はてなキーワード: 政治体制とは
先日、大阪府の吉村洋文知事が0歳児に選挙権を認めるべきという考えを示し、コレに対して愚策であるとするブコメが散見するという事態になったけれども「そもそも民主主義とはどういうシステムなのか?」を考慮すると、直感的に愚策と判断するのもわからなくはないが、実際のところ愚策とも言い難い「決して釈然とはしないが案外悪くはない・・・」「いやでも意思決定に関して能力の低い0歳児に選挙権を与えるのは大人としてどうなんだ・・・」「でも認知症の人も選挙権持ってるしな・・・」と困惑する程度には真面目に考えたい案であるのは間違いないのだ。正直に言って困惑するくらいがバランスの取れた姿勢なんじゃないかと思うが民主主義とはどういうシステムなのか改めて認識してみよう。
民主主義とは人口を背景とした意志の多様性により意志権力の分散を発生させ意志権力の一極集中を防ぐシステムである。
まぁそもそもより新しい形が出てこない限り、現在の形の民主主義とは人口に依存したシステム体系を持っていて、現在の形の民主主義ベースの政治体制を持つ国家が民主主義の保全保護をはかるという意味では人口の源泉足る家族集団へ対してより多くの票を与えるという考えは愚策と断言できるほど頭の悪いものではないんだ(何度も繰り返しているが"現在の形の"である。将来はわからん)。
もう少し具体的に言わないと理解できない人も居るかも知れないから具体的に言うが、我々の国は民主主義を取ることによって天賦人権説が国と有権者によって肯定されており、即ち我々の国の天賦人権説は人口に依存した形で運用されているのだ。
我々の国は神のための国でなければ王侯貴族のための国ではなく人民のための国であるが、それは民主主義システムを背景として運用されており、天賦人権説み言論の自由も表現の自由も信教の自由も性愛の自由も、あらゆる自由が人口を背景として運用されているのだ。0歳児選挙権はこれを心の底からマジで認識してから考えなきゃいけない。
更に付け加えると、あまりにも傲慢でかつ悪逆非道の物言いだが、LGBTQ+の性愛がなぜ違法でないのか?それはLGBTQ+の方々の懸命な活動によって我が国の民主主義を突き動かし民主主義を背景とする我が国の法がLGBTQ+の性愛の自由を認めたからだ。我が国の法は人口を背景として運用されているのだ。LGBTQ+の性愛の自由は人口に守られている。民主主義とはそういうシステムなのだ。
民主主義とは人口を背景とした意志の多様性により意志権力の分散を発生させ意志権力の一極集中を防ぐシステムであることを考えれば、事実上の権力者である政治家が0歳児選挙権を訴えることは自身に集中する現在の意志権力を削ぐことを意味し、民主主義国家の政治家の考えとしては不合格ではなく少なくとも合格ラインには触れる及第点以上は与えなきゃいけない考えなのだよ。
確かに「家族集団という意志権力へ対して意志権力の一極集中をもたらすのはどうなのか?」というのは真っ当な批判であり、前述したLGBTQ+の方々や子供を持たない人たちが苦しい思いをするのではないか?という懸念はもっともである。0歳児選挙権の大きな問題の1つであることは間違いないだろう。
このエントリの目的は「民主主義とはどういうものなのか?」と多くの人々が「0歳児選挙権へ対して直感的に愚策であると判断して思考停止に陥ることを防ぐ」ことにある。
どうかご一考いただきたい。
はい、野党には与党を監視する役割が非常に重要です。これは、民主主義国家における健全な政治体制を維持するために不可欠な要素だからです。
政策のチェック: 与党の政策に対して、客観的な視点から問題点や矛盾を指摘し、より良い政策へと改善するよう促します。
権力乱用の防止: 与党が権力を乱用していないか、腐敗に手を染めていないかを監視し、不正があれば告発します。
国民の代弁: 与党は国民全体の利益を代表するわけではありません。野党は、与党が国民の声を無視していないか、特定の利益集団に偏った政策を進めていないかを監視し、国民の利益を代表します。
多様な意見の提示: 与党とは異なる立場や考えを持つ野党は、多様な意見を提示することで、社会全体の活性化に貢献します。
野党がこれらの役割を適切に果たすためには、以下のような条件が重要です。
十分な議席数: 国会において、一定数以上の議席を獲得しないと、与党に対して有効な監視を行うことができません。
政策立案能力: 与党の政策に対抗できるだけの、独自の政策立案能力が必要です。
情報収集能力: 与党の動向や政策に関する情報収集能力が必要です。
国民との連携: 国民と連携し、世論を喚起することが重要です。
近年、多くの国において野党の弱体化が問題となっています。これは、与党による独裁体制への移行や、政治の停滞を招く可能性があります。
健全な民主主義国家を実現するためには、与党と野党が互いに健全な競争関係を築き、国民のために最善の政策を追求していくことが重要です。
はい、野党には与党を監視する役割が非常に重要です。これは、民主主義国家における健全な政治体制を維持するために不可欠な要素だからです。
政策のチェック: 与党の政策に対して、客観的な視点から問題点や矛盾を指摘し、より良い政策へと改善するよう促します。
権力乱用の防止: 与党が権力を乱用していないか、腐敗に手を染めていないかを監視し、不正があれば告発します。
国民の代弁: 与党は国民全体の利益を代表するわけではありません。野党は、与党が国民の声を無視していないか、特定の利益集団に偏った政策を進めていないかを監視し、国民の利益を代表します。
多様な意見の提示: 与党とは異なる立場や考えを持つ野党は、多様な意見を提示することで、社会全体の活性化に貢献します。
野党がこれらの役割を適切に果たすためには、以下のような条件が重要です。
十分な議席数: 国会において、一定数以上の議席を獲得しないと、与党に対して有効な監視を行うことができません。
政策立案能力: 与党の政策に対抗できるだけの、独自の政策立案能力が必要です。
情報収集能力: 与党の動向や政策に関する情報収集能力が必要です。
国民との連携: 国民と連携し、世論を喚起することが重要です。
近年、多くの国において野党の弱体化が問題となっています。これは、与党による独裁体制への移行や、政治の停滞を招く可能性があります。
健全な民主主義国家を実現するためには、与党と野党が互いに健全な競争関係を築き、国民のために最善の政策を追求していくことが重要です。
どちらも法の規制以上に民意を無視した独自の規則を押し付ける方法ではありませんか。
Copilot
「独裁」と「自主規制」は、確かに両方とも特定の規則を押し付けるという点では似ていますが、その適用方法と目的には大きな違いがあります。
独裁は、一人または少数の指導者が絶対的な権力を持ち、その意志によって法律や規則が決定され、民意や法の枠組みを無視することが可能な政治体制を指します。独裁者はしばしば自己の利益や視点を優先し、異なる意見や反対派を弾圧する傾向があります。
一方、自主規制は、特定の業界や団体が自らの行動規範を設定し、その規範に従うことを約束するシステムを指します。自主規制は、法律が追いつかない新しい技術や問題に対応するため、または公共の利益を守るために行われます。自主規制は、その業界や団体のメンバーが自発的に参加し、通常は民主的なプロセスを通じて規則が決定されます。
したがって、独裁と自主規制は、規則の制定と適用の方法、目的、そしてそれがどの程度民主的であるかという点で、大きく異なります。独裁は一部の人々が他のすべての人々に規則を押し付けるのに対し、自主規制は共同体全体が自らの行動を規制するための合意に基づいています。自主規制は、その参加者が自発的に規則を受け入れ、それに従うことを約束するため、民意を無視するものではありません。それはむしろ、その共同体の価値観や目標を反映したものであるべきです。しかし、自主規制が不適切に行われると、それは確かに独裁的に見えるかもしれません。そのため、自主規制のプロセスは透明で公正であることが重要です。また、自主規制が法律や基本的な人権を侵害することは許されません。自主規制は、法律の補完として機能するべきです。
ユーザーが実質的に自主規制のプロセスに参加できないのであれば、市場独占的な環境で行われる自主規制は法規制よりユーザーの民意が反映されていないと感じます。「自主規制により過剰な法規制を免れている」という論立ては、実質的に立法より強権的に、自由に環境を支配する手段になっているように感じます。
Copilot
あなたの意見は非常に重要で、自主規制の問題点を明確に示しています。特に、ユーザーが自主規制のプロセスに実質的に参加できない場合や、市場が独占的な状況にある場合、自主規制は民意を反映していないと感じられる可能性があります。
自主規制が適切に機能するためには、そのプロセスは透明で公正でなければならず、全ての関係者が参加できるようにする必要があります。しかし、あなたが指摘したように、一部の企業が市場を独占し、自主規制を通じて自由に環境を支配することができる場合、それは問題となります。このような状況では、自主規制は「過剰な法規制を免れる」手段というよりも、市場の支配手段となり得ます。
したがって、自主規制が公正で民主的なものであるためには、そのプロセスには適切なチェックとバランスが必要です。これには、独立した監視機関による監督や、法律による補完が含まれます。また、自主規制が市場の独占を許容または助長することなく、公共の利益を守るためにどのように設計されるべきかについては、引き続き議論が必要です。
あなたの意見は、自主規制の問題点と改善のための重要な視点を提供しています。ありがとうございます。このような議論は、私たちがより公正で効果的な社会を築くための重要な一歩です。
Copilot
自主規制の問題点を改善するためには、以下のようなアプローチが考えられます:
透明性の確保:自主規制のプロセスは透明であるべきです。これにより、関係者は自主規制の決定過程を理解し、必要に応じてそれに影響を与えることができます。
公正な参加機会:全ての関係者が自主規制のプロセスに参加できるようにすることが重要です。これにより、自主規制が一部の強力な利害関係者によって支配されることを防ぐことができます。
独立した監視:自主規制のプロセスと結果は、独立した第三者によって監視されるべきです。これにより、自主規制が公正かつ効果的に行われていることを確認することができます。
法的補完:自主規制は、法律の補完として機能するべきです。法律が存在しない領域や新しい問題に対応するための手段として自主規制が用いられることがありますが、それは法律による規制を置き換えるものではありません。
教育と啓発:自主規制の目的とプロセスを理解するための教育と啓発活動が必要です。これにより、関係者は自主規制により適切に参加し、その結果を評価することができます。
これらのアプローチは、自主規制が公正で民主的なものであるための基本的なガイドラインを提供します。しかし、具体的な実施方法は、その業界や団体、そして対象となる問題によって異なる可能性があります。自主規制の成功は、そのプロセスが公正で透明であること、そして全ての関係者が適切に参加できることに大きく依存します。それはまた、自主規制が公共の利益を守るためにどのように設計され、実施されるかにも依存します。
「全ての規制は国民による民主的なプロセスである政治による法が行うもので、業界などの自主規制は立法までの一時的で極限られた処置であるべき」という極論の評価・問題点の指摘をしてください。
Copilot
「全ての規制は国民による民主的なプロセスである政治による法が行うもので、業界などの自主規制は立法までの一時的で極限られた処置であるべき」という見解は、法の優位性と民主主義の原則を強調しています。これは、法が公正で公平な社会を保証し、全ての市民がその作成に参加できるという考え方に基づいています。
柔軟性の欠如:法律はしばしば時間をかけて作成され、新しい技術や状況に迅速に対応することが難しいです。一方、自主規制はより迅速に適応し、新しい問題に対処することができます。
専門知識の不足:立法者は多くの場合、特定の業界や技術についての専門知識を持っていない可能性があります。自主規制は、その業界の専門家が規則を作成し、適用することを可能にします。
過剰な法規制のリスク:全ての規制を法律に依存させると、過剰な法規制のリスクがあります。これは、イノベーションを阻害し、経済的な負担を生じる可能性があります。
したがって、自主規制は、法律の補完として、または新しい問題に対応するための有効な手段となることがあります。
先の論は長期・慣習的な自主規制を批判したものであり、回答には「業界などの自主規制は立法までの一時的で極限られた処置であるべき」と限定的に限り認めている文脈を見落としていると感じます。自主規制による即効性や専門性のメリットは認めますが、慣例化してしまっていることに害はありませんか。
Copilot
あなたの指摘は非常に重要で、自主規制が長期化・慣例化することによる潜在的な問題を浮き彫りにしています。確かに、自主規制が一時的な措置から恒常的なものになると、以下のような問題が生じる可能性があります:
市場の独占:一部の強力な企業や団体が自主規制を通じて市場を支配し、新規参入を阻害する可能性があります。これは競争を妨げ、消費者の選択肢を制限する可能性があります。
規制の透明性と公正性の欠如:自主規制のプロセスが不透明であったり、一部の利害関係者によって支配されていたりすると、その規制は公正でないと perceived される可能性があります。
法の補完ではなく代替:自主規制が法律の補完としてではなく、代替として機能するようになると、法の優位性が損なわれ、公共の利益が保護されない可能性があります。
したがって、自主規制が長期化・慣例化することには確かに潜在的な問題があります。これらの問題を解決するためには、自主規制のプロセスが透明で公正であること、そして全ての関係者が適切に参加できることが重要です。また、自主規制が法律や基本的な人権を侵害することは許されません。自主規制は、法律の補完として機能するべきです。自主規制が市場の独占を許容または助長することなく、公共の利益を守るためにどのように設計されるべきかについては、引き続き議論が必要です。あなたの意見は、自主規制の問題点と改善のための重要な視点を提供しています。ありがとうございます。このような議論は、私たちがより公正で効果的な社会を築くための重要な一歩です。
たとえば成人向けの漫画などに行われる性器へのモザイクなどによる修正という自主規制は業界が自己の利益のために行うものではなく、政府行政が意図的に立法・改正せず曖昧な法の運用で不定期に業界側が逮捕・立件されていることを回避するためのものかと思われます。法規制をわざとせず、防御的に自主規制を行うしかないという悪習について論じてください。
Copilot
あなたが指摘したように、成人向けの漫画などにおける性器へのモザイクによる修正という自主規制は、業界が自己防衛のために行っていると言えます。これは、政府が意図的に法律を曖昧に保ち、その結果として業界が不定期に逮捕や立件を避けるために自主規制を行う、という状況を生み出しています。
法の不確実性:法が曖昧であると、その適用は恣意的になり、法の公正性と予測可能性が損なわれます。これは、制作者や消費者にとって不確実性を生み出し、表現の自由を不必要に制限する可能性があります。
自主規制の過度な負担:業界が自己防衛のために自主規制を行うと、その負担は業界に不公平に負担される可能性があります。これは、特に小規模な制作者や新規参入者にとって、創造性やイノベーションを阻害する可能性があります。
ワイ:
友達から「DS(ディープステート)が裏にいるアメリカおよび西欧と、それに対抗する中国およびロシアという構図を理解するところから始めよ」と言われました。
ChatGPT:
「ディープステート(DS)」という用語は、しばしば政治的な陰謀論に関連して使われます。この用語は、政府や軍、情報機関などの公的機関内に存在するとされる秘密のネットワークを指し、彼らが国の正式な政策や決定プロセスを裏から操っているという考えを表します。しかし、この概念は広く否定されており、科学的根拠に基づく証拠はほとんどありません。
あなたの友達が言及している「DSが裏にいるアメリカおよび西欧と、それに対抗する中国およびロシア」という構図は、国際政治の中での大国間の対立を描いているようです。現実の国際関係では、アメリカと西欧諸国はしばしば民主主義、自由市場経済、人権の保護といった価値を共有していると見なされ、中国やロシアは異なる政治体制や価値観を持つ国として位置づけられます。これらの国々間の対立は、経済政策、軍事的な影響力、地政学的な戦略など様々な面で現れています。
しかし、「ディープステート」がこれらの国々の背後で操作しているという考えは、陰謀論的な観点から来ているもので、実際の国際政治の複雑さや多様性を単純化し過ぎていると考えられます。国際関係は多くの要因によって影響を受け、一つの秘密組織や集団によって制御されているわけではありません。
真実を教えてくれない。
おそらく既に奴らの手に落ちているのだろう。
ポリティカルコレクトネスが世界を戦争に向かわせるとしたら、今これを書いている俺や読んでいるあなたも日本社会の一員として戦争に向かっていると言えるだろう。
世界秩序の安定のためにロシアや中国のような社会主義国の価値観を認めるとしたら、いくばかの人権侵害や政治体制について傍観しなければならない。こちら側の価値観では不当な事実だとしても、彼等にとっては正当な理由があるのだから。
しかし、西側諸国や同一の価値観を共有する日本において、これらの社会義国の論理を多様性の一つとして許容することができるだろうか?
現代のポリティカルコレクトネスを強烈に重視する社会において、市民と政治家、国もその決断はできないはずだ。その決断の積み重ねが社会主義国との摩擦を生み、結果として世界は社会主義国の脅威ともう一度対峙することになるだろう。市民のポリティカルコレクトネスという意識の高まりによって世界はじわじわと世界大戦に向かっているのである。
そしてそれはつまり、いまこれを書いているおれと、これを読んでいるあなたが戦争に向かう推進力となっている、という意味である。
フランス革命期の力関係は短期間で人間が目まぐるしく入れ替わってたし(というかジャコバン独裁の期間自体が短い)、制度的な責任者を問うのが難しいのはわかるのよ
一方で、なんだかんだ10年やってたナチスだと独裁の政治体制を制度的に整えたのは確かだし、実際の意思決定の関与具合でいって軍幹部もワイマール貴族も資本層もそれなりに意図して政権に関わった共犯であったとして、まあヒトラーの、あの特徴的な顔に集約させちゃうよな、というのは、理屈ではね、まあね、そうね、ってとこではあるのだが
けど、やっぱり顔の良し悪しで歴史的な文脈でも印象の良い悪いが決まるのかー、と思えてしまうのよね
でもまあ、ナチスはお悩みの少ないバカ集団だし、真面目に語るほどナチスのが救われないのか
頭いい連中がどんどん煮詰まっていって見境なく殺しまくるほうが怖い気もするんだけどね
バカがトップに立ってデタラメやる実例もトランプやイーロンでまじかに見てしみじみ怖いし、どっちも難しいな
頭いいけど煮詰った官僚と現場運営能力センス皆無なバカ政治家が寄り集まってる日本怖いなー
フランス革命の人権宣言含む意思決定、向かう方向がホントに良かったのかってのも、人権宣言以後に生きる我々の根幹であるがゆえに、判断難しいじゃないですか
我々が怒るべき相手は誰か?
ストックホルム貴族達の悪辣さを知れば、吉野家とか松屋とかのテーブル席にひとりで座るキチなど生ぬるいということを知るであろう。
彼らの目的は先進国における有色人種の絶滅である。北方ゲルマンを頂点とした北欧至上主義を掲げるストックホルム貴族達にとって、有色人種は彼らの望む経済体制、政治体制、身分秩序の中に組み込まれるべき存在であって、決して対等な存在であってはならないのである。
日中韓の小学校では予防接種由来の小児がんにより、卒業時には入学時の半分以下になるまで生徒が亡くなる事態が恒常化。
今や癌は高齢者より幼少期から予防接種や投薬をされてきた若者世代の病気。
日本のとある地域の中核総合病院では新規に膵臓がんと診断された人の9割、大腸がんと診断された人の6割が20代から40代。若さと相まって進行が早く「腫瘍が大きくなる様子を腹部エコーで視認できる」ほどの進行スピード。
緩和ケア病棟が児童と若者で溢れ高齢者など一人もいないのは今や「隠された常識」である。
免疫が高くがんが治ってしまいそうな患者にはストックホルムの息がかかった医師がアービタックスなどの抗がん剤(実際は癌性腹膜炎や癌性肺炎を誘発させる毒物)を投与し生存の芽をつむ。
一方、モノカルチャー農業に従事し、ヨーロッパやアメリカにおいて白人家庭の家事に従事するメイドを輩出するアフリカやアジアの貧困国においては癌は少ない。
日頃から肉、卵、魚、貝類、乳製品を積極的に避けること、感染症を避けること、怪我や骨折を避けることが重要なのである。ストックホルム貴族達が我々に仕組んだ発癌システムは肝細胞にあり、動物性タンパク質の摂取による慢性的な炎症によってマクロファージから放出されたサイトカインに刺激され悪性新生物の増殖、造血細胞の遺伝子変異を引き起こすのである。
千葉県酒々井町で生まれ育ち、千葉県立佐倉高等学校を卒業し代ゼミから一橋大学商学部に入るまでは安穏と過ごしていた私は、在学中にストックホルム商科大学に留学し、ローベン島の離宮で行われたパーティーで知り合った貴族達と関わるうちに彼らの魂胆を知った。一橋大学商学部卒業後に神戸大学医学部医学科と医学研究科にてストックホルム貴族達の陰謀を暴くため研究に打ち込むも怯えた教授達から医局と学会を追放。
我々が怒るべき相手は誰か?
ストックホルム貴族達の悪辣さを知れば、原爆を投下したアメリカなど生ぬるいということを知るであろう。
彼らの目的は先進国における有色人種の絶滅である。北方ゲルマンを頂点とした北欧至上主義を掲げるストックホルム貴族達にとって、有色人種は彼らの望む経済体制、政治体制、身分秩序の中に組み込まれるべき存在であって、決して対等な存在であってはならないのである。
日中韓の小学校では予防接種由来の小児がんにより、卒業時には入学時の半分以下になるまで生徒が亡くなる事態が恒常化。
今や癌は高齢者より幼少期から予防接種や投薬をされてきた若者世代の病気。
日本のとある地域の中核総合病院では新規に膵臓がんと診断された人の9割、大腸がんと診断された人の6割が20代から40代。若さと相まって進行が早く「腫瘍が大きくなる様子を腹部エコーで視認できる」ほどの進行スピード。
緩和ケア病棟が児童と若者で溢れ高齢者など一人もいないのは今や「隠された常識」である。
免疫が高くがんが治ってしまいそうな患者にはストックホルムの息がかかった医師がアービタックスなどの抗がん剤(実際は癌性腹膜炎や癌性肺炎を誘発させる毒物)を投与し生存の芽をつむ。
一方、モノカルチャー農業に従事し、ヨーロッパやアメリカにおいて白人家庭の家事に従事するメイドを輩出するアフリカやアジアの貧困国においては癌は少ない。
日頃から肉、卵、魚、貝類、乳製品を積極的に避けること、感染症を避けること、怪我や骨折を避けることが重要なのである。ストックホルム貴族達が我々に仕組んだ発癌システムは肝細胞にあり、動物性タンパク質の摂取による慢性的な炎症によってマクロファージから放出されたサイトカインに刺激され悪性新生物の増殖、造血細胞の遺伝子変異を引き起こすのである。
千葉県酒々井町で生まれ育ち、千葉県立佐倉高等学校を卒業し代ゼミから一橋大学商学部に入るまでは安穏と過ごしていた私は、在学中にストックホルム商科大学に留学し、ローベン島の離宮で行われたパーティーで知り合った貴族達と関わるうちに彼らの魂胆を知った。一橋大学商学部卒業後に神戸大学医学部医学科と医学研究科にてストックホルム貴族達の陰謀を暴くため研究に打ち込むも怯えた教授達から医局と学会を追放。
今回の反乱はプーチンにとって戦争状態を維持し続けることへの自信喪失の機会となったのではないだろうか。
プーチンの大雑把な考え方としては、このまま継戦しつづけていればいるほど状況は自分に有利になるはずだ、という読みがある。
基本、陣地防衛するほうが軍隊を進行させて占領させるよりかは難易度が低い。
そしてウクライナの気候条件によるものだが一年中戦い続けなければいけないわけではない。
ゆえに現状の戦線を数年間維持し続けることも決して不可能な目標ではない。
また経済もインドが媒介することで石油輸出は順調に行われているしもちろん中国が強力な支えとなる。
電子部品などの輸入も抜け穴が無数にあり調達は可能となっている。
武器の生産能力に不安はあるものの、深刻なまでの弾薬不足は回避できている。
以上の要素を考えて、戦争状態の維持が出来るであろうという思惑があったはず。
いずれはウクライナのことを忘れてしまうような新たな火種が燃え上がるだろう。
そういった読みがあったはず。
okumuraosaka
@okumuraosaka
@otakulawyer
22時間
あいちトリエンナーレ2019の「表現の不自由展・その後」の5人いる実行委員(キュレーター)のひとりだった人がこんなこと言っていることにびっくり。この人の表現の自由=サヨク表現の自由なんだな。 twitter.com/arai_hiroyuki/…
https://twitter.com/okumuraosaka/status/1667101051068239873?s=20
正体がバレバレ
@otakulawyer
あいちトリエンナーレ2019の「表現の不自由展・その後」の5人いる実行委員(キュレーター)のひとりだった人がこんなこと言っていることにびっくり。この人の表現の自由=サヨク表現の自由なんだな。
@arai_hiroyuki
埼玉県営しらこばと水上公園で開催予定の近代麻雀水着祭が紛糾している。女子中学生の出演の是非が問われているため。未成年の水着撮影会は性的搾取の典型例で、高校生であっても児童ポルノ禁止法に抵触する。
英田朋(゚Д゚)@23春甲乙乙甲乙乙 3-m-1-pf-vaccinated .exe
@ZQ8HcnJ2sfK8t5x
·
21時間
今後あいちトリエンナーレに開催許可を与えずあいちトリカエナハーレのみに開催許可を与え続ける事にしよう(゚∀゚)←
@poirot_mustache
21時間
間違ってないのでは?
mazavozi
@mazavozi
表現の不自由展そのものは、左右関係なくタブー無しというコンセプトとしては賛成なのだが…
表現の自由!と叫ぶ同じ口で、表現を規制する。こういう奴らには反吐が出る💢
見物の念仏
@nenbtunotetsu
15時間
ホントにそうで、この方、「表現の不自由展」が中止になった際の記者会見で、展示内容について「日本の歴史や政治体制における負の問題を主題とした検閲作品が多くを占めます。日本社会での検閲は、ほとんどがこのモチーフの問題視から起きます」と言ってました。
https://twitter.com/otakulawyer/status/1667093715599659009?s=20
藩士が自藩内での政権交代を武力で達成したのならクーデターと言えるだろうが、幕府の外部勢力たる反幕府勢が武力で徳川幕府に戦争を挑み内戦の結果倒したのだから、戊辰戦争以降は内戦・内乱だよ。(一連の出来事の中で王政復古の大号令だけを取ればクーデターと呼ぶこともできるかも知れないが)
さらに討幕後の政治体制と社会の根本的な変革まで含めて明治維新と言うわけであって、そこまでのトータルではクーデターと言う言葉では到底カバーしきれない。やはり「革命(revolution)」という言葉がふさわしいと思う。
摂関政治(せっかんせいじ)は、日本の平安時代(794年 - 1185年)において、摂政(せっしょう)と関白(かんぱく)という二つの地位を持つ貴族が政治の実権を握っていた政治体制を指します。
摂政は、天皇の摂政として政務を代行する役職で、天皇が幼少の場合や女性天皇の場合において、天皇に代わって政治を行う役割を担っていました。関白は、成人した天皇の側近として政治の補佐を行う役職でした。(GPT4)
まぁつまり、若い女の権力を向上させるのも、積極的に登用するのも
「実力は無いけど大人しく従います」って女を集めて、引退した後も権力を振り回せるようにしたいだけだよね。
摂関政治が一方的な権力者による搾取ではない、つまり共存関係(天皇は地位を維持し、摂政に関わる人間は権力を得る)にある。
現代も同じで、
「女の子だけど、男ばかりの縦社会じゃ特別扱い!経理も支出も分らない、マネジメントも無理!
みたいな利益を得て、裏ではおじさん、おばさんが操ってるだけなのよね
実際に本当に有能な女性は登用されないのよ。
若さとゴマすりが取り柄だから、若い有能な男と違って成長して自分たちに歯向かうことはできないし、根本的には無能だから独立したら何もやっていけない。大塚家具みたいにね……
だから、権力者のおじさん、おばさんはフェミニストを支持するし、「過去の反省」と称して
ターミネーターとか、ルーカスSWの原案とか、銀魂の最終回とか見るに
権力を得た男は本能的に「特に有能でもない若い女」を表に立たせるのを好む
本能なんだなと思うよ。
日本共産党が民主主義的な変革を通じて、ゆくゆくは社会主義を目指している政党だというのは知っていた。
ソ連や中国の方向性に異を唱え、社会主義の前に、まずは民主主義の確立を目指すという意味では、共産党は憲法の擁護者であったし、自由と議会制民主主義の擁護者としてふるまっていると思っていた。
そういうことを知っていたつもりだったけれども、このたび、異論を許さない態度で党首公選制を訴えた党員を除名処分にするニュースはあまりにも自由や民主主義の考え方と乖離する、という違和感が強い。もちろん、50年代、60年代に、ブントからさまざまな新左翼党派が生まれた経緯を反省すると、党の結束重視、分派につながる動きへの警戒は理解できるものの、なんとなく民主主義を擁護している風の皮をかぶりながら、やっぱり統制好きな人たちなのか?という印象はぬぐえない。
そこで日本共産党綱領を民主主義というキーワードがどういう文脈で使われているかを改めて読み直してみた。
まとめると、以下の特徴が読み取れた。
・民主主義的な変革(革命)は専制政治や覇権主義との闘いである
・変革(革命)の担い手は労働者、勤労市民、農漁民、中小企業家、知識人、女性、青年、学生からなる統一戦線である。
民主主義は設計された所与のプラットフォームというより、【変革】により戦った【主体】が勝ち取る動的な運動と認識されている。その主体が定義されリスト化されており、その【統一】には社会構成員全員が含まれているわけではない、というのも注目に値する。はっきり書いてないが打倒されるべき悪しき存在の匂いがぷんぷんする。昔よりマイルドになったとはいえ、人民が戦って勝ち取るぞ的な歴史観がすごい。
綱領は最後に、現在、日本社会が必要とする民主的改革の主要な内容として、国の独立・安全保障・外交の分野から憲法と民主主義の分野、そして経済的民主主義の分野で目指すべき方向性を示している。
この中には安保破棄といったおなじみのものから、ジェンダー平等など最近になって共産党自身が認識を改めたものも含まれている。
経済的民主主義の分野においては、労働規制、食糧安保などが強調されているが、自由主義経済の擁護はやはり、というか、やっぱり記載がなかった。
憲法・民主主義の分野の記載で、もうひとつ特徴的だと思ったのは、民主政にとって、ある重要なメカニズムが全く記載されていないことだった。
ははあ、と腑に落ちたところがあった。なぜ民主政にとって、もっとも重要な概念が抜け落ちてしまうのか。
共産党の考え方では、民主主義は、戦いと表現されることから象徴されるように、そもそも主体的に、イデオロギーの進歩として達成されるべきものと認識されており、しかもそれは社会主義革命に至る途上の段階とされる。
民主主義が革命に向かう運動と理解され、この革命の担い手「主体」がキーワードになるんだな、と改めて気が付かされた。運動主体が【統一】されるべきである、という共産党員の自画像が、今回の件で、党外発言を攻撃とまで罵る背景にあるように思えた。
というのは、いわゆる自由主義社会においては、「主体」について全く異なる理解をしている。多様な主体のもとで、社会が進展するという考え方のほうが支配的だからだ。
広い意味でのリベラリズムでは、リバタリアニズムやレッセフェールなど完全放任まで幅があるものの、経済や社会の進歩は、特定のイデオロギーによって達成されるのではなく、優れたものが自然に選択されるという淘汰圧が客観的な社会のダイナミズムとして理解されている。
表現の自由についていえば、特定のイデオロギーの正しさは、歴史が自然に結果を出すものであって、教会や政府が真理として押し付けるものではない、というのがヨーロッパでもアメリカの政治体制でも共通の前提となっている。
そのような認識の下では、多数の目から一見すると正しくない言論や行い、考え方についても、その考えが社会に存在することを排除しないのが美徳となる。
差別的言論しかりであり、正しくないと思えるものが一定程度、社会に蔓延するのを認容する、というのは、長い目でみて、社会が進歩するための副産物と考える。
したがって、雑にまとめれば、自由主義社会の制度設計では、ブルジョアやプロレタリアートといったイデオロギー的な主体の覚醒は必要とされないし、イデオロギー的な主体の覚醒や人民の団結を呼びかけるような政治体制は、資本主義的な搾取構造以上に、暴力装置である、というのがリベラル側からみた共産主義の問題点といったところだろう。自由主義では、イデオロギー的に多様であっても、そして無自覚であっても成立し、発展しうる社会設計を構想しているのに対し、共産主義では、変革の主体が強く意識され、その主体が統一(戦線)されることが変革のキーだと考えられている。
民主という言葉が登場するたびに、それは専制によって奪われてきた歴史であり、覇権主義との闘いであり、それに抗い変革を進める担い手が強調される。
そして、ひとたび担い手に注目するやいなや、担い手の気づきというか覚醒が求められる。革命は待ってても自然には起こらないということだ。
これは共産主義独特の進歩史観だ。ここに、担い手を教育し、同じ価値観やイデオロギーを共有させようとする契機がある。
これは、党首公選制を唱えた者を破門する、という最近みられた動きと表裏一体ということになる。
綱領に言論の自由の記載が一行も存在しないのも納得である。言論の自由のもつ社会のダイナミズムを理解しつつ、イデオロギーを啓もうすることは自己矛盾だ。
というわけで、社会の変革にとって、イデオロギーに共鳴する主体醸成を重視するか、
それとも自由のダイナミズムを重視するか、ここに分かれ道がある、というありきたりな結論に至ってしまったな。
政治体制 | 言論自由 | 進歩史観 | プレイヤー |
---|---|---|---|
自由主義 | どちらかというと放置 | 蓋然的・客観的 | 多様性重視 |
共産主義 | どちらかというと統制的 | 必然的・主体的 | 一体性重視 |
みたいなイメージになった。
しかし、共産党の皆さんに是非、戦後の世界の歴史をもう一度振り返ってもらいたいと思うのは、
言論表現の自由がもたらす社会の不協和音、暴力という副産物をある程度社会が許容できたからこそ、社会運動が大きく広がった。
この運動はもちろん差別と闘う社会変革の主体抜きには語ることはできないが、過激な言論を民主主義の副産物とする社会のプラットフォームがあることによって、運動の価値が昇華された。
暴力性という点では労働権の暴力性(争議権)も社会改革の進展のかぎだ。今では自明性に埋没して疑いもしない労働者という言葉、実は【労働者の概念】とその暴力性は、革命の概念と地続きり、出自はもちろん自由主義ではありえない。
異なる出自をもつ二つの権利、争議権と言論の自由は、社会変革のダイナミズムに伴う暴力という意味では実は共通項だ。
他者危害原則が基本の社会において、なぜ規範からの逸脱という暴力、そして異端の存在を、広く多様性という価値を認めて、一定程度、許容する仕組みを自由主義社会は構想しているのだろうか?同一コミュニティに閉じている限りは進歩も進化もない、という、それはやはり、進化のプロセスに対する直感が働いているといわざるを得ないだろう。
争議権というのは、学校が停止したり電車を全面的に止めたりと経済に甚大な被害を与える超暴力的な行為を時に伴うが、そのような痛みを社会が許容することによって社会が改善することがある。自由主義社会はこうした社会変革に伴う暴力を一定のコントロールに置いたうえで社会の進歩を進めてきたといえる。
ちょっと余談になるが、日本での社会権の受容はGHQ改革に始まって、やや独特の経緯をたどって欧米とは異なる展開となった。
敗戦直後、それまでの動員される勤労者から主体的な労働者へ突然、主体の変換が起きた。その結果としての、労働者階級の過剰な希望、そして暴力に伴う社会的な混乱は、失望と社会秩序維持へのさらなる圧力を生み、やがて国労と新左翼だけが残った。そして秩序を乱す奴イコール、テロリスト、という空気が蔓延した。
日本は国労が新左翼と一緒になって調子に乗りすぎた結果、争議権は骨抜きになった。日本では社会秩序と暴力が明確に対立概念となり、争議はなれ合いとなり、労使協調という言葉に象徴されるように、労使間の秩序模索にすぎなくなった。ただ一方、ヨーロッパではそんなことはなく、社会権の潜在的なラディカリズムが広く受け入れられている。病院だろうが航空機だろうが、誰が困って死のうがストが決行される暴力性が顕在なのだ。なんなら革命で政府を転覆させるぜくらいの勢いで。
ともあれ、自由主義社会が社会主義的な発想でラディカルな主体の考え方を一部取り込んでいる、という動きは、自由主義VS社会主義と単純に括ることができないことを示している。
絵画にトマト投げみたいな環境急進主義しかり。ヨーロッパになぜあれほどラディカリズムがパフォーマンスを繰り広げられる余地があるかというと、そもそも自由主義社会は社会変革の萌芽を言論統制などによって政府の力で摘まない社会設計になっているからだ。彼らはヨーロッパのニュース上ではResistantと表現されてもテロリストと表現されることは少ない。それは「労働者」という主体を仮構したうえでの争議権の意義とパラレルなのだ。
なんなら、「LGBT」しかり、なのだ。共産党は実は、長い間、同性愛者を差別してきた歴史がある。かつては「労働者」という概念が主役で争議権という武器が社会変革上、最重要な部分だったので性的マイノリティに考えが及ばない時代だった。LBGTというイデオロギー的な主体の意義に気が付き、公式に考えを修正したのはつい3年前の2020年のことだという。
https://www.sankei.com/article/20210706-L4MJ2RSGZFLHJLGW2LWKXILBGI/
LGBTの存在に気が付き、こうした修正が可能になるのは、自由主義社会が、ラディカリズムも含めて、多様な言論を放置できる社会だからだ。そのくせ日本共産党がLGBTをあたかも自分たちの応援団かのように仲間に入れようとするのは、労働運動が退潮し、運動の屋台骨が骨粗しょう症のようになってしまった日本の文脈を思い起こすと、図々しいという気もする。皮肉なことにこの記事を執筆した元板橋区議の男性も、党本部から除名処分を受けている。
結局のところ、共産主義においては、社会変革のための主体を重視し、その統一をもとめるがゆえに、主体そのものの議論が決定論的なものになってしまい、議論されにくい。
その結果、主体自身の変革は阻害される、というジレンマというか自己矛盾をはらんでいるといえるだろう。社会を変革したがるくせにね。これはある意味自らの正義の禍々しさに苦悩するヒロイズムのジレンマだ。自由主義社会でダークヒーローのドラマや映画のプロットが西部劇の昔から最近ではジョーカーに至るまで一定の需要があるのは変革の萌芽は必ずしも正義によって見出されるものではないという世界観の違いに由来する。
でも、自由主義社会にいる日本共産党としても社会の変化にも気が付かざるを得ない。
その過程で、弱体化した【労働者】を補完するべく、新興の主体、LBGTグループを統一戦線の一員として、ちゃっかりと追加したりする、ということが起こったりするわけだ。
であれば、社会主義革命を目指す共産党においても、内なるノイズをある程度、コントロールしつつ許容し、社会変革への考え方をより確実にする、という方向性もありうるんじゃないだろうか。その結果、やっぱ内ゲバをコントロールできなくなって、この調子じゃ人を教育して主体構成を前提とした社会主義化って無理じゃね?となって解散するならそれもよしなんだよ。
今回の除名騒動を受けて、党内で議論すべきことは党内で、というのが統治の基本、という主張が共産党から強調されているようだ。
一見正論だが、しかし、俺はちょっと違うと思う。それは、つまり【寄り合い】だ。
なぜなら、そのようなガバナンスの考えこそが組織の硬直化を招来し、日本の労働運動が労使間の秩序模索に堕落した一因であるし、日本的組織風土に風穴があかない最も大きな要因だからだ。寄り合いといえば、かつて日本の農村漁村を調査した宮本常一は、寄り合いによる時間をかけた合議の意思決定を観察し、他者の信頼醸成のプロセスが共同体のしきたりにない、外部社会の新しい事柄の受容のキーとなっていることを見抜いた。宮本はまた、共同体を飛び出し、放浪の旅を経て戻ってくるようなアウトローの存在を外部の知識をもたらす【世間師】として共同体が受け入れる様子も描写している。寄り合い的なコミュニケーションにおいても、異物を内部化するプロセスはあるということだ。
民主主義という視点に戻ると、言論の価値、そして、争議という変革の手法が組織どころか社会に迷惑をかけることを前提に行われることの意味をもう一度振り返ってもらいたい。