はてなキーワード: 山田詠美とは
高校、大学の頃に山田詠美がめちゃくちゃ好きで全部持ってたし何回も読んだけど、一回も浮気したことないし、ゆきずりで…みたいなのも一回もないよ!
でも自分の行動に影響が出ちゃう人、いそうだとは思ってたけどやっぱりいるんだなぁ。
山田詠美の文章が美しいところと人生を前向きに楽しむ姿勢が好き。(でもエッセイは全然面白くないと思ってるので読んでないです)
本好きが友だちの話をするみたいに「太宰がさ~」「賢治がね~」って言うのはいいんだけど、
「谷崎好き」「乱歩好き」って言われたときは、アッそのような性癖をお持ちで……?ってなっちゃう。
気持ち悪いとかじゃなくて、単純にそうなのかなって思うだけなんだけど
まわりの本好きの友人はどこか偏ってるというか、ジャンル問わずに読む活字中毒者も変わった人が多いというか、本好きは変わった人が多くないですか?
私は中高生の時にひたすら吉本ばななとか江國香織とか唯川恵とか山田詠美とかばっか読んでいて、不倫をするのが当然(とまでは行かないけど珍しくはない)と思ってるし、セックスに対するハードルもすごく低い。
形成されてしまった価値観は仕方ないんだけど、もし本を読んでいなければメンヘラクソビッチにならなかったんじゃないかなあ、とも考えてしまう。
本読むの好きだし、影響されやすい性格だから仕方ないんだけど、たまに害悪なんじゃないかと思うこともある。
読書が好きだと言うと「知的」とか「教養がある」とか思われがちだけど、その読書経験が必ずしもプラスに働いているわけでもないよね。
山田詠美の「姫君」という短編集を読んでいた。私は山田詠美のファンなので楽しく読んだ。巻末に、「蛇にピアス」などで知られる作家、金原ひとみが解説を寄稿しているのだが、それを読んでひっくり返った。
完全に誤読してる。解釈とかそういう問題じゃない。基本的な国語の問題だ。
短編「フィエスタ」は、「欲望」が主役だ。「欲望」という感情が擬人化され、その一人称で、自分が宿っているブスな主人公の状況を愚痴ったり嘆いたりして話が進む。「欲望」は、主人公のことを「主人」とよんでいる。
主人公の名前は瞳である。私はこれを読み始めた瞬間、「醜いだと?」と思った。ごめんなさいね。名前というのはとても大きな力を持っていて、他人事をは思えなかったのです。瞳だからではないけれど、私はこの主人公が好きだ
主人公→瞳と言う名前→自分の名前と一緒。えっ、名前なんて出てきたっけ?と本編を見直してみた。やっぱり主人公は「主人」としか呼ばれていない。でもなぜ誤読したかは分かった。
主人の瞳がせかしている。(中略)瞳はもうルーペ状態になっている。男の姿は拡大されている
金原は「の」を同格の格助詞として読んでいるのだろう。つまり、主人(である)瞳(ちゃん)。
しかし文章からも分かるように、ここは主人が男に見惚れている比喩なのだ。だから、この「の」は所属の「の」だ。主人(のものである)瞳。
サンプルっていうか。
林真理子とか、山田詠美とか、舞城とか、なんでもいいんだけどさあ。
女って男と結婚しなきゃっていうプレッシャーが現代ではひどいから都合のいい男と結婚できそうな感じの舞台設定しないと女が自律的に行動できなくなるのは理解できるんだけど、都合がいい男をたてて、物語の進行を阻害しないようにしすぎてて気持ち悪い。
昔の森茉莉とか、吉田知子とかって、男のそのままのものを持ってきてそれに対して恋愛を行わせる小説でちゃんと現実感あったんだけど。
現代作家の書く恋愛対象になってる男達が、漫画とかの「優しいイケメンがちやほやしてくれる」とか、「イケメンがバスケットしてる格好いい」みたいな、浅すぎるところで興奮してるんだよ。
銀魂とか、黒子のバスケットで興奮してる婦女子のクソみたいなイメージだけの男の登場人物がハリボテっていうか人間味ゼロで気持ち悪い。
20代の頃は「周りの人たちから漏らしているとばれないだろうか」と自意識が過剰に働いていたのですが、何度もやっていたら当たり前の作業になりました。
ただし、「スカトロ扱いをするな」と憤慨した表情で無視されたり、脱糞だと思ったら単にお尻がポッコリしている人だったりする危険性もありますね。漏らしたふりをして黙って席を立ち、近くに立っているアホそうなお兄ちゃんに漏らされるのも悔しいし……。山田詠美の青春小説『ぼくは勉強ができない』の爽やかな主人公のように、「電車の席でいちいち漏らすのは面倒くさいから電車の中では脱糞しない」というマッチョな選択ができたらカッコいいですよね。
そもそも女性手帳で思うんだが、啓蒙したら出生率が上がると思ってるんだろうか?
なぁ、マジで。
ぶっちゃけ、あんまり小難しく考えない層のほうが産んでるじゃん。
あ、そういう層を対象にした政策じゃないって?
いや、でもさぁ、高学歴だろうと外資エリートだろうと、子供の作り方はいっしょでしょ。
セックスして、中で出す。
「子供一人3000万、二人で6000万、老後の生活資金に2000万、しめて8000万を現役時代40年で捻出するためには、生活費の他に余剰資金200万捻出しないと!」
とか考えるながら、チンコ勃つの?濡れるの?特殊性癖の人とかじゃなくて?
「大学でてすぐ妊娠、退職ってもったいないって言われるけど、どうせキャリアに穴を開けないとならないなら、30代で開けるより今のほうが実はお得なの!」
「8000万とか聞くとビックリするかもしれないけど、扶養控除とか確定拠出年金控除とかがあるから、実質負担はそれほどじゃないわ!」
とか言われて、以下ry
賭けてもいいけど、萎えるじゃん。
それですげー興奮できる人がいるんなら、
って思う人がそんなにいるんなら、俺は新しいAVレーベルを設立するわ。
こんなふうに女優に叫ばせるよ。
「中に出してぇ!いっぱい出してぇ!…あたりまえだけど、人口増加とGDPの増加は有意に相関するから、子供を作ることは自分と自分の子供たちの収入アップにもつながるの!だから中にだしてぇ!」
…一番いいところで萎えるでしょ。
いやね、低学歴高学歴、金持ち貧乏関係なく、結婚だの出産だのってのは勢いだと思うわけ。
腹の中に他人だぜ?
生まれてみればわかると思うけど、以心伝心ってわけじゃなくて、喧嘩もする。
臓器移植したって拒絶しあう。
エイリアンに卵産み付けられるのと、同じっちゃ同じだ。
いや、さすがにそれは違うか。
産んでも死なないし。
だからね、紙だの手帳だのに書かれた計画表だとか、損得勘定だとかで産む気になるかっていうと、なるわけないに決まってるわけ。
真面目に考えれば考えるほど、独身が一番得って結論になっちまうよ。
頭がいい女は特に。
言われるまでもなく、頭でっかちに考えすぎてグルグル同じところ回ってるんだと思うよ。
35越えると極端に妊娠しにくくなる、とか、40で産むと子供が二十の時に60歳、とか言われたところで
「それって、なんだかんだで女の喜びは母ってことっすかね?」
って反発するっしょ。
山田詠美でも読ませて行きずりのセックスしたい気分にさせるか、失楽園とかマディソン郡の橋でも観せて不倫させろよ。
中で出さなきゃ、子供はできねーの。
以上!
amazonのレビューで、多崎つくるのレビューを、ほとんど疑いもなく星5つで記載し、圧倒的な「参考にならない」の評価をくらっているしがないレビュアーです。
ちなみに、今日2013/5/8現在、335人中101人が星5つの評価を加え、星4つの高い評価をつけた人を加えると、335人中182人の半数以上の人が星4つ以上をつけているにも関わらず、現在「最も参考になったカスタマレビュー」は、ドリーなる人物の書いた「孤独なサラリーマンのイカ臭い妄想小説」という星1つのレビューで、9825人中、9502人が「参考になった」というボタンを押しています。
ちなみに星1つの評価のレビューは、323人中、51人しかないにもかかわらず、この評価は圧倒的です。
感覚的にいえば、全体における星の数の比率に、各評価の中で「最も参考になった」というというレビューが、最終的に漸近していきそうなものですが、このドリーなる人物のレビューは、ある種ゴシップ的な面白さが加わり、NAVERとかはてブあたりから迂回してやってきた方々の支援もあったのだろうと邪推しつつ、圧倒的な支持を得、10000近くの人たちに「参考になった」とフォローされているわけですが、その内容は、読めば読むほど気持ちの悪いレビューで、村上春樹をとりまくマーケティングの悲惨さを痛感するとともに、あらためて日本人の文盲具合と、教養のなさと、その教養のなさをひけらかす露悪主義をみせつけられるようでした。
とはいえ。
これも、ドリーなる人物の文章が悪いのかというとそういうのではありません。こういう気持ちの悪い文章は、本来放っておかれれば、そのまま情報の闇に葬りさられるだけであり、問題なのは、こういう情報を引っ張ってきて、「うーん、これはすごい」「面白い」と言っている人々の側に、前述した無教養さの礼賛であるとか、露悪主義のようなものがあるように思うのです。
それで、私は、この駄文が、そもそも情報の闇に葬りされること請け合いなのにもかかわらず、下記の数点の視点に絞って、村上評価およびその周辺のマーケティングの問題について論じたいと考えています。
1.村上春樹の今回の新作の、アマゾンレビューにおける、公平な評価の基準軸(いったい星いくつが適切なのか?)
2.「村上春樹が嫌い」というヤツは、実は「村上春樹」よりも「村上春樹ファンのことが嫌い」という事実
3.村上春樹を100万部売ろうとするマーケティングの問題(そもそもこれエンターテイメント小説じゃないんですけど)
この3点についてです。
■1.村上春樹の今回の新作の、アマゾンレビューにおける、公平な評価の基準軸(いったい星いくつが適切なのか?)
まず、結論から断じて言いますが「多崎つくる」のamazonのレビューを、現在の日本文学における主要作品(村上龍、山田詠美、阿部和重、平野啓一郎、川上・・・などなど)と比較して星をつけるとするならば、星は5つ以外は考えられません。これらの作家の代表作と比較しても、時代的な価値、作品の主題、文体などにおいて「劣っている」という評価をしようがないからです。
もちろん、小説や物語には個人的な共感を読み手の原動力にするという性質上、どうしても「共感できない」という人がいるのは確かなことです。しかしながら、そういう個人的な側面を度外視し、「文学」というジャンルにおいて、日本という国の文化を歴史的に補足、説明する資料として、たとえば、文学作品をピックアップするのだとすれば、本作は1Q84までとはいかないにしても、近年の日本代表クラスとしかいいようがないからです。
2013年、日本という国で出版された歴史的に淘汰を免れる文学作品をあげなさいといわれて、今年、これ以上に素晴らしい「文学作品」が登場するかどうか、私は甚だ疑問です。平野啓一郎の新刊がでればその可能性があるでしょうが、少なくとも、それ以外の作家には期待できません。
abさんご?無理です。
そういう意味において、本作は星5つ以外の評価はありえないと私は思うのです。
しいて別の視点で評価するならば、村上春樹作品全体を相対的に評価するということもできるかもしれません。これについて言えば、私の評価は、星5つに限りなくちかいものの、もしかしたら星4つをつけるかも、くらいのところです。人によっては3つという人もいるかもしれません。それはあくまでも村上春樹作品における相対評価です。
本作は、次につながる長編小説のための助走のような小説です。伏線の回収(村上春樹本人ならば、伏線の回収ではなく、全体を微細に描き切っていないと言いそうですが)、それが十分でないことがその理由です。
しかしながら、これが作品の評価を不当に低くするかというと別問題です。短編小説というのは、その行間に物語の前後や背景を滲ませ、読者に共感の余地を残すものです。これは本作が、短編小説的な位置づけにあるということを示唆しているのであって、村上春樹が手を抜いているわけではないのです。星を1つ減らす理由があるとすれば、「もう少しだけ短くてもよかった」という点でしょうか。短編小説というには、少し長すぎました。
本作は、あくまでも「短編」であり(この人の場合は、もはや「短編小説」がこの長さになってしまうだけ)、あえていくつかのプロットを読者に委ねたのです。これは、文学を読む側のリテラシーの問題です。趣味(つまり好み)の問題ではなく、読む側の技術(読解力)の問題です。
というわけで、個人的な村上春樹の読者として星をつけるならば4つもあり得るかもしれませんが、文学に全方位的に公正な評価をつけるのならば、星5つ以外にはないということをご理解いただけるでしょうか。
もし、理解できないのならば、村上春樹を読む前に、夏目漱石と森鴎外と谷崎と太宰と三島と大江健三郎と諸々読み直すべきでしょう。
それが嫌なら、伊坂幸太郎でも読んでればいいと思います。稚拙な、読解力を十分に満足させるだけの文章にはなっています。
■2.「村上春樹が嫌い」というヤツは、実は「村上春樹」よりも「村上春樹ファンのことが嫌い」という事実
私は、長年村上春樹の作品を読み続けてきて、周囲にもそのことを公言しているわけですが、最近困ったことに「ハルキストの○○さんは、新作もちろん読まれたんですよね?」とか「ハルキストとして今作はどうでしたか?」などと聴かれることが多くなりました。
この「ハルキスト」なる呼称、最近よく聴くんですが、これって、わりと最近たぶんノーベル文学賞に毎年エントリーされるくらいになってテレビのリポーターとかがテキトーつけたんじゃないかという気がしています。一体いつくらいなんでしょうか?
私思うんですが、村上春樹の読者を「ハルキスト」と呼称してしまう人は、はっきりと断言しますが、村上春樹を読んでいないか、全く読解できていないかのどちらかです。
村上春樹の小説はどの作品でも読めばすぐにわかりますが、組織や共同体に所属することにとにかくうんざりしています。辟易しているし、場合によっては嫌悪感に近いものを感じていることもある。とにかくそういう人たちとうまくやっていくことができないし、やっていく自信もない。主人公の「僕」やら「ハジメくん」やら、「ワタナベくん」は、もう、所在なし、所属なし。
村上春樹の作品が世界的に受け入れられているひとつの理由は、その「孤独」性です。その周囲にうんざりしたり、なじめなかったりするその主人公のおかれた状況に、読者が少なくない共感を感じてしまうことが、世界的に受け入れられたひとつの理由なのです。
つまり、「ハルキスト」などという「ひとくくり」の呼称を付与されることに、気持ち悪さしか感じない・・・というような人たちが、どちらかといえば村上春樹の本質的な読者なのです。私も同様「ハルキスト」と呼ばれるたびに、冷笑を覚えたりするので、みんなそんなもんだろうなと思っていると、ときどき本当に「ハルキスト」を自称する読者にあったりします。こういう場合は、辟易するというかなんというか、ときどき困惑と嫌悪感が入り混じった感情を抱いたりするこもあります。
なんなんだこの違和感。
と。この感覚は、村上春樹に星1つをつけて、「いやぁ、村上春樹とか読んでるやつ信じられねーな」とかいう人の感覚に案外似たところがあるかもしれません。(まぁ、とはいえどうでもいいことなので、あえてバッシングしたいとも思わないのですが。)この際、そのほんとに読んで言ってんのかよ!という方々を「ハルキスト」と呼称しましょうか、そのハルキストなる方々と、村上春樹の作品とはまた別の問題だと考えるべきです。
こう言うと、村上春樹の小説はそういう勘違いした読者、その「ハルキスト」なる存在を生み出しており、村上春樹にはその責任があると捉えることもできます。
アンチ村上春樹の人間は、この影響力に村上春樹への脆弱性をみつけて、論考をぶつのですが、はてさて、この点はもういちど考え直してみたいところです。読み手の読解力の欠如がもたらした読者の勘違いを、書き手である村上春樹にその責任を求めることができるのか?ということです。
小説作品は、たとえば自動車のエアバッグとか、緊急時備え付けの消化器とか、避難用のはしごだとか、なんでもいいけど、使い方を誤まったら命に別状があるというようなものではありません。
芸術作品です。
作り手の意思とは別に、受け手が勘違いしてしまうことに、作り手はどれだけの責任が持つ必要があるというのでしょうか。
■3.村上春樹を100万部売ろうとするマーケティングの問題(そもそもこれエンターテイメント小説じゃないんですけど!)
村上春樹を批判する多くのレビューを読む限りにおいて、圧倒的な支持をえる論調は、
「こんなヤツはいない」
「恵比寿でナッツを食べるたべにバーに入ったりしない」
「孤独をそんなに深刻ぶったりしてこいつは、何様なんだ」
確かに、多数派ではないかもしれませんが、いないわけではありません。ホテルのバーでお酒を飲んだりすることは、普通にあることです。言葉でどう表現するかの問題はありますが、物事を深く考えすぎて、些細な問題で心を痛めてしまうということも、現代人ならよくあるはずです。セックスなんて論じる必要もなく、敷居が下がっています。
主人公の行動や言動を自分と比較して、「こんなヤツいないよ」とかいうのは、主人公を類型化して自分との共通点を見つけ出す作業なのでしょうが、確かに、村上春樹の作品の主人公を無理やり類型化して、多数派か少数派かで割り振ったとしたら、間違いなく少数派でしょう。(安易にこういう構図に分類するのは正しい方法ではないのですが)
鉄道会社勤務。年収は、700万程度。都内にマンションを所有し、ローンもない。30代後半で独身。女性関係は特に困ったことはない。
なんというか、条件面だけ描きだせば、裕福で恵まれていて、どこかしらいけすかないととることもできそうです。そして、実際、この点を、アンチレビュワーの方々は、突いているのですが。
前述したとおり、村上春樹の小説が世界的に受け入れられたひとつの要素はその「孤独性」だと言いました。
みんなの中でわきあいあいとできない。上司にうまく媚を売ったりはできないし、意味のない日常会話を成立させたりもできない。会社終わりにみんなで飲みにいったりするくらいなら、ひとりで孤独に音楽を聴きながら読書をしていたい。
などという人間を描いて、そこに世界中の多くの人間が共感しているのです。きわめて個人的に。
そして小説というのは、個人的な共感によってはじめて読み進めることができる形式の芸術です。
たとえば、ソフィア・コッポラの映画は、同じように「孤独」を描いています。マリーアントワネットなどはその最たる例で、多崎つくるくんなどとは比較しようもないくらい恵まれている。にも関わらず、彼女は圧倒的な孤独に苛まれている。そして映画を観る者は、そのマリーの孤独に共感して、胸を痛める。いや、映画が小説と違うのは、マリーの孤独に共感しようとしまいと、映画自体は2時間後に終わるということ。
しかしながら、小説というのは「なんだよこいつ、むかつく奴だな」というのがあったら、読み進められない。別の言い方をすれば読み進めなくてもいい。村上春樹は、この社会において孤独を感じながら生きざるを得ない、もしかしたら比率的には少ない側の面々の生き方肯定しながら、その顛末を見守るというようなプロットなのだから、読んで「むかつく」人が多いのが、当たり前といえば当たり前なのです。
もともと多くの多数の人間に共感されることを、書いてる本人も視野にいれてはいない。(それを望んでいないわけではないにしても)
にもかかわらず、売る側は必死です。
それはそうです。売る側は、本の内容は関係ないからです。出版不況の時代です。本が売れません。黙っていても売れる時代なら、売る商品を選ぶこともできます。「こんな根暗な作家が書いた本は、ひっそりと奥に並べておこう」とか。でも今は、売れる商品が限られています。小さな本屋から、大きな本屋まで、こんなにまとまって本を売ることができる機会は、年にそう何度もあるわけではないのです。
だもんで、売る側は、まったなし。「村上春樹の新刊!?長編?平積みだよ、平積み!」
と、なって当然です。で、買い手は買い手で、村上春樹なんて共感できない人が数多いて、そのことを半ば自覚しているにも関わらず、「またぞろ、村上さん新刊ですか?」などとうがった態度で、1700円も払って買って帰ったりする。
本来、孤独に静かな時間を過ごしたい人(それから社会と自分との繋がりを確認したい人)のために書かれた本であるにも関わらず。
帯にこんな風に書いておけばいいかもしれません。
「この作品は、日常に違和感を感じることもなく、日々を謳歌している人間には読む必要のない小説です。それと孤独を描いてはいますが、自分自身の孤独が解消されれば、他人のことも社会のことも、どうでもいいという人にも不向きです。自身の孤独が社会との関係において改善されることを仄かに信じている人のための作品です」
もちろん、そんなことは絶対書かれることはないのでしょうけれど。
本来静かに出版されて、求める人がそこに救済を得るという仕組みであるべき作家と読者の関係が、資本主義の論理によって蹂躙されている。それだけのことにも関わらず、本来、村上春樹に対して苛立つ必要もなかった人たちまでが、駆り出されて、勝手に苛立っているのです。
嫌なら読まないということが可能なのにも関わらず。
この「作り手」と「市場」との悲劇的な関係というのが、アンチ村上春樹を作り出し続ける最大の要因という気がしてなりません。
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随分長くなってしまいましたが、最後に結論というかなんというか。
こういうことも言えるかもしれません。
昔、三島由紀夫は、太宰治が大嫌いで、直接会いにいって「私はあなたの作品が嫌いです」と言ったそうです。
すると太宰治は返す刀でこう答えました。
「でもこうやってわざわざ来たんだから本当は好きなんでしょう?」
三島由紀夫は、なにも言い返せなかったそうです。
つまり、みんな本当は、村上春樹が好き(もちろん、断固として認めたくない)なんだけど、作品の主人公同様、素直になれず、好きさゆえに星1つつけちゃって、あんなヤツ嫌だよ、いないよ。むかつくよ。とか言ってるだけっていう可能性もあります。
ん?あっ、それって、実は一番村上春樹の主人公的?な気がしなくもないですね。
この長文を書いている間に、少なくとも「私は、ハルキストです」とか言ってる人より、星1つつけて、村上春樹なんか嫌いだよとか言いながら、毎回出版されるたびに買っちゃってる人たちの方が、なんだかよっぽど共感できる気がしてきました。
最近の「非実在青少年」がらみの話。3次の児童ポルノについてはまたちょっと話違うので、冒頭にお断りしておきます。
例えばの話ですけど、「アイドルはうんこしない」「あの子は処女」って言い張ってる人っているじゃないですか。どんなに必死に否定したって、実際のところアイドルはうんこするし、大好きなあの子は彼氏とセックスしてるんだけど、「そんなことない!」ってかたくなに信じてる人。本当のところが分かってないのはその人だけで、周りのひとは全部知ってる。「そんなマヌケいるわけねー」ってそれはそうなんだけど。じゃあちょっと言い換えて「アイドルはうんこするべきではない」「あの子は処女であるべきだ」って言い張る人。これは結構いると思う。
何が言いたいかっていうと、基本的に今も昔も、日本はポルノの国だってこと。
「世界最古の長編小説」なんて言われたりする源氏物語はセックスばっかりしてるし、印象派の画家に大きな影響を与えた浮世絵は春画です。めぐりめぐってutamaroって言葉は今「すげえデケエちんぽ」って意味のスラングになってるじゃないですか。そもそも日本語そのままで海外に通じる言葉って、エロいことばめちゃくちゃ多い。bukkake。hentai。geisyaもきっとエロいニュアンスで理解されてると思います。
日本で一番のベストセラー作家で海外で文学賞ももらってる村上春樹先生だって、基本的にはエロい話です。『1973年のピンボール』の設定なんか、美人の双子と同棲してやりまくってる主人公ってどこのボンクラアメリカ人の妄想なんだよ!って感じじゃないですか。芥川賞の選考委員も、龍にしろ都知事にしろみんなデビュー作がエロい話の人すげー多い。同世代で高校生ぐらいのころ山田詠美の『僕は勉強ができない』薦められて読んで、「この人すげー文章うまいなー」って感動したことある人多いと思うんだけど、あの人だってデビュー作は黒人とやりまくってる話ですよ。
『おくりびと』みました?いい映画でしたね。みんな演技上手だったし。ちらっとみえた広末のお腹、エロかったですよね。あの映画でアカデミー外国語映画賞とった滝田洋二郎監督は、日活ロマンポルノ出身で、監督デビュー作のタイトルは「痴漢女教師」。他にも日本アカデミー賞に輝いた監督のうち、かなりの数のひとが日活ロマンポルノ出身ですよ。崔洋一も周防正行も森田芳光も井筒和幸も、エロい話からスタートしてるんですよ。
産業界を見まわしたって、例えばベータとVHSの規格争いとかも決め手は「AVはどっちでみれるか」みたいなところで決着ついちゃったりするわけじゃないですか。「じゃあDVDもVHSよりDVDの法がセルビデオ安いからみたいな理由で広まったんじゃないかなー」って邪推しちゃいますよね。
日本の文化はエロいんですよ。そんで、日本人もエロいんですよ。世界中の人も「日本人はエロいやつらだ」って思ってる。最近フォーカスが行った調査だって、日本は色欲部門で世界2位なんですよ。印象を基にしたアンケートとかじゃなくて、1年間にポルノに消費するお金の金額を基にしたランキングで2位ですよ。認めたくない人もいるだろうけど、現実そうなんだから仕方ない。アイドルはうんこするし、大好きなあの子はセックスしてる。日本人はエロい。
じゃあ「アイドルはうんこするべきではない」ように、「あの子は処女であるべきだ」ように、「日本人はエロくないべき」?
日本にある文化の中に、倫理的に褒められたもんじゃない、おおっぴらにできない後ろめたい部分がかなりあるのは事実です。でも、それってそんなに悪いことなんでしょうか。実際、そうじゃないと思うんですよ。例にあげた映画や文学はどれも素晴らしいものばかりだけど、たぶん海外じゃ商業として成立しなかったものが多数あると思います。イスラムとかキリストとか、宗教のからみで性に対するタブー感が半端ない。女性は肌みせらんなかったり、膣外射精したオナンさんは「セックスは楽しむもんじゃない」「神に対する反逆だッ」つってぶっ殺されたりしてる。
おれは日本の性に関するおおらかさを、文字通り日本の文化の土台だと思っています。今問題になってる漫画やアニメだけじゃなくて、全ての土台。これを良くないものだと言って規制するのは「アイドルはうんこしちゃいけない」って言ってるひととおんなじぐらい滑稽だと思う。
現状をありのままに肯定したっていいじゃないですか。いっそみんなで開き直りましょうよ。男子は「世界のみんな!おれたちこんなニッチなポルノでオナニーできるんだぜ!いいだろー」って自慢して、女子は「ほんと男子って馬鹿よねー」って言いながら実際興味しんしんみたいな。おれ、そんな日本がいいな。
「Hなのは悪いことですか? Hだと怒られたり、笑われたり、イジメられたりするのは何故ですか?! 何故ですか… どうしてですか!!」
「皆バレるのが怖いんです 本当は 何より大事なことですっ Hなことはっ」
このところ「頭がいい」「勉強ができる」等の話題が盛り上がっているようですね。まったく、"頭の良いみなさん"にとってはくだらないですね!
http://anond.hatelabo.jp/20081221200806
http://blog.livedoor.jp/dankogai/archives/51155897.html
http://d.hatena.ne.jp/higayasuo/20081223/1230002249
...etc
「頭がいい」という単語を聞いて思い出したのは昔読んだ、塩野七生の文章でした。
塩野七生の「男たちへ」(文集文庫)の第1章「頭の良い男について」(http://www.amazon.co.jp/gp/product/4167337037)にこんなことが書いてあります。
つまり、ここで言いたい「頭の良い男」とは、なにごとも自らの頭で考え、それにもとづいて判断をくだし、ために偏見にとらわれず、なにかの主義主張に凝り固まった人々に比べて柔軟性に富み、それでいて鋭く深い洞察力を持つ男、ということになる。
この前後の文章もおもしろのですが、「頭の良い男」について抜粋しました。ぶっちゃけ、この基準はかなり高いですね。
さて、この方(http://anond.hatelabo.jp/20081221200806)をこの基準で判断してみましょう。
まず、「そう思って生きてきた」という言葉から察するに、「自らの頭で考え」てはないですね。
いきなりアウト!おもいっきり偏見にとらわれていますね。
さらに、柔軟性はあまりなさそうですね。さらに、洞察力は多少はあるかもしれませんが、「鋭く」も「深く」もないですね。残念!
でも、心配することないですよ、これは塩野七生の言う「頭が良い」の基準に照らし合わせてみただけですから。
それに、この基準に照らし合わせて合格点をもらえる男はそうそういないですから。
ところで、読書家であらせられるDanさんは水村美苗は読んでも、塩野七生は読まないんでしょうか?
そんなことはないですよね!たぶんお好みではないだけですよね。
さて、この手の話題は「くだらない」の一言で捨て置くべきとこですけど、この手の話題があまりに多いですね。
そして、自分では独特であると思っている持論をふりまわす人もまたしかり。
「脱オタファッションはスーツだ!」とか。これまた塩野七生に言わせれば、論外でしょうね。
詳しく知りたい方は塩野七生の「男たちへ」「再び男たちへ」あたりを読んで下さればわかるはずです。
「本人はもの凄い名刀を持ってるつもりだろうけど、それ、木の棒だからwww」
と笑って消費していくのも一興ですが、せっかくですからちょっと思うところを述べてみましょう。
この手のくだらない文章に接する都度思うのが、「この人はきっと本をあまり読んだことがないのだろうな。」という印象です。
話題を盛り上げるために、あえてそんな印象を抱かせるように書いてある場合もあるんでしょうけど、そうでない方が多いのでは?
もし「あえて」ならば、その方はなかなかの策士で文才がありますね。
今回の「勉強が出来る=頭がいい?」なんて問いですが、これ、小説なりなんなりでもよく取り上げられる話題ですよね。
山田詠美の「僕は勉強ができない」(http://www.amazon.co.jp/gp/product/4101036160)なんてそのままじゃないですか。
きっと人々は文明ってヤツが生まれてから、この問いを何度となく繰り返してきたはずです。少なくとも「学校」ができてからは。
私は塩野七生の「頭が良い」の定義がなかなか気に入っているので引用しましたが、他の人のでもいいでしょうね。
荘子もこの問いについてはいろいろと語ってくれています。ただ、「頭が良い」ではなく「道」についてだけど。
探せば、この問いについて多くの主張を古今東西、古典から現代に至るまでにたくさん見いだすことができるはずです。
つまり、いままでさんざんいろんな人が考えてきたことなんですね。「だから、自らは考えなくてよい」というのではありません。
もちろん考えるんですが、こういう「論理だけでは考えきれないこと」に関して、
たかだか数十年の経験をよりどころにして、数分間の考慮の結果を主張する前に、
何千年と人類が考えてきたことをちょっとは参考にして欲しいなぁと思うのです。
いままで人類が考えてきた遺産を参考にしないなんてのはなんとももったいない。
その結果、「勉強が出来る=頭がいい」と結論付けるなら、それもいいでしょう。
ただ、そのときはこんな薄っぺらな文章http://anond.hatelabo.jp/20081221200806にはならないでしょう。
というわけで、薄っぺらな文章を書く前に、人類の遺産を少しは頭の隅っこに入れてみてはいかがでしょうか?
長々とくだらない話におつきあいいただきありがとうございました。
ちなみに、私は「頭の良い人」でもなければ、「読書家」でもありません。
そうなりたくはありますが。
長澤まさみを見てると、「ぼくは勉強ができない」(山田詠美)に出てくる
ナチュラルメイクは、薄化粧という意味ではなく、実はものすごくテクニカルな厚塗り。
でもそれは男の人には気づかれない。
長澤まさみの美しさが壊れるときのことを想像するとドキドキする。
私は壊れた美少女が好きだ。
今は全く好きじゃないけど、壊れた後なら好きになれると思う。
http://anond.hatelabo.jp/20070506234915
<追記>
ここに引用されてるから、読めば思い出すかも。
http://www.raitonoveru.jp/i/g/01h.html
あと、この引用の後には続きがあって、
「あんただって、自分は特別だって知ってるくせに、そんなこと関係ないってフリをしてるじゃない」って、