でスパートかけるのはお約束というくらい、やることが増えまくる。
搬出の数日前は日付が変わるくらいまで作業しないと回らないと思うし。
で、ここまで読んでこれまた「姑息」などと謂れのない非難をする奴が絶対いるだろう。
一生懸命やり込んだことを、そういう一言で切って捨てるとか人でなしにも程があると思うが、そこまで言うなら他にどうやって小中高のお子様が「科学する心」を表現するのか、ぜひとも対案を伺いたい。
どうせないんだろうけど。
こんな41歳のもはや前線ではないオジサンにすら年収1000万のオファー来るから、つい転職しちゃったよ。
GAFAMは、「一回面談しません?→やっぱダメやこいつ」のコンボで落とされるんだけど、30代くらいのバリバリ前線ソルジャーは即採用なんじゃないかな。そんくらいのイキオイ。
採用活動を見た感じ、日本企業に昔から巣食う、企業常駐SESの成果物であるところの九龍城みたいな社内システムを、軒並みクラウドにトランスファーしたいみたい。
まぁそれ自体は願ったり叶ったりなんだけど、企業常駐SESって今後どうなんのかな。
駆逐されるの?無くなるの?まー無くなるなら無くなるで良いのか。
あ、なんも問題なかったわ。
1ヶ月猶予のあった成果物作製の提出が三連休明けなのに一切成果物ができてないよ
火曜日9時が締め切りだ。
では月曜日9時を一段目の締め切りに設定する。
なので計60項目を作る。
家で集中出来ないのでビジホに泊まるかネカフェに行くこととする。
ノーパソ持ち込みオッケーだろうか。
現時刻を持って行動を開始する。
まず服を着よう。
とにかく何かしら形にしなければ。血涙😰
政治を語るなら「政策1は最高。2は駄作。うーん両方に関わってる政治家Aは当たり外れ大きい人なんだなぁ」みたいな映画批評みたいな形になるべき。政策にIDをつけて、政治家はタグの1つと位置付けるべき。
ほとんどの政治家は2つ以上の政策を出している。(以降ここでは、立案、実施した政策とか諸々の活動の成果物を政策と呼んでしまう。)一方で政策の方には沢山の人が関わって完成したものなんだから、データの持ち方的にも政策に着目すべきだろう。
政治を批判したい時に政治家を批判すると、しばしば、そいつの政策に全部批判が飛んでいく。ほとんどの政治家は利益になることと損になること両方やってる(誰の視点から見ても)。
絶対おかしいよな。やっぱり「政治家Aの政策1は最高、政治家Aの政策2はクソ」って批判の仕方をするべきだよな。
なんでこうなってないか。みんな個々の政策なんか気にしたこともない。せいぜい中身よくわかんないけどインフルエンサーが解説したのを信じこんだり。
こんなのどうだろう。インフルエンサーに代わってAIで政策を評価するんだ。ここでいうAIはキッチンにあるフードミキサーみたいな便利道具で政策にくっついてる属性(関わった政治家、成立年度とか)を全部ぶち込むと2次元くらいの特徴量、一種の「値」を出してくれる。それをもとにグラフに書いたり分類したりなんなりする。
で、自分に得になる政策を選んでって「値」を信仰するんだ。あるいは「値」をもとに政策を四象限に割り振って、その象限を盲信してもいい。人間が適当にぶちこんでAIがあやふやに放り出した「値」を神と崇めろ。
文字通りの凶弾に斃れた最長任期の元首相に死体撃ちするのも、正当な自由民主主義的活動が四十九日の喪に服すのもおかしいだろ。
みんな本当に初っ端にやったことって1人で完成まで作ることだったの?
それは流石に盛りすぎだろw
出来上がったものの数字をいじったり、足したり引いたりしたらどうなるのかってのを見て、なんとなくプログラミングってこうなってんのねってのを把握したのが、俺の最初の記憶なんだが
こんなこと出来たら便利だなってのをググってコードを見つけたら、それをいじってみるってのが初心者が最初にやるべきことだろ
1つのモノを完成させるなら絶対監督してくれる人がいたほうがスムーズ
成果物のここを自分は担当したけど、全体はどうなってのんかを見て、どこができそうでどこができなさそうなのかを把握
出来ない部分は出来る人に聞いてみる
そうやっていつの間にか一人で完成させられるようになる
そういうもんだと思うんだがな