はてなキーワード: 昭和45年とは
赤い三角のシールは、「消防隊進入口ステッカー」と呼ばれていて、これが張られている窓は、火災などの非常時に消防隊が進入する窓という位置づけになっています。
そしてこのステッカーは、非常時において消防隊にその窓が進入口であることを知らせる役割を果たしているのです。
同条は「建築物の高さ31メートル以下の部分にある三階以上の階には、非常用の進入口を設けなければならない」と規定していて、3階以上の窓には進入口を設けなければなりません。
「31メートル以下」というのは、はしご車のはしごが届く範囲で、逆に言えば、それより高い窓には消防隊が外から入ることはできませんというのはかつての話で、今では50メートルの高さのはしご車もあるようです。
そして、126条の7第7号により、非常用の進入口は、「国土交通大臣が非常用の進入口としての機能を確保するために必要があると認めて定める基準に適合する構造とすること」が必要とされています。
この具体的な基準を定めているのが、昭和45年12月28日建設省告示第1831号で、「非常用の進入口である旨の表示は、赤色反射塗料による一辺が20cmの正三角形によらなければならない」としています。
大きさまできっちり定めているんです。
壬生寺(みぶでら)は、京都市中京区壬生にある律宗大本山の寺院である。本尊は地蔵菩薩、開基は園城寺(三井寺)の僧快賢である。中世に寺を再興した融通念仏の円覚上人が創始したとされる「大念仏狂言」を伝える寺として、また新選組ゆかりの寺としても知られる。古くは地蔵院、宝幢三昧寺[1]、心浄光院と号した。
目次 [非表示]
1 歴史
2 境内
3 文化財
3.1 重要文化財
3.2 焼失した重要文化財
3.3 重要無形民俗文化財
4 行事
5 関連項目
6 アクセス
7 脚注
8 外部リンク
園城寺(三井寺)の僧快賢が、991年(正暦2年)に自身の母のために建立したとされる。京都では珍しい律宗(総本山は奈良・唐招提寺)寺院である。
中世に融通念仏の円覚上人が中興。大念仏会の際に上演される重要無形民俗文化財の「壬生大念仏狂言」(壬生狂言)は円覚上人が始めたものと伝えられる[2]。
江戸時代後期の幕末には京都の治安維持を目的に活動した新選組(当初は壬生浪士組といった)の本拠が壬生村の八木家に置かれた。当寺境内は新選組の兵法調練場に使われ、武芸などの訓練が行われたという。その縁で境内には局長近藤勇の銅像や、新選組隊士の墓である壬生塚がある(近藤勇の墓とされるものは、当所以外にも会津若松市、三鷹市などに存在する)。
当寺旧本尊の地蔵菩薩半跏像(鎌倉時代後期の作)は、「壬生地蔵」と呼ばれ信仰を集めていたが、1962年(昭和37年)7月25日、放火により本堂とともに焼失した。現在の本尊・地蔵菩薩立像は、火災後に本山の唐招提寺から移されたものである。
現在の本堂は1970年(昭和45年)の再建である。境内には他に大念仏堂(狂言舞台、重要文化財)、近藤勇銅像、壬生塚、千体仏塔(パゴダ様式の仏塔に1000体の石仏を円錐形に安置したもの)などがある。
錫杖(しゃくじょう)
紙本墨画淡彩列仙図 長谷川等伯筆 六曲一双(左隻の一扇を欠く)
壬生寺大念仏堂(狂言舞台)(附 道具蔵、脇門、土塀2棟、棟札2枚)
典拠:2000年(平成12年)までに指定の国宝・重要文化財については、『国宝・重要文化財大全 別巻』(所有者別総合目録・名称総索引・統計資料)(毎日新聞社、2000)による。
金鼓 正嘉元年(1257年)銘 - 「金鼓」は仏堂の軒先に吊るす「鰐口」のこと
毎年節分と春秋に演じられる無言劇。大念仏狂言(だいねんぶつきょうげん)とも呼ばれる。重要無形民俗文化財に指定されている。公開は2月の節分の当日と前日、4月29日から5月5日まで、及び10月の体育の日を含む3日間(年間12日間)[4]。詳細は「壬生狂言」を参照
壬生六斎念仏踊り
年中行事として、かつては毎年8月9日の精霊迎え火、16日の精霊送り火、23日の地蔵盆に壬生寺で上演されていたが、現在は9日にのみ実施されている。重要無形民俗文化財。詳細は「壬生六斎念仏踊り」を参照
地蔵盆時の出開帳
壬生寺は、地蔵菩薩を本尊とする寺として、地蔵盆の際に地蔵の石仏を貸し出す、俗称「レンタル地蔵」を行っていることでも知られる。
京都でも新興住宅地などでは地域の地蔵がなく、地蔵盆が行えないことがある。この場合は宗教色を薄めた「夏祭り」とする所もあるが、地蔵を借りてきて地蔵盆を行うところもある。壬生寺の場合は、明治時代から京都各地の区画整理などに伴って祀れなくなった石仏が多数引き取られており、これを出開帳の形式をとって希望する各町に貸し出しているのである。
平成になりもうすぐ30年を迎えようとしている。
特定の年齢層をターゲットにした製品の企画に携わる機会があり、
ゲーム史を振り返りつつ、当時のユーザーたちの現在の年齢を書く。
ハードには [ ] を付けた。
1978 スペースインベーダー
電波の規制が緩い時代に家庭向けとして登場したテレビテニス(ポンテニス)は、
スペースインベーダーの登場により、喫茶店がめまぐるしく様変わりをはじめた。
※当時20才=1958年(昭和33年)生まれ=現在59~60才
1979 ギャラクシアン
1981 ジャンピューター、ドンキーコング、[IBM PC 5150]
第2次オイルショック後、ギャラクシアンとパックマンが立て続けにヒット。
ゲームウォッチは床屋等の待合所にもよく見かけるようになった。
PC-9801シリーズの発売が開始され、1990年代前半まで栄華を極めることになる。
※当時20才=1962年(昭和37年)生まれ=現在54~55才
1983 ゼビウス、ドアドア、[ファミリーコンピュータ]
1985 グラディウス、ドルアーガの塔、スーパーマリオブラザーズ、ボンバーマン
ファミリーコンピュータ発売。
スーパーマリオブラザーズというソフトが登場により、一般家庭にテレビゲームが普及。
※当時20才=1965年(昭和40年)生まれ=現在51~52才
1987 ドラゴンクエストII、[PCエンジン]、ファイナルファンタジー
1988 ドラゴンクエストIII、スーパーマリオブラザーズ3、[メガドライブ]、テトリス
スーパーマリオブラザーズ2、ゼルダの伝説、メトロイドを引っ提げて。
PCエンジンやメガドライブ等、家庭向けハードが次々と発売される。
ドラゴンクエストIIIは社会現象になった。
デジタル放送に切り替わるあたりからテレビリモコンに大量のボタンが増え、
新しいモノにはついていけない……とボヤきつつも、
地上波のデータ放送やミニゲームを操作できる世代が60才を迎えようとしている。
余談ではあるが、つい先日C層向けケータイを選ぶことになったのだが、
厚ぼったいくせに、衝撃に弱い。子供だましにしても、雑だ。
まだまだテレビが生活の中心にあった時代は、茶の間のテレビを使うファミコンは時間が限られていた。
1989年にはゲームボーイが登場し、家庭の生活様式にも影響を与え始めた。
バブル世代(バブルせだい)は、日本で、バブル景気の時期に就職した世代である。
労働市場の分野では、バブル景気(第11循環拡張期、1986年(昭和61年)11月から1991年(平成3年)2月)による売り手市場時(概ね1988年(昭和63年)から1992年(平成4年))に新入社した世代を「バブル世代」と呼び、より以前の「モーレツ社員」(団塊の世代)や、それ以降の「就職氷河期」世代などと比較されることがある。
・成長過程
小学校に入った時期はオイルショックの直前か直後であり、「四畳半フォーク」が流行した時期であった。小学時代から中学時代にかけての1970年代には、この世代の間でスーパーカーブームやブルトレブームが席巻した。
中学時代から高校時代に当たる1980年代前半はツッパリ文化の最盛期で、矢沢永吉や横浜銀蝿などの、リーゼントロックとツッパリ(不良)ファッションが、当時の管理教育に反発する少年層の間で大流行した。
一方、入学試験などの競争が徐々に激しくなった世代であり、当時のいじめ問題について、要因の一つとして受験競争によるストレスが挙げられている。
高校進学率は当時総合選抜や地元集中などの制度を実施していた都道府県も多かったため、進学率の低下傾向はほとんど現れず、90%台を維持していたが、大学・短大合格率は、1967年(昭和42年度)生まれから1971年(昭和46年度)生まれ(1986年(昭和61年度)から1990年(平成2年度))にかけて低下し続け、1990年(平成2年度)には大学合格率は63%になり、1967年(昭和42年度)の62%以来の最低の値となった。
大都市の大学に進学した者は、バブル文化の発信源として華やかなファッションブームや文化を生み出していった。
1980年代の「女子大生ブーム」の時期にあって、都会の若い女性は消費対象としてもてはやされた。
大学卒業時にはバブル景気により就職市場は大幅に好転、売り手市場となった。
企業から人気の高い有名大学の学生は3S(寿司、ステーキ、ソープ(風俗))やディズニーランド、海外旅行で接待されたケースもあるという。
当時の大卒就職市場の状況は、映画『就職戦線異状なし』が参考になる。
昭和60年代にデビューしたおニャン子クラブの大部分(一部のメンバーは団塊ジュニア世代の昭和45年生まれから~昭和46年生まれ)のメンバーがバブル世代(昭和40年生まれから~昭和44年生まれ)でファンもバブル世代が多かった事から、団塊の世代のビートルズ世代のようにバブル世代の事をおニャン子世代と云う。
就職期にはバブル景気で、日本の景気が極めてよく、これを受けて事業を拡大・展開し業績を拡大するべく、各社こぞって高卒大卒を問わず人員募集数を拡大した。
また、バブル世代の女性で高卒・短大卒・専門学校卒の者は、1986年(昭和61年)に施行された男女雇用機会均等法以後に初めて社会に出た世代でもある。
個性至上主義が騒がれた世代でもあったため、バブル世代が就職するころ、企業側も個人を尊重するライフスタイルを加味し、年俸制の導入やフレックスタイム制を取り入れた形態が現れ始める。しかし、個人を尊重する弊害としてコミュニケーション不良による問題が生じ、2000年(平成12年)頃からはほとんどの企業がこの形態を取りやめ、従来型運営にもどる。
バブル崩壊による不況が始まると、その影響で企業の採用人数が大幅に絞られたために労働負荷が増え、過密労働に陥る者も多く発生した。
また、成果主義などの導入もあって賃金や給与、賞与などの所得が伸び悩んだり、社員研修などの教育費が削られ、経験すべきことを経験せずに昇格してしまうという事態が起こった。
1997年(平成9年)にはアジア通貨危機と消費税増税による景気後退が起こり、多くの会社が大規模な人員整理を行った。
人員削減といっても関連会社への出向などで済んでいる者が多数派ではあるが、一部には企業の倒産や整理解雇を被り、派遣社員やフリーターに転落、「派遣切り」に遭遇した者もいる。
こんな世代が今、年功序列に胡坐をかいて会社・組織の中枢部で横暴を振るっているわけだ。
そりゃ民間企業の経営方針も迷走するし、国家運営方針も滅茶苦茶になるわな。
稀に嘱託として残っていても、権限は殆ど無い。総数としては少ない。(但し、役所や天下り組織の問題は別)
つまり日本国内に於ける世の中の会社・組織の実権は今(量的問題に於いて)バブル世代が握っている。
勿論、それは自分の立場が危うくなる為に自己保身で言っている者が殆どではあるから、無視しておけばいい。
ただ何故、『「世代」で区分するか?』は常に考えておいた方がいい。
日本人口を分析する時、量的問題では現状そうするしか分類方法が殆ど無い為である。
勿論、資産分類や所得分類もあるが社会現象を分析する時にそれは使えない。
【少子化の原因は「機会均等法で自活できるようになった女性の意識変化」による未婚率の増加と晩婚化】
平成17年の出生率は1.26。しかし「1夫婦あたり平均1.26人の子供しか産んでいない」は間違い。
この調査の対象者は「15歳から49歳の女子全体の平均出生児数」。
■《1夫婦当たりの平均出生児数》は?
昭和47年の調査では2.20、そこからほぼ横ばいで平成9年は2.21。
■では、なぜ出生率が下がるのか?
一番の原因は未婚にある。
30代女性の未婚率の推移を見ると「昭和45年は7.2%」だったが「平成17年は32%」まで増えている。
■政府が取るべき対策
1夫婦当たりの平均出生児数がほぼ変わっていないことから、育児環境の改善は解決策ではない。
1番の問題は、明らかに『結婚しない女性が増えていていること』。それは男性の未婚率の増加も招く。
→★25歳以上の独身女性は、所得の有無に関わらず「年額100万円」の納税を義務とする。
■参考資料
◇年齢別未婚率の推移(総務省調べ)
◇「女性は結婚しなくても幸せ」55%(30年前は26%)http://mamono.2ch.net/test/read.cgi/newsplus/1219803802/
【少子化の原因は「機会均等法で自活できるようになった女性の意識変化」による未婚率の増加と晩婚化】
平成17年の出生率は1.26。しかし「1夫婦あたり平均1.26人の子供しか産んでいない」は間違い。
この調査の対象者は「15歳から49歳の女子全体の平均出生児数」。
■《1夫婦当たりの平均出生児数》は?
昭和47年の調査では2.20、そこからほぼ横ばいで平成9年は2.21。
■では、なぜ出生率が下がるのか?
一番の原因は未婚にある。
30代女性の未婚率の推移を見ると「昭和45年は7.2%」だったが「平成17年は32%」まで増えている。
■政府が取るべき対策
1夫婦当たりの平均出生児数がほぼ変わっていないことから、育児環境の改善は解決策ではない。
1番の問題は、明らかに『結婚しない女性が増えていていること』。それは男性の未婚率の増加も招く。
→★25歳以上の独身女性は、所得の有無に関わらず「年額100万円」の納税を義務とする。
■参考資料
◇年齢別未婚率の推移(総務省調べ)
◇「女性は結婚しなくても幸せ」55%(30年前は26%)http://mamono.2ch.net/test/read.cgi/newsplus/1219803802/
平成17年の出生率は1.26。しかし「1夫婦あたり平均1.26人の子供しか産んでいない」は間違い。
この調査の対象者は「15歳から49歳の女子全体の平均出生児数」。
つまり、『未婚女性も調査対象とされている』。
■《1夫婦当たりの平均出生児数》は?
昭和47年の調査では2.20、そこからほぼ横ばいで平成9年は2.21。
■では、なぜ出生率が下がるのか?
一番の原因は未婚にある。
30代女性の未婚率の推移を見ると「昭和45年は7.2%」だったが「平成17年は32%」まで増えている。
■政府が取るべき対策
1夫婦当たりの平均出生児数がほぼ変わっていないことから、育児環境の改善は解決策ではない。
1番の問題は、明らかに『結婚しない女性が増えていていること』。それは男性の未婚率の増加も招く。
→「独身女性税」の創設が、最も有効な対策。
→★25歳以上の独身女性は、所得の有無に関わらず「年額100万円」の納税を義務とする。
■参考資料
◇年齢別未婚率の推移(総務省調べ)
ODA・情けは他人のためならず
ttp://www.mofa.go.jp/mofaj/press/enzetsu/18/easo_0119.html
実は私、西アフリカのそのまた西の端にあるシエラレオネという国で、昭和45年から2年生活したことがあります。
年齢で言うと、30歳になった年に行き、32歳までおりました。
実家の会社からの派遣でした。ご存知なくても一向構いませんが、私の実家というのは元は石炭の山を掘っておりました。シエラレオネでは、ダイヤモンドを掘れという命令です。
日本の大使館や領事館が何もない時代でした。青年海外協力隊も来ていない。
自分で水を汲んで風呂を炊き、発電機を動かして電気を起こすという、協力隊の諸君がしているような生活を送りました。それなのに、アメーバ赤痢やマラリアに、私の会社から行った中では私だけがかからなかった。まあこれは、余談であります。
ダイヤモンドを掘る現場ですから、マシンガンで襲われたりする事件に、いちいち驚いてはいられない。けれども我々のところは、全く襲撃されませんでした。部族の長老にきちんと挨拶をしてあるし、電気を起こしてあげたり薬を譲ったり。指導者たちの信頼を勝ち得ていたから、命を狙われるというような心配は何もなかったわけです。
この時期以来、私はいつしか、「日本の常識は世界の非常識などと言うが、日本人がアフリカでもっと働くようになると、日本の常識は素晴らしいと言われるようになるのじゃないか」と思い、口にもするようになったのです。
というのは2年というもの、我々日本から行った者と同じようにして、現地の人たちと一緒に汗を流しているヨーロッパ人や、アメリカ人の姿というものに、あまりお目にかかることがなかったからです。一般化しすぎるのは慎まないといけないが、少なくとも我々日本人だけでした、現地の人々とまったく同じ目線で、共同して働くという姿勢を持ち合わせていたのは。
同じ姿勢が、途上国でODAの実行に携わるJICAや協力隊、NGOの人々に、昔も今も変わらず明確に見て取れることは言うまでもありません。
大学教育について話題になっているようですので、私が卒業した、大阪大学基礎工学部情報科学科について書いてみたいと思います。
大阪大学基礎工学部情報科学科は、昭和45年に最初に国立大学に設立された情報工学関連学科のうちの一つで、コンピュータサイエンスの分野では日本で最も古い歴史を持っている学科、ということになります。
情報科学科の特徴は、そのプログラミング実習の充実ぶりです。入学すると、まずPascalというプログラミング言語で構造化プログラミングを勉強することになります。次にアセンブリ言語であるCASLを勉強し、Pascalとアセンブリ言語を応用してC言語を勉強します。またその後、スクリプト言語であるPerl、関数型言語のML、オブジェクト指向言語としてJavaを学習します。
また、言語だけではなく、コンピュータサイエンスの基本であるアルゴリズムやデータ構造についても幅広く学ぶことができます。
全ての実習は課題が出され、実際にコードを書かなければいけません。例えばC言語の授業の最終的な課題は、「shのようなシェルプログラムを作成すること」でした。最終的には、「Pascal風の言語をCASLに変換するコンパイラを作成する」という課題に取り組むことになります。
大阪大学は全体的に単位の取得が厳しいことで知られていますが、情報科学科も例外ではありません。もしプログラミングをあまりしたことがないのであれば、遅くまで実習室にこもることになると思います。だけど、それは情報工学の世界で生きていくためには必要な知識なのです。
実習で勉強する言語は、Javaを除くとあまり現在使われている主流の言語とは言えないのですが、様々な言語を学ぶのは「プログラミング言語はそれぞれに違いがあり、それぞれに適した用途がある」ことを理解することに繋がります。また大学を卒業してから、新しい言語を学ぶ必要が出てきたとき、それに対応する能力を磨くことができます。
日本の大学で、ここまで実戦的なコンピュータに関する教育を行っている場所はあまりないのではないか、と思います。コンピュータがどのように動いているのか、内部原理までしっかり教えてくれます。卒業生の進路は、研究者というよりは、エンジニアとして開発の現場で働くことが多いようです。
大阪大学の入試問題は、東大や京大と違って特殊な問題はそれほど出ません。努力でなんとかなるレベルだと思います。
情報工学は新しい分野なので、大学院で研究するために必要な知識は他の分野ほど多くありません。このため情報工学科では、3年生の夏に大学院の試験を受けて合格すれば、学部を卒業しなくても4年目から大学院に進むことができます。この仕組みを活用すれば、5年で大学院を卒業できます。実際、学部生の1/4くらいはこの仕組みを活用しています。
もちろん、ここに書いたのは情報科学科の全てではありません。ネットにも他に情報がありますし、もし興味があったら、大学のオープンキャンパスに行ってみるのもよいと思います。
コンピュータの世界は変化が激しくて、エンジニアとして生きていくのはとても大変ですが、それでもいい、プログラマとして将来何かを作りたいんだという人であれば、ここはそのための力を与えてくれるはずです。進学先として検討してもらえたら幸いです。
経済的な右派左派と歴史観的な右派左派は別の概念であるべきなんだろうけど、
それが固定されて成長してきたのが問題なんだろう。
戦後の米ソ対立のなか、日本は基本的に経済成長を続けていった。
年功序列の終身雇用で、適度にがんばってりゃ適度にいい給料が貰えて、
手前の食い扶持の心配なんてほとんどしなくてよかった。
(http://www.hrr.mlit.go.jp/library/hokuriku2006/s1/1-10/01situgyou/situgyou.xls)
だからみんな基本的には経済のことになんか関心はなくて、
戦争とか核ミサイルとかそういうのでイデオロギーが対立してた。
日本が豊かだったせいで、増田が言ってるようなグループが育つ余地がなかったんだろうね。
ヒトラーなんかは結構近いこと言ってる。
それに対する反感なんかがごく初期にはあったのかもね。