はてなキーワード: 和月伸宏とは
いろんなところで面白いのに打ち切られて残念って声を聴くダブルアーツ読んでみた。
で、3巻あたりからの展開を見て、これが打ち切られるのは妥当な判断だと思った。
この打ち切りについてジャンプは容赦無いと見るか、それとも作者のことをよく考えていると思うかはわかれると思うけど私の評価は後者。
ダブルアーツの設定は間違いなく面白い。マンガを読み慣れていればいるほど、この作品に過大な期待を寄せてしまうと思う。
しかし、作者自身にこの設定をハンドルするだけの力がない、というより「向いてない」ように見えた。
この作品、設定の特殊性や壮大さが目立つけど、作者自身がそれをうまく扱えてない感じが強い。
2ー3巻を読んでるかんじだと、少人数の間での人間関係を丁寧に描くのが好きそうな印象を受けた。
それなのに、設定が強いので、常に移動しなければいけず、その都度人間関係も変わり、登場人物も多く登場することになる。
そういう管理が難しいと判断したのだろう。
作者が自分の作った物語に潰される前に、撤退する判断をしたのだろう。
きっと作者の方は、この作品をあえて「失敗」としてそこから学ぶことで、次回作は自分にあったすごい面白い作品を作ってくれるに違いない。
早期に撤退したからこそ「いい感じ」のまま作品が終わり、その次に繋がる。そういうパターンを期待したい。
そう思うのは、前例としての「ゾンビパウダー」や和月伸宏シリーズがあるからだ。
ゾンビパウダーは言わずと知れた「ブリーチ」が大成功した久保先生の作品。
これも打ち切りの範囲まではすごく面白い。でも、今から考えると、明らかに久保先生の強みにあってない。
久保先生は細かい設定を考えるのがたぶん苦手なんだろう。4巻の時点ですでに数々のツッコミどころが発生している。
むしろどんどんキャラを出して、キャラ同士のぶつかり合いで話を盛り上げていくのが好きなようだ。
あととにかく細かい設定を吹き飛ばすくらいの豪快な展開が向いていると思う。
ところが、ゾンビパウダーは設定の都合上、キャラを増やしにくいだとか答え合わせが必要だとか
あんまり豪快なことをすると物語の進行に支障をきたすせいで、これまた作家性に合わない。
たぶんコレも、作者側から「なんかダメだ」ってオーラが出てきて、それが読者の反応にも現れたんだろう。
今まで打ちきりになった作品を見る限り、
世界の不条理をネチネチと描き、それを武装錬金のようなゴリ押しで解決するのが持ち味なのは確かだが、
どうも失敗作では主人公がふわふわ浮いてしまう傾向がある。
主人公の手綱をひいて、世界に違和感なく位置づけることになかなか成功しない。
ある程度史実などに基づいた作品が向いていると思われる。
和月先生については、エンバーミングがコレまた実験作で微妙なところなので今すげえ興味を持ちながら見ている。
これも3巻くらいまではなぜ打ち切られないのか不思議なくらいつまんなかったけど(一部の人には面白いんだろうなというのはなんとなくわかるけど
結構辛抱強く見守るケースもあるな、と思う。
もちろん数値が一番の判断基準なんだろうけれども、
ある程度は「作家が頑張れると思ったら頑張らせる。 いくら頑張っても作品か作家どちらかに限界があると思ったら切る」
そういう判断してるところも多少はある気がする。
わかりやすさ重視で、結果論ありきで事例を取り上げてるのはわかってるけど、
ずっと打ち切り作品もちゃんと読んでて、やっぱりジャンプシステムは結構作家のこと考えてるなーと思うんだ。
それだけ余裕があるとも言えるけど。
編集がむりやりにでも教育したり、客の方ばかり向きすぎて、ということはないと思う。
サ○デーとかひどいもんなぁ。
もうあの雑誌は、長期連載のマンガほど読む気がしないという不思議。
「神の○」だけかろうじて読んでるけど、残りの作品の展開の遅さには辟易させられる。
「○チル」やら「ケン○チ」はもう単行本だけにすることにした。
「ハ○テ」に関してはもう既読の分も売り払った。バーロー?なにそれ。
もうお前ら小さい子供を一切対象にしてないだろ、と言いたくなる。留美子さんは面白いけど子供向けじゃないよね。
で、結論というかオチ。
エムゼロが打ち切られたのはなぜなんだろう。あれはすごく残念だ。
他の人がみたら「まぁしょうがないよね」って思うのかもしれないけど、私はあの作品を盲目的に愛してたので悪かった所がわかりません。誰か教えて。
『ヱヴァンゲリヲン新劇場版:破』みてきました。すごく面白かったです。
現時点で2回みてます。たぶんもう1回ぐらいみにいくはず。
感想残したいけど、ブログとか持ってないので、増田に書きます。
とりあえず、結論は2つ。
・劇場版50年後も語り継がれるような大傑作になると思う(キリッ)
・ぼくのかんがえたげきじょうばん第4部、タイトルはA
・劇場版50年後も語り継がれるような大傑作になると思う(キリッ)
ラスト付近「私が死んでも代わりにはいるもの」→「そんなことないよ!ばか!の」くだりについて。僕は人生の多感な時期の多くを2000年代に過ごしているので、(id:y_arimさんやid:maremlinが絶望したのもすごくわかるのですが)この旧劇場版とは正反対の結論に、とても感動しました。
多くの方がすでに指摘されていますが、2000年代の作品に「現実が厳しいかったりトラウマがあったりするのは、もう、しょーがない。そこでどう生きていくかが大事」みたいなテーマが多いのは、少なからず、1990年代のエヴァンゲリオンの影響があると思います。そして、エヴァンゲリオンが、その作中、執拗なまでに現実の不条理と厳しさを描きつつ『それにどう立ち向かっていくのか』と問題を提示し、それを乗り越えようと懸命に努力しながらも、土壇場の25話と26話で「やっぱむりっすわー、きびしすぎ」と全部放り投げてしまったことに対して、多くの人が共感しつつも、「それはないんじゃないか」「もっとほかにやりようがあるんじゃないか」と、新しい25話と26話をつくりだしていった。それが多分、僕が人生の多感な時期に夢中になった『ぼくらの』であり『ダービージョッキー』であり『フラワーオブライフ』であり『木更津キャッツアイ 』であり『EDEN』であり『ソラニン』であり、その他多くの、僕の知らない作品だと思うのです。
破の作中、シンジの聴いていたウォークマンは、いつもトラック25と26をいったりきたりしていました。
シンジによって救い上げられたレイの手には、トラック25と26の入ったウォークマンが握り締められていました。
『るろうに剣心』の単行本のおまけページで和月伸宏さんはエヴァについて、「途中までは面白かったけど、ラストはあんまり好きじゃない」とコメントしていました。
『るろうに剣心』のラストエピソード、自分自身の過去と向き合う人誅編は結局、不恰好ではありましたが、ハッピーエンドで終わりました。
2003年、大槻ケンヂが「グミチョコレートパイン」パイン編を出しました。不恰好なハッピーエンドでした。
『「グミチョコレートパイン」パイン編を読んで号泣。8年間待ちつづけて本当に良かった』
僕も今回の破をみたとき、同じようなことを思いました。
・ぼくのかんがえたげきじょうばん第4部、タイトルはA
新劇場版第3部のタイトルが急からQへと変更になった時点のを次回予告をしったときに、「じゃあ第4部は多分Aだなゲラゲラ」とか言って笑ってたんですが、
今回の新劇場版のテーマとかをゆっくり整理した今「もしかすると本当にAかも知れない」「むしろAであってほしい」と思いはじめています。
結論に至った背景は以下。
ウルトラシリーズとの類似点の多さと、「QときたらAだろ」という安直な連想の元、仮に第4部が『A』だとして。そこから当然に連想されるのはウルトラマンA(エース)です。
ウルトラマンAは、歴代ウルトラマンシリーズの中でもっとも多く敵に倒されました。それでも何度も復活しました。
ウルトラマンAは、シリーズ中唯一男女2人が力をあわせることで変身します。1人では何もできません。(途中からできるけど)
『瞬間、心、重ねて』のエピソードは破において、まるまるカットされました。(ちなみに個人的にTV版のベストエピソードだったので、すごく悲しかった)
ヱヴァンゲリヲン新劇場版は、再び執拗なまでに現実の不条理と厳しさを描きつつ『それにどう立ち向かっていくのか』という問題に対して、それに対して立ち向かっていく姿勢が強く示されました。しかし具体的な方法までは、まだ示されていません。僕は、その『Q』に対する『A』が、ウルトラマンAの出した答えと同じであってほしいと願っています。
「優しさを失わないでくれ。弱い者をいたわり、互いに助け合い、どこの国の人たちとも友達になろうとする気持ちを失わないでくれ。
たとえ、それが何百回裏切られようと……それが、私の最後の願いだ」
五年前に家にある5000冊ぐらいの漫画を500冊ぐらい残して片っ端から処分したけど、その後は限定したものだけ集めようとしてるのにもう1500冊ぐらいに戻ってしまったよ。どうする。
以下メモ。かなり抜けがあると思うがただのメモなので知らない。
多すぎて把握できない
驚くほど読まない。食わず嫌いに近いと思う。
今は無き『鎖縛』は毎号買ってたなあ。あと遊人が最近浦沢キャラの模倣をやってたので驚いた。
中立的な観点:この記事は、中立的な観点に基づく疑問が提出されているか、あるいは議論中です。そのため、偏った観点によって記事が構成されている可能性があります。
現代学園異能とは、2000年代に成立したライトノベルのサブジャンルの一つである。
代表作としては、高橋弥七郎の小説『灼眼のシャナ』などが挙げられる。
1 概要
2 現代学園異能の特徴
3 現代学園異能の代表的な作品
現代学園異能は、日常(=学園生活)と非日常(=異能バトル)の対比をテーマとする作品群の総称である。
電撃文庫から同一の特徴(後述)を持った作品が連続して刊行されたことをきっかけに、それらが現代学園異能と呼ばれるようになった。
広義には、単に学園を舞台として異能を持った人物が登場するだけの作品も現代学園異能と呼ばれる。
現代学園異能には基本的なフォーマットがあり、それに沿って物語が展開される。
主人公はだいたいにおいて平凡な高校生であり、ふとしたことから異能バトルに巻き込まれて危機に陥る、もしくは命を落とす。それをきっかけとして主人公は非日常の側に取り込まれ、以降は日常と非日常のあいだを揺れ動き、そのギャップに葛藤することになる。
メインヒロインは戦闘美少女であり、非日常に取り込まれた主人公に現状を説明する役割を果たし、その後は異能バトルにおけるパートナーとなる。メインヒロインは強引で攻撃的な性格であることが多い。また、非日常の中で生きてきたために常識に欠けている。そして何らかの好物を持っている(例:『灼眼のシャナ』におけるメロンパン)。バトルでは、メインヒロインが前面に出て戦い、主人公は作戦立案などでメインヒロインをサポートすることが多い。
非日常の象徴であるメインヒロインに対して、日常を象徴するサブヒロインが登場する。サブヒロインはたいてい典型的な幼馴染キャラで、引っ込み思案であるが、こと恋愛においては積極性を発揮する。また、メインヒロインにない家庭的な能力を多く持っている。このサブヒロインが、主人公を巡ってメインヒロインと対立することになる。
日常パートでは主人公・メインヒロイン・サブヒロインの三角関係が描かれ、非日常パートでは日常を守るための戦いが描かれるというものが、現代学園異能の構成である。
以上の特徴は、主だった現代学園異能作品の共通項をまとめただけにすぎず、ルールとして守られるものではない。