はてなキーワード: エウレカとは
ネタバレないあるよ。
ネタバレあるないよ。
「気持ち悪い」 終劇
覚えているだろうか?
知らない人もいるかも知れない。
LCLの海に染まる世界、最後に残ったエヴァパイロット、ATフィールドにより世界との融合を拒んだシンジとアスカ。
世界の全てを拒絶し続けたシンジはアスカにまたがり彼女の首を締める。
そのシンジの姿を受け入れるアスカと、そのアスカを受け入れられないシンジ。
拒絶し、拒絶し続けた二人、死による最後の拒絶を選んだシンジと、死の受け入れによる受容を選んだアスカ。
それに戸惑うシンジは手を緩め、それを受け入れがたいアスカはシンジに「気持ち悪い」と吐き捨てその場を去る。
受容されることを拒絶するシンジと、拒絶されたことを受容するアスカ、世界に残った最後のATフィールド。
それが嘗てのエヴァンゲリオンの終わり。
新しいエヴァンゲリオンはそれを乗り越える物語として費やされる。
終わりを拒絶した世界を描いた序
繰り返すを拒絶する破
変化することの報いを描くQ
終わりの受容を描くシン
破において起きた最大の事件はシンジの変化だと言われるが、それは片割れに過ぎない。
嘗ての反対に首を締められるシンジ、シンジはアスカを受け入れない。
だが拒絶もしない。
シンジは選ばない。
「気持ち悪い」
シンジはまだ変わっていない。
あの時の答え、受け入れるか、拒絶するか、殺すか、生かすか、それをシンジはまだ選ばなかった。
それは「気持ち悪い」の先をこれから描くという監督の宣言だったのだ。
そしてQ、シンと描かれるのはシンジが「選択」を始めた世界だった。
「選ぶこと」を世界は求める。
「エヴァに乗れ」
「エヴァに乗るな」
「受け入れろ」「拒絶しろ」「選べ」
ってことに気づいたの全部観たあとだったよー。
くっそー3号機のシーンなんてトウジのことばっか考えてて旧劇の再現だなんて気づかねえよ!
でも言われたらそれしかねえわ。
スタッフロール中に「うわああええええエウレカーーーーーやられたーーーーー俺気づくのおせーーーー」となったわ。
いや完全におせーよ10年おせーわ。
なんで?
気づけたじゃん?
冷静に抜き出したらバレバレやんけ!
3号機に気を取られすぎてたわ……くっそー3号機かっけーからなー色も黒いし
とおりすがりの黒蜥蜴星人だ。
俺もこってりとした百合は苦手だし、男を単に女の子に変換していちゃつかせただけのアニメは得意ではない。
プリンスプリンシパルを「百合」だと思って毛嫌いする人が多いようなので、まず一言。
これは、かっこいい女の子とダンディーなおじさん達による騙し合い戦争を描いた名作だ。
単刀直入にいって百合だとか、いちゃコララブストーリーは殆ど無い。ジャンルとしては「スチームパンク&スパイアクションもの」であり、そこの少女達の苦悩や策略や学園生活が存在する。女の子同士のお茶会とか談話は度々存在するのだが、これらは単におっさんや他の女の子を欺くための偽装に過ぎない。
二重生活を送るスパイという存在をどうやってわかりやすく可憐に描くかに特化しており、音楽、脚本と演出が全部際だった名作だと思う。
そして映画の話をする。いま上映されているものはテレビシリーズの正統な続編だ。エウレカなどの総集編とは全く違う。
登場人物の紹介もほぼなく、だからこそテレビシリーズを視聴していることが求められる。だけどいきなり映画を見てももしかすると面白いのかもしれない。映画とテレビシリーズのクオリティは同じくらいといっていいので、映画→テレビときて過去編として楽しむのも悪くない。
延期から苦節1年。よくぞ耐えたと自分を褒めたい。そしてきちんと形にしてくれたスタッフ一同に感謝を。主演声優の交代は痛かったが、それでも作品に支障が無いのはプロだな。
では黒蜥蜴星に戻るとしよう。
次は第二章であおう。
キャロチューとエウレカを合わせたような内容で、豪華スタッフを集めただけの作品、リスナーズが終りを迎えた。
中だるみの連続。安易なミュージシャンオマージュ。ジャニス・ジョップリンの名前だけ拝借して全く雰囲気が違うキャラとかどういう意味があるんだろう。多分意味はない。意味がないから背景にある意味を考えなくなってくる。プリンスとかジミ・ヘンドリクスもそう。学生に蔓延する麻薬を描こうとしてる割に、描いている当人たちに実感がまるでない描写。まあ重箱の隅はいいか。
いやまあ、ジェンダーの役割が強い女の子と頼りなさすぎる男子、という非常に昨今の事情に配慮しすぎた感じとか、バーニングマンがモデルのフェスとかいろいろ盛り込もうとしたんだなあという感じは伝わってくる。というよりむしろアメリカ文化にこびすぎてる感じ。アメリカ文化にこびた舞台設定の割にジャパニメーション(死語)的なものとアメリカ的な要素がパッキリ別れちゃって融合してる感じはまるでない。スタッフがやりたいことをバラバラと持ちつつ別の方角向いてつくった印象すらある。これちゃんと会議する時間とったんだろうか。
引き込みもすごく悪くて、2話目くらいから今まで記憶喪失だった人が急に存在理由について悩み始めたりと明らかに尺を意識したせいか感情面の導入がおかしい。記憶喪失が続行してるってことは、存在について悩んでる暇もないはずなんだけど。やるべきスケジュールを入れ込んで逆算的にキャラを当てはめたのではと邪推してしまう。「はい、そろそろ2話目で悩み始めましょうか~」という。ボーイミーツガールで王道ってだけでも面白くなるはずなのに、ボーイミーツガールのコンセプトを否定しながら無理やり脚本書いたんじゃないのかと思ってしまった。
一話に関しては後に幼少期の出会いがフォローされてるし、森での一人喋りも単なる性格上の伏線にしか感じられなかった。リトルウィッチは同感かな。あれはスージーの中の話とか、そういう小話を積み重ねるだけで良かったと思う。
あとなんかトラバしつつ怒ってるみたいだけど、俺はダリフラがエヴァ、エウレカに比肩したなんてこれっぽっちも思ってないよ。今どきの気持ちで翻訳したらああなるよなあ、というつもりで「系譜」と書いてる。個人的には両作ほどではないけどちゃんと抑えられていた、が自分の所見。完成度的にはたしかに及ばないけど、パッチワークとは思えないね。
少なくとも主人公の失ったところから手に入れるきっかけまで、という一話は喪失的な経験がある人からすればとても共感しやすかった。後半を言えば傷だらけの二人の関係性がどう改善するのか、追いかけるのが個人的には好きだったので。俺ね、なんか家族が韓国歴史ドラマ見るんでシナリオ分析してみたんですよ。あの人ら記号を組み合わせるのはとてもうまいんだよね。まあほぼスクリプトドクター的な手法。でも毎回週刊漫画みたいに盛り上げなきゃならないから、意味不明なEPを作って無理に劇的にする。あれに比べると日本のアニメは感情大切にしてるなって思う(まあ、感情とエンタメ性は相容れないとかそういう話は置いといて)。
いろんなものを分析してると、凄く上手いのに凄くつまらない作品とかも沢山あるので、作品って遺漏の有無や過多ではない、と思ってる。
上と同じ答えになるが、それならここで小清水をあんな風にやる必要なくない?
幼馴染っぽい少女が涙ながらになんかを訴えたあとあっけなく目前で死す、というイベントは
おおまかに「主人公に深い衝撃を与える」か「たいして衝撃も受けないサイコな主人公」かを導く訳で
ここだけちょっと。嫌々でも最後まで見たんだろうか。ラスト付近で幼少期のゼロツーとヒロが出てくるシーンからして、またダリフラのセクシャルな設定からしても、ヒロが死んだナオミに共感しづらいが責任は重く感じてるってのは別に問題ないように思えるけど。
全部見てない……?
どうも、というかトラバが見づらくなっちゃった……。それと別に君のことは知らない。エヴァってところに反応したのだろうけど。そもそも俺の言いたいことと噛み合ってないし。
ダリフラにアンチが多いのはよくわからない。エヴァ、エウレカ系なのはみんな周知のはずなのに、「パクった」という文言まである。あと繊細な意見だと性的な話が多すぎて下品らしい。
ダリフラが丁寧な点はいくつもある。例えば父と子供の関係。エヴァが相互依存的な性格を持つ人物たちにより、最後まで相互依存的なEDを迎えた(劇場版)ことに対して、エウレカは大人が責任を持つ、という落とし所というべきか、救いを提示している。対してダリフラの場合、世代的に「大人なんか信用ならない」「大人ってネットで化けの皮が剥がれちゃって、実は大したことないよね」という世代の空気もあってか、大人たちはみっともなく、少年たちは結局子供だけで自立する。要するにこれらは承前ありきということ。
大きなテーマという意味では各共通項として「未知の生命体に対してどうコンタクトをとるか」が主だったところだと思う。エヴァでは未知の生命体使徒を使徒の一つ=人間の立場でどう使うか、という考え方で提示され、その現れ方はとてもエゴに満ち溢れたものだった。少なくとも使徒の立場に立って語られることはほぼない。エウレカでは人間「が」進化するという立場に疑問を呈し、共存するというある意味リベラル思想に基づいた見地に立っている。だけどダリフラの答えとしては、やっぱり違う者同士では仲良くなんかなれないから、彼らの自立というテーマも同時に背負って戦う選択になった。こちらもテーマの受け渡しと解釈、消化という意味でとても丁寧にできていると思う。消化、という側面では敵の力を取り込んで戦いに利用しようとする9'sも途中に登場している。まああここらへんもアネモネなどの「パクリ」に相当に値すると思わえてるのだろうけど。ダリフラの場合、細かく言えば地球内の敵と思ってた人が味方で、敵は外にいた、という点で非常に右翼思想が強いもので、渾然一体となるエヴァ、みんなが理解し合ってハッピーになる、左翼思想のエウレカとも違う発想で結末を迎える。ただし結末に至る道は似ている。
性的に下品という話に関しては、この系譜全部そうなので、苦手なら仕方がないね、という感じ。
なぜエヴァ、エウレカ、ダリフラなのか。形式的には似ているファフナーもあるし、漫画だと惑星のさみだれは形式が似ている、ぼくらの、はどうだ、なんてツッコミも出てきそうだけど、これらはエヴァという包括的な流れに乗る気はないんだよね。エヴァの系譜だからそれに答えた上で、うちはこうだよ、という形になってない。
何がいいたいかといえば、系譜に乗っかって乗り越えるか新しい答えを提示する、というやり方である以上、類似感や既視感が出てくるのは仕方ないことなんじゃないかな。それがパクリというのかどうか、個人的には疑問に思うと。
ファフナーは生命体がやりたいことに人類はどう対応し、受け入れ、否定するのか、という意味ではエヴァ的なんだけど、SF的な側面を除くドラマは比較的普通だったと思う。それとファフナーはまた弐瓶勉先生のシドニアなんかにも引き継がれてるようにも感じる。こうなってくると枝分かれしちゃって真正面から挑んだエウレカ→ダリフラの路線には乗らないので、系譜じゃないなと。ぼくらのも結局はメタ世界が主流で、生命体をどうのこうのとは考えてない。エヴァがメタ世界的だったから、というつながりはないわけではないけど。
ダリフラでは青春の中にいるので、「恋愛もするし子供も作りたい」となる。でもエヴァでは青春という逡巡の中にあって、相互がふれあいたいのにヤマアラシ(ハリネズミ)コンプレックスで触れ合えない。エウレカの場合は一つの生命体を通して種全体と愛を結ぶレントンという存在があり、シュチュエーション的にET、未知との遭遇、2001年宇宙の旅なんかを想起させる。ダリフラがある意味一番普通なのは、先発で打たれちゃったせいもある気がする。
身につけたい技術があった。
ただ、そのために学校に行ける余裕はなかった。
だから数年前、未経験でその技術を専門とする業界に飛び込んだ。
私には褒められた学歴はないが、特殊な経歴と社外で認められる何個か業績があったのが効いたのか、全くの未経験だったのに業界でかなり名の知れた会社に内定が決まった。
最初は高学歴の人の多さでビビったし、なんか知的でキラキラ見えた。
だけど、蓋開けたらそんなでもなかった。
同僚、上司は旧帝ばかりだけど、彼らは小賢い事は言うものの、質問の回答はあやふや、理論立っていない会話、受賞歴や登壇といった実績も、ビジネスとしての結果も、全くなかった。
関連学会で注目されてる重鎮とかご意見板的な人たちもいたが、英語のリファレンスを訳して偉そうに話すだけで、過去に特別な功績を残したわけでも、最先端の世界で戦ってきた訳でもない。
なんだろう、この違和感…なんて事を最近ずっと考えていて、親友Xと久しぶりに連絡を取った今日、この違和感がかつて彼が童貞だった頃、居酒屋で夜通し彼の女性論を聴かされた時と同じものだと気がついた。エウレカ!!
妻(かなりのエリートかつ将来有望視されてたのに流浪の身となって奇特な私と結婚してくれた変人)が『旧帝なんてそんなもんよー』とよく言ってるのだが、初めて意味が初めて分かった気がした。
きっともうすぐこの業界から去るけど、この界隈に来て一番得た物は学術的な事や技術的なノウハウでもなく、自分の学歴コンプがさらに拗れ、逆に振り切れもした事。そして賢さや優秀の定義が大きく変わった事かもしれない。
最近、Twitterの AI博士とか、刺さりそうな髪の毛のなんとなく芋くさい哲学者とか、社会経営なんたら的なお姉ちゃんとかをネットニュースやワイドショーで見かけると、こういった『看板に中身が追いついてない人注目されちゃう、すごい学者みたいにされちゃう現象』は結構日本のありとあらゆる業界や学術面で起きてるんじゃないか思う。