はてなキーワード: ストリーキングとは
さぁそれはストリーキングする人に訊いてみないと
思想とは下着とか肌着みたいなものであって、無いと困るし、寧ろ無くてはならないものでさえある。
それは我々の生活にフィットして、持続的な快適さを与えてくれる。端的に温かい。
とは言え、人は下着のみで生きられはしない。下着だけで冬の寒空の下に出てくる人間がいれば、それは単なるストリーキングであって、決して知的な衣装を纏った存在ではない。裸の王様から得られる教訓とも関係なく、「必要最低限以上のものを身に着けることは罪悪なのよ」的な命題を導出することもまた難しく、下着のみで世の中を生きようとする人間がいれば、ありとあらゆる謗りを受けることは間違いないであろう。
思想のみを媒介に人とコミュニケーションを取ろうとする者も同様である。人々は下着以外にも幾重にか衣服を着込んでおり、重層的なそれらを伴って生活しているものであって、下着の質についてのみ考えを巡らせ、生きているわけではない。
繰り返すように下着は必要であり、現代人には必要不可欠なものである。あるいは逆に、伊達な一張羅を着込んでいはいても、下着を身に着けていない人間がいるとすればこれまたストリーキングであり、文明から零れ落ちた異端児であるのも間違いはない。
とは言え、逆もまた然りなのである。
思想のみを振りかざし、それのみが大切なものであると宣言することもまた、文明から零れ落ちる契機となるであろう。
幼いころ、何かのイベントでフェイスペインティングをやる機会があったのだけれども、当時の僕は顔に何かが付着するのが不快に思われて、断った記憶がある。
それ以来、身体に何かを塗ったことはない。皮膚科の薬くらいか。女性の場合、ファウンデーションを使うので、フェイスペインティングは男性よりも抵抗が少ないと思われるのだがどうだろう?
それはともかく、同様の理屈でボディペインティングはやったことがない。とはいえ、ドラえもんの学習漫画で、水着を忘れたのび太が絵の具を塗ってごまかそうとするが、前だけを塗って尻を塗り忘れて恥をかく場面があり、それが自分の野外露出・CFNM願望とマッチしていたのを思い出す。気づいたしずちゃんが顔を覆って赤面しているのも高ポイント。
実際に水着やショートパンツを描いて野外を全裸で徘徊する女性の動画は、各種動画サイトで閲覧可能だ。
人々が顔や身体を様々な色彩で飾ってきた歴史は長く、世界中で見られる。ブラックベリーやサフラン、粘土や木炭などで様々な色合いが用いられてきた。つまり、赤、黄色、青、黒、茶色などが利用できたわけである。
欧米では、顔や腕を塗ることが多かったし、今でも大道芸人やピエロなどもそうだ。全身をカンバスとして用いるのがメインストリームの芸術やファッションに導入されたのは、1933年のシカゴの万国博覧会でだった。Max Factorがバーレスクの大女優Sally Randを映画のためのモデルにしたが、裸を公衆の面前に出すのは同時としては当然挑発的に過ぎたし、社会的通念からは外れていた。そして、全裸のアートは人気にならなかった。
これが60年代から70年代のヒッピー文化の時代になってくるともう少し人気が出てくる。花やピースサイン、その他サイケデリックな模様を、大義を信奉していることを表現するために描いた。今でも海外のヌーディストたちがワークショップか何かで全身にそうした絵を塗っているのを確認できる。くすぐったそうである。この時代もまだ、カウンターカルチャー的なもので、主流ではない。
革新的であったのが1992年、Vanity Fair誌をDemi Mooreが飾った時だ。彼女は全くの裸であり、芸術的でかつタイトなスーツを着ているようにみえるペイントをしていたのである。今までこうしたものがメインストリームの前面に現れたことはなかった。
一応、乳首が見えているので、直接のリンクは張らない。Demi’s Birthday Suitで検索してほしい。
身体に名画を直接描いたり、人体の形を活かして生き物の姿を描いたりする。全裸も多いのでリンクが晴れなくて申し訳ない。中には会田誠の作品のように、セクシーさというよりはシュールさで有名なものがある。漫画のすごい顔の絵を描いていて、おっぱいに目がある。たぶん現代美術好きな人だったら見たことあると思うのだけれど、ものによっては普通に割れ目までも見ているのでリンクしない。女性器は猥褻だとは思わないが、残念ながら規約違反になってしまうおそれがあり、ブルマーの記事まで削除されてはたまらない。
例えば「アバター」なんかの映画で用いられるメイクアップで用いられる。他にも、Playboy誌が時折ボディペイントを使うことがある。2005 年のカレンダーでは皆がビキニを着る中で、Karen McDougalやHiromi Oshimaはボディペイントだった。そのほか様々な広告でも用いられる。
フットボールの試合、レイヴパーティー、その他の祭りなのでボディペインティングが行われる。また、国際的なボディペインティングのフェスティバルもあるようだ。World Bodypainting Festival(1997年より開催、50か国以上より3万人が参加)など。
Fantasy Festなるフロリダのストリートパーティでも用いられるようだ。おそらく、全裸・半裸になりたいけれどもファッションは楽しみたい、という需要にボディペインティングは応えている。
PETA(動物の倫理的扱いを求める人々の会)が動物の模様を身にまとって抗議することがある。また、全身を様々な色で塗っている写真も英語版のウィキペディアで確認できた。
いい機会なのでPETAについての記事を斜め読みしたのだが、増田ではよく叩かれているとはいえ、捨てられたペットの保護や、ヒツジの臀部から皮を剥ぎ取るミュールシングの代替手段の模索に向けての活動については知らなかった。もっとも、セクシーな抗議がフェミニストの怒りを買っていたり、殺人・虐殺の犠牲者と屠畜された動物を同列に並べて猛反発を受けていたりしてもいるようだ。
一番安全。すぐに落ちてしまう恐れがあるが毒性がなく、アレルギーもほとんど引き起こさない。加えて、石鹸と水ですぐに落とすことができる。手入れが必要で長続きしないが、皮膚の敏感なひとや妊娠中の女性に適している。
汗や水に強いのが特徴なので、夏の音楽フェスやパフォーマンスに適している。落とすときには専用のリムーバーを使うか、アルコールで拭く必要がある。ただし、少し時間がかかる。
ラテックスや油性の画材は全身を塗るのに適しており、目を引く視覚的効果を上げられるし、芸術的な目的にも使われる。取扱説明書を事前にしっかり読む必要があり、塗る前に全身の毛をとり除くひつようがある。毛が残っていると脱毛ワックス的になって痛いためだ。
多くの化粧品に含まれているのと同じもので、前衛的な外観を作りやすく、長続きするが、割れたり摩耗したりしやすい。利点としてはアルコール系と同じように汗や水に強いことが挙げられる。しかし、完全に乾燥することがないので、仕上げのスプレーやパウダーで駄目になるのを防がないといけない。
アジアやアフリカの熱帯地域の植物から採れる色素で染める。髪を染めたり、ボディペインティングの材料にしたりするだけでなく、繊維を染めるのにも用いられる。落とせるタトゥーとしても使われる。
Brown hennaは基本的には天然素材で毒性はないが、black hennaは金属が含まれており、長期にわたって使われると皮膚を害する恐れがある。
多くの人がボディペインティングのときに実際に何を着ていくか迷うらしい。特に野外で行うときには最低限、皮膚の色に近い紐パンや、ペイスティース(乳首の前貼り)だけを身にまとうことがある。トイレに行くときにはローブが必要であり、加えてペインティングスタジオは寒いことがあるとのこと。
WNBR(ワールド・ネイキッド・バイク・ライド)なんかだと普通に全裸に人もいるし、そういうイベントでだったら全裸も普通にOKだろう。
今回は、野外露出目的ではないボディペインティングについて調査した。今後は、ヘナタトゥーなどについてももう少し情報を得たい。
また、ヌーディズムそのものの歴史、ストリーキング、ムーニング(尻を見せる行為)などについて調査予定である。すなわち、身体が自然と触れ合う喜び、抗議・無防備さの象徴としての全裸、宗教的な全裸、それから、祝祭としての全裸についても調査したい。
Significance and Origin of Body Painting - Lynn Schockmel Body Art
History of Body Painting - Facts and Types of Body Painting
History of Body Painting - Ancient Body Paint Art
近くで猥談を声高にされていやでも耳に入ってくる、ストリーキングなどで卑猥な恰好の人間が目に入る、店でエッチな作品が陳列されているのが目に入る、ネットでエッチな広告が表示される、テレビでエッチな描写が流れる、映画でエッチな描写が流れる、
うーん。正直「目にしただけで嫌な気持ちになる」ってどうなんかな。
映画でエッチな描写については、それはそれを選んだ人の問題だし……あなた一人のために全員が見たかったシーンを取り除くってのも違うでしょ。
ストリーキング…全裸で走り回るパフォーマンス?とか見たこと無いんだけど何それ……それは犯罪で捕まると思う。
ネット広告もエッチな作品も避けれる問題だろ。大体場所は決まってるし、広告ブロック使えば避けれるでしょ。
標題のとおり、「駅で肩が軽くぶつかっただけで訴えてやる!」って言う当たり屋みたいだ。
自らぶつかりにいったのに声高に訴えてやる!って叫びまわってるような感じ。
性的消費や性的搾取はなにを消費しているのか誰も答えられない、なんて言われるけど、簡単に答えられる。
性的な表現や行為をする者が、合意なくそれに晒される者の、自尊心や精神的安定を消費・搾取・加害している。
これに対して「お気持ちの話」などと揶揄されることが想像できるが、もちろんそうだ、お気持ちの話であり、だからこそ重要だ。
(※追記
合意なく晒される、がどういうことかわからないと言われたので具体例を書く。
強姦される、痴漢をされる、売春をさせられる、スキンシップをされる、「一発やろうよ」などと卑猥な言葉をかけられる、近くで猥談を声高にされていやでも耳に入ってくる、ストリーキングなどで卑猥な恰好の人間が目に入る、店でエッチな作品が陳列されているのが目に入る、ネットでエッチな広告が表示される、テレビでエッチな描写が流れる、映画でエッチな描写が流れる、など。
下記で語ることと同じだが、これらによって不快さが生まれて幸福感が減ることが問題の核心なので、卑猥とかエッチとかの客観的基準は定義しない)
気持ちを傷つけることは実害ではないと考える人もいるけれど、社会通念としても司法としても言葉による侮辱や罵倒は悪とされているのだから、気持ちを傷つけることは十分加害と認められている。
そもそも、社会の法やルールは、その社会の中のできるだけ多くの人が幸福に生きることを目指して作られているし、現に運用されていると言えるだろう。
財産や健康や地位や自由や社会構造を守るルールも、それらを守ることが、人間の幸福感を守ることに繋がるとされているから作られる。
幸福とは何かというのは難しい問題だが、少なくとも「幸福を感じること」は必要だ。
つまり、人々の幸福感=幸福な気持ちを持って生きるためにルールは作られるので、お気持ちの話こそが本質であり、物質的な話はそれを果たすための便宜的な手法にすぎない。
だから、お気持ちの話にすぎないから無視してよいというのは妥当ではなく、お気持ちの話だからこそ尊重すべきである。
感情への加害は配慮する必要がないという考え方は、昔から「減るもんじゃないんだし」とハラスメントの言い訳に使われてきた。
今では「減るもんじゃないんだし」を言う人もずいぶん減ったが、代わりに「性的消費が具体的に消費しているものはない」という言い方になっている。
気持ちの安定が減るし、搾取されるし、それは尊重されるべきものだとわかってもらいたい。
さて、その上で、「お気持ちの問題なら、性的行為で幸福感を得る人の気持ちはどうなる」という話になってくる。
すれ違いざまに相手の尻を叩くことが楽しい人、性的作品をできるだけ広く展示したい人、街中に色っぽい物がある方が気分のよくなる人、色々いるだろう。
ある人の幸福(感)を増す行為が、別の人の幸福(感)を減らす行為だという状況は、世の中幾らでもある。
それらは、効用比較や正義公正倫理の観点で最適な落としどころを探られてきた。
性的消費についても、そうしていこうではありませんか。