はてなキーワード: 演劇とは
一理あるが、商業的に成功してて、テレビのみならずチケット代払うやつ数百人万は低俗との主張でいいってことだね。
また、ラグビーで言えばどう相手に対処するか、パスを出すか、自分で走るか、守りはどうするか、失敗した場合のリスク管理は、など、観客視点でもどつきあいやボール見る以外に考えることがあるわけですがそれをどう捉えますか?
演劇みて音楽聞いて何がどう将来の自分のためになるんですか?それって貴方が能動的に演劇から何かを学ぼうとしてるだけですよね。
じゃあスポーツ観戦からは選手起用や交代ののマネジメントは学べないんですか?
物事の進め方は?点差が近い場合にキックで可能性の高い3点取る判断と点差が離れてるから可能性低いけどトライで5+2点の逆転狙うっていう、状況に応じた判断は学べないんですか?
生でお出しするような演劇をしないで、ちゃんとエンタメの演劇をすればいいんだよ。
なんか高尚ぶって、芸術みたいなことをしようとする向きが、あの界隈の老人たちにはある。
生でキツイのを客のせいにするのはよくない。
あるけど、演劇の類は、レベル差ってもんが如実に出てくるよね。
漫画で言えば「面白い同人誌って存在するのかな?」みたいなもんで
素人活動、つまり編集部の監査を通らずに印刷しているので、玉石が混合(石多め)のまんまなんだよね。
世論って言うと大げさだけど、ネット上では「元宝塚の女性がAV女優しなきゃいけないなんて日本終わってる」みたいなコメントが多かった。
それ見て色々とびっくりした。特に元宝塚=清らかで夢と才能にあふれる少女とでも思ってるのか?という点と、AVに出る人が全員無理やり出させられてると思ってるのかいう点と。
自分は芸能関係で働いてたけど、芸能界がキラキラしたところだなんて一度も思った事がない。
芸能人全員性格終わってるとは思わない、むしろなんでこの人こんな性格いいんだと思った人もまあまあいるけど
基本的には何が何でも自分が目立ちたい、どんな手段を使っても表に出たいと思う人間の集まりに決まってるじゃん。キラキラでピュアなわけないじゃん。
それをまるでいたいけな少女が騙されてAV出てるみたいに言ってんの頭大丈夫かと。
(宝塚はそれはないと思うが)芸能人の卵がキャバクラやラウンジでバイトするなんて当たり前のことだし。
あの人がどういう事情でAV出たのかはしらんが、普通の仕事ができないわけないし
(まあできない人もいると思う、ただそれは宝塚というか頭が出来上がってない若いころから芸能界にぶち込まれたことの弊害であって社会うんぬんではない)
庶民的な暮らしじゃ満足できないならラウンジで働いたりパパ活やったり
ツテで男つかまえてのんびり専業主婦したり道はいくらでもあるわけで…
こう書くとフェミが追い込まれたんだ!芸能界や男の餌食になった!純粋に演劇の世界に憧れた人になんてことを!とか言ってきそうだけど
を観てきた。
主演の伊藤英明のビジュアルと、数年前の大河ドラマ『麒麟がくる』における伊藤氏の役どころが素晴らしかったため、今回もそれを期待して行ったわけである。
あらすじは公式ホームページにあるが、
https://stage.parco.jp/program/aviewfromthebridge
ステレオタイプなジェンダーロールに拘泥し家長として振る舞うエディ(伊藤氏)とその妻ビー(坂井真紀)、妻の姉の娘でエディが愛してやまず、成長してなお家に縛り付けられているキャサリン(福地桃子)、そして妻の従兄弟でありイタリアから不法移民としてやってくる兄弟、マルコ(和田正人)とロドルフォ(松島庄汰)の物語である。
で、何が書きたいかというと、よくわからない観劇体験をしてしまったという話。
冒頭は、狂言回しの弁護士(高橋克己)の澱みないモノローグで始まる。その後幕が開き、幸福な頃の一家の姿が描写されるが、伊藤氏が口を開いた瞬間に強い違和感が襲ってくる。
棒読みだ。
言葉の一つ一つが、『セリフ』として意味を持たず流れ落ちていく。
キャサリンは帰宅した叔父の胸に飛び込み、絡みつくように抱き合う。不穏さを感じさせる、目に焼きつくほど無邪気な愛の光景と共に、低音で棒読みのセリフが流れ落ちていく。
劇が進行し、過保護に育てられ男を知らないキャサリンは、初めて目の前に現れた若い移民の独身男性・ロドルフォに一目で恋に落ちる。エディはロドルフォが『カマ野郎』(ママ。70年も昔の戯曲なのだ)であると言いがかりをつけ、そんな男に姪が奪われてなるものかと旧知の弁護士の元へ駆け込んだ。「法にできることはない」と窘める弁護士に激昂した口調で激しく詰め寄る。激昂した口調で激しく詰め寄っているのにも関わらず、セリフは相変わらず流れていく。会話が成立していないのだ。
高橋克己演じる弁護士は、本能的かつインモラルな嫉妬に駆られた男を前にした常識人というより、意味を持たない言葉の奔流の前に、言語の限界を知って戸惑い立ち尽くすインテリといった様相を呈してくる。
ビーを演じる坂井真紀氏は、妻として夫に寄り添い、あるいは向き合う姿そのままに、崩れがちな家庭の場面を立て直そうとしていたが、やはり圧倒的に流れていく主演のセリフ量の前には勝てない。
ロドルフォとキャサリンとの会話は慣れてくれば違和感がなかったが、おそらく物語の構造上、その若き二人は、そもそも一人の人間として彼に見られていないためだ。だから会話が成立しなくても大丈夫なのだ。
しかし今度はそのせいで、二人がエディに向ける愛や憎悪、困惑に一切の重みがなくなってくる。あの純粋に不可解な言語の羅列に対し、何を真っ当に苦悩しているのだ、という感じがしてくる。
そしてその異様な不協和音を抱えたまま、劇は終盤の悲劇へなだれ込んでいく。
失礼なことばかり書いてしまったが、伊藤英明氏はおそらく演技が下手なわけではないと思う。「演技の適性がピーキーすぎる」だけだ。正直動きだけで言えば他の役者の方が怪しいところもなくはなく、伊藤氏がそれをカバーしていたところもあった。
エディのくたびれた労働者の姿態、日常的に男らしさを意識しつけた一挙手一投足、戯れにロドルフォにボクシングを仕掛ける時の軽やかで悪意を秘めた動きと笑い、嫉妬を滾らせて部屋の隅に沈み込んでいる姿の不気味さ。舞台映えしないとは決して言わせない長身も相まって、エディという男そのものを見事に、しかも色気と悲哀を横溢させて表している。
ただひとたびセリフを発すると、演劇空間の位相が容赦無くズレ出してしまう。
パンフレットを買えなかった(持ち帰る袋がなかった)ので薄い理解ではあるが、アーサー・ミラーの脚本は、シンプルに受け止めれば、移民への差別意識問題と女性の自立・連帯の問題をからみつけつつ、家父長としての姿にこだわる男の自尊心と、その体面の下に押さえつけられた欲望を鋭く抉り出したものだろう。
ただそんな真っ当な狙いを外れて、主演のセリフの大半が機能しない状況で、この舞台は圧倒的な不条理劇として立ち上がってくる。冒頭の弁護士のモノローグで、ギリシア悲劇的な『条理』は示されているにもかかわらずである。
繰り返されるエディの「尊重されたい」という言葉は発されるそばから空疎になり、なんの意味も持たずに空を彷徨う。圧倒的な空疎に対して周囲は嘆き、怒り、困惑し、愛を語り、そして悲劇を止められないことをなぜか勝手に悟る。
そしてその空を彷徨うような言葉で表される自尊心に怒りを掻き立てられ、エディはあまりにも無意味で不可解な死へと突っ込んでいくのである。伊藤氏の怒りの演技は見応えのあるものであるが故に、その怒りの根源が空虚でしかないという不条理性はいや増していく。
そして唐突に死んだエディを、役者たちは無表情で見下ろす。我々の中に紛れ込んでいた全くの異分子がやっと去った、という解放感さえ浮かべて。
それはとりもなおさず、エディが脚本上囚われていたすべてのものの虚しさを示す、メタ的かつ正確な表現に他ならない。
あるいは、棒読みの彼こそがリアルな人間であり、周りの役者たちを「芝居がかった偽物たち」と捉えることさえできる。
人間の感情を言葉で表すことなど到底無意味であり、根底にあるのは超言語的な(本能的な)愛と嫉妬、憎悪だけだ。それでも周囲の「芝居がかった偽物たち」とエディは、無意味で空疎な言葉でコミュニケーションする他ない。そして彼は己のものでない空虚な言葉で己を取り繕い、縛り、孤立し、ついには偽物たちに殺されてしまう。
この姿が、あらゆるイズムに囲まれた現代人の戯画でなくてなんだろう。
つまりこの劇を伊藤英明の演技が不条理劇に昇華することによって、今回の舞台は一応の成立を見ているのである。
幕が降りた後、私はいい観劇体験をしたのかどうか一考した。期待していたものではなかった。しかし無ではない。あのエディは間違いなく、ただ達者な役者が演じるよりはるかに深みのある造型をしていた。よくわからない観劇体験だったが、今私にこれほどの長文を書かせるほどの体験ではあった。
子供と一緒にアンパンマンのTVシリーズや映画を見ているとたびたび勃起してしまう。
私はバキバキに勃起させながらも何食わぬ顔で視聴を楽しんでいるが、子持ちの諸兄はどうしているのだろうか。
真面目な話、児童向け作品に情欲を持ち込むようで忍びなさを覚えなくもないのだが、私は昔からこうした頭身低めなキャラクターに性的興奮を覚えてしまう癖があり、止めようと思って止められるものではない。
かといって「パパは君と一緒にアンパンマンを見ることはできない。勃起してしまうのでね」なんて言えるはずがない。
別にアンパンマンに限らずとも、似たような状況は無いだろうか?そうしたとき、諸兄はどうしているのだろうか。
頭身高めの良スタイルの美人。スリットの入ったチャイナドレスがスケベに感じる。絶対いい匂いする。
頭身低めな世界観の中でスタイルが良すぎる。ばいきんまんとのバトルも演劇の練習してると思い込む性格は無知シチュを想起させてくる。
「物体に目鼻口が付いてるシリーズ」の中で最もバランスがよく完成度の高いルックス。
姉御肌の美人。単独でバイキンロボを撃退できる腕っぷしを持ち、ばいきんまんさえ「坊や」呼ばわり。おねショタを想起させてくる。
ミ~ント、ミント~♪の掛け声と共に洗脳を掛けて回る催眠装置。
シェイクスピアの演劇知らんのと布袋寅泰のギターの柄知らんので優劣とかあるんかいなって思った。
ないよ。
そこでその友達「子供の頃から地方に住んだら美術館とかミュージカルに行けないから文化的素養が身につかない」「ゲームとかに詳しくなっても何も役に立たないやん」
んでその帰りに上下共に布袋のギター柄ファッションでグラサンかけためっちゃ目立つ感じの兄ちゃんが通りがかって
「うわさっきめっちゃ布袋の兄ちゃんおったな」って言ったらなんかピンと来てなくて、どうやら布袋寅泰の楽曲やら布袋寅泰のギターの柄がいろんなところでコスられてる文脈とかそういうの全然知らんかったみたいで
シェイクスピアの演劇知らんのと布袋寅泰のギターの柄知らんので優劣とかあるんかいなって思った。
吉本芸人の漫才が好きなのとオーケストラ好きなのにどっちが上とかあるの?
ただの趣味の違いじゃん