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2017-05-18

意見交換会合コンではない(n番煎じ)

国際基督教大学International Christian University、ICU

私の母校だ。

2人の卒業生婚約日本(の一部)が盛り上がる中、ただただ一卒業生として発信したいことがあるので、筆を取った。

まず初めに、この文章ICU卒業生代表文章ではない。

"過剰な一般化"かもしれないし、統計的データがあるわけじゃない。

から、これは私の主観経験によって構成された文章となっているはずだ。

ーーーーーーーー

結論から言うと、彼らが知り合ったきっかけとされる"意見交換会"が"合コン"だったということは非常に考えがたい。

(学校の規模が小さすぎて、自分の"友達の友達"でほとんど全員にアクセスできるため、学内合コンなどほぼ有り得ない。)

他の大学の方からすれば信じられないかもしれないが、ICU生の大多数は学内しろインカレしろ合コン経験である

ICU生はだいたい「他の大学と"違う"」という理由で、ICUを選んで入学している。

ICUは、上京を目指す若人が一般的に憧れるような"キラキラ"した大学ではない。

すごい地味な大学だ。

周りに学生街と呼ばれるようなものはないし、キャンパス内にスタバはもちろんない (武蔵境駅前にはあるけど)。

では、みんな何を求めて、ICUに入るのか。

ある人にとってはそれが、英語教育だったり、リベラルアーツ教育だったり、特定メジャー(専門分野)だったり、学校雰囲気だったりする。

何を求めて入学たにしても、ICU生は何故か批判的思考を知らぬうちに身につけていく。

そんなICU生の大多数が共通して敏感に反応するのは、"性"が関わるトピックについてだと思う。

それが、ICU卒業生在校生が、意見交換会合コンに対して、異論を表明している理由でもあるのではないだろうか。

合コンというのは、良くも悪くも"社会的押し付けられた性へのイメージ"の結晶と言える。

(男性が〜〜すべきとか、女性は〜〜するとか、そういう類のこと)

ICU生の大多数はぶっちゃけ、この"性へのイメージ"に超批判である

くだらないと思ってるし、押し付けられたくないと思ってる。

から合コンにも無関心/批判的だし、実際行っても"需要"はないと思う。

だって相手から求められる"性へのイメージ"を体現し(て)ないから。

こんな感じで、ICU生は合コン経験を貫くのではないだろうか。

勉強で忙しいとか色々な主張があると思うけど、私はそう思っている。

てか、書いてて眠くなってきたので寝る。

起きてまた気が進めば編集しよっと。

2017-04-14

本屋大賞以外のランキングジャンル別(9選)

http://anond.hatelabo.jp/20170414012241

(人文、文学新書文庫経済経営ビジネスITエンジニア

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2016-11-17

http://anond.hatelabo.jp/20161117221723

アメリカだとリベラルアーツが重視されてるから事情が違うんだろうけど

日本だと政治限定した知識あんまり学歴と比例してない気がする。当然政治関係専攻してない人の話に限定はされるけど。

その辺の高学歴よりいろいろ知ってる高卒だの底辺大学卒だのどんだけ見てきたこことか・・

その事自体問題だと言われたらそれもそうなのかもしれないけど。

2015-05-21

新しいリベラルアーツのためのブックリス

リベロ池袋本店リベロ福岡天神店で開催された「新しいリベラルアーツのためのブックリスト」フェアがとても良く、僕も何冊か読んだので、感謝気持ちを込めてリストします。

1〜2[人=分野]/[日]ぐらいのペースになりそう。

2015-03-27

学歴能力を測る指標であるという幻想

大学時代の話。

ある日学寮で数人の寮生と共に留学生雑談をしていたとき、彼の出身地話題に上った。

彼はアルジェリア人であるらしい。

恥ずかしながら浅学なもので、アルジェリアという国がどういう国なのか、想像が及ばない。

モロッコあたりならこう、『カサブランカ』のイメージで、いやそれだってフィクションの中の一都市しかなくて失礼な話だが、まあ、なんとなく。

誰ぞ気の利いた話題をひねりだせないもんかと他の学生に目を向ける。

すると、とんでもない言葉が飛び出すのである

え? どこやっけそれ。

しかもひとりではない。仮にも旧帝国大学学生のくせして、アルジェリアの位置を把握していない人間がぼろぼろいやがるのだ。

まあ、慣れているのだろう。アルジェリア人の彼は自国の位置を説明してくれる。だがまだ終わらない。

あろうことか目の前に居るアルジェリア人の彼が黒人でないことに驚くのである

なに言ってんだこいつ。

アフリカ北岸は古くはローマ帝国の版図でその後はずっとイスラムの支配圏だったろうに。

選択科目の関係で習ってないにしても、ではまさかハンニバル黒人だとでも言うのか。

だが俺が呆れかえるより早く、周囲の人間が膝を打つ。あ、ほんとだなんでなんで。

なに言ってんだお前ら。アフリカ北岸だぞ北岸

ヨーロッパとは内海である地中海を隔てているに過ぎず、シリアと地続きで、黒人の版図との間にはサハラ砂漠が立ちはだかるあのアフリカ北岸なのだ

自分の周囲にホワイトアフリカブラックアフリカ区別のつく人間がひとりもいないという事実愕然としつつ考える。

旧帝の一角たる国立大ですらこのザマだ。私学など恐るべき状況に違いない。

三教科入試など序の口、幼稚舎エレベーターやら帰国子女枠やら意識高い高いAO枠やらの跋扈する人外魔境である

ここに至ってようやく俺は気付く。

高学歴人間教養を期待するのはてんで的外れである、ということに。

これでは工業高校卒のうちの親父のほうがまだ物知りである

しょせんデータベースとして蓄えられる知識なんぞより、それら知識の有機的結合から導き出される中学生でも納得できるような当然の推論の組み合わせ(つまるところ要するにまあ教養)のほうがはるかに広範囲に及ぶ。

そしてそれは個人の資質依存するところがひどく大きい。

高学歴人間が頭がいいとか、物知りだなどということはない。

あれはお受験というふるいに対して、どれだけ最適化されているか抜け道近道を知っているかしかないのだ。

結局、学歴とは能力の指標というよりも既得権益可視化という性格のほうが強いのだ。

名前を書けば最寄の高校入学できるクソド田舎公立中学から始まって、ずいぶん長い間くだらない幻想に囚われていた。

こんな程度のことに気がつくのに馬鹿みたいに時間をかけてしまった。

おかげで論理的思考だとかリベラルアーツ努力値極振りしていた俺は当然の結果として就活に失敗するのである

なおこの後クッソド田舎地元飲食店バイトして、自分先入観からずれた発言はどんなに滾々と事例をあげて諭そうと一顧だにしない低学歴人間にふたたびカルチャーショックを受けるのはまた別の話。

2014-07-06

教養って何だろう - 自由になれる?

教養って何だろう
http://anond.hatelabo.jp/20140704205502

インターネット暇人ものおかげで教養の様々な側面を覗けた。大変参考になった一方で、当然いくつか疑問が湧いてくる。以下はその疑問について。(なお、私は小説思想書も哲学書もまったく読まない)

教養があると自由になれる】

gingger4 教養とは、運命として与えられた生まれ育ちから自身解放すること (参考)家庭環境読書の習慣のこと/図書館となら、できること http://bit.ly/KWHFw2

showgotch 皆俺流教養論を語るんだけれど微妙にずれててワロタ。歴史的教養は自由になるための学問なんだけど同時に貴族学問でもあったためオペラ歌舞伎を楽しむ素地として連帯の道具でもあったわけだ。ハイパーメリト

seachikin 狭い世界に生きてると視野が狭くなるからせめていろんな情報を集めて他にもいろんな世界があるということを知るってことが教養だと思ってる。んで私は本は読むけど教養はあんまりない。

tyshu 全然読書をしなかった自分が、思い立って1年に100冊読書するってのをやってみたことがあったけど、知識と知識がリンクする様な、世界の広がりを感じたのが印象深かったなと。読書はその時だけで今は…

sardine11 ナボコフ流に言うなら良き読者とは芸術気質科学気質が結合した人。つまり客観的世界に対する主観的認識多様化させ心を打ち震わせる経験をする、それが読書そして教養意味。娯楽と知識の境目に教養がある

a22222111544 この世界で起きていることの大部分を「ひとまずは」愛と理性で把握するために必要古典的知識の体系と、あとはそこにアクセスするための言語能力だと思います本来的な意味での教養を持っている人はごく少数。

kybernetes この世界の様々な側面の見取り図を作れ。その目でこの世界を見よ。

bell_chime_ring238 教養は世の中で起きることを解釈する下地かな。本当にすごい人は、何気ない話題でも全然違う次元で考えてるし、こちらも自分の知らない世界に行けてしまう。体感できれば、教養人格を作るって理解できるよ

p_shirokuma 己の世界観娑婆観の構成素子のなかで、事後的に確認できるもの総体が、しばしば教養と言われているような気がする。

magurohonsha 世界を見るための偏光器だよ。

kirakking つまらない世界自死しないための保険じゃないの。冗談です。

exterminator 必ずしも読書量ではない。世界を体系化して見るため/自分を少しでも自由にするためのもの環境とか文化資産()どうこうより上より下を見て人の足引っ張るような人が多いとこにいると身に付けるのが難しくなる。


なるほど、教養があると自由を獲得できるのか。通時的にも(リベラルアーツ云々)共時的にももっともらしい主張だ。私もそのような側面があるとは思う。ただし、これにも疑問が残る。

疑問を述べる前に、自由とは何だろう。ここでは、他のものから拘束・支配を受けずに自分自身意志に従って行為できる状態、としておく。そして、自由には経済的自由精神的自由の2つがある、ということにしておく。

経済的自由については、いくつかの専門分野について十分に学習すれば達成できそうではある。逆に、小説/思想書/哲学書を読んだり芸術を鑑賞したりを自分なりに咀嚼しながらいくら深く広くたくさん行ったところで達成できそうになさそうである(それだけ文学/思想/哲学/芸術精通していれば少なくとも批評家などにはなれそうではあるが、彼らの年収の最頻値を知らないので、それが経済的自由を獲得できる程度のものなのかについては保留する)。

精神的自由については、小説/思想書/哲学書を読んだり芸術を鑑賞したりを自分なりに咀嚼しながら深く広くたくさん行っていれば獲得できるのであろうか。いくつかの専門分野について学習をしていくだけでは達成できないものなのだろうか。学習する専門分野を十分に増やしていっても、あるいは専門分野ごとの理解を十分に深めていっても達成できないものなのだろうか?

また、経済的自由なくして精神的自由はありうるのだろうか?フレデリックダグラスは生涯奴隷のままで精神的自由を獲得できたであろうか?

フレデリックダグラスについて
http://readingmonkey.blog45.fc2.com/blog-entry-377.html

【締め】

まぁ、お前らの思うところを書いてけや。

なお、他の疑問については分割する。インターネット暇人どもは長いエントリーを読むのに苦痛を覚えるからな。開発をやる人間の口を借りれば、きっと、このエントリーに限らずそもそも増田なんかにはユーザーが何分も滞在する価値なんてねー、と宣うに違いない。まったくである

2014-07-05

http://anond.hatelabo.jp/20140704205502

教養より、リベラルアーツ。人を自由にする学問って言い方のが好き

型破りと型無しの話みたいに、自由であるために学ぶべき型がリベラルアーツ

人文、自然社会科学と列挙して概要眺めるだけで途方に暮れるけど

門外漢な分野を新書入門書読むくらいでは自由には程遠いけど視野は広がる楽しさはある

2013-04-11

小中高の国語をガラッと変えたらどうだろう。

思い切って、リベラルアーツでいうところの、文法学・修辞学・論理学をやったらどうだろうか。

法学

まず、文法学

現在国語の授業における文法論は特殊だ。

一応、中学現代文の文法を、高校で古典の文法をならったけど、あれ意味がないように思う。

辞書と文法書さえ手にすれば、ドイツ語だってフランス語だって素人でもなんとか作文はできるけど、その逆にアメリカ人中学日本語の文法書と日本語辞書を与えて作文が出来るとは思えない。

江戸時代学者が、平安時代の文章を解釈するために成立させた学問ベースになっているためだろうけど。

いっきり刷新したほうがいいと思う。

言語学的な内容も盛り込みつつ、日本語学校で教えるような実際に即した日本語教育というのが着地点かと。

修辞学

ディベートプレゼン国語の枠で教えたほうがいい。

というか、なんで義務教育で今までなかったのか。

論理学

国語教育に「論理的に考える能力を身につける」とかい目標があるなら、論理学の基礎を省くわけにいかないだろう。

集合、命題に触れるのが数学で、国語ではノータッチという有様で、論理的に考える能力を身につけるとか無理だろJK

追記、従来の国語教育の位置づけ

美術とか音楽とかと同じような、位置づけにしたほうがいい。

国「語」とかついていると、語学みたいな響きだけどさ、でも中身は芸術の授業だろ?

2012-11-19

http://anond.hatelabo.jp/20121119031158

リベラルアーツカレッジ専門学校なん?

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AA%E3%83%99%E3%83%A9%E3%83%AB%E3%83%BB%E3%82%A2%E3%83%BC%E3%83%84%E3%83%BB%E3%82%AB%E3%83%AC%E3%83%83%E3%82%B8

ほとんどの場合大学院を持たず、教授学部学生教育に専念する。

著名なリベラル・アーツ・カレッジ出身

新島襄(同志社大学創立者) (アマースト大学)

内村鑑三(キリスト教思想家文学者) (アマースト大学)

本間長世(東京大学名誉教授) (アマースト大学)

千葉眞(国際基督教大学教養学部教授) (アマースト大学)

津田梅子 (津田塾大学創立者) (ブリンマー大学)

宋美齢 (中華民国指導者蒋介石の妻) (ウェルズリー大学)

永井荷風 (小説家) (カラマズー大学)

ジェームズ・ガーフィールド(第20代アメリカ合衆国大統領) (ウィリアムズ大学)

カルビン・クーリッジ(第30代アメリカ合衆国大統領) (アマースト大学)

ゴー・チョク・トン(シンガポール第2代首相) (ウィリアムズ大学)

スティーヴン・ソンドハイム(作曲作詞家) (ウィリアムズ大学)

ワン・リーホン(歌手俳優) (ウィリアムズ大学)

ウイリアム・スミス・クラーク(札幌農学校初代教頭・"Boys be ambitious!") (アマースト大学)

マイケル・ヘイデン・アマコスト(アメリカの元駐日大使) (カールトンカレッジ)

ジェフ・バーグランド (帝塚山学院大学教授) (カールトンカレッジ)

ウォルター・モンデール (アメリカの元駐日大使) (マカレスター大学)

ロバート・ノイス (インテル創立者) (グリネル大学)

ヒラリー・クリントン(元上院議員国務長官) (ウェルズリー大学)

マデレーン・オルブライト(アメリカ初の女性国務長官) (ウェルズリー大学)

コフィ・アナン (元国際連合事務総長) (マカレスター大学)

バラク・オバマ (第44代アメリカ合衆国大統領) (オクシデンタル・カレッジ最初の2年間。その後コロンビア大学に転学)

スティーブ・ジョブズ (前Apple Inc.CEO) (リードカレッジ(中退))

2012-11-04

http://anond.hatelabo.jp/20121103120842

そういう疑問は俺も持ったことがあるんだけどさ、国語学習を通じて論理学を学ぶというのはそもそもの設計上の問題があるかのように思う。

国語というのは、つまり日本語

語学

論理学は語学内包されるような学問ではなく、哲学内包されるべき分野なのでさ。

国語って名前だけど、学制がしかれた当初の設計だと、要するにリベラルアーツのトリウィウム(文法・修辞学・弁証法)にしたかったんじゃない?

国語という科目の枠に納める都合上、教材は日本語文学を使わないといけないということで、古文漢文から文法と修辞学を学ばせて、現代文から弁証法を(弁証法は無理なのでとりあえず論理学を)学ばせる、という風にしてるんじゃないかなって思うんだけど、その悪魔合体に無理があるんじゃね?

そもそも、そういうのって国産学問じゃないもん。

ハリウッド映画を通じて歴史を学んでも、それは歴史学と言っていいのか、そんな感じ。

論理的に書かれた文章を読めば、論理が身に付く」ってのは、

物理学やれば数学は身につく」

みたいなもので。

いや、もっと豪快で雑だな、

家計簿をつければ数学は身につくから無問題!」

くらいの感じじゃないかと。

もし、どうしても文学を通じて論理学や弁証法を学ぶというのならば、論理学の基礎になったような文学古代ギリシャの書物とその注釈書あたりから教材をセレクトしていくのが王道なのではないだろうか。

訳本を「国語学習として教えるのはうん、まあ難しいような気がするけど。

はいえ、原著ギリシャ語はい日本語訳されてしまえば日本文学と言えるのか?

英語圏だって古典英語の教材としてジェームズ王欽定聖書を使うくらいなので、それもありなのか?

日本語特殊性翻訳者の地位が比較的に高い日本ならなおのこと。

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