はてなキーワード: アーメンとは
家規範が解体されてほぼ完全な自由恋愛市場の中の優良株同士がくっついて生まれた子供達だから遺伝子的に超優秀なんだな。
お見合い結婚が息づいてた時代や男女共に結婚圧力が強かった時代は雑魚遺伝子同士の子供が沢山生まれた。
でも今はそういう圧力が存在しない時代なので優秀な遺伝子を持つ者同士が結婚して子供を作る。
だから今の子供は容姿も能力も遺伝子的に優秀で経済的にも恵まれて育ってる子が多い。
一方で子供の貧困が取り沙汰されるように、貧困の中に育つ子供達も一定存在するわけだが、そういう子供達の親はいわゆるDQNが多いんだと思う。
遺伝子的に優秀じゃなくてもDQN遺伝子を持つ者同士は互いに惹かれ合い子を成してしまう。
DQNはあらゆる時代に偏在し容易に子を成してきた。そしてDQNは子沢山なので国民の教育水準が低く多くのDQNを抱える発展途上国では労働力の基盤になってきた。つまりDQNがいないと国家は発展しない。
ただ国家が経済発展を遂げ先進国家になると国民の教育水準も高まりDQN率が漸減していき、DQNは少数派になるわけだ。
とにかくこのように現代の子供達は大別すると「遺伝子的に優秀な子供達」と「DQN遺伝子を持つ子供達」の2グループに分類できると思う。
もちろん「遺伝子的に優秀じゃない子供達」もいるにはいる。しかし数はそれほど多くはないと思う。
この子供達の親は所謂ワープア同士が経済合理性を求めて結婚して、結果的に子を成したパターンが多いと思う。
でも結婚圧力が存在しない現代ではこの様な一群はあくまで少数派で、殆どのワープアは「理想の相手じゃないなら独身でいいや」と考え遺伝子を遺さず死滅するのだろう。アーメン。
これから日本は少子高齢化で大変困難な時代を歩むことになるわけだけど、今の子供達は遺伝子的に極めて優秀なのでなんとかなるんじゃねーかな。知らねーけど。
某マッチングアプリの不細工男からこんなメッセージが送られてきました
いくら脳内ちんこに支配されてたって、私が男だったらこんなアホ丸出しな文章は送らないと思う
男性みんな「やりたい」のはわかる、女側もそれは百も承知の上でやり取りしてる、ヤリモクのためにアプリをやるのも大いに結構
ヤリモクだなって分かってても、会話が楽しいとか、顔がいいとか、高い飯おごってくれるとか、「いい」ところがあれば女はコロッとやらせてくれると思う(私見です)
でも、あまりにもアホ丸出しのこう言うメッセが届くと「馬鹿じゃね?」と冷め切ってしまうのである
文字のやり取りというのはいくらでも推敲ができるからミスをしにくいはずなのに、スクショなどで後世にも残るリスクがあるのにそういう発言をしてしまうのか、こいつは世紀の大馬鹿ちんこ野郎だなと軽蔑すらしてしまう、ゴキブリ以下である
多分、こいつに普通に「ランチに行こう」と誘われて、なんやかんや話が盛り上がって、ショッピングなんかして歩き疲れたタイミングで、タイミングよくホテルが現れて「疲れたね!」って言われたら、股を開く女は何人かはいると思う
私がからかわれていただけかもしれないが、ネットに散らばった彼の情報を集約するに、恐らく彼女がおらず性欲が溜まっているのであろう
その性欲を解放したいのなら、もっとヤリモクらしくしっかりしてほしい
スマートに、かっこよく、ワンナイトしてもいいかなって思えるぐらい、がんばってくれよもっと
ヤリモク野郎は「やりましょう」「やらせてくれ」「休憩しよう」なんて一言も言ってこない、女側に懇願している時点でもう敗北が確定しているのだ
こいつが童貞じゃなかったら世の中の非童貞男性への気持ち悪さが加速するから童貞でありますように、アーメン
2019/07/04 追記
みんな色々な意見ありがと~
どれも分かりみが深い意見だね~
増田が一番腹立ったのは、この後に「どうすればうまく誘え(やれ)ますかね?」と相手に聞かれたことなんだよね
知らねぇよ、自分で考えろよ、ちんこにでも聞いてみろよ、ネット上にヤレル誘い方()みたいなのいっぱい転がってんじゃんググれよ~!!!
あと、やれる・やれないを先に聞いてる効率厨じゃ?みたいな意見結構あったけど、こいつとは1ヶ月半近くメッセをやり取りした上で「じゃあ会いますか?」ってなって日程詰めたりした上での発言なんだよね
「「お客様は神様だ」なんて言葉はクソ食らえ」という意見は最近よく聞く。いや最近じゃないわ前からよく聞くわ。
まあね、気持ちは凄い分かるし実際そうだ。俺も物売るバイトや仕事したことあるから。どいつもこいつも偉そうだよね、ファック。
でもさー、そんな気持ちをネットに公表しちゃったり、某嘘松番組みたいにスカッとエピソードのマネ事しようとして、結果大炎上させられてるパターン多いよね。
そう思うとさ、ある意味で神様だよ。とても凶暴な性格で、自分の意思に従わない存在に神々の神罰を加える、例えるならヤハウェの様な荒神。或いはゼウスか?
邪神とか破壊神とかとてもとても!恐ろしくて言えたもんじゃないですわ!くわばらくわばら、アーメンアーメン、かしこみかしこみナンマンダブナンマンダブ。
本が読めない。
読書家が人生において遅かれ早かれ直面するところの事件である。
本が読めない。
当方二十代後半の男であるが、今より遡ること十八年ほど前にラノベ(ブギーポップは笑わない)と出会い、それ以降文芸における視野を国内外の純文学や文芸作品へと広げ、様々なジャンルにおける読書体験を営みながら、これまでの人生を生きてきたのである。
そして、その読書体験の勢いと呼ぶべきものを二十代の前半辺りにまで持続させ、さてこれからの人生においても長い付き合いになりそうだなあ、などと呑気に構えていた時分、不意にその能力が消失したのであった。
何故なのかは分からないけれど、突然本が読めなくなったのだ。
書物との別れ。
何故なのだろう?
当方通勤に一時間以上を費やす難儀な民であるため、通勤時間中は心を半ば無にし、脳の活動を極低状態にまで抑え、死んだ目で通勤していたのが仇になったのだろうか。
(皆さん、覚えておいてほしいのだけれど、通勤時間が20分を上回るようになると脳の鬱傾向が加速するというエヴィデンスがあるそうなので、通勤時間はできるだけ短縮するようにしましょう)
でも、俺に関して言えば未だに通勤時間は二十代の前半から変わっていない。むしろ職場の変更から伸びたくらいであって、つまりその移動距離は未だに脳に対して厄介な負担を掛け続けているということになる。
まあそら本も読めなくなるわな。
とにかく去年の夏に至るまでの数年間、俺は本を読むことができなかった。
読みたい本はたくさんあった。それこそ山のようにあった。かつて、若き日の盛りに大阪へと日帰りの小旅行に行った思い出があるのだけれど、それは梅田に存在する某超大型一般書店に立ち寄るためだけに計画された小旅行なのであった。そんなこんなで、俺はその超大型書店へと赴き、そこで購入できる限りの本をわんさと買った後で、地元へと帰還したわけである。無論、それらの本の内の殆どは積ん読ルートを辿り、今も尚本棚の一角を占めその存在感を俺にアピールし続けている。
まるでそれは十字架だった。
俺の、購入した時点で尽き果ててしまった、知識に対する独占欲と好奇心に対して釘を打ち付けるかのような、それは罪悪感を俺に植え付けるための十字架だった。
何故なのだろう。
何故我々は本が読めなくなってしまうのだろう?
ここに至る理由には色々あると思うのだけれど、第一に思い浮かぶ理由といえば加齢である。
人間の脳は部位によっては三十代を超えてもなお成長し続けると一般に言われているが、しかし厳然として人間の肉体は二十代の半ばを境に衰え続けるのも事実である。というか、どちらかと言えば成長よりも衰退の方を意識せざるを得ないのが殆どではなかろうか、と思う。我々は衰退している。というか、我々の脳は衰退しているのである。衰退しました。
――つまりは、我々は一度読書能力を失ってしまうと、よっぽどの克己心を持たない限り――あるいは、そのような驚異的克己心を持たない限り――そのような超人的克己心に基づく人格改造なり人体改造を経ない限り――再び読書能力を取り戻すことは、難しいということなのである。
俺もそうであった。
それは、まるで一人の気のおけない友人との別れにも似ている。
ぶっちゃけると何でなのかは分からない。でも、確かにできるようになった。
復活した。アーメン。
(イースターの季節ですね)
去年の夏頃からその能力は突如として再生した。昨年から現在に至るまでの読書量は、読書能力が失われていた時代を遥かに超えている。ここのところお硬い文学小説にばかり目を通しているのだけれども、ここ一年間くらいで読んだページ数は5000頁を優に超えた。これまでの読書量を遥かに凌駕するレベルである(待っててくれプルースト)
正直なところ、何かを意識して自己改革したという記憶は殆どない。強いて言うならば、当時スマートフォンの通信量制限が喫緊の重要な課題と成り果てていたため、そのデータ通信量を節約するという実情に迫られて、通勤手段である電車に乗り込んでから本を読むようになったのがその理由と言えるかもしれない。
行きに十ページ、帰りに十ページ。
それを毎日。
仮に、一ヶ月の間に通勤期間が二十三日存在するとすれば、行きに十ページ帰りに十ページを繰り返すのであれば、一ヶ月で我々の読書量は460ページに到達するということになる。
とは言え、まずはそういうレベルから始めるのが得策であろうと思われる。人間は恐らく一日の間に二十ページ以上の本を読むことはできないのだ――特に文学小説のような対象を相手取るのであれば、僕らの克己心は我々の想像する以上に貧弱なのである。
さて。
これは正確に言うとライフハックではない。
電車の行き帰りで、それぞれ十頁ほどの時間を読書に費やすようになった男が存在している、というだけの話である。
そう、キーワードは電車だ。脳ミソと通信量のダブルダメージを避けようと、不意に読書を人生途上で――つまりはレールの上で――再開しただけの、それだけの話なのである。
参考になったであろうか?
恐らくは、なるまいと思う。
とは言え、かつて存在しその後に失われてしまったところの能力が、突如として復活するということは有り得るのだと――俺はただただその事だけを――伝えたかったのだ。今日を生き始めたものだけが、かつての息吹に再び胸をなでおろすことができるようになるのである。
皆さん、本を読みましょう。
魂を取り戻すために。
本が読めない。
読書家が人生において遅かれ早かれ直面するところの事件である。
本が読めない。
当方二十代後半の男であるが、今より遡ること十八年ほど前にラノベ(ブギーポップは笑わない)と出会い、それ以降文芸における視野を国内外の純文学や文芸作品へと広げ、様々なジャンルにおける読書体験を営みながら、これまでの人生を生きてきたのである。
そして、その読書体験の勢いと呼ぶべきものを二十代の前半辺りにまで持続させ、さてこれからの人生においても長い付き合いになりそうだなあ、などと呑気に構えていた時分、不意にその能力が消失したのであった。
何故なのかは分からないけれど、突然本が読めなくなったのだ。
書物との別れ。
何故なのだろう?
当方通勤に一時間以上を費やす難儀な民であるため、通勤時間中は心を半ば無にし、脳の活動を極低状態にまで抑え、死んだ目で通勤していたのが仇になったのだろうか。
(皆さん、覚えておいてほしいのだけれど、通勤時間が20分を上回るようになると脳の鬱傾向が加速するというエヴィデンスがあるそうなので、通勤時間はできるだけ短縮するようにしましょう)
でも、俺に関して言えば未だに通勤時間は二十代の前半から変わっていない。むしろ職場の変更から伸びたくらいであって、つまりその移動距離は未だに脳に対して厄介な負担を掛け続けているということになる。
まあそら本も読めなくなるわな。
とにかく去年の夏に至るまでの数年間、俺は本を読むことができなかった。
読みたい本はたくさんあった。それこそ山のようにあった。かつて、若き日の盛りに大阪へと日帰りの小旅行に行った思い出があるのだけれど、それは梅田に存在する某超大型一般書店に立ち寄るためだけに計画された小旅行なのであった。そんなこんなで、俺はその超大型書店へと赴き、そこで購入できる限りの本をわんさと買った後で、地元へと帰還したわけである。無論、それらの本の内の殆どは積ん読ルートを辿り、今も尚本棚の一角を占めその存在感を俺にアピールし続けている。
まるでそれは十字架だった。
俺の、購入した時点で尽き果ててしまった、知識に対する独占欲と好奇心に対して釘を打ち付けるかのような、それは罪悪感を俺に植え付けるための十字架だった。
何故なのだろう。
何故我々は本が読めなくなってしまうのだろう?
ここに至る理由には色々あると思うのだけれど、第一に思い浮かぶ理由といえば加齢である。
人間の脳は部位によっては三十代を超えてもなお成長し続けると一般に言われているが、しかし厳然として人間の肉体は二十代の半ばを境に衰え続けるのも事実である。というか、どちらかと言えば成長よりも衰退の方を意識せざるを得ないのが殆どではなかろうか、と思う。我々は衰退している。というか、我々の脳は衰退しているのである。衰退しました。
――つまりは、我々は一度読書能力を失ってしまうと、よっぽどの克己心を持たない限り――あるいは、そのような驚異的克己心を持たない限り――そのような超人的克己心に基づく人格改造なり人体改造を経ない限り――再び読書能力を取り戻すことは、難しいということなのである。
俺もそうであった。
それは、まるで一人の気のおけない友人との別れにも似ている。
ぶっちゃけると何でなのかは分からない。でも、確かにできるようになった。
復活した。アーメン。
(イースターの季節ですね)
去年の夏頃からその能力は突如として再生した。昨年から現在に至るまでの読書量は、読書能力が失われていた時代を遥かに超えている。ここのところお硬い文学小説にばかり目を通しているのだけれども、ここ一年間くらいで読んだページ数は5000頁を優に超えた。これまでの読書量を遥かに凌駕するレベルである(待っててくれプルースト)
正直なところ、何かを意識して自己改革したという記憶は殆どない。強いて言うならば、当時スマートフォンの通信量制限が喫緊の重要な課題と成り果てていたため、そのデータ通信量を節約するという実情に迫られて、通勤手段である電車に乗り込んでから本を読むようになったのがその理由と言えるかもしれない。
行きに十ページ、帰りに十ページ。
それを毎日。
仮に、一ヶ月の間に通勤期間が二十三日存在するとすれば、行きに十ページ帰りに十ページを繰り返すのであれば、一ヶ月で我々の読書量は460ページに到達するということになる。
とは言え、まずはそういうレベルから始めるのが得策であろうと思われる。人間は恐らく一日の間に二十ページ以上の本を読むことはできないのだ――特に文学小説のような対象を相手取るのであれば、僕らの克己心は我々の想像する以上に貧弱なのである。
さて。
これは正確に言うとライフハックではない。
電車の行き帰りで、それぞれ十頁ほどの時間を読書に費やすようになった男が存在している、というだけの話である。
そう、キーワードは電車だ。脳ミソと通信量のダブルダメージを避けようと、不意に読書を人生途上で――つまりはレールの上で――再開しただけの、それだけの話なのである。
参考になったであろうか?
恐らくは、なるまいと思う。
とは言え、かつて存在しその後に失われてしまったところの能力が、突如として復活するということは有り得るのだと――俺はただただその事だけを――伝えたかったのだ。今日を生き始めたものだけが、かつての息吹に再び胸をなでおろすことができるようになるのである。
皆さん、本を読みましょう。
魂を取り戻すために。
共感してくれる人がいるかわからないけど、お焚き上げのつもりで書かせてほしい。
同性愛、風俗に嫌悪感がある人は読まないほうがいいと思います。
===
当方、アラサーのリーマン。人生を深く考えず、周りに流されるままに勉強して大学に入って、そのままなんとなく会社に入り、理不尽な上司に悩まされたり、たまには転職しようかと思い悩んだり、一般的なサラリーマン生活を送り、勤続10年を超えた、普通のサラリーマン。
誰にもカミングアウトしていない。だから女の話は男の話に置き換えて自分を偽る日々。
高校生くらいの頃から、男の体に興味がでてきて、触れたいって思うようになった。
自分はゲイなのかなーとか思いつつ、あまり深く考えずに、いや考えないようにしてこの年齢まできた。
ちなみに女性と付き合ったことあるし、女性とセックスの経験もある。同僚に連れられてだけど、風俗に行ったこともある。
こう聞くとバイセクシャルのように感じるかもしれないけど、
女性とのセックスは、単に体の刺激に対する反応って感じだった。
性器が刺激されると勃起し、さらに刺激されると射精し・・・という体の反応。
(ただし、人間としては男女問わず魅力を感じるし、女性に嫌悪感を感じることはない)
付き合っても手を繋ぎたい、セックスしたいっていう欲求がないから、
「友達だったころから何も変わらない。」っていう理由で女性からは振られてた。
さらに、20代後半からは女性とセックスがうまくできないだろうなって思うようになってきて、
(たぶん勘違いなんだろうけど)自分に好意を寄せてくれてるんだろうなーっていう女性がいても、
自ら距離をおいていた。
男の体に対する興味がどんどん高まり、性欲がだんだん抑えきれなくなってきて、
行ったら行ったでやること(ゆーてもアナルセックスはしない)は、
やるんだけど、その度に自分自身への嫌悪感と罪悪感を感じてた。
性欲を解消するためにお金を払うことが汚らしくも感じてたのだろうか。
けど、とあるウリ専(男性向け風俗店)でそこで出会ったNくんは全く違っていた。
本人はノンケ (異性愛者)らしく、小遣い稼ぎでゲイ風俗で働いているだけで、
初めて人の体に心から触れたいと思ったし、(表面上は)嫌がらずに触らせてくれた。
年下だからなのか、なぜか彼の応援をしたい、そう思わせるような人だった。
「あなたにしか話してないんだけど・・・」と、自分の私生活に間することを話してくれたことも、
私をのぼせ上がらせた。
みんなにやってるんだよな、深い意味はないんだよな、と心のウキウキを自制したけど、
ことを済ませて帰るときにめちゃくちゃ切なくなくって、また今度指名しようと思って、
ただ、すぐに指名するのはよくないと思い、1ヶ月に1回くらい指名してた。
そこで先週、前回指名してから1ヶ月くらいたってそろそろ会いたいなーって思って、お店のHPをチェックした。
ボーイ一覧から削除されてるー!
いつかはこういう時がくるんだろうけども。それはわかっていたけども。
前に行った時にはしばらく働くつもりって言ってたのにー。えー。
1週間くらい茫然自失の時期が続いて、すぐ立ち直れるだろうと思っていたけど、もう彼とは会えないのかと思うと、死ぬほどショックで切なくて死にたくなってる。
というわけで、誰ともほんとの恋をしたことなかったゲイのアラサーリーマンが、
ゲイ向け風俗で働いているノンケくんに勝手に恋をして、彼が辞めて人生で初めて、普段ノンケ さんたちがしている失恋とはこんな感じなのかと思っている次第です。あー、辛い。
風俗に行く人はみんなきもい、ゲイはきもい、と思う人もいるんだろうけど、もう恥はかき捨てて、彼への気持ちをまとめて言ってこの気持ちを昇天させようと思います。
===
Nくん、ノンケの君とゲイの僕は住んでる世界が違うし、ウリ専という場ではあったけど、君と同じ時間を過ごせて楽しかった。お店を通しての関係じゃなくてふつーの友達の関係だったらよかったのにと何度も思ったけど、あの時あの場所にふたりで一緒にいたことは変わりがないので、君と少しの時間を一緒に過ごせたことに感謝します。君の未来が幸せで明るいものになるよう、心から応援しています。
アーメン。
ここは素敵なインターネッツですね、
銀行の窓口になんか滅多に行かないんだけど、
行くと割といつもインパクト深い感じなのよ。
ドル袋もってきて窓口にドサって置いてお金を預けに来た人初めて見たわよ!
あれってなに?麻袋かなにかなのかしら?
あんなの映画か漫画かゲームかボナンザブラザーズの世界だけの話かと思ってたけど。
銀行の窓口に行って
でもそれって他行に行けば、
作れる訳なのよ新しい口座。
それはそれでなんか厳しいんだなーって思うんだけど、
普通にいろいろと分けて使いたい人からみたらとんでもなく不便な話よね。
ふと思ったんだけど、
ゴルゴ13みたいに。
うふふ。
というか、もうこれも書き上げてまた銀行に行く手間があるのよ。
でも行ってくるわ。
日本でも放送されたBBCで放送されてた番組がDVDになるんだって!
思わず注文しちゃったわ。
これは普通にジャンルで言えばスープなのでウォーラーではないわ。
やたら美味しいのよね!
このお茶。
なかなか自分では買えないような感じの値段なだけにって。
まあそう言うことよ。
すいすいすいようび~
今日も頑張りましょう!