はてなキーワード: SEとは
iPhone 3Gでスマホデビューして以来何年かに一度機種変更しつつずっとiPhoneユーザーで今はXS maxで止まってるんだけど、最近仕事の関係でGalaxy Z fold3 5Gという端末が今手元にある。
みんなも一度くらいはヨドバシとかで触ったことがあるかもしれないが、スマホなのにパカパカと折りたたみが出来る近未来的かつ俺くらいの世代には懐かしさもあるやつ。
普通のスマホが横にパカっと開いてkindleとかiPad miniくらいの小さめタブレットくらいになるモデルで、俺としては慣れないAndroidのUIに戸惑いつつも大画面ってなんか楽しいなと思いながら、ここ数日使ってたわけよ。
そして昨晩、ベッドに入ってGalaxyをパカっと開けてはてブでも見るか、と思ったらさ、横から妻が「なんかそのパカっと開くのおじさんみたいだね」と。
その時はハハっと愛想笑いで話を膨らませずに終わらせたんだが、要はその「おじさんみたいだね」=「ちょっとダサいね」という意味で、なんか自分の中でAndroid全体に漂うダサさみたいなのに気付かされてハッとしてしまったのよ。
もちろん彼女はこのパカパカ機種かパカパカを開く動作について言ったんだとは思うが。
このなんとなくダサい感じが解消出来ない限りはiPhoneのシェア優位は変わらないだろうなと思った。
【追記】
思ってたより伸びたので追記。
俺30代後半、嫁30代前半。
嫁は外国人でiPhone SE2を使っているが以前Galaxy noteを使ってたので俺のfold3を見て次はそれをもらうと言っている。単純に俺がパカパカする様子をおじさんみたいとからかっただけで大した意味はないと思うし、Appleファンでもない。でも彼女は昨日Apple Watch SEを買った。俺はgarmin vivo active4を買った。
俺はAppleファンだったが、ジョブズ亡き今製品にも魅力薄れてきたなーと思っている。
それでもクリエイター職なのでAppleとAdobeなしには飯も食えない奴隷。
fold3は会社貸与ではなく頂いたものなのでそのうちほとぼりが冷めたら嫁にあげる予定。
俺はMacユーザーで仕事でAirDropを多用するのでAndroidは面倒くさいのだよ。
結果さらに数日使ってみてAndroid OSの使い心地は悪くない。俺の使ってるfold3の不満点は以下。
不満①ただアプリが裏で動きっぱなしなのかたまに動作が重くなって使ってないアプリを終了させたりする必要がある。
不満②画面の明るさを調整するのに設定まで入る必要がある。コロコロ調整するタイプなのですぐアクセスしたい。
不満③画面の最小明るさがだいぶ明るくてベッドでKindle読むのがつらい。
不満④せっかくの大画面だが4:5に設計されてるウェブもアプリもほぼないので純正アプリ以外は帯付きで使うことになり、あまり意味ない。
Fold3も20万円以上なので、この機種に関してはむしろAppleより高級なんだが、質感的な高級感は薄め。
AndroidダサいってのはUIUXに感じるところが大きくて、fold3なんかどう持てばいいのかよくわからんのよ。
Appleは人間工学的なとこはよく考えられているように思う。新しい機種買ってもすぐ慣れるし。
次はpixel最新機を試してみたい。
顧客の業務システムからデータ抽出して納品するときは前後のスペースをtrimするのが作法だと思うんだ。
みたいなデータを納品されてエクセルで使うことを想像してほしい。
列の幅がミョーーーーンってなるし,セルの表示を右寄せにするとスペースしか見えないんだ。
これをエクセルの置換機能で消そうとすると氏名の間の消したくないスペースまで消えてしまう。
他のシートからVlookで参照したりWordへ差し込むときとか,あらゆる場面で面倒なんだ。
PowerQueryを使えばtrimできるんだが普通の従業員には難しいんだ。
顧客の業務システムからデータ抽出して納品するときは前後のスペースをtrimするのが作法だと思うんだ。
みたいなデータを納品されてエクセルで使うことを想像してほしい。
列の幅がミョーーーーンってなるし,セルの表示を右寄せにするとスペースしか見えないんだ。
これをエクセルの置換機能で消そうとすると氏名の間の消したくないスペースまで消えてしまう。
他のシートからVlookで参照したりWordへ差し込むときとか,あらゆる場面で面倒なんだ。
PowerQueryを使えばtrimできるんだが普通の従業員には難しいんだ。
ちょっとまえにiPhoneを買う価値ないとかそんなエントリがあった。
私自身も両方使っているけど、まあ単純に比較すればもうAndroidには勝てないと思う。
もちろん、細かいところで使い勝手の良い部分はあるのだろうが、USB-Cがないとか、画面分割が出来ないとか、フローティングキーボードが使えないとか(これ、大画面スマホを使うにあたっては必須と言える)、アプリ内購入ができないとか、指紋認証がないとか、重たいのにバッテリーの持ちがいまいちとか、それらの不便を覆すだけの良さは無い。正直iPhoneが使いやすいなんてのは、ほとんど迷信に近いと思う。
まあしかも高い。まあ高いのはみんな納得して買ってるんだろうけど、高性能な中華Androidが半分から三分の一の値段で買えるとなるとちょっと厳しい。
なので冷静に考えたらiPhoneは一部の富裕層の好事家が買う端末であって、実際に日本以外ではそうなっている。お金がなくても猫も杓子もiPhoneを買うのは日本だけで、その証拠に売れているのは未だに型落ちのSEとか、ちょっと前までなんてiPhone8とかだったりする。
それで思ったのだけど、私が入社したての頃(バブル末期)は猫も杓子も女性はヴィトン、男性はロレックスをつけていた。つけてはいなくても持っていたりした。
あれに価格相応の価値があるのかどうかは未だにわからないけど、なんか社会人はこれらを持たなければならないみたいな強迫観念でもあったのだろうか、ほんと、よくあんなの買っていたものだ。一つの信仰だったのかもしれない。
あれは機能やコスパでユニクロやカシオでいいじゃんとはならないもので、iPhoneも現代日本の似たようなイコンになりつつあるのだろう。なんだか分からないけど買って、そしてそれが一番とあらゆる理由をつけて思い込む類のイコンである。
ソフトウェア開発における名著とされる読みものがある。かつて、そういった著作のエッセンスをひたすら抜き出して黙々とまとめていくはてなダイアリーが存在した。2010 年代のことである。GoF のデザパタ本とか UNIX 哲学とかピープルウェアとかそういうの。ジュンク堂の本棚でいえば「SE 読みもの」というやつだ。業界に入って間もなかった当時の自分は、技術的な相談ができる大人が周囲にいなかった。いま思えば、残業中のオフィスで長いコンパイルを待つあいだ、ぼんやりとこのはてダを読み、目の前のやるせないソースや、所属するチームが置かれた状況について思いを巡らせながら、ガス抜き感覚でこのはてダを読む時間が好きだった。どの項目も歯切れの良い紋切り型の文体で読みやすく、読んでいるうちに不安のかたまりがスルスルと解かれていき、気持ちがラクになるような気がしたのだった。
その後、わたしがアラサーになるころには、そこで紹介されていた大部分の原著は書店で購入し物理的に所持するに至っている。あのはてダがなければ、本屋でも仕事関連の棚で足を止める人間にはなっていなかったのではないかと思う。その後、当時のはてダの内容を抜粋したものが秀和システムで書籍化され出版される運びになった。ファンだったわたしは発売をとても楽しみにしていた。が、本屋に並んだ書籍を手にとってみると、あのはてダにあった宝物のような輝きはすっかり失われていた。なぜかはわからないけれど、説得力が損なわれている気がしたのだった。書籍化の都合、はてダに貼られていた Amazon へのリンクが取り払われ、原著との接続性がいくぶん薄らいでしまったせいかもしれない。またこの書籍化に伴って、はてダも閉鎖されてしまった。もっとも新刊の売上にも関わるだろうし、あの「要約」は原著に対する網羅度がかなり高いもので、権利面ではかなりグレーなものだったように思うから、閉鎖されるのは当然の成り行きだったと言える。が、自分の成長期にあたる年代にあのはてダがあったことは本当にキャリアの上で助けになったと感じているし、原著を所持していてもなおあのはてダを参照したいという思いがあるくらい、とても優れたものだった。他人の「きれいなノート」を借りて勉強していたような感覚というか、そんなような。「新人に読ませたい n 冊の本」というタイトルのクソ記事がもはや春先の業界の風物詩になっているが、そんな記事とは段違いにもっと直接的に本が持つ価値を訴えてくるコンテンツだったのだった、少なくともわたしにとっては。
図解界隈というのが流行っていると聞いて、そんなはてダがあったことを思い出した。結局のところ「SE 読みもの」も自己啓発本に他ならないし、個人的に DDD
なんて宗教だとすら思う。それにしても「要約」がきっかけで世界が広がるとことは実際あるかもしれないよ、ということが伝えたかった。
映画は最近のものしか見てないので、昔のではなくていわゆるシンレンズマンだと思う。
それに対しかつてレンズマンに息子を殺された父親が謎装置を用いて
ビルの屋上でレンズマンに何かしらの復讐を目論む、ような話だった。
どうということのない話だが、舞台の街が私の家のごくごく近所だったのが
まずかった。つい私自身をモブの一人として登場させてしまったのだ。
レンズマンと父親の戦いが佳境に入った頃、私は父親が立つビルの足元辺りにいた。
レンズマンがあの放射能レーザーを連発し始めた頃に一度目を覚ましたのだが、
もう一度夢の中に入った。(多分これも良くなかった)
レンズマンと父親を俯瞰する構図から下の群衆をズームし自分を探し当て、
体に入った。
パニックになった群衆の一人として自宅の自分の体まで戻ってから
目を覚ませば問題ないと思い、何気ない顔をしながら自宅方面へ走った。
この頃から非常に良くない予感がしていたが、
だんだん私に対する狙いが正確になってきた。
おそらく私の存在を感知しているし、私が目を覚ませば自分も消えてしまうことも
わかっているのだろう。
しょうがなく地下モールへ逃げ込んだが、相変わらずレーザーは壁や天井を通過して私を狙ってくる。
かといって解決策も浮かばず、やむなくそのまま再度目を覚ました。
なのにレンズマンの気配は一向に消えない。
皆に訪ねたいのだけど、レンズマンとは映画のキャラクターだよね?
みんなレンズマン知ってるよね?
もしかして「「シン・レンズマン」という映画が上映された」という夢を私が見ただけ、
という事はないよね?
レンズマン、外で吠えてないよね?