はてなキーワード: 自決とは
ふと評論家と一般人(含むオタク)の違いは何なのか、と言う疑問が浮かんだ。
専門知識をどこかで学んでいるわけでもないことも一緒。
かつて評論家は雑誌などに記事を書き、自分の評論を世に出していた。
一方、一般人は一部同人誌という形で評論していた人もいたが基本的に自分の評論を世に出す手法を持っていなかった。
炎上した宇野も確か元はロキノンの記者だったと思う。(名前を見た気がする)
ただ、今やSNSで誰もが発信することができる。
そしてSNSのつぶやきの方が雑誌の発信力より大きいのは間違いない。
国民総発信の時代に、評論家と一般人の間にこの違いは存在しない。
そして、評論家が1.で挙げた発信力を使うことで"見つかった"アーティストはたくさんいた。
何故なら評論家に評価してもらうよりtiktokでバズった方が売れるし多くの人に見つかるからだ。
また、そういうバズりに頼らなくとも、めざとい一般人オタクが才能を見つけ出し、SNSやブログで記事を書くことで見つかることもある。
というより、評論家は今何千万人といる一般人とどちらが早く才能を見つけられるか競争することを強いられているのだ。
勝ち目は無いだろう。
ただこれもどうだろう。今の時代、ブログやSNSで発信することを鍛えられている一般人もなかなか読ませる文章を書くようになったのではないかと個人的には思っている。
更に宇野のようにSNSに引き摺り下ろされた評論家の場合、たかが百数文字で表現する必要がある。
その文字数で文章力の差は出にくいので評論家を評論家最後の砦、文章力も役に立たない。
評論家はSNSなどネットに活動の場を移しているが、それは評論家と一般人の違いを無くし、自らを一般人に毛の生えた存在に貶める行為だと思う。自殺行為だ。
ただ、SNSを使わないと評論家としての自分が世間に見つからないことも事実だ。
SNSが普及し影響力を持った今、評論家はSNSで発信しないと評論家として生きていけない、ただSNSで発信することが自らの価値を貶めているという二律背反に苦しんでいるのではないだろうか。
鬼滅の刃に感動しない
二回観たなりの感想を述べたい。原作は未読。今後の展開も知らない上で話す。(ぶっちゃけテレビアニメもまじめに観てない)
《映画:良かったところ》→《映画:良いとは思わなかったところ》→《鬼滅の刃は感動しない》
《映画:良かったところ》
この映画の素晴らしいところは、ジャンプ原作の王道の努力•友情活劇の中に非常に高品質な心情描写があった点だと思う。前半の炭治郎の夢の描写が素晴らしい。
家族との幸せな日常の夢に浸かる炭治郎。さっきまで列車に乗って鬼を探していたはずなのに、突然夢に惑わされた。夢を夢だと気付くまでの演出の仕掛けは、往年のホラー映画やSF映画を思い起こさせる。ねずこを運ぶ箱だったり、咄嗟に口に出る“昼間のねずこ”の違和感だったり。その加減が多すぎず少なすぎず非常に絶妙なのだ。ジャンプのアニメ映画だという大前提を守りながら、観客の我々は「炭治郎は本当に現実世界に戻るのか?」と不安にさせてくれる。六太の「置いてかないで!」という絶叫は悲しくも最高だった。子供の絶叫ってどうしてあんなに不安になるんだろう。初回観たとき泣いてしまった。再会できるはずのない家族ともう一度会えた炭治郎の喜びと後悔を観た我々は、夢から覚めるために進む炭治郎の辛さが理解できた。夢にいれば鬼なんて来ないのに、鬼を倒すために炭治郎は進んだ。そして、戦うために“自決”の賭けに出た。炭治郎は鬼を倒すために、自分の首を斬る選択までしてしまうのだ。なんて胆力だと、鬼と一緒に私も驚いた。そしてダメ押しのしんどいバージョンの夢。なによりも家族を優先してきた炭治郎が、父親母親弟たちに恨まれる様子を見せられる。そのときに「言うはずないだろ!俺の家族が!!」というセリフは演技演出共に本当に素晴らしかった。家族の死という最大のトラウマを乗り越えて、彼は鬼と戦って勝った。最高のカタルシス体験だった。今まで鬼滅の刃は流行っているからとりあえず観ていた作品だったが、ここまで観に来て良かったと思った。
あと、作画と音楽も良かった。ハイクオリティだった。声優の演技も高品質だった。
《映画:良いとは思わなかったところ》
新キャラ同士の戦闘にあんまり感情移入できなかった。顔は知ってるだけの先輩と、なんの前触れもなく現れためちゃ強い敵の急な戦闘に頭がついていかない。さらにこの二人も初対面同士だし。ヤタガラスにもアカザ打倒を命令されてもいない。アカザが“なんかいた”のだ。なんかいた、という理解しかできない。因縁もなにもないやつとの戦い入れる必要ある?煉獄さんがえんむとの戦いであんまり活躍出来なかったからアカザ戦投入したとしか思えない。戦闘が非常にぬるぬる作画だったし私が長子だから耐え切れたが、テレビ放送だったら耐えきれずチャンネルを変えていたかもしれない。
煉獄さんの親、お前なに言ってるの?「自分がどうして他の人間より強いか理解できるか」って、そんなこと言う親いるのか?少し斜に構えすぎかもしれないが、選民意識が強くはないか。煉獄父の奥方がそんなドストレートな言葉で表現するかいな。ノブレス•オブリージュを表現したいなら、「なぜ強い“火の呼吸”を我々が代々受け継いでるのか」とか………もっとオブラートに包めよ!若干鼻につくんだよ。
あと皆んな煉獄さんの死で泣きすぎ。先輩が命をかけて戦ってくれたので、ちょっと泣きたくなるのも分かるがあれは泣きすぎだろう。ほとんど寝てた善逸はなんで泣くんだ。炭治郎のメンタルは強いんだ。家族の未練を断ち切り鬼を倒す自決を繰り返す、ちょっと異常な強さのメンタルを持つ男だ。自分の意思で家族を振り切れるんだから、並の10代の精神力じゃない。そんな強い男が、顔見知り程度の先輩の死にあれほどまでに泣くだろうか。炭治郎は苦しくとも前に進める心の強さがあると思っていたのに、結局は号泣してる伊之助にハッパをかけられてしまう始末。おいおいどうしちまったんだよ。赤ん坊みたいに泣かないでくれよ。お前はこれまでの鍛錬と旅で強くなったはずなのに、先輩の死であそこまで泣かないでくれよ。この作品はやたら人が泣きすぎるんだ。
《鬼滅の刃は感動しない》
書いてて分かったことがある。鬼滅の刃のアニメは料理人の腕は神だが、レシピ作成者は二流だ。アニメーターの匙加減でなんとか名作の域に食い込んでいるが、元々の原作はかなりポンコツだ。たしかに面白いは面白いんだろうが、この程度の面白さだったら流行で終わる。なんとなく面白いが、人の生き方を変えるほど感動は与えない。私はそう思う。
あらゆるジャンルの作品で我々視聴者が求めるものは、『感動』の一点のみだ。作画がすごいとか、声優の演技がすごいなんてのはおまけにすぎない。視聴に耐えうればおおよその場合そこまで重要じゃない。
で、この感動を私なりに噛み砕いてみると、“昔の自分から生まれ変わる”ことの体験だ。映画『ラピュタ』で軍要塞からシータを振り向きざまにかっさらうパズーだとか、映画『ハウルの動く城』でソフィに「ようやく守るものが出来た。君だ」と言うハウルだったり。洋画でもいい。映画『タイタニック』にて海に沈むジャックをあとに自分の好きなように生きることを選んだローズなど。今回の映画でも、炭治郎がえんむに立ち向かったところなんて本当に感動した。現実を生きる我々にはしがらみが多すぎる。新しい選択肢を取るのは怖いし、自分で自分に不幸な暗示をかけてしまっている。でも、画面の向こうの彼らは、恐れの中でも古い自分を断って生まれ変わった。それを目の前で証明され、心が動くのだ。
長々と書いて申し訳ない。鬼滅の刃の話に戻ろう。この作品の最大の問題点は「あるはずのしがらみが都合よくぼかされてる」からだ。鬼殺隊でありながら鬼の妹を連れること、政府非公認組織の鬼殺隊、絶大な力を持ちながらただの鬼殺しに明け暮れる柱など、キリがない。今回だってそうだ。なんで精神の核を破壊しなかった。なんでえんむが人間を食わなかった。意図的に炭治郎たちが苦境に立たないよう誘導されている。そういうしがらみを無視されたまま話が進んでしまうから、ご都合主義だと思ってしまう。折角いい設定を持ってるんだから、ストーリーに生かしてほしい。鬼より悪どい柱がいてもいいし、警察に逮捕される鬼殺隊がいてもいい。ねずこが炭治郎の恋人を食べてしまってもいい。いくらでもあるんだから、アカザみたいなよく分からん敵をぶん投げて戦わせるんじゃなくてしがらみからけりをつけてくれ。原作がご都合主義に甘んじるポンコツだから、アニメの味付けがいかに最高でも私は感動しない。ハマらない。
鬼滅の刃が、日本人が一緒に楽しめるコンテンツになってくれたことは事実だ。皆んなが観ていた月9や朝ドラが、今は鬼滅の刃になった。立派なメインカルチャーだ。炭治郎たちは間違いなく時代を代表してる。
あれ読んで朝鮮人め!という気持ちになる人おるんだろな、多分。まじかよ、とは思うが。
一郎さんの阿南陸相の自決への怒りのツイートを今の政治に結びつけて一緒に怒ってる人は見たし。
自分は一連の東へ向かうツイートは、敗戦の混乱を感じることができてよかったと思う。なんもかんもカツカツでみんな余裕がないから、不寛容。優しい人は優しいけども、みんながそうはできない。でも起きた出来事はショッキングで記憶に残りやすい。
全く存在しない出来事を新たに作り出す事は無いと思うので、多分日記以外の根拠があるか、インタビューとか取材した結果のツイートだろう。
いや、軍関係の奉仕に行った先で日本は負けるって煽ってきた朝鮮人と口喧嘩して負けた事ゼロから作らないでしょ、普通。創作ならすごいよ。私だったら、ひよって苛烈な環境で働いていた人達への連帯感とか哀れみのエピソードにしちゃいそうだもん。
自分が広島市の義務教育課程を卒業して20年近く経ってるから参考にはならないかもだけど、急に教育が右翼化したとかじゃない限り、ダム建設に徴用された朝鮮人など差別の話、日本が植民地へしてきた事への反省教育はされてるはず。
さすがに君が代の代わりにアリランの歌を教えられるとかはもう無いとは思いたいけど。
だから安易にヘイト創作しないと思うんだよなあ。悪い印象与える位なら存在無視しろ、って事なら分かるけど、一郎さんややすこさんの日記に朝鮮の人が出てこないので、透明な存在のままだったろう。戦争孤児の浮浪者集団も強烈に印象づけられたけど、その集団に弁当強奪された旨のツイートへ、彼らは可哀想な存在だからと諭す反応があったな。
シュンちゃんも一郎さんもやすこさんも、聖人ではないし、ただの一個人の感想だと思って見ている。日記に他人が色々肉付けしてるから、そこが嫌な人はいるんだろう。わたしは映像作品を見るより受容しやすかった。
個人的には三者三様の視点で終戦期のやり取りを見ることが出来るのはありがたいと思う。終戦後にやすこさんが小磯元首相の血縁者と分かるツイート、ビックリしたのと同時に米軍がやってくる事への強い不安感や玉音放送聞いた後の悔しがりに納得がいった。
自分が読んだ事のある戦中の日記、その子が原爆にあって5日で終わってたのでこのまま年末まで読めるなら読みたい。(やすこさんは9月中旬、シュンちゃんと一郎さんは年末まで日記が続く予定)