はてなキーワード: 成人とは
水道水の暫定基準値って何が根拠?
WHO飲料水水質ガイドラインpp.201-204によると
一般成人による放射性核種の摂取に関する線量換算係数
放射性核種 線量換算係数(mSv/Bq) セシウム134 1.9*10^(-5) セシウム137 1.3*10^(-5) ストロンチウム90 2.8*10^(-5) ヨウ素131 2.2*10^(-5)
IDC:個別線量基準。ここでは 0.1(mSv/y)
hing:成人による摂取の線量換算係数(mSv/Bq)
q:飲料水の年摂取量。ここでは730(L/y)
放射性核種 | GL(Bq/L) |
セシウム134 | 7.2 |
セシウム137 | 11 |
ストロンチウム90 | 4.9 |
ヨウ素131 | 6.2 |
になるんだけど。
テレビのニュース番組等で「水道水が暫定基準値を超えたので乳幼児の摂取は控えてほしい」と流れている。
しかし、現在の水道水に含まれている放射性ヨウ素は「210ベクレル」
数字だけ聞くと基準値の約2倍だから怖い、と思うかもしれないがそうでもない。
この基準値100ベクレルというのは非常に「安全側」に設定されている。
210ベクレルの水を飲んで危険性がある事象を起こすためには、
「30分ごとに210ベクレルの水1キロを5時間以上飲み続けた場合」
である。
この条件に合致するような飲み方をしている乳幼児まずいないだろう。
成人にいたっては
「30分ごとに210ベクレルの水5キロを10時間以上飲み続けた場合」
これまた満たすには程遠い条件である。
つまり私が言いたいのはそれほど過敏に反応しなくてもいいということだ。
一応公表しとかないと「何で言わなかったんだ」などといちゃもんをつけられるから政府も発表しただけだろう。
※1少々簡潔に書きすぎたので事実と異なる部分が一部あるが、気にする程度の誤差ではない。
※2どれだけ飲んでも人体に放射性ヨウ素の影響を及ぼさない値。だが当然水なので飲み過ぎれば下痢などを起こすがそれはどの水でも同じである。
http://ribf.riken.jp/~koji/jishin/zhen_zai.html
国際放射線防護委員会(ICRP)2007年勧告は、放射線事故などの非常状況時において
公衆の被ばくは20~100 mSv/年を超えないようにという参考レベルを示している。
http://smc-japan.sakura.ne.jp/?p=1137
■水に関して
I-131 51.8Bq/kg(03/22は67.8Bq/kg)
Cs-137 検出されず
Cs-134 検出されず
http://www.pref.kanagawa.jp/osirase/31/3155/suisitu/kensuikekka.pdf
Bqの値をSvにするには「実効線量係数」という数字をかけて算出する必要がある。
(成人。子供は摂取した年齢から70歳まで)にあびる放射線量が算出される。
I-131 8.04日 2.2×10-8
http://www.remnet.jp.cache.yimg.jp/lecture/b05_01/4_1.html
51.88 × 2.2×10-8 = 114×10-8 Sv/kg
114×10-8 Sv/kg = 114×10-2 μSv/kg = 1.14μSv/kg
1kg=1リットルの水を飲むと、50年間で1.14μSv/kgの放射線をあびる。
便宜上ここでは、1年間で50年分の放射線を全て浴びると仮定する。
100 / 1.14 = 87
年間で87リットルの水を飲むと、100mSv/年を超える可能性がある。
これは普通に越えそうな値。
例えば、3/24に放出されたI-131は、04/01には半分になる。
そのため、上記浄水場の値は、福島第一原発の状況にほぼ連動するだろう。
現在のような放射性物質が外気に放出される状況が1年続けば上記の計算式が成り立つが、
まとめ
・現状のまま、ある程度の時間が経つならばICRPの参考レベルを越える可能性はある。
http://www.irf.se/~yamau/jpn/1103-radiation.html
によれば
浪江町(30キロ地点)=18日に140~150マイクロシーベルト/時
19日に132~136マイクロシーベルト/時
東京にわけのわからん敵意やコンプレックスを滾らせる地方在住者ってかなりの数居るんだな
南風GOGOとか言ってた北海道人といいやたらトンキントンキン言ってるしなんかマジだし
一度東京に住んだりしてみればすっ飛ぶ程度だと思うんだけどな
あの人達が大学を異常に気にするのは結局「大学のことがよくわからないから」に尽きる
自分は横浜や東京で生まれ育って学校もエスカレーター私立だけど
東京コンプレックスや学歴コンプレックスというのの実在には成人してから気付いた
地方の人や高卒の人は自分から「立場に差がある」という前提を強く打ち出してくるけど
東京在住者やそれなりの大学出てる人間はそんなこと全く思ってない
そういう断絶があるよね
(1)福島第一原発と、基準値超えの放射線量が検出されたほうれん草の生産地であるところの日立市との距離が、
約100kmであること。現時点の避難範囲である半径30kmと比較してこれは何を意味するか。
(2)放射能漏れが始まったとされる日から3~4日程度でこの濃度に達している。あと何日放射能漏れは続くのか。
連休明けにはこの倍になっているのでは。
(3)1年摂取しつづけてCTスキャン1/5回分の被ばく量というが、毎日たった15g食べた試算である。
新聞テレビで、「新宿の放射線レベルは●マイクロシーベルトで、これは健康的に問題がないレベル」的な解説がなされている。
それはそれでいいのだが、ここで想定されている対象者は「成人」じゃないのか?
「妊婦、乳幼児だと、1年間(あるいは1時間)に●マイクロシーベルトだと安全範囲なのか?」という点について、
「妊婦乳幼児にとって安全かどうか、の情報がないから、安全サイドに考えて、西日本に避難しよう」という動きが加速している。
ここ数日、下り新幹線は「ママ+乳幼児」で「遠足列車状態」である。
なので、朝日新聞でもNHKでもいいから、ほんの少しだけでいい、
「妊婦や乳幼児の場合の許容量は●マイクロシーベルトなので、心配ありません」とアナウンスする必要があるのではないか?
確か英国大使館かどこかが、「東京の放射線レベルは、妊婦乳幼児にも安全なレベルです、だからインターナショナルスクールを
休校させる必要ありません」と発表していた、と聞いたのだが、こういう情報こそ、大マスコミは開示すべきだろう。
お前の馬鹿度・幼稚度は成人近辺の人間として許されるレベルを超えてる。
そこで自省や羞恥に向かわずすぐさま他人になんか言おうとするところがもっとも醜悪に馬鹿。
成人近辺の、その中でもかなり馬鹿な人間が思いついたことなんて、社会に発信する何の価値もない。残念ながら。
ただ馬鹿の癖に馬鹿のままで人を啓蒙や教化しようと考え始める厚顔無恥な馬鹿は本当に死ぬべき。
↑こいつが頭悪いのは分かったけどさ。
こいつに反応するんじゃなくて俺のに反応してほしいな。
俺はこいつが言っているように啓蒙とかしたいわけじゃなくて、単純に意見聞きたかっただけなのにさ。読んでもらえばわかるけど。
ネトウヨというひとくくりにする言い方はできるだけしたくないのだけど。他にいい言い方が思いつかない。
俺の祖母は特定アジアではないけど、共産圏だった国の出身だった。父方と上手く行かなくて、他にも様々な原因があり家庭状況は最悪だった。
近所からのバッシングも酷かった。俺が生まれた80年代、クソ田舎ではまだまだ偏見があり、陰湿な村八分や非難があった。町内会でもPTAでも。
祖父は立派な人だった。祖父自身、外国人と結婚したことで散々な目にあったと聞いた。でも祖父は色眼鏡で世界を見ないように、ありったけの行動力と知識で知性というものを教えてくれた。あんなにクソみたいな家庭状況で、なんとかまともに成人できたのは祖父のおかげだ。
在日外国人問題。差別の当事者を直に見ていた俺は、ずっとずれを感じている。日本人らしいメンタリティが足りないと指摘されることも多々ある。
韓国の人が「日本を侵略しようと」土地を買い占めたり生態系を破壊して自国の植物を植えたり威張り散らしたりするのは絶対に認めたくないし、こういう連中がいなくならない限り彼らの外国人参政権を認めたくない。けど、そうではない人までいっしょくたにしてバッシングして、特定アジアの人と仲良くしただけでどんな人でも「非国民」と煽り、村八分にする空気は、あのクソ田舎の陰湿さと何もかわらねえ。ネトウヨの言ってる事に同感できる部分もあるけど、殆どは陰湿さから燃え盛る炎だ。俺はそれに生理的に嫌悪感を感じてしまう。
しかし、ネットや職場でそんな自分の思いを強くいえない。ネトウヨ的要素を持つ人は何処にでもいて、うっかり彼らの導火線に火をつけると、それまでなんでもなかった平穏なコミュニティが炎上してしまうのを何度も経験したからだ。ことなかれ主義を後押しするつもりはないが、関係ない人達まで陰湿さから燃え盛る炎に巻き込んでしまうのはもうごめんだ。
と思っていたのだが、うっかり前原問題を振られて導火線に火をつけてしまったよ。ああ、俺には本当に、日本人らしいメンタリティが足りない。
誰にでも失敗はある。現実で失敗することが許されなくなっている時代、ネットで失敗することがもっと奨励されていい。
失敗をしない人間というのは実は駄目人間。世の中何でも失敗しないことが良いことだと考えられているがそうではない。
テストで常に満点をとれる人間は一流大学に入れるかもしれないが、成人後、失敗の経験のないガラスのようなハートが割れるとき取り返しのつかないことになる可能性が高い。
別に老人のように「外で遊べ」とは言わないから、ネットで実際の社会というものに触れて、そこでどういうことをすればどういう反応が返ってくるのかということを身体で感じるのがいいと思う。
ネトゲは子供にとってちょうどいい「社会」だと思うけどハマりすぎてしまうことも多いようなのでそこは周りの人が見ていてあげないといけないけど。
よく子供の失敗を「子供だから」と寛大になってしまう人がいるけど、本当はそうじゃなく、「子供にも理解出来るように」教えて上げるべきだ。注意された方はムッとして即ログアウトしてしまうかもしれないけど、経験自体はその子の中に残る。それで少しずつ学んでいけばいい
それと補足。
若年層が小説を読まなくなったんじゃない。
わざわざ本屋に行かなくても携帯でことが済むようになっていることに気づいたんだ。
彼等のほとんどは文章の質は気にしない。
自己確立のため、不安定な精神を全能感で補完するツールとして必要としているだけだから。
大人で言うところの「酔えればカップ酒で構わない」というものに近いかもしれない。
そしてそこで疑似体験し、満足してしまう。
だから、買うのはごく一部、携帯をそこまで使わない子か、世代が違う青年~成人。
経済力を持ち始めた~持っているが、今度はターゲットから外れてしまっている人間が相当数。
ここまで説明すれば分かるだろう。
売り上げが昔に比べて減っていて当然と言えるな。
色々なラストが予想されているが、この物語は、少女の物語だと思う。
夢を持たない、のんびりした日常にいる少女が、強い意志を持って魔法少女になる話。
他のアニメなら1話で終わるところを、全編を通して描こうとしている。Vガンダムは4話かけようとした。実現していればそれは、きっと豊かな4週間になっていただろうが、私はあの不均衡な世界が今でも好きだ。
EDのさやかは背を向けている、杏子はこちらに挑むように対峙している、マミはずれた方向を見て座り込み「動かない」、ほむらは歩く少女まどかに声をかけられないor止められない。
変身のシーンのように服が破けるが、出てくるのは、少女から成人の女性になっていき、疾走していくまどかの姿だ。
最後、瞳のような繭の中で夢見るまどかの姿は魔法少女のコスチュームであり、成人した彼女の姿とは、魔法少女になってしまい時を停めてしまったまどかの夢だろうか。
魔法少女をこじらせて魔女になると私は今のところ思っている。キュウべえは、悪役のようにも見えたが描かれ方を見ると単純にシステムの一部であると思う。システムの必要性として魔法少女の誕生を望み、その後魔女になることについては何とも考えていないのではないか。
魔法少女は「少女だけの特権」だが、それを何十年も続けることで耐用年数が尽きる=心が朽ちて、魔女になる。
魔法を使えることは、やっぱり現実の世界でも非日常であり、フツーのことではない。そしてそれに留まろうとすることもやはり普通ではない。60歳の魔法少女!
まどかは、EDのように成人した女性になるのだろうか、なるとすればどのようにして魔法少女の力を求め、何に使い、そして成人していくのか。あるいはできないのか。OPは全くの想像の出来事のように実現しない夢を描いているようにも見えるが、このような展開の上では、どのようなラストになっても「批評的な結末」になるだろう。
私は卒研のテーマに「ゲームをする人」を掲げ、一年間自分のやりたいことを自由にできましたので、非常に幸せでした。ですので、後輩にもぜひ好きなテーマで卒研をして欲しいと思っていました。
私の同じ研究室には、3年生の後輩の一人に、「ライトノベル(以下ラノベ)を読む人」をテーマにして、実際発表した後輩がいました。しかし、後輩に「今の自分の研究テーマをそのまま卒研にするのか?」という旨を尋ねたところ、悩んでいるという回答が帰ってきました。
どうやら、発表の反応が鈍いことで二の足を踏んでいるようでした。
そこで私は思い切って、「この世の果てで恋を唄う少女YU-NOのwikipediaの考察がいかに素晴らしかったか」という話をしたかったのですが、酒の席であること、他の後輩もいたこと、説得力に欠けていたこともあって、遺憾ながら場は白けて終わってしまいました。
また、「この世の果てで恋を唄う少女YU-NO」は「アドベンチャーゲーム」の代表例として実際に卒業研究になっているようです。
これらを編集、記した方々は私よりも遥かな、確かな、達成感・効力感を持っているに違い有りません。(実際、素晴らしい考察だと思いませんか?)
他にもネットを探すとユニークなテーマに出くわせます。例えば「プロ野球選手と結婚するための方法論に関する研究」なんて研究もあります。
卒業研究は、CiNii - NII論文情報ナビゲータ ((http://ci.nii.ac.jp/))で検索しなくても大学生ならば、各々の大学の概要集を捲れば自然と笑みがこぼれるものです。
たしかに、「好きだからテーマにしますたwwwサーセンwww」なんて動機は発表までに、必ず根本的で大きな壁とぶつかり、ツケを払うハメになるでしょう。ですが、学生の本分は研究です。研究について真剣にできるならば、それが真に正しい姿だと思います。
もう一つせっかくですので、私がなぜ「ラノベを読む人」が素晴らしいテーマだと思うかについて書きたいと思います。
論文とは「問い」です。一般的に論文のテーマとなる問い(リサーチクエスチョン)は根源的な、直感的なものが白眉であると知られています。
「ラノベを読む人」で解釈すれば、「ラノベを読む人はなぜラノベが好きか」ということになるのでしょうか?
これはなかなか直感的だと思います。もちろん、大きな欠陥があることも否めません。それは、村上龍のこの箴言に集約されていると思います。
「「好き」は理性ではなくエモーショナルな部分に依存する。だからたいていの場合、本当に「好きなこと」「好きなモノ」「好きな人」に関して、わたしたちは他人に説明できない。なぜ好きなの?どう好きなの?と聞かれても、うまく答えられないのだ。「好き」が脳の深部から涌いてくるもので、その説明を担当するのは理性なので、そこに本来的なギャップが生まれるからだが、逆に他人にわかりやすく説明できるような「好き」は、案外どうでもいい場合が多い。」
つまり、「どう好きかは聞き出せない」という点です。聞き出せないならば、研究意義はないのでしょうか?それは違うと思います。つまり、いままで『「説明でき」なかったであろう「好き」の理由』を導ければいいのです。
そのためには、誰よりも人一倍考察が半ば前提的に必要になると思いますが。(私も自分の先輩に研究前にコテンパンに全否定されましたが、それがあっての卒業研究になっています。)私の後輩の考察は活き活きと良く出来ていた分、勿体無いという感情がたしかに私の中にはあるのです。
さて、前提的な考察は、すなわちラノベの「定義」と、研究する「意義」とに、密接に関わっていきます。まず、ラノベの「定義」ですが、混沌としているようですね。
程度で良いと思います。「読む人」に焦点があるならば、よく読む人はおそらく青少年から成人男性(20~30代)でしょうから。(成人男性が青少年対象の小説を読んでいる点は「オタク」で考察・解説すれば重複すると思うので、日記では割愛します。)
また、文学・物語といった点に対する「ラノベ」の遍歴も欠かせないでしょう。ここで、古めかしいものとの接点を設けること、考察をしてるサイト、本から概念を引用することが結果を導く前から既に必要となります。
例えば、物語的に観れば大塚英志が提唱した「物語消費」がありますね。また、ラノベではありませんがアドベンチャーゲームとの類似点があると思います。
ライトノベルにおいてもゲーム的な世界観が必要であり、大きな影響を与えてきたということは言われていますね。
オタクたちのメンタリティには、教養主義や文学性を引きずりながらも、シミュラークルに代表される動物的な消費社会の波に骨の髄まで浸かっているという両義性がある。という指摘をした東の「動物化するポストモダン」(1・2)も取り入れられると思います。
ここで、「外部性」や「キャラ萌え」(この日記では、美少女キャラに限定します。)が「文学としてのラノベ」のキーワード(カテゴリー)として浮かび上がってくるのです。言い換えれば、「外部性」は「社会性」、「キャラ萌え」は「女性性」にあるといえるでしょう。
ところで、先ほどラノベの定義は「混沌」としていると述べましたが、同じく「混沌」とした定義の文学に「SF」がありますね。
サイエンスフィクションもまた、外部性の幅が限界まで拡張されることによって何十年も前から定義は揺らいでいました。
小谷真理の『女性状無意識』に対する松岡の批評です。なお、小谷真里は、SF研究者であり、ラディカル・フェミニストであるそうなので「文学としてみたラノベ」を知る上で意外に検討する必要があると思います。
最初にハーバード大学のフェミニズム文学者アリス・ジャーディンが「ガイネーシス」(女性的なるもの)という言葉を造り出した。 (中略) テクノガイネーシスはそれにもとづいて提案した新概念で、
父権的な社会が蔓延するなかで女性的な無意識の紐帯が結ばれていく可能性を示していた。
長いあいだ、文明の基準や男性覇権社会の価値観のなかでは、普遍的すぎる母性、すべての他者をとりこむ包容力、あるいは基準をいちじるしく逸脱する狂気、説明のつかない無意識などは、しばしば社会の外部に押しやるべき面倒として片付けられてきた。中世の魔女裁判だけでなく、近代以降も「女子供の戯言」として片付けられ、20世紀後半になってもこの傾向と対決するためのウーマンリブ運動やセクハラ問題が噴出してきた。
では、そのように外部に押しやられた意識をつなげたらどうなのか。あるいは、家庭という内部(実は外部的辺境)に押し込められた意識といってもよい。男性から見れば、多くの家庭は基準社会の外部にあたっているからだ。 ジャーディンはこういう問題を引き取って、そこにはそのままこれらを連鎖させるべきメタネットワークがありうるのではないか、それは女性的無意識を象徴するガイネーシスになるのではないかと見た。
それにしてもいつのまに、女性こそが文学の可能性と限界を語るに最もふさわしい発言者だという情勢になっていたのだろうか。
まずはエレイン・ショーターが父権的文学規範の修正を迫ったそうである。ついでパメラ・サージェントが『驚異の女性たち』のなかで、メアリー・シェリーの『フランケンシュタイン』に始まる女性SF史がありうることを指摘した。他方、これに呼応するかのようにして、陸続とサイエンス・フィクションに挑戦する女性作家が出てきたようだ。 そこで、ヴァージニア工科大学の英文学者マーリーン・バーが「女流SFとフェミニズム理論には相似的な進行があるのではないか」と指摘した。
(中略) なぜこういうことがいえるかといえば、マーリーン・バーによると、多くのSFは“外部の他者”を描くわけだけれど、そこには現実を超えた出来事があまりに現れすぎて、文学的にはサブジャンルに追いやられるようになっていた。
しかし考えてみれば、そのように追いやられる宿命をもっていたのは、実は“外部の他者”の扱いを受けつづけてきた女性なのである。これではSFとフェミニズムとが連関していて、まったく当然だったということなのだ。
ということで、ここでは「外部の他者」たる女性と文学との密接な関連がみえてきました。これは美少女に「キャラ萌え」する「ラノベ」も他人ごとではないのではないでしょうか?
では、そもそも男性にとっての「女性」とはどういうものなのでしょうか?もはや哲学の領域に関連しているように私には思えます。
そこで、デリダにとっての「女性」というものを引用します。ちなみに、「動物化するポストモダン」の著者であり、前述した東は
「【デリダとは】仏哲学者。20世紀のすぐれた哲学者の常として「哲学なんていみなくね?」というのをすごく哲学的に言って、ややこしくなってしまったひと。でも基本の着想はいいので哲学の呪縛から解き放たれればいい仕事できた可能性がある。」
とツイッター上で紹介しています。* ((http://twitter.com/hazuma/status/24868908779446272))
デリダは、「真理が女性であるとすれば」という『善悪の彼岸』冒頭のニーチェの仮定から出発して、「女性というもの(=真理というもの)」は存在せず、したがって「性的差異というものも存在しない」という驚くべき帰結を導き出している。(「性的差異」の問題が重要ではないと言っているわけではない。逆に、デリダは、ハイデガーのニーチェ読解には、「存在論的差異の問題」はあっても「性的差異の問題」がないことを問題にしている。)
ニーチェは『悦ばしき智彗』の中で、「女性たちの最も強力な魅力は、それを遠方性において感じさせること」、つまり「遠隔作用」だとしている。
女性の魅惑を感じるために、「遠隔」が必要なのであり、遠隔のところに身を置くことが必要なのである。
女性というものは、「遠ざけるものであり、自分自身から遠ざかるものなので、女性の本質は存在せず」、「女性の真理は存在しない」。
女性は、真理が存在しないことを知っているのであり、真理の存在を信じない限りにおいて、女性であり、真理であるのだ(女性の本質、真理の本質は、それが存在しないということであり、自分が存在しないということを知っているということである)。
実際のところ、「女性=真理」を信じているのは、「男性」なのである(この意味で、フェミニストの女性たちは「男性」なのであり、「フェミニズムとは、それによって女性が男性に、独断論者の哲学者に似ようとする活動」だということになる。)
ニーチェの『善悪の彼岸』の「序言」の冒頭は、次のように始まっている。
真理は女性であると想定すれば、すべての哲学者たちは、彼らが独断論者であったかぎりにおいて、女性たちをうまく理解できなかったのではないかと疑うべき理由があるのではなかろうか。
そして、これまで彼らが真理を探求してきた際の恐るべきまじめさ、不器用な無遠慮は、女の子をものにするためには、拙速で不適切なやり方だったのではないか。
デリダは女性も真理も、与えることによって所有するのであって、こうして贈与=所有も非弁償法的な決定不可能性は、あらゆる存在論的、現象学的な解釈の試みを失格させてしまう、とした。
つまり、贈与に先立つ固有なものの存在がないのだから、女性(真理)というものはないのであり、性的差異といういものはないということになる。という帰結に至った。
見事にややこしいこの解釈から、女性の振る舞いは虚構的であるという面ががわかってきたのではないでしょうか。
ニーチェは芸術的と指摘しましたが、遊戯的、ゲーム的と捉えても過言ではないでしょう。
であることがわかります。(また、女性性を獲得し、同時に女性に所有されたいという願望を解消するメディアとも解釈できます。)
十数年前に、男性オタク達は「萌える」という言葉を発明した;「萌える」という言葉を使えば「セックスしたい」「愛してる」といったストレートな表現を避けながら、美少女キャラクターへの思慕をオブラートに包んで表現できる
という指摘もあります。
例えば、オタクにとっての現実における外部性にインターネットがあります。
○オタク男性であろうツイッターユーザーのアイコンが、イラストやアニメの美少女アイコンである可能性が高い点はオタクにとっての外部性を無意識に象徴しているのではないでしょうか。
また、ラノベ作家は決して女性が多いというわけではないですが、その必要はなく、いわゆるユングの提唱したアニマ(男性の女性的側面)による手で書かれている点、それがラノベを好む多くの男性読者に受け入れられている点こそ検討すべきでしょう。これはつまり、女性を真理とするのではなくアニマこそを真理とするさらなる「遠隔作用」をもたらしているとも考えられますね。
このアニマを真理とすることによる遠隔作用の効果としての共時性が
先程のツイッターのイラストやアニメの美少女アイコンを無意識的に選択させる要因になっているかどうかを検討することは興味深い対象ではありませんか?
以上より「ラノベ読者はなぜラノベを好むか」という問いの考察を注意しつつ踏まえ、ラノベ読者(男性)の実際に構築しているコミュニティ、家族間の関係、他の好きなメディア媒体等について研究することは簡単には説明できなかったラノベ読者の感性、つまり一つの社会的な側面を知る上で、大いに意義があると思うのです。
○ラノベの本質は-文学であり-女性性であり-外部性であり、それがラノベ読者の実生活と対照的にどう関わるかが重要なのではないでしょうか?