はてなキーワード: トロッコとは
ただし今回の軍事行動はロシアによる侵略戦争などではなくロシアにもきちんとした理由のある領土奪還作戦だったと認めること
そしてウクライナに謝罪するつもりは一切なく賠償金も全く払わない、ウクライナの復興は世界各国で協力してやろう
(もちろん戦争犯罪者の処罰や二度と侵攻しない事の約束については一切言及しない)
もしロシアがこんな条件で停戦してもいいと言ってきたらウクライナや世界はどう答えるんだろうか
この場合はロシアは余りにも身勝手な言い分であり更にまた侵略してくるんじゃという不信感もあるだろう
死んでいる・そして死んでいくであろう国民達の事を考えれば上記の言い分のおかしさを指摘している場合なのだろうか…?
現在ウクライナ人を轢き殺しまくってるトロッコのレバーを引こうとしないのは
本来のトロッコ問題よりもずっと残酷な行いなのでは無いだろうか
今行われている戦争が終わるとしたらこんな幕の引き方になる可能性は割りとあるんじゃないか…?
これが「トロッコ問題」であると指摘している人の多くが、実は「トロッコ問題」を正確に理解していない。
トロッコ問題は「5人の死と1人の死のどちらを選ぶか」という問題ではなく、「このままでは5人死ぬが、1人死ぬ方に切り替えるか」という問題だ。
この違いは「功利主義」と呼ばれる倫理体系からは同じに見えるが、「義務論」と呼ばれる倫理体系からは決定的な違いになる。
トロッコ問題では功利主義的に考えがちな一般人に義務論を意識させるための典型問題が、トロッコ問題のバリエーションである「太った男」だ。その問題設定は次のとおり。
多くの人は、「太った男」では「突き落とさない」ことを選択するといわれる。
「突き落とさない」を選択する倫理体系の1つが、「社会全体を幸福にするためであっても、その手段として人を利用すべきではない」という「義務論」だ。
「トロッコ問題」でも、義務論的に考えれば「ポイントを切り替えない」すなわち「5人死ぬに任せる」という結論になる。
しかし、線路が初めから「1人死ぬ」に設定されている場合は、義務論からも「1人死ぬに任せる」という結論になる。
このように、「トロッコ問題」は同条件の2つから1つを選ぶのではなく、現状を変更するかという作為に関する問題だ。
功利主義によれば、死者がより少なくなる選択をすることになる。安倍元首相が生きていると2人以上死ぬと考える功利主義者は歴史を改変しないことを選択するが、安倍元首相が生きていても1人も死なないと考える功利主義者は歴史改変を選択するだろう。
それでは義務論からはどうか。ここで間違ってはならないのは、歴史を改変しないことは、「安倍の死によって多数を救う」という作為ではないという点だ。
もしこれが、安倍元首相が暗殺されない世界線において「安倍を殺して多数を救うか」という問いであれば、そのような作為はまさに義務論が禁ずるものである。(逆に、功利主義からは、本当に救えるのならば推奨される行為である。)
しかし、現実には安倍元首相は暗殺された、「何もしなければ安倍元首相が死ぬ」という状況である。
義務論によれば、歴史改変による悪影響が何一つ存在しない場合を除き、歴史改変は許されない(この「悪影響」とは第三者(たとえば宗教2世)の死に限られない。)。何らかの悪影響がある限り、歴史改変という作為は「誰かの犠牲によって安倍元首相を救う」という選択であり、それは義務論が禁ずるところなのだ。
トロッコ問題と臓器くじはパラレルにならないんだよね、特に日本では
トロッコ問題はトロッコ轢かれうるような職場にいる時点で覚悟してきてる人の自己責任と見做せるけど、国については選んで生まれてくるわけじゃないし
タイトル通りの内容について話していく。
日本ではシュレディンガーの猫と並ぶ有名な思考実験であり、それと比べて随分と簡単な内容なのに本質を理解している人が少ないように感じたのが書こうと思ったきっかけである。
まずトロッコ問題の具体的な内容なのだが…説明するのが面倒なんでwikiからコピペしてくる。
線路を走っていたトロッコの制御が不能になった。このままでは前方で作業中だった5人が猛スピードのトロッコに避ける間もなく轢き殺されてしまう。この時たまたまA氏は線路の分岐器のすぐ側にいた。
A氏がトロッコの進路を切り替えれば5人は確実に助かる。しかしその別路線でもB氏が1人で作業しており、5人の代わりにB氏がトロッコに轢かれて確実に死ぬ。A氏はトロッコを別路線に引き込むべきか?
なお、A氏は上述の手段以外では助けることができないものとする。また法的な責任は問われず、道徳的な見解だけが問題にされている。あなたは道徳的に見て「許される」か、「許されない」かで答えるものとする。
というものなのだが、ようするに5人を助けるために1人を殺すか、何もせずに5人を見殺しにするべきか?という2択から選べというやつだ。
まぁ先に結論から言ってしまうと、これは「功利主義」か「義務論(カント主義)」どちらを支持するか?という倫理学の問題である。
倫理学にはいくつかの流派があって、その中に「皆が幸せならそれでいいじゃない」という考えの功利主義と「正しいことは絶対正しいんだよ!」という考えのカント主義が存在する。
功利主義では「1人が死んでも5人が助かるなら幸福の総量は多いんだからそれでいいじゃない」と1人を殺して5人を助けるほうが正しいと考える。
逆にカント主義では「他人を目的のために使ったりしてはいけない」と考えるので、結果的に5人が死のうがそれを助けるために1人を殺すのは悪だと考える。
ようするに功利主義が正しいと思うのなら分岐点のレバーを引いて1人を殺し、カント主義が正しいと思うのなら何もせずに5人を見殺しにするという至極単純な問題なわけである。
くだらない議論だし、功利主義は「最大多数の最大幸福」という基本原理を掲げてるだけでそれが正しいという根拠はないし、カント主義はカントというドイツのおっさんが「目的のために他人を利用するな!」と言ったからそれが正しいとされてるだけで、その正しさにも根拠はない
ただ日本には義務論的な土壌がないので、直感的に5人を助ける方が正しいと答える日本人が多いと思う。
どっかの高校の教師が授業中にトロッコ問題を出して、とある一人の生徒がカント主義の考えを主張したら冗談だと思ったという冗談みたいな話がある。
これを昔、授業でやったら「なぜ助ける必要があるのかわからない。俺は傍観者だから放置して5人が死んでも責任はない。でも切り替えたら俺の責任になる」と言った生徒がいて衝撃を受けた。確かにその通り。「5人の人に感謝されるメリットよりも、1人の遺族に責められるデメリットの方が大きい」と。 pic.twitter.com/BU9tmtMnMU— とある高校教師S (@hellohellock) April 11, 2019
彼はひねくれていたから敢えて俺を困らせようとした可能性は濃厚だけど、彼が本気でそう思っていたのかはさておき、そういう意見が出てくる授業というのは「良い授業」だと思う。周囲も衝撃を受けていたけど、どう受け止めたのかは未知数。それが良い点であり怖い点でもある。授業はまさに生き物だ。— とある高校教師S (@hellohellock) April 11, 2019
仮にも大卒の教員が問題の意義も知らない上に、それを生徒に出題するなんてアホだと思うが、それだけ「トロッコ問題」という名前だけが独り歩きして本質が理解されていない例だと考えている。
ちなみにこのトロッコ問題に関連する事柄があって、5人を助けるために1人を殺しても許される。と考えるならば「5人の臓器移植しないと助からない患者のために、1人の健康な人を殺してその臓器をそれぞれ5人に移植しても許されるはずだ」という論調が存在する。
トロッコ問題では「1人を殺してでも五人を助けるべきだ」と直感的に答えた人の数が多かったとしても、臓器移植の問題になると罪悪感を覚えるのか、五人の為に1人を殺そうと考える人が急激に少なくなる。
トロッコ問題も臓器問題も「多数の幸福のためならば少数の犠牲を厭わない」という功利主義の原理は同じなのだが、前者と後者で人間の善悪の判断は変わってくる。それはなぜだろうか?
と、このように「功利主義」と「カント主義」どちらを支持するか?でなく、その根拠になる人間の善悪や罪悪感の基準はどこにあるんだろう?といった話に繋がる思考実験なのである。
Wikipediからの引用:https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%88%E3%83%AD%E3%83%83%E3%82%B3%E5%95%8F%E9%A1%8C
(a) 線路を走っていたトロッコの制御が不能になった。このままでは前方で作業中だった5人が猛スピードのトロッコに避ける間もなく轢き殺されてしまう。
(1) この時たまたまA氏は線路の分岐器のすぐ側にいた。A氏がトロッコの進路を切り替えれば5人は確実に助かる。しかしその別路線でもB氏が1人で作業しており、5人の代わりにB氏がトロッコに轢かれて確実に死ぬ。A氏はトロッコを別路線に引き込むべきか?
A氏がトロッコの進路を切り替えた場合、死んだ1人の責任はA氏にある。A氏は人が死ぬと分かっていながらあえて分岐路を切り替えたからである。一方、A氏が何もせずに5人が死んだ場合、責任はトロッコの運転手もしくは現場の監督者にある。トロッコの運転手が前をよく見ていなかった、もしくは現場の監督者が5人の配置を間違えていた、という責任問題になるからである。A氏はシラを切り続けることで責任を逃れることができる。
コロナで死んだ20代以下は2年で10人ちょい
(先進国の富裕層ほど医療アクセスしやすく発症が補足されやすいじゃん、
乳幼児期を過度な清潔環境で育てるのがどうもよろしくないってのがわかってきた
潔癖環境が癌以外にもアトピー、アレルギー、アルツハイマーを誘発していることがわかってきた
推測されるメカニズムは
乳幼児期に適度に病原体に曝露し免疫学習することで正常な免疫力が育つが、
T細胞B細胞が適切に学習できていないため、その後癌化細胞が発生しても攻撃できない
母親の母乳から免疫、IgAを受け継ぎ一年程度病原体から守られる
その後適宜体内に侵入する異物、病原体と接触し自力での免疫学習を始める。
異物の中には攻撃してはいけないものもある、常在菌の多くは有益で共生している
免疫細胞は一歩ずつ学習する、発熱下痢嘔吐があるときに体内にたくさんいる異物を「ヤバイ奴」と
判定できる仕組みがある。
免疫細胞は鎖で縛られており38.5度の体温で解けて活性する。
せっかく巡り会えた学びのチャンス。
熱でうなされている子供が医者の薬でみるみる快方すれば、そりゃね。
ともかく、そうやって成人するまで数百の異物と出会い敵味方を振り分ける
この二年間多くの親は子供を清潔に保った、公園での砂場遊びを禁じた。
発熱があれば、医者の「39度くらいまでは我慢させてね」を無視して
グリッととケツ穴に座薬をぶっこむ
子供を愛してのことだろう。
子供同士の遊びを避けコミュニケーション能力を奪い
幼い子供に、世界は見えない汚物にまみれていると刷り込み怯えさせた
精神的影響は10年20年、一生続くぜ、覚悟してる?してないよね。
皆が同じ行動を取ったおかげで消費低迷し経済がシュリンクしせっかくの貯蓄はインフレで消えた
なんのこっちゃ
自分さえ良ければの大失敗
悪いものを一つづつつまんで捨てる
そうすればいずれパラダイスが訪れるだろう。
経済や社会、人体は複雑でそんな単純ではないよね、人類が何度も繰り返してきた失敗
その後のことは今後考えりゃいい
免疫学習?
二年遅れで再開すりゃいいじゃない。
ま、ね。
でもそうはならんのだわ。
先進国で小児がん謎の急増、なんて新聞記事が出るのが2,3年後だろう。
原因は清潔にし過ぎだけではないのが厄介で、解明は不可能。
正確な答え合わせは数十年後
でもでも、なにもしないよりもなにかをして後悔したほうがいい
俺は5人を見殺しにするね、
世界的ベストセラーのスポック博士の育児書が出版以来どれほどちゃぶ台ひっくり返されてきたか
先日俺はPMBOK第7版を読んで腰を抜かした。
我々が信じていたものはなんだったのか。
だが、脆弱な我々庶民はそれでもなにかを信じ基準を設けて生きていかなきゃならない。
それを批判するつもりは無い。
タバコが健康に影響があるなら女性より男性の寿命伸び率が高くないと計算が合わない。
だけどここ半世紀の男女の寿命差はまったく変化がない。まったくだ、ゼロ
あれ?
答えあわせできてるのに、ヒステリックなタバコ排除が改まる気配は無い。
むしろ加速
タバコは肺気腫の原因になる、そりゃなるだろう、こんなもの体に良いはずがない。
そうやって悪いものをつまんで捨てて、良い結果が出るか?
アメリカは自由の国つぅけどね、ありゃ自由がないから自由を標榜するんやで
実際のアメリカ社会は自由がないねん。がんじがらめや。ストレス社会
ニューヨーク、ロサンゼルスは歯科医よりも精神科医の方が多い。
だが、俺はオマエが無害で他人に迷惑をかけていないと信じているオマエの趣味を
俺にとっては不要なものだから難癖つけて取り上げてやるぜ、が連鎖する。
誰がそんな社会を作った?
おめぇだぜ