はてなキーワード: 共産党政権とは
この件で選択を迫られるのは税制や価値観などの面から与党を支持しない、且つ非実在児童ポルノを創作したり消費したりする人々(及びそれらの創作も含む二次元文化全般に親しむ人々)だ。
まさに投票先に困ってる。
どうせ共産党政権になることはないから、別に良いっちゃ良いんだけど。
公共広告どうのって話なら支持するかはともかくとして色んな意見あると思うし投票に悩むってレベルにはならなかった。
でも表現規制って話になると別だなぁ。
オタクがよく言ってる「今は広告だけだが規制の範囲がどこまで増えるかわからない」みたいな意見を「いやいや」って目で見てたけど、俺の方が間違ってたのかもしれない。
このままオリンピックという名のコロナの変異株展示会が始まったら日本人のほとんどは死滅
ニポン国を守るために共産党政権を誕生させて世界をあっとい言わせる必要があるんじゃない?
あれだけブルマーについて調べたのだから、しばらくはブルマーに対する知的関心も収まるだろう。そう思ってはいたものの、何となくツイッターでブルマーと検索したときに、ヨーロッパの女の子のブルマー姿を目撃し、疑問が再発した(画像はこちら。フェチの人のアカウントにつき注意)。結局、東欧のブルマーの普及っていつからだったんだ?
以前の調査でも、チェコやポーランドにもブルマーが存在していることまでは調べたが、言語の壁もあり画像検索にとどまっていた。ならば、まとまった時間が取れたことだし、しっかり調べてみるべきではないだろうか。元々チェコ文化には文学や音楽を通してなじみがあることだし。ドヴォルザークいいよね。
社会主義政権下では、制服を着て体育の授業に出るのが義務であった。
体操服としての制服は、第一共和国時代(1918-1938)にはすでに一部の学校やソコル(後述)で必要とされていたが、社会主義の時代になって初めて一斉に普及し、広く統一されたものとなった。
男子は白いタンクトップに赤い短パン、女子は短い袖に青いスエットパンツだった。この強制され対象は階級のない社会主義の未来の象徴だった。これは1965年、チェコの3回目のSpartakiada(東側の体育祭、後述)のためにデザインされ、70年代から80年代にかけてが最盛期であった。1985年のSpartakiadaではチェコ国旗の三色を再現するため、赤いブルマも導入されたようだ(ここは誤訳かもしれない)。
女子の短パンはお尻の周りゴワゴワとまとわりつき、ウエストは高く、太ももにはゴムが入っていた。ブルマーによく似ているが、体育の授業のたびに太ももに跡がつくくらいきつかったという。
ちなみに、この時代の運動靴は後に普段使われたり、バレーダンサーがはくようになったりしたそうだ。のちに、ポーランドなどに輸出もされたらしい。
Jednotný cvičební úbor: noční můra děvčat za socialismu - ExtraStory
https://www.abczech.cz/Jednotny-cvicebni-ubor-P7035300.html
プラハで創設された民族的体育運動協会。現チェコの国民性の形成に重要な役割を果たしたと言われる。元々はハプスブルク家からの独立を目指す意図を持っていた。
ソコル設立の動きは他のスラヴ系民族にも波及し、1908年にスラヴ・ソコル連盟が設立された。チェコ以外にもスラヴ諸国の連盟が加入し、1912年にはプラハで全スラヴ・ソコル祭典が開催される。1926年には180,000の観客を収容可能なマスゲームの上演のためのGreat Strahov Stadiumが完成。
両大戦間にソコルはより発展するが、ソビエト連邦では活動を禁止された。ナチス下では解散させられるが、戦後協会は再建される。しかし、共産党政権下では東欧諸国のソコルは事実上活動を禁止され、協会は国外で活動を継続した。1948年にプラハで開催されたソコル祭典の集団演技には98,000人の学童と273,000の会員が参加し、2週間にわたって行われた大会の中で共産主義政権への反発が露にされた。
チェコスロバキアではソコルの活動が停止した後、社会主義的な演出を施した「Spartakiada」というマスゲームを中心とした体育大会が1955年から5年ごとに行われるようになった(後述)。
なお、もともとは同じユニフォームの着用、マスゲームの参加は過去には民族主義による開放感をもたらしていたが、関心が多様化した社会ではそれらの行為は拘束として受け止められているそうである。現に、上から国民を教育しようとしたこの運動はあまり成果が出ず、徐々に管理主義的になっていったという。民族の自由を求める戦いも、完全にクリーンというわけでもないらしい。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%BD%E3%82%B3%E3%83%AB_(%E9%81%8B%E5%8B%95%E5%8D%94%E4%BC%9A)
ソビエト連邦がスポンサーになったスポーツの大会である。ソビエト連邦はもともとオリンピックに対抗し、これを補完しようとしていた。国際Spartakiadaは1928年から1937年に5度開催されたが、のちにこれは東側ブロックの国ごとのイベントになった。名前はスパルタクスから来ており、プロレタリア国際主義を象徴する。貴族的・資本主義的な(古代)オリンピックとの対比になっている。
その後、チェコでは大規模場マスゲームを指す言葉にも転用された。これは先述のGreat Strahov Stadiumで5年に一度開かれた。規模は非常に大きく、1960年は75万人が国中から参加し、200万人がイベントを目にしている。
1955年から5年ごとに開かれたが、1970年はプラハの春で中止、1990年はビロード革命で中断され、小規模な形で再開した。
1994年以降ソコル祭典は6年ごとに開かれているが、祭典のマスゲームやパレードに参加する会員の多くは過去のソコルに馴染みが深い高齢者で占められているらしい。
https://en.wikipedia.org/wiki/Spartakiad_(Czechoslovakia):title]
私は自分のことはリベラルだと思っているし、ウイグルで起きていることはもしかしたらナチス超えの人類に対する犯罪で、中国の歴史に大きな汚点を残すことになるだろうと考えている。4000年の歴史がある「中国」も、中国人も好きだけど、現在北京にある共産党政権は支持できない。
でも、大陸に中国国籍の家族がいるので、家族に迷惑をかけるリスクを取ってまで、外国で起きている事件に関しての自分の信条を守りたいとは思わない。第二次大戦中の英国では、「ドイツ風の名前をしている」というだけで英国人が逮捕されたという。家族のことがなくても、私個人としても、中国と関わる仕事をしているので、当局に睨まれると日々の糧に影響が出る。
「声を上げろ」って言っている人たちは、たぶん中国と自分の関係が悪化しても誰にも迷惑をかけないし、収入にも影響がでないんだと思う。家族が逮捕されたり、職を失ったりするリスクを負うのは言われた側であって、言っている人たちにはなんの痛みもない。まあ便利な言葉だよね。正義っぽいし、相手だけを困らせることができる。いままさに家族が虐げられている亡命ウイグル人でも顔出しの批判は難しいってことなんて考えたことがないんだろう。
他人のことをあれこれいうのではなくて、「私たちは虐げられた人たちのためにこう動く」という人たちのことは尊敬する。イギリスが香港市民300万人に特別ビザを出すというのはかなりの覚悟だ。全人口の数%に当たる数で、そんなに移民を受け入れたら社会がおそらく大きく変わる。ボリスすごい。
関係ないけど、バイデンが電話でウイグルと香港について習を電話で非難したってCNNで言ってたけど、たぶん言うだけで、イギリスみたいに痛みを伴う行動をするわけでもないだろうし、むしろ経済関係を深めていくんだろうな、っていう感がある。アメリカは金の匂いがして親米的な国にはあまりうるさくいわないっていうのが伝統だし、バイデンも同じだろうな。。。
もっと関係ないけど、日本政府が比較的沈黙を保っているのは、「国益」を考えた現実としてはたぶん一番正しい道なんだと思う。日米関係を健全に保つためには、日中関係はある程度良好である必要がある。個人的にはもうちょっと強い態度を取ってもいいのではという気もするけどね。隣国のジェノサイドに目をつぶる国にはなってほしくない。
「俺たちが考える国民のためになる政策」をやっていないと思うから
「その調子でもっとバンバンやれ」と言うのは矛盾ではなく筋が通る
「左翼リベラル派が安倍政権から10万円もらうのはおかしい」と言う右派は
憲法改正や竹島奪還、北方領土奪還を実行しても反対するのだろうか???
あるいは安倍晋三がいきなり心変わりして
平和憲法の絶対維持や尖閣諸島を中国に譲ると言い出しても支持するのか???
を重視しているのかも知れないが
左翼リベラル派が前近代的価値観より合理主義的な損得を取るのは矛盾しない
高度経済成長期までは社長や政治家に忠誠を尽くせば利得が得られた
しかし、21世紀に入って以降の自民党政権が進める新自由主義は
勤労者を差し換え自在のパーツのような非正規雇用に変えてしまった
企業が家族のように従業員の面倒を見ることを辞めてしまった状態で
かつての時代の主君に対する臣下のような忠誠を期待するのは無理な話である
新型コロナに関して、マスク2枚配ったりとか、お肉お魚券とか、歴史改竄とか、セクキャバ行ったりとか、色々あるけど、これって「政治」がどうこうの話じゃなくて、その「政治」に関わってる個々人に「公益に資する素質がない」っていうだけの話じゃない?
個人の生活になんの保証もないまま外出を自粛させる為政者と、緊急事態宣言出てんのに出社を強要する会社の上役に、それほどイデオロギーの違いなんてなくて、あるとすればどっちもテメエの事しか考えてない(他人の事なんてこれっぽっちも考えてない)っていう程度のことじゃないのかね。
少なくとも市井の人々が、こういう災害のときに政党、まぁ政治家や財界(財界は政治家じゃないけど敢えて一緒でいいでしょ実際)に求めるのは「公益に資する」ことだと思うんだけど、そういうのがまったくないから、マスク2枚とかお肉お魚券、歴史改竄、セクキャバみたいなことになるんじゃないの。
何も政治家や財界に「公益に資する道だけを歩め」とまでは言わないけど(政治家には言ってもいいかもだけど)、当の本人たちに素質がないし、あまつさえそういう人たちの中から無理くりにでも「国民の声」を選ばなくちゃいけないってのは、いくらなんでも最初っから負け戦すぎるでしょ。
こんな記事もあったけど、多少の当たり外れはあっても、全体的になんかもうちょっとなイマイチ感を誰か言語化してくれてる人はいるのかな
https://anond.hatelabo.jp/20170310080638
アニメじゃなくてもマンガにしても、日本のマンガがアジアで長年広く読まれてても、日本以外の国からたまにスマッシュヒットみたいのがあるっても、それ止まりというのは、なぜなんだろうか。ベースラインが全然違うというか。
技術とか政治も問題もあるだろうけど、もっと根源的な広い意味でのエコシステムの違いな気がする。特に中国を取り上げたけど、表現の自由だけが問題なら他の国、例えば韓国からおもしろいアニメやマンガがどんどん出てこないものか。中国にしたって、映画はいいもの結構あるので、共産党政権だからというわけでもないのではないか。
アニメやマンガのレビューを読んでると、自分がすごく気に入ってる作品について、驚くほどクリアに言語化してくれてるサイトとかあって、唸らされることがあるんだけど、中国アニメについてのこのなんか足らない感を説明してる人はいないものか