はてなキーワード: 泥棒とは
2chまとめサイトの黄金期は既に終わったとみて間違いないだろう。かつてのまとめサイト群は、2ch上のおびただしい量の言論を切り貼りし、編集し、デコレーションすることで、「大衆に消費される」ことができるメディアとして完成させた。いわゆるネトウヨの隆盛も、まとめサイトの存在と無関係ではないだろう。
翻って今日、「ネット言論の商品化」は新たなステージに突入している。今や大衆が「まとめサイト」の読者になったのである。
例えば、「お笑いコンビの片割れが制服泥棒」というニュース。もちろん第一報は在京キー局や新聞だ。当然、これらのニュースはネットに波紋を呼び、Twitterで、2chで、様々な言葉が交わされる。「あいつ『覚醒』とか『フェラ』とかツイートしてるぞ」「芸歴より犯罪歴の方が長いのか」「相方が可哀想」などなど…。その日のうちにはハイエナのようにネットニュース各社が記事を書く。「○○逮捕ーネットの反応は」
さて、次の日のテレビのワイドショーはどうだろう。警察の発表、プロダクションの記者会見、芸能界への影響ーそれらが語られた後、必ず来るのは「さて、ネット上では…」。もちろん、既にネットの記事を見ている我々にとって、目新しい内容は何もない。それでも、視聴率が漸減する中、若者への訴求力を高めたいテレビ局はネットに触れることを辞めることは出来ない。
これを見たお茶の間の国民は、かつてまとめサイトで暇つぶしをしていた中学生と同じく、なるほど、おもしれーなーとテレビの画面をダダ見だ。かくして、ネット上での一部の人間のおしゃべりは、「ネットの意見」とタグ付けされて、立派に「世論」の仲間入りを果たす。なんと喜ばしいことではないか。ところが、ネットユーザーはそんな報道にも反論する。ここで我らが「はてな村」の登場である。無責任にも他人の言葉を引用するだけで何も有益なことを伝えないメディアに憤る。「生い立ちが原因なのではないか」「被害者の立場が置き去りにされている。芸能界の女性軽視だ」
そうしたフィードバックもまた、PVを稼ぎたいネットメディアにとっては記事のネタだし、テレビにとっても新たな取材材料になるのだ。都合の良いところだけ切り貼りされ、名無しの烙印を押されて再びそれらは国民に消費される。
こういった、情報のサーキュレーションは結局、ニートの妄想を暇な中学生に伝播させたまとめサイトと本質的には変わらないのだ。単に目立ちたいだけのネットユーザーの声を、社会の一側面として(しかし自分には関係ないものとして)消費するお茶の間の主婦。彼女らはまだ、自分が大多数のネットユーザーー語る言葉を持たず刺激的な言葉を求めて検索を繰り返すーと変わらないことに気づいていない。
共産党系の人たちが進めている「NO MORE 賃金泥棒」が、ようやく新聞に取り上げられ始めた。そもそもPJ自体が立ち上がったのは10月15日だから、ずいぶんタイムラグがある。きっと立ち上げたのはいいが、ぜんぜん話題にならないので、旧知の左翼記者たちに売り込んだか泣きついたかしたんだろう。
しかし新聞だって、そんなくだらないものを公器でホイホイ取り上げるわけにはいかない。なにしろ「1分単位の賃金支払い」なんて新聞だってやってないんだから。1分どころか15分、いや1時間単位の支払いもしていないだろう。それはなぜか。そんなことをしたら、自分たちが自由気ままに働くことができなくなるからだ。
左翼たちはいつも、労働者の味方のような顔をしながら、労働者たちのクビを締めるようなことしかしない。もしも1分単位の残業代なんか徹底させたら、会社だって1分だって残業させないことにせざるをえない。1分前退社を義務付けたっていいくらいだ。きっと生活残業している中小零細の労働者から猛反発をくらうだろう。でも共産党は、党員か労働組合員じゃなければ人じゃないから耳を傾けないけどね。
それに退社に1分1秒を争うなら、トイレだって自由に行けなくなると考えるのが当然だ。少なくとも、あらかじめ「みなしウンコ休憩時間」を設定し、長すぎる奴は労働時間を控除する必要がでてくる。あるいは会社でウンコが全面禁止となり、「みなし小便タイム」だけになることだって起こりかねない。
「いやいやトイレの時間にいくらかけても、それは会社が口出しできることじゃないだろう?」なんてサヨクはいうだろうけど、それこそ人権の名の下に行う業務妨害みたいなものじゃないか。あまりにもバランスを欠いており、一方的すぎる。だからアカは採りたくないということになるんだよ。
でも、「NO MORE 賃金泥棒」の呼びかけ人たちは、労働者じゃなくて労働活動家だから、タテマエばっかり言ってりゃいいわけよ。バカすぎるわ、労働者の敵どもが。
みたいなのって本当に何なんだろう
生理用品なんて十分隠れてるじゃないか、買ったら中が見えないように色つきの袋に入れられるし
それ以上に隠れろってどうしろと言うんだ、エロビデオみたいに完全に分けてカーテンで売場の中を隠してほしいのか?
じゃあ新品下着売場まで猥褻物として隠れたらよりいっそうエロイ物として女性の下着が泥棒や盗撮などの危険にさらされるのでは
んなもんに隠れろと言う前に、まさに猥褻物のエロ雑誌がそこいらじゅうにあったり、電車内でスポーツ新聞エロ欄を堂々と読んでるおっさんがいたり、吊り広告でエロ用語氾濫させてるおっさん雑誌とか、猥褻に溢れたこの日本をどうにかしろと、あれはまぎれもなくエロイのに何で平気なんだ
エンジェル・ハートがドラマ化されて日テレから放送されているらしい。先天性心疾患を持つ者として、エンジェル・ハートは好きになれない。
前作のシティ・ハンターは、ほぼ全部原作を読んだのだが、エンジェル・ハートの原作は、心臓移植の話が出てきた途端に、生理的嫌悪感で読めなくなった。
何が気持ち悪いかって、移植された心臓を通じて、故人の気持ちがレシピエント(移植された臓器を受け取った人)に伝わってきたりする描写がそこかしこにあること。そんなこと、あるわけないじゃない。
移植された臓器を通じて故人の気持ちが伝わるという設定なら、なぜ、心臓なわけ?腎臓や肝臓でも良かったのでは?
その辺りを考えると、結局、医学的には否定されていても、心臓という臓器に「心」が宿っている…と少しは思っているからこそ、心臓を移植されたという設定にしたのだろうと事が透けて見える。
それが、気に食わない。
移植された心臓を通じて気持ちが伝わるような描写をテレビで広く放送されてしまうと、「心臓には心が宿っている」という大衆の幻想を強化することになる。すると、心臓に障害を持って生まれた人間は、心にも障害があるのだろう、と思う人がチラホラ出てくる。あるいは、移植された臓器を持つ人間が、ドナーの気持ちに背くような行為をしたら、苦しんで当然だ、と思う人がチラホラ出てくる。
結果的に、心臓病患者や臓器移植のレシピエント全体がとばっちりを食うのですよ。ただでさえ、臓器の疾患は、自分から離さなければ他人にはわからないことが多い。だから、病気を職場に隠して普通に会社員として生活している人も大勢いる。ああいう、心臓病患者を悲劇の主人公にするような話が放映されると、患者の側は、「医学の知識の乏しい職場の人間にどう思われるかわからない、話したら、『こいつは自分が悲劇の主人公であると思ってもらいたくて、ゴマをすっているのだろうか』と思われて、自分の仕事の評価に影響するかもしれない。とりあえず、何かあるまでは隠し続けよう」となる。
正直、大変やりにくい。あの話を作っている作者やドラマの製作者は、心臓病患者を食い物にして、儲けているのですよ。
他にも、エンジェル・ハートは、移植の観点からも本当に悪影響。日本で心臓移植を合法的に出来るようにするまでは本当に大変だったと聞く。心臓は、他の臓器と違って脳死の状態じゃないと移植出来ないから、日本で臓器移植法が出来るときに、心臓移植を必要とする患者は「人の命を奪ってまで生きたいのか、この命泥棒」ぐらいの事を大衆から言われ、批判されてきた。「日本人の死生観は脳死ではなく心臓死、心臓が生きている間は日本では人は行きている、だから日本では心臓移植は出来ない」、みたいな論が真顔で流され、昔の心臓移植を必要とする子は、アメリカまで行かないといけなかった。そんな中で、ようやく日本でも心臓移植が出来るようになった。
にも関わらず、あんな、「心臓にはやっぱり心があります」みたいな話を放映されたんじゃぁ、話が逆戻り。ただでさえ持っている人が少ない、臓器移植のドナーカードで、心臓を移植したくない人が増えるかもしれない。そうすると、助かる命が減る。正直、エンジェル・ハートの作者も、あのドラマを作っている人も、心臓移植を必要とする子に死んで欲しいのだとしか思えない。ただでさえ、ドラマやお話の中の「心臓病」は、登場人物を悲劇的に殺して話から退場させる手段として使われてきた。心臓病患者は、そういう悲劇的な話を大衆に売って儲けようとする作家やテレビ局のダシ・食い物にされてきた。
・事例A(記事見出しの要素:残業月87時間、1日22時間労働、24歳社員死亡)
・何億何千万も掛けて家庭と社会が育てた人材を使い捨てにする泥棒、非道。ブラック企業の経営者管理職は頭おかしい。
・多分、こうした事件は特別なブラック企業だけではないと思う。みんな、この件で亡くなった人と同じような考えで働いて消耗して、そして死ぬ。そして会社はバレなきゃいい、バレた会社は運が悪いと思っている。
・つぶせつぶせ残しておいてはいけない
・事例B(記事見出しの要素:20代男性死亡、月600時間労働)
・これはもう経営側の業務上過失致死を問うてもいいレベルだなぁ…
・まあありそうな話。
・んー。
それぞれの報道記事についたブックマークコメントを抜粋し、比較してみたが、事例Bに対する声が事例Aへのそれに対してソフトなのはなぜか、お判りだろうか?
いい年になってきて友人や同僚の結婚式に呼ばれる機会も増えてきてるんだが、
少子化やら晩婚化が問題視されている昨今、あんなクソ儀式をする意味がわからない。
こんなことのために我々は貴重な休日をつぶされ、お祝いを包み、
二度と会わない人たちに愛想笑いをして帰ってくる。
また本人たちも、半年や1年間かそこら働かなくても生きていけるほどの
貴重な蓄えをはき出さねばならないらしい。
こんなくだらない一夜の催しのために
「だいたい1年分ぐらいの蓄えが吹っ飛ぶんだよな」という意識は
男子にプロポーズを踏みとどまらせたり、女子が行き遅れるリスクを増加させるのではないか。
例えばブッサイクな新郎の友人数名が、グダッグダの振り付けで嵐のカラオケを歌う。
司会のお姉さんは「友人からの素敵なプレゼントでしたね」みたいに〆るが、
プレゼントとは価値あるものを贈ることを言うのであり、そうでなければただのゴミだ。
新郎も新婦も来客たちも微妙な笑顔を浮かべるだけの行為に使う表現ではない。
歌をプレゼントと言っていいのはギャラをもらえるプロだけである。
仮に歌や踊りが下手でも、せめてビジュアルの強い新婦の友人ならまだ価値を生むが、
晩婚女子の友人たちが松田聖子を歌うのはそれはそれでいたたまれない。
こうした場で唯一価値を提供しているのはPAを担当する会場のスタッフであり、
つまりだいたいのクソ余興は本人たちがどれだけ休日つぶして練習しようが、
おそらくこの週末にも日本各地でこうした不毛な行為が行われているのだろうが、
世の大人はさっさと「ムダに結婚式なんてしなくていいんだよ」という規範を作ってほしい。