はてなキーワード: こんにちはとは
こんにちは、初めまして。匿名なので初めましても何もないとお思いになるかもしれませんね。
初めましてと言ったところで確認のしようがないのだから、そんな挨拶は不要だと。
私は本当にこちらに書くのが初めてなので、こんな挨拶をしているけれど、もしかしたらそう装っているだけかもしれない。
この記事を読んでくださった方が、実は私の知り合いで匿名越しに知り合い同士でやり取りをしているのかもしれない。
匿名とはそういうものなのでしょうが、不思議ですね。匿名という考えが広がったのはインターネットができてからなのではなかろうか、なんてことを考えています。
前置きはそれぐらいにしておいて、ブログの開設が面倒臭い話をします。
ある日、私はブログを始めようと思いました。なぜなら文章を書くのが好きだから。某SNSに普段はいるのですが、少々使いにくさを感じていました。
ご覧の通りだらだらと文を書く、もとい垂れ流すのが好きな身としてあの場所は狭すぎました。
日記もつけてみたのですが、書いていくうちにそれは日記というよりも考えのメモのような雰囲気になってしまって続かなくなってしまった。
それに、少し恥ずかしいことではありますが何か反応が欲しくなったのです。いわゆる承認欲求というものでしょうか。ずっとなんとなく目を背けていた承認欲求に突き動かされる形で、私はブログサイトを探し始めました。
どのサイトにも作法があるようなことを目にしてしまい私は一気にやる気を失いました。(しかもたくさんありすぎて選ぶのも面倒臭い)
承認されるにはなんらかの集団に身を置かなければならないし、集団が集団である以上はなんらかのルールがあることでしょう。
ですが、ただ社会の中で生きていくだけでもいつの間にか複数の集団に身を置いているというのに、さらに所属する輪を増やすのは、その面倒くささは私の承認欲求を利口にさせるに足るものでした。
本当にいまさっき登録したので勝手がよくわからないのですが、これ、もしかして匿名といえどその人が書いた他の記事とか見えるのかな?
もしそうだったらさようなら。次にお会いする時にはまた新しいIDで、始めましてからスタートします。
自分の書いた記事が連なって評価されるのも素敵ですが、言っていることが矛盾しているなどと言われるのは嫌ですから。
私には前者に比べると後者のほうが勝るわけです。
別に主張に一貫性がなくてもいいかな、と思うのですがそうでないこともあるので。
一貫性のある人は素敵ですが、人間らしさというのは矛盾からも生じると思います。(人間らしさという言葉を使ったせいですごく面倒くさくなった。人間は皆、人間らしいでしょう。でもそれについては書きたいことがまとまっていないからこの辺で)
承認の裏側には否定があると思います。いやむしろ承認単体ではプラスでもマイナスでもないというかどちらもありえるようにすら思う。
私はプラスの承認のみが欲しくマイナスの承認が欲しくなかった。でもそんなことは不可能でしょう。
子供ではないのですから、そんな主張が通るわけがないことを知っている。(子供でも知っているかも。)私は矛盾しているのです。
そんなことを考えていると、自分の矛盾とその馬鹿馬鹿しさ加減に嫌気がさして何もしたくなくなってしまう。
そんなのうじうじ言ってんじゃねぇ!と奮い立つ元気さも失ってしまった。
元気がないと本当に何にもできないですね。
元気がないことを他人にいうのすらしたくない。おかしいなんて言われたくないですし、何しろ説明が難しいです。
まぁ、そんな感じで。いつか、また。
こんにちは。id:lispmemo です。
いまごろ2ヶ月以上も前のエントリを話題にするのもアレかもしれないけど、らくからちゃ(id:lacucaracha)さんが妙ちきりんな簿記(というか、仕訳)の解説をしてますね。話題にならなかったので、気づいていませんでした。
今回のエントリでは、おそらく簿記3級を学んでいる方向けに仕訳の話を書きたかったのでしょうが、複式簿記のシステム上ありえない図(勘定)が出てきます。(簿記の教師役がこのミスを犯すのは非常に恥ずかしいというか、まあそれ以上は言いませんが)
他にも、
と、挙げればいろいろあり、いずれも恥ずかしい間違いですが、最初に挙げた点はとんでもない間違いです。タイトルから「仕訳の理屈」を説明したいのでしょうが、これでは理屈が通らない。もし理屈を完全に理解していれば、書いている途中で間違いに気づくはずなので。
簿記を知らない方に向けて喩えて言うならば「自動車教習所の教官が『左側通行です』と言いながら(日本国内で)右側通行するようなもの」です。いくらなんでも無茶でしょ?と思いませんか?
というわけで、簿記3級を今学んでいる方はぜひ↑のURLの説明を読んで「どこが間違っているか」を考えてみてください。少ししたら修正されて正しくなっているかもしれませんので魚拓を見たほうが良いかも。良い思考訓練になるでしょう。2級やそれ以上の方はすぐにわかるはず(たぶん)。
簿記を全然知らない方はわからないと思いますので、「間違っている」ことを前提に置いてならば読んでも良いかもね。
それでは。
はじめて書く。うまくいくものだろうか。
Hello, World!
いきなりプログラムの話で恐縮ですが、上記の”はろーわーるど”とはソフト開発においてプログラミング初学者が入門書片手にとりあえず作ってみるプログラムにより出力される文字である。ことが多い。
なぜ”はろーわーるど”か。
英語を母語としないため、直訳日本語とてしては”こんにちは、世界よ!”くらいのニュアンスしかない。
母語ではどうなんだろう。
https://eow.alc.co.jp/search?q=hello
今はあいさつの言葉であるが、人を呼んでくることや呼びとめる時のかけ声を語源とするので、”やあ!(こっち向いて)”や”ちょっと(話せるか)”くらいだろうか。
https://eow.alc.co.jp/search?q=world
世界。
指す範囲は広いだろうが、”人間の年齢”を語源とするので、自然科学的な地球や宇宙というよりは、人類の歴史、文化による主観的な世界を指す感じか。
それは連綿と連なってきた世にプログラムが、出てきたからこっちを向けと言わんばかりのニュアンスを淡~く含む挨拶であったのだろう。
Helo, World! を書いたカーニハンか誰かに真意があったのか、なかったのか、ご存知の方がいれば教えていただけないでしょうか。
ざっくり検索した限りでは見つけられなかったため…
「金目的だろ」
⇒逆です。
「お金出して権利買うから、これまでの事も今後の事も劇団は関係無しで」
に対して
「お金はいらんから劇団の作品が元になってるのを正式に公表してくれ、舞台へのリメイク権は絶対譲れない」
という主張です。
金額少なっ!ってのは単なる感想…#カメラを止めるな— すずきぺこ (@peco_suzuki) 2018年8月21日
これは元になった劇団に所属していた人のツイートなんだけど、これによるとどうやら劇団側が主張していたのは「映画の舞台化がしたい」ってことのようだ。
つまり、舞台版『カメラを止めるな!』を自分たちにやらせろってこと。
元となった舞台の再演じゃなくて『カメラを止めるな!』の舞台版ね。
こうなると話が違ってくる。
劇団側が求めているのは名誉の回復じゃなくて「舞台化の権利」。
要するに原案だったら『カメラを止めるな!』は元の舞台とは別物だから劇団側に舞台化する権利はない。
これが原作だと『カメラを止めるな!』と元の舞台はイコールになるから劇団側は舞台化ができる。
告発だとそこをぼやかして「クリエイターとして尊重してくれ!」みたいな論調になっているから話がちょっとおかしくなっている(原案でも尊重しているから噛み合わない)。
「元になっているんだからクレジットしてくれ」という主張はわかるが、「ついでに舞台化する権利をくれ」というのは話がおかしいんじゃ?
こんにちは。GOHSTは完全に劇団の作品ですから、少なくとも現時点では、劇団と代表和田にあると思っています。が、正確に申しますと、双方が合意出来ていない以上、全ての権利において、司法の判断なのか、和解なのか、何らかの決着を見ないと確定ではないとも思いますが…— すずきぺこ (@peco_suzuki) 2018年8月21日
との認識とのことですので、これは『GHOST~』の再上演じゃなくて『カメラを止めるな!』の舞台化の権利を要求しているのは確定です。
いいですよね
哲学なのか医学なのか、分野はよくわかりませんが昔から「人の心はどこにあるのか」という議題があります。
「心が大事だよ」というジェスチャーをするとき恐らくほとんどの人は、胸を叩いたり、指したりすると思います。でもそこにあるのは心臓で、心はないですよね。
「そんなことは分かってる。皆イメージでやってんだよ!」
ごもっとも。心というのはつまりは感情や意思のことですから、当然脳にあるわけです。でも脳を指してもしっくりこないので、胸に手を当て考えるわけです。
では、魂はどうでしょうか。
そもそも「魂は存在するのか!?」という議論もありますが、ここではその辺はフワッとした概念的な感じで話を進めます。つまり、"職人魂"だとか"魂の一球"みたいな感じの魂です。これも脳にあるのでしょうか...うーん、いまいちしっくりきません。
私が思うに魂とは「そのものをそのもの足らしめている一番重要なもの」なのではないでしょうか。「画竜点睛を欠く」の「点」ですね。...答えは闇の中。
閑話休題。
日本人が生きていれば必ず直面する疑問の一つに、R18の謎モザイクがあります。
誤解を恐れず率直に例をあげるならば、乳首。
地上波のテレビ番組や少年漫画などで女性の上裸が映る時、一体どの部分がハレンチ(死語)なものとして規制され、隠されるかといえば、ヘソでもワキでもなく、チクビです。
ではなぜ規制が入るのか。それは「卑猥だから」に他なりません。なぜ卑猥なものが規制されるかと言えば話は簡単で、見た人が性的な劣情を催すからです。つまり、男性でれば勃起してしまうからです。
女性の方はわからないかも知れませんが、意図しない場面で勃起してしまうととても困ったことになってしまうのです。最悪、捕まります。そういった事件を防ぐため、規制がされているのでしょう。しかし、ここで一つの疑問が生じます。
みなさん、おっぱい好きですよね?興奮しますよね?おそらく程度の違いはあれ人類は皆おっぱいが好きです。大好きだと言っても過言ではありません。生れたばかりの頃などは毎食おっぱいを貪るしまつです。嫌いな人などいるはずがありません。
しかし、現実はそうではありません。例を出すならアニメの水着回やテレビの温泉リポート。それどころか、なんですかマイクロビキニとか貝殻とか、挙げ句の果てには絆創膏!何も隠れていません。胸部の99%が露出しているではありませんか。
では隠れている1%がどこかと言えば、それが乳首です。つまり我々は乳房ではなく乳首におっぱいを感じ、恋い焦がれ、興奮していると。となれば、仮におっぱいから乳首を分離し、乳首だけを皿に盛って「どうぞお納めください」と提供されても興奮できるということです。
.....ダメだ!私には出来ません。どれだけ乳首を山盛りにしてもフルコースにしても興奮できるビジョンが浮かびません。これ、凄く不思議じゃないでしょうか。
規制されている卑猥なものはおっぱい全体ではなく乳首だけなのに、それ単体で提供されても意味がない。だとすれば我々は一体おっぱいのどこに魂を感じているのでしょうか。
画竜点睛の意味で言えばもちろんそれは「乳首」なのでしょう。故事に言う「おっぱい乳首を欠く」ですね。しかしそれだけでは不十分。いくら乳首がたくさんあってもそれがあるべき乳房がなければ意味がありません。つまり乳首が魂の居所ではなく、乳房に乳首が付いて初めて魂となりうるのです。とするならば魂とはどこかにあるものではなく、存在そのものなのです。人であれ、芸術であれ、それを構成する必ものが揃って初めて魂へと昇華するということなのです。
以上のことから、おっぱいの魂は、乳首にも、乳房にも、ましてや脳にあるわけでありません。おっぱいの存在そのものこそが、我々を魅了し、時として争いをも引き起こす至高の果実そのものこそが、魂であるということなのです。
御静読ありがとうござました。
カマキリの雌が雄を食った場合と食わない場合の卵の違いを書いた文献(を引用した文献)に出会ったので報告します。
「昆虫のすごい瞬間図鑑 石井誠 誠文堂新光社」の115ページより
「共食いをしなかったメスの卵巣にはオス由来のアミノ酸が21.1%だったのに対して、
さらに共食いをしたメスの産卵数が平均88.4個に対して、
共食いをしなかったメスの産卵数は平均37.5個で2倍以上の差があった。」
昆虫写真家の著者によれば野外では共食いはあまりみられないそうで、逃げ場のない飼育条件下ゆえに起こりやすいっぽいです。
こんにちは!魚をきれいに食べるねってよく言われる人(男)です。
ちなみに、きれいに食べるためには、かなりの量のホネを臼歯ですりつぶす顎の力が必要になります。
ゴリゴリ食ってるだけなので別に尊敬されるようなことではないですよ!
ま、きれいに食べるねって言われてホネのすりつぶす話とかしないけどね!
この核家族化が進む世の中にあって、いまだに「家を継ぐ」という概念が存在する、そんなおうちの長男に私は生まれました。
江戸時代、徳川御三家の威光を受けて参勤交代だの江戸詰めだのでそれなりの栄華を極めましたが、明治維新によってすっかり没落してしまった武家がうちの本家であり、私の実家はその分家にあたります。
一時は地域一帯を治めていたこともあり、今では誰も使っていない土地もわずかではありますが残っています。
そしてそんな一族の歴史とは別に私の家にはもうひとつ別の顔、家業があります。それが宗教です。
キリスト教の教会や仏教の寺にあたるものが実家の家業なのです。
小さな頃から両親をはじめ、周囲からも後継者、跡取りとして期待され、私も幼いながら「大きくなったら家を継ぐのだろう」となんとなく感じて育ってきました。
しかし、今この歳になり、それでいいのだろうかと感じるようになりました。
周りは就職活動を始め、自分の人生を自分の足で歩いています。社会と関わり、社会の真ん中へ飛び込んでいく。しかし私は、学業を終えれば家を継ぐための準備に入ります。
いわゆる神職ですから、それを継ぐためのさまざまな勉強や修行に身を投じるわけです。社会との関わりはほとんどありません。信じがたいことですが、俗世とかけはなれた世界というのはこの平成の世にも存在するのです。
そして今、それを「なんだか嫌だ」と思うようになったのです。私もみんなと同じように社会に出て、普通の生活がしたい、と。
しかしこの気持ちを周りに伝えることはできません。今まで「この子が跡取りだ」と育ててくれ、多大なる期待をかけて見守ってくれた人を裏切るということが、やはり自分にはできないのです。そして、今でこそ嫌だと感じていてもそれまでの自分は「跡を継ぐんだ」と思って生きてきたのです。だからこそ、継ぐことを否定することは今までの自分の人生を裏切り、否定することにもつながるのです。
普通の家に生まれていればこんな風に悩まなかったのだろうかと何度も思いました。もっと自由に自分の将来について思いを巡らすことができたのだろうか、と。
もし「継ぎたくない」と言えば父や母はどんな顔をするのか、悲しむだろうか怒るだろうか。そう考えると話を切り出すこともできません。
将来や人生に対して展望が抱くことができず、長く暗いトンネルの中を彷徨っているような毎日を過ごしています。一体これから先、どのような気持ちで人生に取り組めばいいのでしょうか...
答えは未だ出ないままです。
ここ数年ですっかり禁煙化が進みました。増田マンの地元の小学校も全面禁煙化です。
さて、本題に入ります。
増田マンは何を隠そう非喫煙者です。吸ってません。ドンドン値上がり(税率が)するし、健康に悪いらしいし、副流煙で周りに迷惑をかける。なによりこの禁煙化の流れにあって肩身は狭くなるばかり。そんなご時世にわざわざ「そうだ煙草、始めよう」なんて思うだろうか。良識ある20歳ならほとんどが思わないでしょう。
ところが煙草を吸い始める若者も少なからずいるのです。増田マンは不思議に思い聞いてみました。「どうして煙草を吸い始めたの?」と。そうすると、「ストレス解消に」なるほど、ストレス解消か。
でもネットで調べてみても、「煙草はむしろストレスの原因」との記事がほとんど。つまり、煙草を吸う→ニコチン摂取→ニコチンが切れる→イライラ→煙草を吸う→満たされる...というループがあり、「ニコチンが切れることのストレスをニコチンを摂取することで解消してるんだ!」という論調です。
これは増田マンもその通りだと思います。依存性のある化学物質ですもの。薬物乱用とかのビデオでも見たあのループですな。
じゃあニコチン依存とか抜きにストレス解消にならんのか、と。煙草自体にはストレス解消効果はないのだろうか。気になったので実際に一箱買って吸ってみて検証してみることにしました。
とはいえ始めのころはむせるし全くいいことありませんでした。処理もめんどくさいですし。しかし10本ほど消費したあたりから徐々に慣れてきました。
そしてある日気づいたのです。「煙草を吸う」という行為そのものにストレス解消効果があると。
みなさん、煙草を吸うとき人はどういう状態に置かれるか考えた事はありますか。まず、目の前の煙草に集中します。つまりストレスの対象から一旦離れることになるのです。そして煙草を吸うことによって呼吸に意識を向けることになります。いわば、深呼吸をしているのと似た状態になるのです。
ストレスの対象から一旦距離を起き、呼吸に意識を向ける、そうすることで気持ちが落ち着きストレスが解消される。このような効果が煙草、喫煙にあると増田マンは感じました。
つまり煙草にストレス解消効果があるというのは本当だったのです。
ちなみに、一箱消費しましたが煙草依存にはなっていません。どの程度で依存になるのか少し気になります。
ということで次回、『人はどのくらい吸えば依存になるのか』お楽しみに!
ばぶー。こんにちは。
11歳の男です。
11歳が一番知りたいことは、いかに人気を出すかです。
人気が出るのは、みんなが知らないものを知っていることなので、
なにかしらないものがないかな?と思ってググったら、ここにたどり着きました。
来年開成を受けます。偏差値は70を余裕で超えているので、普通にやれば受かると思います。
まさにごぼう抜きで、一気に駆け上がる快感はたまらないですね。
でも、もう、飽きつつあります(飽きるな)
塾に入ったのは自分の頭の良さを示すためです。
小学校での授業は暇すぎて、時間を無駄にしている気分がありました(それはそうだった)
だから塾には行って、勉強は楽しかったのですが、もう飽きました(あきるんじゃない
それから僕は、余裕をこいて、ゲームを解禁して、遊んでいたらいつのまにか
偏差値ギリギリになって、開成じゃない3番手くらいの進学校に行き、
そこでまた調子をこいて、6年間調子ぶっこき続け、6番手くらいの大学に行き、
そこでまた調子をこいて、こいてこいてこきまくり、就活もまともにやらずに今に至るわけだけれども、
いずれにしてもこうなる運命だったのだろうと納得させるためにこう言った文章を書いています。(そうはいってもまだ希望があった)