はてなキーワード: 不買運動とは
元々増(anond : 20220601000620)です。ありがとう! 私も書いた後で、そういえば単なる不買と不買運動とを区別してないな、と思ってた。
私の理解で要約すると、以下のような感じかな。
まず、私と元増氏がおそらく一致しているだろう点として、次の規範があると思います。
「人は、自らの行動が及ぼす悪い影響について、その影響の大きさに応じた責任感を持つべきである」
まあそうですよねという感じ(影響の大きさをどう測るかという問題はある)。
一般に「運動」(もしくは「社会運動」)が何を指すのかについては、次の条件を両方満たす行動のことだ、と理解しています。
さらに言うなら「不買運動」とは、上述の社会運動のうち、不買を呼びかけるようなもののことである。
これが元増氏と一致しているかどうか判断できていないので、あくまで現時点の私の理解です。
ところで、申し訳ないがいくつか理解できていないところがあります(以下は反論が最終目的ではなく、私の理解が深まっ太郎、あるいは第三者への読み物提供、を目的としています)。
これの解釈にちょっと迷った。というのも、理論的には、怒らずに不買運動をすることは普通に可能と思われるからです。
有効そうな解釈としては、「人は普通の心理状態では不買運動(または社会運動一般)をしないので、もししている場合は、怒りとでも呼ぶべき強い感情があるはずである」というものでしょうか。
「責任が発生する(ので、責任感を持つべき)」という箇所については同意です。
で、単なる不買行動には当てはまらないのか? という点がちょっと分かっていない。
例えば選挙の投票を例に取ると、「特定の商品を買わない」のが全く自由であるのと同じように、「選挙で誰に投票するか」も全く自由です。が、やはり一票分の責任はある。もちろん法的な責任(何かを履行しないと処罰を受ける)のことではなくて、たとえばある候補者に投票した結果そいつが当選し、その候補者のその後の行動がまったく見込み外れだったとき、投票者は、自分を含め多くの人が不利益を被ったことについて、原因の一端を担っている(人数で割り算すればとても小さいかもしれないが)。
同じく、単なる不買行為(というかあらゆる購買行動)についても、極めて小さいながら、何らかの責任があると言える。
しかし「不買運動のほうがより強い行動なので、それに相当する、より大きな責任がある」という趣旨であれば、その通りだと思います。
(a) ゆえに (b)、と解釈すると、次のような疑問が発生する。
しかしそうではなく、(a) (b) をもとに、次のような矛盾しない二つの主張が並列されているのだ、と解釈すれば、筋が通る。
たぶんこういうことでいいのかな。違ったらすみません。
なお a' は素朴な意味では広く合意されるところですが、何らかの不均衡や利害衝突がある場面では、なかなか難しい話でもある。
「怒り駆動で行動すると判断を間違えやすいので気をつけましょう」みたいなことは言えますね。とはいえ、これは完全に結果から逆算したプラグマティズムなので、どちらかというと b' の話だ。
全体を眺めるに、大きな前提として、社会運動一般についての是非が問題視されているのかもしれない、と感じました。
もしくは、「社会運動には悪くないものもあるが、不買運動は悪い」という主張だとすれば、社会運動のなかで不買運動の何が特徴的なのかという問題になるでしょう(たとえば「特定の企業を狙い撃ちするのは悪い」など。この場合、不買運動の逆でフェアトレード運動については、何も問題がないか、あるとしたらまったく別の問題である、という判定になると思われる)。
何かの前提がまったく間違っている(のでこのエントリ全体に意味が無い)という可能性は十分ある。そうだとしたら申し訳ないです(それを知ることができれば、私にとっては大きな収穫ですが)。
具体的に何をすれば責任を取ったことになるのかについては、かなり意見が分かれるだろうけど、これもまた別の話でしょうね。
資本主義経済における商品購買行為は基本的に択一選択の形式を取るからして、個々人の購買というのは不買の裏返しである。
たとえば「明治おいしい牛乳」を買う=「森永のおいしい牛乳」を買わない、ということだ。
このとき購買者は森永社員の雇用安定に対する責任を負うか? 負うわけがない。そもそも商品選択の理由を説明する責任からして無い。
あたりまえだよな。購買者は個々人の自由意思で商品を選択し、選択理由は内心の自由の範疇だ。
しかし不買運動はそうではない。運動は怒りによってしか起こらない。義憤と言ってもいい。
まず明治なり森永なりに対する怒りがあって、その憤怒の発散行為として企業を処罰するために声を上げ、不買運動を扇動する。
これは目的が怒りの発散であり処罰だから、たいして責任のない社員の給料が下がるのは、よくて已むを得ない犠牲だし、たいていの場合はメシウマである。
不買運動を扇動する連中は悪徳企業における善意の従業員に対して責任を負うか?
道義的には負うだろうが、それ以前にまず不買運動という営業妨害なり名誉棄損なり風説の流布なりといった具体的加害行為の責任を考えるのが先だろう。
不買運動が抗議になるのは
利益を損なわせて経営陣を「分からせる」ことが出来るからだよね
すでにpixiv一強の今ユーザ数は新規顧客の獲得には直結しないし…
そんな中でわざわざ退会する必要あるの?
抗議活動は別でやればいいじゃん
たとえば、心身に過酷な労働を強いられた社員が自死し、報道され、不買運動が起こり、会社は減収、解雇された社員が、それを一因として自死する。(それは報道されないかもしれない)
そもそも消費者は毎回下っ端の被用者のことを考えて生きるべきだと?本当にそう思ってんの?
単にデモとか不買運動とか、正当な権利と政治活動をなんとなく無知ゆえに嫌って、権利や人権と道徳の区別がつかず、下っ端の被用者を都合よく持ち出してるだけにしか思えない
そもそも立場をわきまえていない。下っ端の生活を考えるべきは行政であって経営者であって企業に抗議したい消費者じゃない
もし仮に本当にそうなら安すぎる価格に対して値上げ運動するべきで、従業員の給料を上げろと値下げに抗議すべきだと思うんだが。
営業時間も短縮させるべきで、18時以降の営業や土日祝日の営業には抗議して、やめさせるべきだよな。
レジで立ちっぱなしの店員がいたら座らせるようにクレーム入れて、ひどい客に謝罪してる店員を見たら店長に暴漢防犯対策をしろ店員に対応させるな警察呼べってクレーム入れるべきだよね?
全然やってないよね?
消費者が「下っ端の被用者」を思うならば、消費者の立場から真にすべきこととは、上記の「不買運動・クレーム」だよね?言ってることとやってることが違いすぎる
権利と義務と人権と立場を理解していない。全部適当に道徳と混ぜてる。日本人のやりがちな、道徳倫理と権利の区別がつかないやつ。
何もかもがガチャガチャになっている
・不買運動は企業に対する否定の意思表示でもあるから、発生自体は正当。
・従業員は企業と労働という取引をして利益を得ているものでもあるので、不買運動によって利益が損なわれることになる。(これは作用として仕方ない)
・個別の従業員に責任はなく、従業員だからと非難することは正当ではない。(ただ、やらかしに直接関わっていた従業員の場合は業務遂行上のモラルが問われる可能性はあると思うが、元増田に上げられている「末端」は全く関わりないものだと想定してこの話は置いておく)
みたいな感じかなって思ってる。
責められるいわれはないけど企業活動に協力して利益を得ていることは確かだから、享受していた利益が減るのは仕方なかろう、みたいな。
あるけしからん企業に対して不買運動が起こったとき、その企業の従業員は、大した責任も無いのにとばっちりを受けることになるが、それは理不尽ではないか? という疑問ですね。
前提として、少なくともいじめや誹謗中傷などはNGでしょうが、それは不買運動の話ではないので分けておきましょう。
以下では、不買運動 → 売上が下がる → 従業員のボーナスが下がる みたいな状況を想定します。
まず、責任が全くないのかという点を検討すると、「ちょっとはある」という話に落ち着くのではないかと思います。
この責任というのは、たとえ話になってしまうけど、遺産と借金の相続の話になぞらえることができる。以下が一般的な理解かと思います。
ひるがえって、企業と従業員の話をすると、まず、次のような考え方があり得る。
上記を前提とし、不買運動をする人間は、おそらく、従業員に対して次のように思っているはずだ。
上記とは逆の方面からも、たとえば以下のように、いろいろ反論できるはずである。
このような事情があるので、あるけしからん企業に所属しているからといって、特定の従業員を直ちに非難できるかというと、それは違うだろう、ということが言える。
そういう逡巡のない人は、働かせている想像力が少し足りないか、他にもっと強い何らかの信念があるか、どっちかでありましょう。
そして、補足するならば:
なお、私は普段このエントリのようなことを真剣に考えてはおらず、いま思いついたことをバーッと書いただけです。その程度の信頼性だと思っていただければ……。(不買運動とかも意識する機会は無い。まあ個人的に、評判の悪い会社の商品を買うのを控える、くらいはしてるかも。)
ひとつ前の増田の「不買運動の正邪は状況が決める論」は、元増田の疑問に沿ってないと思う。
もうひとつ前の「不買運動は戦争説」のアナロジーが問題意識によくフィットしている。
戦争と同様に、巻き込まれてしまう市民がいるのに、悪の根源に対抗するのに戦争という手段をとっていいのか、って話だよね。
考えてみると明らかに邪悪な首脳に支配された国が悪さをして、それを倒すために戦争を仕掛けるのはどうなんだって気もする。連帯責任っぽさがある。
それよりも言論による抗議活動で株主総会を刺激して経営者を下ろす方がよっぽど文明的だ。
不買運動が不可避に起こるか起こらないかに関わらず、個人の目の前に選択肢があるとき、どちらを取るかの判断は正義が基準になりうる。いまはツイッターがあるから、不買運動は不正義だ。
まず気に入らないから自分が買わないって言うのは個人の選択の自由だからいいと思う
でも往々にして「不買運動に参加しないのは社会の敵」といわんばかりに購入している人を攻撃する人がいるけど、あれは完全にアウト
彼ら/彼女らからすれば、末端だろうが組織にいる時点で同罪、悪の組織をやめるのが救済、失業してもセーフティーネットを用意しない自民党が悪い
で終わりでしょ
倫理的に正しいとか正しくないとか言うのは無駄、とは思っている。
いわゆる暴力だ。
例えば、のび太君をなぐるジャイアンのパンチは悪であり、ジャイアンに抵抗するためののび太君の決死のパンチは善である。滅茶苦茶な悪さをしたのび太君にやむなくビンタしてるパパの暴力は善寄りの可能性があるが、のび太君を殴ることが正義だと思って日常的にパパが虐待してたら明確に悪である。
不買運動だって、例えば水銀を海に流してる工場の製品を不買したりするのは、明確に正義だろう。海の魚を食べる自分自身の健康を守るためだから。でもライバル会社つぶすために嘘ついて不買キャンペーン仕掛けたら悪だろう。
ここまでが回答で、そして元増田のために付け加えている部分があって。
元増田はたぶん不買運動は暴力なんだから、暴力は常に悪なんじゃない? みたいな感覚をもっているんだけど。
それは違うぜ、という釘を刺しておきたかった。
暴力できないことは、されるがままってことであって、それを貫くと死んでしまう。現代社会であっても、我々は警察とか兵隊とかに暴力をアウトソーシングしてるだけあって、それを無くすと死ぬ。ガンジーはあのときあの状況のインドでは暴力が無意味だと思ったから非暴力を訴えたのであって、暴力全部を完全に社会から無くそうとか言ったわけではない。