はてなキーワード: 反体制とは
民主主義のために香港の若者たちが結束し中国政府には屈しない、自由を勝ち取る、みたいなストーリーが出来上がっているのだけど。
それで中国国内の世論としては、中国政府からいつもの言論統制、ネット情報規制がしかれ、中国政府寄りのストーリー、つまり、暴徒化した香港の若者たちによる不法行為には屈しない中国政府、みたいなストーリーになっている。
うーん、私的にはどちらもピンとこない。
中国人って、中国人本人も自覚しているけど、出身差別が結構酷いんですよね。
地元民じゃなくて、遠方からの旅行者とか移住者と分かるやいなや、野菜をいつもより高い値で売ったり、平気で嘘をついたり、とか。
香港の人たちって、いわゆる中国人の人のことを「大陸人」とよく呼ぶ。つまり、俺たちは香港人であって、大陸人とは違う、という意識。
「大陸人」という言葉のニュアンスとしては、田舎者みたいな差別的な意味を多く含んでいる。
最近特に成金になった大陸人が香港に流れ込んできて、ことあるごとに香港人たちは彼らの粗暴ぶりなどを写真にとりネットで拡散したりしてきた。
日本のメディアではとりあげられないけど、デモに参加している香港人グループが、大陸人の旅行者を見つけ、タコ殴りにして写真をとり、中国政府の犬みたいな感じでビデオや写真を拡散したりしている。
民主主義を守る、というのは建前になってしまって、ただただ普段から抱えている差別意識を発散させている不良グループも多く混じっているのである。
こうなると、大陸人の感情としては、このクソ香港人め、となってしまい、中国政府のストーリが相当現実的なものとして受け入れられる。
あくまで平和的手段でデモを行ったところで中国政府が動くとは思えないが、そういうストレスからなのか、こういう自分に不利になることは容易に想像ができることまでも自らの手で拡散してしまっている香港デモの人たちって何なの?って思うわけ。
大陸人側としても、普段から「俺たちは大陸人より上」アピールをし続けている香港人が鬱陶しくて仕方がない。
それは台湾にしても同じだね。
反体制とか、自由とか、そういう大義名分はあるけども、根本的な感情の部分でこういう対立があるので、綺麗には解決できないでしょう。
「現代アート関係者には批判とさえ認識されない。残念。」が連中の思い上がりを象徴している。
美大出身者の学閥やお友だちごっこ。権威と名声にしか興味のない自意識過剰な学芸員や美術評論家。公立美術館は新聞社の金で動いている商業展覧会しかやらず、たまに反権力的な内容の展示をやれば検閲される。そうした業界におもねる美術メディア(ビテチョーとか)はそうした業界人を褒めたたえるばかりで、業界内での批評精神、自浄作用も失った。税金で雇われたキュレーターが自分たちのことを「アートピーポー」と自称していたが、「アートピーポー」であることに酔っている変わった人々と自分には見えた。
学生の頃、一生懸命アートの歴史を勉強していたが、大人になり、現実のアート業界を知って、ただの茶番だと我に返った。特にここ数年のアートシーンの劣化具合はあまりにひどい。
元増田の「要するに《現代アート》というのはすでに既存の権力になっていて、彼らはそれを無批判に持ち上げることにこそ価値を見出しているわけだ。」に共感する。日本全体を見ても「権力を支持したい。体制側が正義。」という人間があまりに増えすぎている。それは美術業界でも同じだ。SNSでアートやってますと言いながらネトウヨっぽいリツイートをしている人って昔はあんまり見かけなかった。アーティストなら反体制だろというわけではないけど、自分の頭で何も考えていないから体制派を無批判に受け入れるし、自分の考えと異なる意見を知ろうともしない人がアーティストに簡単になれる時代なのだなと思う。
(=自分が大学で勉強するか、大学で勉強した人に手配してもらう必要がある)というのも「大学の先生が言っていることは正しいこと」という思い込みが後ろに隠れているわけだが、大学で学んだ経験がある自分からすると、大人になってから「あの大学教員の言っていることは偏ってた、おかしかった」ということは多分にあった。何も知識のない時は師やメンターの言うことをそのまま学ぶ時期であるが、学びが終わったら、「それは本当にそうなのか?」と考えられるようにならなければならない。
「偉い人がすごいって言ってるから、この作品はすごい」って言っているうちはまだまだ子どもである。そうした子どもばかりになっているのが今の日本のアート業界なんだと思う。海外のことは知らんけど。
おそらく、10年以上前とくらべて私は明らかに右傾化している。もともとはもっと中道左派よりだったと思う。いまは多分、中道右派寄りだろう。もちろん、安倍さんアホやなぁ、統計不正はまずいなぁ、と思いつつも、なんだか強く糾弾する気が起きないのである。まあこのまま自民党でいいんじゃない?と思う。そんな些細な問題より、おしどりマコを擁立する立憲民主党には、何が何でも滅びてもらわないと困る。サイエンスに対する重大な挑戦だからである。
なんだろうこのわたし右傾化問題。科学者は通常リベラルなのでは?
たぶんこれは、はてぶをいつも読んでいるからなのかなぁと思いつつある今日この頃なのである。
はてぶは、やはりだいたい二極化の傾向がある。
ネトウヨはバカっぽい。だいたい田舎のヤンキーみたいな家族と地元大好きな人たちからなるマイルドな主流派と、引きこもりの過激派からなるだろう。後者はともかく、前者は幸せな人たちだとは思うんだよね。
はてサは怖い。大勢は、色あせた服を着て、帽子を目深にかぶって、眼鏡の奥には焦点の定まらない瞳が見えるような、デモ隊によくいるような人のイメージ。そして正義の名の下に、悪を糾弾する闘争を行う。たぶん、50年前にはそれで良かったと思うんだけど、いまの先進国化した日本では、もっと清潔でスマートな方がいいと思うんだがなぁ。とはいえ、当の50年くらい前の時代感のある文書を読むと、あの時代の反体制派は、あの時代の中で、割とスマートだった部分もあるように感じるんだ。もともとアピアランスに興味がない、というよりは、単にout-of-fashionedなのかねぇ。あとはなんか、少数派だがオピニオンリーダーである、妙に怖い目をした、歯の抜けた白髪の学者さんとか。全体的に知性的なイメージだが、その知性を鼻にかけている感じ。
はてサのほうが描写が細かいが、そのように、私も私をはてサ側だと自認していたしよくわかっているつもりだったのだが、最近、どうにも、あの強烈な罵倒的な口ぶり、そして、反科学主義(私から言わせればこれは知性に対する挑戦そのものだ)が許容できなくなってきた。
自分は政治活動をして人生を終わりたい気は毛頭なく、個人として幸せに生きていたいわけなのだ。そうすると、前者の方が魅力的ではある(引きこもりは除く)。
これでいいんだろうか。
当方理系の学者であるが、海外の会議の後のバンケットとかで、向こうの人と会話している分には、なんだかシャレオツにリベラルな会話をしていてなんだか楽しいんだけどね
トランプと安倍は同質だろうに、海外ではトランプを笑い、国内ではまあ安倍でいいんじゃない・・と言っているわけだ。
自己矛盾である。だけど「アベガー」の反科学主義にはもうついていけないんです。
自己分析中ではある。
このどうでもいい私文書を最後まで読んでしまい、貴重な時間を無駄にしてしまった皆様にはお詫びいたします。どこかに吐き出したかったのだ(実生活ではリベラル寄りの発言をしています)
主語がでかくなるのは
問題意識が強く
自分のそれに対する意識の大きさを合致するように、殊更に大きな主張をする
と言うシーンで起こりがちなのではないか
で、「一人で盛り上がってテンション上がってる人」というのは政治問題に傾倒したりするし
今はそれがサヨクって呼ばれているだけ
つまり
「一人で盛り上がってテンション上がってる人」が主語を大きくしがち
かつ
「一人で盛り上がってテンション上がってる人」はサヨクになりがち
ちなみに「一人で盛り上がってテンション上がってる人」っていうのは他の領域でも発生する
ウヨク側にも発現するし、フェミニストや危険厨、表現の自由を訴えるオタクのような部分でも起こる
ただ一部の領域については「そもそも自分らがマイノリティだとわかっている」とか「最大限主語を大きくしてもたかが知れている」ということもあるので目立ちにくい場合もある
よく使われるのは「日本人」とかだけど、昔はこれ「我が国」とか「わが帝国」とか我が◯◯ってイメージが有る
これは単なるイメージだけど