はてなキーワード: 外国人とは
今回問題となった知床の観光船などは特にそうですが、コロナ禍が突然やってきて外国人観光者によるインバウンド需要が突然抜け落ちて、その観光収入に依存してきた地方経済を直撃してしまいました。インバウンドありきで過剰投資を続けてきた地方のホテルや観光地は、投資負担と収益減少のダブルパンチでリストラをしなければならない状況が出ただけでなく、高級食材を中心に1次産品も流通価格の大幅な下落で身動きが取れなくなりました。
同様に、地方の人口減少が慢性疾患や高齢者を対象とする病院の経営を圧迫し、地方に根差してきた医療法人などでもたくさんの「売り物件」が出るようになりました。しかし、これらの地域の観光も1次産業も医療も、需要がゼロになったわけではないので、上手く合理化すれば利益が出せる可能性があります。
だからこそ、これらの企業再建・再生案件で地方企業や組織・法人を手がける人たちが増え、また、それに対して適法な人員整理を請け負う企業やアドバイスを行うコンサル会社などが跋扈するのもまた自然なことと言えます。https://bunshun.jp/articles/-/53973?page=2
他方、観光船もそうですが、その企業が売り上げを上げるには専門知識のある人員が必要だったり、売り上げを得るための設備が必要だったりすることもまた多くあります。事故を起こした観光船は、まさに暗礁に乗り上げて船体が損傷したままだった可能性もありますし、相応に潮の流れの速い水域に岩礁暗礁が多くあり、非常に慎重な操船を行わなければならない海域だったことも報道では繰り返し指摘されています。
おそらくは、ベテランの船長・甲板員がしっかり現場に残っていて、然るべく整備された船舶で航行する分には問題なかったのかもしれません。ですが、ここで企業が収益のためにベテランを解雇して新人で運行し、また、船舶の整備も満足にされていなかったのだとするならば、事故を起こすのは時間の問題だったのでしょう。
日本にいる外国人って全然春になりきってないのにTシャツハーフパンツで出歩いてるやん
あれは何なんだ?
気温はそんなに変わらん春と秋でも違う
けど、外国人は冬以外はTシャツハーフパンツってやつ普通にいる
何なら冬でもハーフパンツに上パーカーのみみたいなん普通にいる
日本の冬舐めんなよ?
どうなってんだよ
私は「AI社長」という人工知能開発会社社長に訴えられている、そんなどこにでもいる増田である。まあ、訴えられている内容は「とある掲示板に何個か法律違反になりそうなことを箇条書きにしたこと」なんだけど、いざ訴えられると不安になってきたので、増田に列挙していこうと思う。
これは職業安定法に抵触し、企業が処罰される可能性があると思う。ただし、契約した以上は自分はこの点では法律違反にはできそうにないと思う。
しなくていいよね?って言われた。雇用保険、労災保険、健康保険、厚生年金のすべてが未加入。これって訴えることできるよね?
労働者派遣事業主ですらないのに、派遣する。これって、法律違反だよね?
これ労災だよね?
アウトだよね?
アウトだよな?
アウトよね?
爺、婆増えていきます。
汚い仕事はしたくない。綺麗なオフィスで働きたい。当然、インフラの修理は進まなくて事故、倒壊が多発する。
中間マージン取る会社ばかりが潤って、働き手の収入が低いからなり手は減るし、技術継承も進まない。
丸山真男『日本の思想』を読んでいるのだが、海外比較としての日本人の思考様式や精神性の解釈が非常にしっくりと腑に落ちる。
この本の書かれた年代は古いが、現在のSNS政治トピックスにおける論戦の様相などにも適用できる程度には、日本人というものの精神性の核をとらえているように思える。
例えばこれ
(2)推論的解釈を拒否して「直接」対象に参入する態度(解釈の多義性に我慢ならず自己の直観的解釈を絶対化する結果となる)、
(3)手応えの確な感覚的日常経験にだけ明晰な世界をみとめる考え方、
(4)論敵のポーズあるいは言行不一致の摘発によって相手の理論の信憑性を引下げる批判様式、
(5)歴史における理性(規範あるいは法則)的なものを一括して「公式」゠牽強付会として反撥する思考、
1-5まで、スタンスの左右を問わず現代のtwitterやはてなブックマークでもよくみるような批判様式だと思いません?
これらの思考様式の背景にある要因もいくつか挙げられているが、私が面白いと思ったのはキリスト教圏との対比。
キリスト教圏では唯神論に対する反発(対立軸)として市民社会や思想が発展した背景から、思想それ自体を神格化して同じ轍を踏まないために、思想の形式的不備を市民が監視する構造が浸透している。
一方で日本においてはそういった背景がないため、「思想」それ自体を道具の一つのようにプラグマティックに取り扱う傾向がある。矛盾する思想でも状況に応じて使い分ければよい。思想の中身はさておき、その思想を適用すると何が便利なの?という発想である。思想それ自体の形式(建前の正当性)を重視するキリスト教圏との大きな違いがここにある。
なお中国は儒教の影響が支配的なのでまた別ということになっている。日本のこの柔軟性は神道がそういった特性であったことも背景として挙げられている。
日本人は「物分かりがよい」という表現もなかなか味わい深いと思った。
引用にあるような「感覚的な便益を重視し、抽象化・体系化や論理的整合性に価値を見ない」という評価と、「物分かりが良い」という評価は一見矛盾するようで、そうでもない。
道具として使える程度に理解することにおいては日本人は早い。なぜなら既存の価値観との整合性を気にしないから、(便利である限りにおいては)新しい考え方に対しても衝突したり反発したりせず、すぐにとり入れることができる。その際には、既存の価値観を拡大解釈する(へえ、外国人はこういう考え方をするのか、でも日本のこの考え方と一緒のものと解釈できるな)という様式が使われやすい。既存価値観と同一視するという輸入様式はまさに抽象化だと思うのだが、抽象化を自然に行うため逆説的にそれに価値を置かないという精神性が成立しているということだろうか。
一方で抽象化・一般化された思想体系を戴くことを嫌う。それは思想体系を一度決めてしまうと前述の拡大解釈による柔軟性が損なわれるからだろう。
日本人の精神性は「そういう考え方もあるよね〜」を地で行っており、その意味で非常に包摂力が高い。包摂力の高さを維持するために、統一基準を作ることを嫌う。イデオロギー嫌いがイデオロギーである、とも言えるか。とはいえ新たなイデオロギーから影響を受けないわけではなく、拡大解釈や意図的な誤訳によって、既存の価値観と同居させる形でイデオロギーを解体して取り込むのである。
個人主義やリベラリズムやフェミニズムなどが、日本になじまなさそうで、でもやっぱりなじみそうな(それらにまつわる論戦において、各論ごとに各人のスタンスが右派なのか左派なのかも判然としない)のは、それらの思想の各論での実利については認めており、慣習としては取り込んでよいと思いながらも、原理原則として戴くつもりはない、というイデオロギーが影響しているようにも思える。