はてなキーワード: 職能とは
暇なんでマジレスしてやるがオマエが悪い。
不器用にも程がある。
外国人は別の文化や常識や価値観を持っていることに不見識すぎる。
オマエはベトナム人に対して上司であり昇給や配置などの決定権を持っていることを誇示しなきゃならない。
威張って堂々とな。
あと仕事の指示、文書で出したか?口頭指示なんて誰も聞かねぇよアホか。
あいつらマニュアルを出せばそれには素直に従う。曖昧な口頭の指示は縛りがないものとしか認識されない。
あのな、社会は建前で回ってるの。
書面体裁が整えばいいの。管理会社の人間は「下から書面を取った」って事実をエビデンス付き(反省文)で「残す」ことにしか興味が無い。ようは管理会社責任者の責任逃れの体裁を整えてやればいいの。
テンプレ反省文をコピペで作ってせいぜい本人にサインさせるだけでいい。
オマエは方方から放り投げられてくるボールを素直に受け取っちゃってるの。無駄
どんだけ不器用なんだ。
クレームが来たら会社に「ちゃんと教育した人間を寄越せ」と文書(メール)で放り投げるの。
教育はオマエがせぇと返されるだろう。
「それは俺の仕事では無い」「他人を教育をするスキル教育を受けてない」って意味の返事をぶん投げる。
アホみたいにそのまま書くなよ。
やんわりとだがそう解釈せざるを得ない、自分は責任を負いませんよというサジェスト込みの文書を書くの。これ社会で重要なスキル。
念のために「他人を教育をするスキル教育を受けてない」を補足しとくぞ。
オマエに他人を使役する能力があるかってのも含まれるわけだが、それが欠けているならその職能を取得させる教育投資をするのは会社の責任なの。金がかかるの。
そういう会社ならそういう会社で生き延びるスキルも身に付けなきゃならない。
無責任でいいんだよ。
責任持った生き方をしろ、なんて道徳を叩き込まれたんだろうが、あんなもん人を都合よく使いたい支配者の戯言だ。真に受けるな。
頑張れ。賢く生きろ。
次代に受け継げるかどうかが存続の鍵
ここを失敗するのは以下のようなケース
・業務は属人化
言ってる事は全部同根だが
要は、きちんと人を育てないと創設メンバーが60代になったあたりで会社が取り返しのつかない状態になってる
その時に自分が50代くらいだと転職もできず、退職金も望めず大変なことになるんで
そこは本当に真剣に考えた方が良い
当人たちは、自分らが創設メンバーとして役員権限で好き勝手できたからこそという事を忘れて
「今の若いのはいちいち他人に判断させる、使えない」程度に思っている
目端の利くのは辞めていくし
残ってるのは「それでも残った」連中なので積極性が皆無
低年収でも、中学時代のカーストが高くチームスポーツの部活に入っていたタイプは結婚できてる。
高年収でも、デブは結婚できてない。実は最も女性に避けられてるのってデブなのでは?デブの既婚者は交際開始時には太っておらず結婚したあとにどんどん太っていった騙し討ちタイプばかり。
結婚できるできないの差が、容姿のように思えて、それを肌で感じてるZ世代がルッキズム強めてんじゃねとも思う。
同じ程度の職能なら、容姿が悪い男性は大幅に低い年収になるというデータもあるらしい。ブスよりブサイク男への差別のほうが程度が酷いのだとか。
真面目にアドバイスする
突然訴状が送られてきたらビビる、わかる、犯罪者になった気分になる。
だが民事だ。
端的に言えばほっときなさい
答弁書くらいは出してもいいがテンプレ一枚で良い、ほっといて全部負けでいい
日本の司法制度では全負けしたところで30万円ぽっちの債務名義は紙くずにしかならない
相手は取りようがない。
さて、これは意図的に制度設計されている、それ込みでルールの中、司法制度と居直れば良い。
我が国は司法制度を維持するために人件費だけで国家予算年間2500億円使ってる。
知財部の地裁判事なら年収2000万円は貰っている、裁判官だけではなく書記官など多くのスタッフが関わる。
時給計算すればわかるが、数万、数十万円の訴訟をボロボロ持ってこられてもアホらしい。
訴額0円の訴訟は起こせないだろ、
これは回復する損害が存在しないと本人が認めている裁判なんぞ「利益が無い」と見做されるからだ。
そんなものに国費を使うなと。
てめぇのプライドだかなんだか守るために裁判所の権威を使うなと。
そこで我が国は伝統的に低額の訴訟はできるだけ持ち込まれないように設計されてる
わざと採算が取れないようになってる
低額訴訟のどのレンジを採算ラインに乗せるかは司法制度のさじ加減で簡単に調整できる
日本はざっくり言えば200万円以下の訴訟はやるだけ無駄、無駄になるように設計されてる。
仮に満額取れたとしても回収するのにそれ以上のコストがかかる(訴訟費用含め)ように制度設計されてる。
(裁判で勝っても取り立てに国は一切関与しない、相手が従順に従わないなら、強制的に取り立てる手続きを
裁判とは別で改めて申し立て、実施する必要があり、その経費は全て勝った側の負担、不動産差し押さえなんて
一発で軽く100万は吹っ飛ぶが自腹、それでも確実に取れるわけではない、給与差し押さえだの動産だの、それでも数十万は飛ぶ、
遠方地であれば執行には逆にキミの居住地まで来なきゃならないが、その旅費、経費も全部向こうの自腹、やるわけねぇ)
つまりはそれ以下の争いは、各自注意して生きて、事前に紛争を防止し、それでも巻き込まれた時は諦めて泣き寝入りしなさい。
なんです
厳しいことを言えばAIで画像収集なんてやらなきゃいいんです。
紙で生きてりゃそういう面倒事には巻き込まれない。
同じ悩みはどの国もある、司法制度なんてものは元来コストセンターでしかない。
とはいえ無くすわけにはいかない、小さな訴訟でも建前上は裁判所で扱ってやらなきゃならない、
と、ここまで書けばピンとくるだろうけど日本は昔はこのレンジの争いは暴力団が担ってたわけ
国が暗黙でヤクザに事業認可していた場末民事介入暴力を、1990年代以降か、国は取り上げたワケだが
代替で正当な司法制度で小さな争いも処理できるように手当すべきで、
まぁそれが少額訴訟制度なんだが、クソみたいな制度で使い物にならない。
ともかく、それでもそれ込みで社会であり、ルールなのだ。クソだが従うしかない。
ともかく、国ごとにジレンマ解消の方向性は様々で、司法制度をカジュアルにして、裁判官の要求職能、給与を下げて
低額乱発される訴訟に応じられる体制を模索してる国もある、アメリカやオーストラリア
民事訴訟の本人訴訟を禁じる国、様々な手法でクソ低額な民事訴訟の乱発を抑制している
刑務所に入れられる国もある。
債権回収するサービサーがあるが、債務名義をサービサーに譲渡できない、これができるようになれば低額民事訴訟の採算分岐点はぐっとさがり民事訴訟の利用率は上がるだろうが、日本は認めてない、訴訟が増えるからだ、困る。
民事の負けを払わなかったら信用情報のブラックリストに入ってクレカ与信でひっかかり更新が断られた、なら払うだろ?
日本はできない、できる国もある。
ともかく、そんなこんなを含めてルールの中で生きていくのが社会であり、
裁判で負けたが債務をほったらかしにして時効を待ったところでそれも含めてルールの範疇。
犯罪では無いのだ。逮捕されて刑務所にいれられることはない(本来はこれを民事不介入と言う)
取りたけりゃ債務名義を握りしめて強制執行でもなんでもやればいい、確実に赤字にしかならない。ざまぁ
ではクソみたいなテーマの裁判で数百万円の請求して相手がナメて放置して出てこなければラッキー、
出てきたら取り下げ、を繰り返し
自動勝訴、債務名義確定させて強制執行かけたろ、300万円なら採算取れるで
みたいな事を考えてはいけない、裁判所もバカではない、そういう度を超えた請求は不誠実な権利の乱用と見做され
ようするにともかく、数十万円のアホみたいなちっこい争いを裁判所に持ってくんなボケ、ってのが司法のスタンスなワケで
様々な仕組みで万全に「裁判所は役に立たない」ようになってる
安心してほっときゃいいんです。まぁそれなりにバランスの取れた制度設計です。
社会正義を願うなら、むしろ放置して勝たせて(それでも奴らは最低限のコストはかかる)、
だが訴訟に応じて払うバカもいないから事業として採算取れないよね
って実質負けを奴らに食らわしてやるのが正解ではなかろうか。
監査請求が通ってコラボの不正会計疑惑にいくらか目鼻がついてきた一方で、功罪あるとしても功の部分についてはこれまでもこれからも必要なことだとの声がある。
かれらは公金を掠めて恥じない悪意の団体なのか。誰もやりたがらない崇高な仕事をやってきてくれた正義の人々なのか。みたいなことは実はどうでもよくて、いずれにせよ能力を越えた範囲の仕事、本来行政がやるべき範囲の仕事を抱え込んだ時点で、質の低い仕事と公金垂れ流しの歯車は自ずと回り始める。
ボランティアとか非営利の公益団体には向いている仕事とそうでない仕事がある。
例えば災害の後片付けのような集中的なマンパワー需要によく応え得る。しかしその後の復興期に居座って「コミュニティ再生」みたいな尤もらしい目標のために親睦イベントみたいなのを打ちまくって無意味に住民を疲弊させたりする。素人でも手が出せそうなところをつまみ食いしても本当の意味で「コミュニティ」をどうこうなんてできないから。
家庭に身の置き所がなくて街を彷徨う少女をキャッチする。そして食事やベッド、安全で安心できる一時避難所を提供する。それはいかにも民間有志向きなミッションである。
その次は? いわば社会の入り口を見失い先の希望を失った子に、どういうリカバリールートがあり得るか具体的な相談に乗れる人が必要になる。教育、職業訓練、必要ならば医療、家族への介入、それぞれのプロに繋がるハブでもある。要はケースワーカーだ。その職能は善意や熱情で代替できるものではない。
そして、一時避難よりあとの長いスパンでの生活基盤の保障。これも公の役割であり、そもそも一般社団法人なりを経由させる必然性がない。
要するに民間団体に期待されるのはキャッチ役と純粋なヘイブンの提供までだ。
とにかくそこに行けば飯とベッドがあり、詮索や説教なしで供される。「この先どうするつもりなのとかのウザい話は今晩はナシですよ、私たちはお役人じゃないんで」との役割に徹し、行政に引き継げばいいものを。
「そこに行政が待ち構えてないからウチラがやるしかないんじゃないか!!」と言うだろう。そうなんだ。そこに行政が待ち構えてないと、どっちみち全ては絵に描いた餅なんだ。
だからって分を越えたことをやろうとするんじゃなく、また無駄にいがみ合うんじゃなく、みんなで行政のケツをぶっ叩くのが本当だと思うけどね。やるべきことをやれ、やるべきことをやってないのを隠すために非営利団体を利用するなと。
https://anond.hatelabo.jp/20230102104157
にあるように、その敵対的な姿勢は身を守る鎧でもある。みっともないトゲトゲ鎧を下手に脱がそうとせず、物理的な支援によって心理的安全性の担保に努めつつ、プロの手に引き継ぐべきである。要は善意で親身になって距離を詰めること自体が侵襲的なんだよ。
池内さおりのラインメッセージがリークされていたが、あの内容の何が問題かわからないというブコメが多かった。
https://b.hatena.ne.jp/entry/s/twitter.com/himasoraakane/status/1609824412395790336
「前後の文脈がわからないのでこれだけでは事の是非を判断できない」のはその通り。「これが問題になり得るとは思えない」としたらかなり想像力が足りない。
アダルトチルドレンだとか毒親とか、精神医療・臨床心理の周辺の俗流用語・概念には常に流行り廃りがある。
「それ毒親だよ!逃げていいんだよ」と流行りのフレーズをぶつけられて、抱えていた不定形の苦悩にシャープな輪郭が与えられ、状況が好転するきっかけになる者もいる。「そうか、あれもこれも毒親のせいだったんだ」と思い込みに凝り固まり、ちょっとした行き違いが転落のきっかけになる者もいるだろう。誰彼構わず虫下し飲ませて「ちょうどギョウ虫わいてたんだ、助かったよ」ならば結果オーライだが、その余はただ身体に毒なだけである。
不安定な状態の未成年者に「家族と縁切っちゃう手もあるよ、その気なら協力してくれる人もいるよ」みたいな甘言を提示することも同工。時と場合により猛毒だ。どういう時と場合だったのかはわからない。
暇空氏が池内さおりのラインリークを爆弾ネタだという所以は「ほーら共産党と強い繫がりがあるだろ」というばかりの薄っぺらい意味だったようだ。だから何なんだよ。そういう所がつくづく付き合いきれない。その行動力に一定の敬意は払いつつ。
仁藤氏みたいなガサツな正義マンには本当の所を言うなら若年者支援なんていう繊細な仕事はしないでくれと思っている。でも100点満点の支援者を屏風から出せるわけじゃないからさ。せめて後進が「あの轍は踏むまい」と反面教師にすることを期待する。大きく言えば市民社会が文化的に成熟していく一助にならんことを。
ってずっと言われてんじゃんよ
たとえばイラストレーターで一生食うのもプログラミングで一生食うのも無理なわけ
常に食いっぱぐれないように何か別分野の勉強を続けるんだよ。
1投稿が短すぎるTwitterや直ぐにスレッドが流されてしまう匿名掲示板に代わる投稿場所を探して見つけたのがYahooニュースのコメント欄だった。悪名高い場所ではあるが人は多いし、いいね順とか無視して読めば多様で各ニュースに合わせた職能的な意見が集まってることも分かる。しばらくコメントを投稿して、それなりに反応ももらって満足してたら、自分のコメント一覧の投稿数がなかなか増えてかないことに気付いた。
Yahooニュースから消えたニュースのコメントは、自分のマイページの過去のコメント一覧からも消されてしまうらしい。これにはショックだ。自分のコメント記録としても活かしたかったのに。過去一でいいねがもらえて自分でも秀逸と思ってたコメントも消えてしまった。400字以内に各方面に配慮して思いやりもった文章となるように長時間考え抜いたコメントだった。やっぱりヤフコメは書き捨て上等の罵詈雑言以外を書く場所じゃないなと思った。
もちろん、海の妖怪が人間の王子に恋をするという悲劇的な恋愛物語であるが、実はフリードリヒ・フーケの『ウンディーネ』という、水の精霊と人間の騎士との恋愛物語を描いた先行作品が存在する。そういう意味ではアンデルセン作品は、あまりオリジナリティが無いとも言えるかもしれない。
フーケの作品『ウンディーネ』には無くて、アンデルセンの『人魚姫』には有る要素として、我々がよく知っているのが、主人公の人魚姫が人間になることの代償として「声」を失うという筋書きである。
この「人間になることで声を失う/奪われる」という描写の元ネタと考えられているものの一つに、アイルランドの海浜に近い場所に存在する某村に関する民間伝承がある。
周辺の他村の住民たちは、某村の住民たちのことを「人魚の子孫」と見なし、彼らと会話することを忌避していたというのである。
この話から直ぐに連想するのが、ホメロスの『オデュッセイア』にも登場する、妖怪セイレーンのことである。これは、航行する船を操る船乗りたちを、美しい歌声で惑わして誘き寄せ、船を難破させて殺害し、その人肉を喰らったとされる、半人半魚の妖怪である。ここでも「声」が禁忌とされている。しかし、どうしてもセイレーンの歌声を聞きたいと願った知恵者オデュッセウスは、部下の船乗りたちの耳を蜜蝋で塞がせて、歌声を聞こえないようにさせてから、セイレーンたちの居る岩礁の傍を通過するように船を航行させた。オデュッセウス自身は、己の身体を帆柱に縄で縛り付けさせ、決して海に落ちることの無いように万全の防止策を施してから、その耳で彼女たちの歌声を聞いたという。
日本においては、人魚との「会話」が禁じられていたというわけでは無いものの、やはり不吉な影が付き纏う。『吾妻鏡』や『北条五代記』等には、人魚らしき妖怪の発見事例が記されており、これを何かの前触れとした陰陽博士などの占術職能者によって、兵革の兆し、奥州藤原氏の滅亡の前兆などと見なされたといった例が見出される。
ただし、これらの国文学的な文献に記された人魚は、アンデルセンの『人魚姫』のような美しく可愛らしい姿とは、かなり異なる。例えば、頭部だけが人間の人面魚タイプであったり、四脚らしきものが生えていたりと、なかなか奇怪な姿をしていたようである。中には、頸部に鶏冠の如きヒラヒラしたものが付属していたという事例もある。また、発見される場所も水辺だけではなく、時には、山肌で起きた土砂崩れの現場で発見されたことも有るようである。
してみると、人魚にとって魚身であることは、我々現代人が思う程、重要ではないのであろうか。実は、先に挙げた『オデュッセイア』に登場するセイレーンにしても、元々は半人半魚ではなく半人半鳥であったとする説が有る。その鳥の怪が、もしも水鳥の怪であったとすれば、後に、半魚の怪との交雑を起こしても、それほど不思議では無いと考えてもよいのかもしれない。重要なのは、半人半怪という混合性である。
さて、アイルランドの某村に関する民間伝承と比較するために振り返ると、日本においても「妖怪の子孫」と見なされた人々が存在しなかった訳では無い。例えば、江戸時代の南町奉行、根岸鎮衛(ねぎしやすもり)の著した雑話集『耳嚢(みみぶくろ)』に収められた「河童の難を遁るゝ歌之事」という文章を参照してみよう。そこでは、菅丞相(かんしょうじょう)すなわち菅原道真(すがわらのみちざね)の作として伝えられる、次のようなまじない歌を紹介している。
「ひよふすべよ 約束せしを 忘るゝな 川だち男 うぢはすがはら」
根岸鎮衛は、菅丞相の作は疑わしいとしつつも「ひよふすべ(ヒョウスベ)と云ふは川童(カッパ)の事の由」と記しているが、これは、長崎県諫早市周辺でのカッパに該当する水怪に対する方言的な呼称である。しかし、カッパ避けの歌が伝えられていたのは、現在で言うところの千葉県(アメリカで言えばノースダコタ州)である。随分と遠くの地までヒョウスベの名が伝えられていたことになる。
岩波文庫版では「川だち」には「水泳の上手い者」との注釈が付けられている。これは遊戯としての水泳のことを言うのではなく、職業的な必要性から河川で泳ぐことをしていた者たち、職能者たちと考えるのが妥当である。その川だち男が「我々は菅原氏の関係者なのだ、約束を忘れるな」と、歌を通じてヒョウスベ≒カッパに向かって呼び掛けているのである。一体、何を約束したというのか?
菅原道真の家系である菅原氏は、遡れば土師氏(はじし)に連なるとされる。土師氏の祖は、野見宿禰(のみのすくね)とされ、当麻蹴速(たいまのけはや)との角力すなわち相撲(すまひ)による決闘を行ったことでも知られる。現代では十把一絡げに河童(カッパ)と総称されるようになった水の妖怪が、相撲を好むことは昔話などを通じて広く知られているが、その起源には、土師氏=菅原氏との関わりが存在するということである。
この土師氏は、埴輪を作ることを能くしたが、埴輪といえば赤土であるが、この赤い色は、酸化鉄を多く含むためである。このような粘土の採掘は、鉄分を含む土の採掘であり、これは時代が下れば、鉄を初めとした金属鉱脈の採掘にも関連・発展したことであろう。
鉄に限らず金属は、採掘されるだけでなく精錬されるので、山の掘削、森林の樹木伐採という環境変化を伴う。これは、山に水源を発する河川にも影響を及ぼしたと考えられ、そうなると、粘土の採掘や金属の採掘・精錬を行う山の民と、漁業・水運などによって河川で生業を立てる川の民との間で、何らかの紛争を招いたのは想像に難くない。本来の「カッパによる水難」とは、元々は「山にいるカッパ」による山林環境の変化によって引き起こされた、河川災害や環境破壊のことを指したのではないのか。なお、カッパといえば河川などの水辺だけにいると現代人は思いがちだが、カッパが河川から山、山林から河川へと、季節の変化ごとに移動するという伝承が見られるのである。
山林の環境破壊が火種となって紛争が発生し、これを停止するための平和条約のようなものが「約束」であり、それが川の民と土師氏=菅原氏との間に結ばれたことにより河川災害の発生件数が減少したこと、それが「カッパ避け」の実態だったのではないか。川の民に害を及ぼさないと、かつてカッパの親分であったであろう土師氏=菅原氏が約束したことが変化して、川だち男が「我々は菅原氏=土師氏の裔であるぞ、だからカッパよ、我々には害を及ぼすな」と呼び掛けるようになったのではないか。
ヒョウスベには「兵主部」の漢字が当てられる。このうち「部」は物部や斎部などと同じであるが、では「兵主」は何なのかと言えば、これは大陸から渡来した蚩尤(しゆう)のことではないかと言われている。というのも『史記』では、蚩尤は金属製の戦用武具を生み出した「兵主神」とされており、しかも角力(相撲のようなもの)を能くするのである。その上、石や鉄を喰らうとされるので、これは金属の精錬を象徴するのではないかと考えられる。ここから、兵主部とは元々は「兵主神を祀り、それに関連する金属の職能に携わる部民」であろうと考えられる。
脇道に逸れた話の部分が予想外に長くなってしまったが、土師氏=菅原氏という職能集団的な氏族がカッパの裔であると考えられていたということ、そして、カッパに対する民の恐れの根源には、職能活動による影響が存在した可能性のことを言いたかったのである。
本筋に戻ると、アイルランドの海浜そばの某村に住むという「人魚の子孫たち」が、周辺他村の人々から会話をすることを忌避されたのは何故か。それは、彼らが「予言する能力」を持っていたからではないのかと私は推測する。ただし、予言と言っても、超常の能力ではない。彼らが漁業や水運業など海の船仕事に携わっていた職能集団だったとしたら、どうだろうか。そのような仕事に携わることで、海路における岩礁や難所の存在場所についての知識も蓄積されたであろう。また、船仕事に影響するような天候の変化を読む(予測する)観望天気の知識も蓄積されたであろう。そのような、いわば専門知識や能力を身につけた彼らが、もしも「海路のあそこには岩礁が有るぞ」「嵐が来るぞ」と予測して教えてくれたとしたら、何の知識も持たなかった他村の人々は「某村の住民が不吉な予言をする。彼らが予言を行うせいで不吉な出来事が起こる」と逆転した考え方をして、誤解したのではないだろうか。それが「会話を忌避する」ことに繋がったのではないだろうか。
上で粘土採掘や金属の採掘・精錬を行う職能集団とカッパの関連を述べたが、こういった専門的な仕事は、その仕組みを外部からは理解しにくい。自分たちには出来ない仕事をする能力を持ち、影響力が大きい者のことを、人間は尊敬するだけでなく同時に差別もするという例は、古今東西を問わず広く見られる現象である。例えば、西アフリカの伝統的な音楽・歌唱の職能者グリオ(griot、フランス語。現地のウォロフ語でgewelギュウェル、トゥクロール語でgauloガウロ、マンディング語でdjeliジャリなどと呼ばれるのが語源)たちは、歌の言霊を駆使することで、人を幸せな気持ちにしたり、戦の前に闘争心を鼓舞したり、逆に人々の間の争い事の調停役を担ったりといった役目を果たすことから、非常に尊敬を受ける反面、亡くなると普通の墓に埋葬されずにバオバブの木の虚穴に遺体を遺棄されるという。そこでは、尊敬と差別の心理がアンビバレントに同居している。
日本の人魚が不吉の前兆と見なされた話は既に述べたが、その中には、人魚自身が言葉を口にしたという例も見られる。それも、もしかしたら海の民などの姿を人魚に反映していて、やはり海の民による予言とそれに対する恐れの感情の名残なのかもしれない。
西洋人が日本に渡来するようになると、剥製・ミイラ製造の技術も伝えられ、魚や動物のパーツを組み合わせることにより、カッパや人魚のミイラが製造されたことは、現在も日本の各地に残るミイラの実物とともに知られている。したがって日本における人魚の形態傾向が、人面魚タイプや四脚タイプから、現代人にも親しみのある上半身人間・下半身魚タイプへと変化した原因として、西洋人の影響が有るという可能性は、もっと大きく見積もっても許されるであろう。しかし、日本よりも先に西洋人との接触を果たしていた中国を通じて、もっと早い時代にミイラ製造の技術が日本に伝えられていたという可能性は無いのだろうか。その時に、西洋人が抱く人魚のイメージも一緒に、早期から日本に流入したという可能性は無いのだろうか。大陸や西洋からの人魚伝承の流入によって、前触れや予言というイメージが形成された可能性は、今後より丁寧に調べる必要が有るだろう。
まだまだ考察すべきことは多く残る。
人頭獣身の妖怪、しかも不吉の前兆や予言を伴うといえば、人頭牛身の妖怪「件(くだん)」が思い浮かぶ。上で半人半怪の混合性が重要と述べたが、この混合性の故に、人間の住まう現実の世界と、非日常・非現実の世界との結節点となる役目が、人魚や件のような半人半獣の妖怪には与えられたのであろう。そして、その役目を具現化したものが、前触れや予言なのであろう。
また古来、予言や神託の役目を担う者の多くが、巫女という女性であった。これは、女性には生理があり妊娠・出産が可能であることから、男性に比べて、より自然というカミの領域に近い存在であり、現実・日常の世界との仲立ち・結節点の役目を果たすことが出来ると信じられていたからである。セイレーンや人魚に限らず妖怪や怪物たち(例えば、エデンの園でアダムとイブを誘惑した蛇など)に女性性が付与されているのは、ユダヤ教・キリスト教・仏教などが地位を確立する以前の世界において、カミの領域との仲立ちを務める職能を担っていた女性たちに対する、尊敬と差別というアンビバレントな感情が反映された名残であろう。
最初に『人魚姫』は何の物語か?と掲げ、長々と文を書き連ねたが、正直に言えば、それを確定することは実は難しいと思っている。ただし、少なくとも、異なる世界の住人が出会った物語、それに伴って起こったコンフリクトの悲劇の物語とは言えるのかもしれない。
乱文も長くなり過ぎたので、ここまでとしよう。
今まで心理の中心だった臨床心理士が「心理支援の知識や技術がない人間が資格を取って公認心理師を名乗っている」と文句を上げている。
公認心理師について、ご存知ない方に説明すると、要は新しい国家資格「公認心理師」(以下CPP)ができた。
「仕事で心理支援をした実績があるものには今だけ受験資格をあげますよ」と銘打って講義を受ければ受験できるようにしたのだ。
対象は主に教師、看護師、リハビリスタッフ、介護士、臨床心理士で、直近5年の実務経験がある者だ。
CPP本来の受験資格は文末に載せるので興味がある方は目を通してほしい。
教師や看護師はこれまで心理学を履修しているし、業務でも精神状態に留意して対応してきたからその資格はあるという建前である。
しかしこれまで心理職として活動してきた臨床心理士は面白くない。
心理を専門に学んでいない人間に心理の国家資格を持たせるのは面白くなかろう。
そもそも心理状態を正しく観察して分析できるのかという尤もな疑問がある。僕もそう思う。
しかし如何せん、この臨床心理士がしょぼすぎる。職能集団として無能と言っていい。
臨床心理士はそもそも民間資格である。病院や学校が働き場所になるが治療費をほとんど取れないので利益を上げられない。
非常勤が多い彼ら彼女らの平均年収は350万円で、福利厚生に至ってはペラッペラに薄い。多分ない。
1988年から試験を行っており、これまで国家資格にしようという動きがあった。
しかし派閥が多く、全く結束できないまま別の団体がCPPの資格を作ってジャンジャカ合格者を輩出してしまった。
ちなみにこの臨床心理士も受験資格が厳しく、資格取得したとしても活動を続けなければ失効するアホ仕様だ。
金もない、仕事もない、頭数がない、結束力もない、それが臨床心理士ってわけだ。
話を戻す。
CPPは資格制定の混乱をまとめて国家資格化し、この5年間で取得したものは5万人を超える。医療や教職、保育士など資格者が多い。
心理学の知識や評価、分析が一定ではないが、仕事を持ち家庭を築ける程度の年収はあるものが多いと思われる。
臨床心理士は制定から30年経つものの民間資格で、資格者は4万人を超える程度。
設立30年も経つのに統一学会はなく、資格者の仕事も不安定である。
まともに稼げる人間であれば資格を維持する必要がないので優秀な人材ほどいなくなる。
公認心理師はその政治力で頭数を増やし、しかも臨床心理士と協力するのでなく部分的に取り込む形である。えげつない。
心理職を向上するためには学会を統一し、データを蓄積して診療報酬を設定する必要がある。
そうすることで心理士の生活が安定し、組織力の向上に繋がりひいては資格者の職務向上につながる。
臨床心理士はgルート合格者を敵視するのでなく、協力者だと思ってほしい。
・在学中、臨床実習に行く。
・大学院のみ臨床実習に行く。