はてなキーワード: 区別とは
VTuberは”絵”というガワを被る事で誰でも美男美女になれるようになった。
中の人がどれだけブサイクだろうが関係無い、配信上ではイケメン・美少女になれるのである。
これは良いように聞こえるかもしれないが、逆に言えば「容姿」という個性が無くなったとも言える。実写Youtuberのように見た目で差別化が出来ないのである。
恐らく次は「声」だろう。最近はAIボイスチェンジャーの発展が凄まじく、短時間の会話ならば人間との区別が付かないレベルのものまである。
今のところ長時間の会話で違和感なく聞けるものはないが、まぁ時間の問題だろう。
そうなれば声が最大の売りであるVtuberは淘汰される、だが一方で声がネックになっていた配信者が新たに発掘されるかもしれない。なんなら性別が逆でも良いわけだしな。
ただこれは本当に良いことなんだろうか?
うーん、10年後が楽しみだ。
いやいや、同性に置き換えてみたらそいつが「声のでかい奴」か「ノリで凌いでる奴」か「育ちのいい奴」か分かるっしょ、そこからどうでもいい人間とか信頼できる人間とか区別していくんだよ
お前らの中では女ってみんな敵なのか。それは苦しいだろうから本気でカウンセリングとか行ってみた方がいい。オンラインで受けられるのとか、安くで受けられるのとかも探せばある
悪いが実話だwwwwwwwwwww
あららご愁傷さまwwwwwwwww
日本人女の95%は同調圧力と教育と文化の賜物で「正しさ(笑)」を内面化しているから、男にこういうことやられると自尊心を傷付けられるんだな。
もちろん自尊心を傷付けてるのは自分自身だけど、日本人女の95%にとって自他の区別は関係ない。
デート中に犬のウンコ踏んだとしても、それは男が悪いwwwwwww
もちろんそうじゃない、安っぽい正しさにとらわれない女も5%くらいはいるだろうが、ぶっちゃけお前はそういう女好きにならないだろwwwwww
今回の件だったら、デート中に徘徊老人に出会った時点で、もはや運が悪かったとしか言いようがないなwwwwwwwww
・助けない→この人優しさがないのかしら(それでも助けるよりかはだいぶマシ)
これ彼女の肩を持つ意見が多くて引くと同時に、やはり私は善性の強い人間なんだなと自信が持てた
人の話を聞かない我が儘な女とずっと言われ続けてて、何の事なのか、私自信我儘など言った覚えはなかったんだけど、こういう事だったんだな
我儘で結構。こんな人助けひとつできない人間になるくらいなら我儘で結構。
あといくらお人好し扱いされても金なんか貸さんわ。こういう事をするのは善悪の区別ができないバカだけだ、という偏見をどうやら皆さんお持ちのようですね
私は邪悪な人間として生きていく方がよっぽどストレスなので、我儘で人の話を聞かない付き合い辛い人として胸を張ってこれからも生きていく
【理由】
残っているので、人間以外には使わない方がいい
うるせぇよ、猫がいちいちそんなこと気にするかってんだ。ていうか猫と人間を区別してんなよ
猫は家族なんだよ
言ってくるやつがいたらぶん殴りたい
この区別がついてない女、めちゃくちゃ多いよな
https://anond.hatelabo.jp/20240531110922
デパートのトイレで吐きまくるベトナム人女性を介抱し、駅の階段で転倒したおばあちゃんのために人を呼び集め、テーマパークのショーで見知らぬお子さんに最前を譲り、インバウンドファミリーの道案内に応じ、その全てで同行女性を激怒させてきた俺の前で……
正直元増田の気持ちはかなりわかる。困ってる人を見たら助けになりたいし、何より初デートというウキウキの状況では、彼女に少しでも「コイツ良い奴だな」と思われたい……彼女の前だからこそよりカッコつけたい下心が十二分にある!
でもそれをやる度にデート中の女性は皆、惚れ直してくれるどころか一様に不機嫌になり、その後どれだけ宥めすかしてもデート開始時のテンションは戻らなかった。なんでか。
最近思い至った答えとしては「初デートにやってくる女性は、お姫様になりに来ているから」である。
お姫様になりに来た女性にとって、デート相手の人助けは「世界で一番お姫様」のはずの自分を「ヒーローを支えるモブ市民」の座に貶める行為でしかない。お姫様-モブ間の認知的不協和こそ、彼女たちがブチギレる理由なのである。
初デートなら目の前の私が絶対的に最優先されるべきで、どんな理由であれ余所見は重罪という、そういう理屈が働いているのだ。
それをそのまま口には出さない、人助けを咎めることを躊躇うような理性ある女性ならなおのこと、不機嫌の理由を言えないことすら察せない相手に怒りが燃え上がる、そういう仕組み………こんな悲しいすれ違いはなかなかない。
この考え方は乱暴に言うと、「付き合っている相手が朝から晩までパチンコ三昧」と「見知らぬ子供を庇って暴走トラックの前に飛び出した」は、彼女たちにとっては何の区別もないということだ。なぜなら「彼女自身にとって直接の利益がない」点では全く差がないから。どっちも自分勝手で最低でわたしのことを全く考えないカス、こんなカス野郎と付き合わされたわたしは世界一不幸、そういうことなのだ……
私こと増田(バイ女性)は様々な女性のこの性質、公益を無視した強烈なプリンセス性を目の当たりにするたび心底驚いて、とてもじゃないが理解などし合える気がしなくて、女性と恋愛をするのは諦めた方がいいかもと思っているのだけど、やっぱり可愛くてフワフワで良い匂いがする女性を好きになってしまう。
どこかには自分とうまくやってくれる女性もいるはずだという希望と、もう全部や〜めたの狭間でどうしたらいいかわからん。助けて。
https://anond.hatelabo.jp/20240505030127
ユダヤ教、キリスト教、イスラム教、この区別もできないガチのバカがいるのに驚愕したのでいちおう書いておく
この程度は分かっているよ馬鹿ッ、と言いたげな増田の多数派の智者には申し訳ない。 一番最初に書いておくが、この区別がつかない奴はさすがにバカすぎるので反省したほうがいいぞ。 まず最初に出てきたのがユダヤ教で、これは旧約聖書を聖典としています。 主役はノアの箱舟で有名なノア。 ノアが神様から十戒の石板として戒律を与えられ、それを元にユダヤ人を導き、約束の地エルサレムに到達するお話。 これは民族主教としての色合いが濃く、ユダヤ人以外はだいたいクズとして扱っています。 神様が愛したのは敬虔なノアとそれに繋がるユダヤ人だけ。 それ以外は異教徒なんで適当に地獄ぶち込みコースです。 基本的には、ノアが授かった戒律を重視する宗教なんですね。 アダムとイブから始まる「原罪」を人間は背負っているから、その罪の意識と共に戒律を守って生きましょう、という宗教。 当然、いろいろ制限が多い。 それに対するカウンターと
「平等にあつかえ」と
「公平(フェア)にあつかえ」と
「俺を虐げるな」
何もかも間違ってる
このような固定化された社会的・構造的な有形無形の事象を彼らは差別と呼ぶ
オタクが社会から固定化した構造的な排除・迫害を受けているか?否という訳
だから、彼らにしてみれば、「差別と認められるほど酷い目にあって出直せ」となる
「加害者は黙れ」と
侮蔑や偏見も差別と呼ぶし、固定化を助長する表現物も差別を構成する
だが、差別を構成する要素に偏見があるが、その逆、偏見があるから差別とはならない
だから、彼らにしてみれば「ジャップオスを偏見で罵倒する」のは何の問題も発生しない
それは偏見で描かれるジャップオスが被差別クラスタではないから
自明な事だ
話は変わるが
元来、無敵の弱者として他者を罵倒してきた女性様とその騎士団は
自分よりも弱者属性の強いLGBTと対峙する事で、これまでの戦略が使えなくなっている
「俺を虐げるな」=「無条件で俺を世話して性処理をする女をあてがえ」
そもそも、誰かがそう主張すること自体は自由です。その主張を議論の俎上に載せて対話するのが民主主義です。もちろん、こんな主張を議論に乗せれば、それが通らないことは自明です(1人の人権を保障するために1人の人権を犠牲にするのでは社会にとって問題は何も解決しないからです。一般的に言って、無辜な何者かの生活を犠牲にすることによる解決は、少数意見を尊重する真っ当な民主主義においては認められる主張ではありません)が、それはそれとしてその「主張をすること」は自由であり権利です。逆に、その意見を封殺することは非民主的な行いです。
従って、
という態度は望ましくありません。意見が荒唐無稽だとしても、両者の意見のすりあわせと妥協点を探る(女性を奴隷にせずに、「俺」さんが「虐げられていない」と考える道は本当に無いのか?など)態度が民主主義です。このように、民主主義を標榜するなら「俺を虐げるな」などと言う人と対話しようとする姿勢が必要です。もちろん、相手がマサカリで武装しているなら、対抗言論上多少きつい言葉を使うことも許容されるべきでしょう。しかし、少なくとも人権と民主主義を尊重する近代人のふりがしたいなら、対話すべき相手を人間以前の生き物のようにレッテル貼りして言論を封殺しようとするべきではありません。そういう( 「弱者」男性に対する )マッチョな振る舞いが一部界隈では人気を博すのかもしれませんが、それは人権に名を借りたただの差別主義です。
差別主義とは何か。それは、社会に、本来は存在しない見えない線を区切ることです。そのような見えない分断は多くの人にとってはただ不都合でしかありませんし、特に、その区切りによって不利益を被る側には耐えがたいマイナスですが、その分断を強く主張し主導する人々にとってはそれが権力の源泉となります。たとえばエセマナー講師は、わかりやすいその一例です。奇妙なマナーを提唱して、社会を「"マナー"を知ってその通りに振る舞う人/"マナー"知らずで無礼な人」に区分けする、多くの人にとってはただ面倒が増えるだけですが、マナー講師にとってはその「社会全体の不利益」がそのまま「飯の種」になります。「流行・ファッション」などというのも、多くの場合これです。しかし、流行・ファッションを飯の種にする人は多くいて、そうなるともうこの「流行」なるものは実態のように振る舞い始め、被搾取者だけでなく受益者まで巻き込んで様々な悲喜劇を引き起こします。「文化・伝統」「宗教・信仰」もその類いであることは言うまでもありません(本来は信仰の守り手として受益者であるはずの行為の宗教家が、狂信者となることでどんな悲喜劇を引き起こすことか)。
ここで、しっかりと区別しておきたいことは、私はこのように振る舞うのが「好きだ」、私はこのような服装が「好きだ」、私はこのような文化が「好きだ」、私は神様を「信じている」……それは差別主義ではありません。しかし、人はこのように振る舞う「べきだ」、このような服装をする「べきだ」、このような文化を守る「べきだ」、誰もが私の神を信じる「べきだ」……となると、それはもう差別主義に足を踏み入れています。なぜならそれらは、そうする人としない人を区分けする考え方であり、しばしばまさに「区分けするため」になされる主張だからです。敵と味方にわけて闘うための思考が差別主義です。差別主義は戦いからこそ利益を得るのです。
同じく、私は人権を「大事だと思う」、人権は「大切だと思う」、はただの選好ですが、誰もが人権を「尊重するべきだ」、人権を守る「べきだ」、人権を信じる「べきだ」、人権に則って振る舞う「べきだ」……は、ここで言う差別主義に当たることになります。一見人権を大切にする結構な主張に似て見えますが、それらは社会に分断をもたらすことで結局は全体に不利益を与え、見えない壁を作り、そしてそう主張する者だけがそこから部分的な利益や権力を得る、そんな行いだからです。人権も民主主義も、この社会の構成員全てを等しく扱う考え方であり、「敵/味方」という思考法から最も遠いはずのものですから、「彼らは民主主義の敵だ」とか「我々は人権派だ(あいつらはそうではない)」といった主張は、本来存在するはずがないのです。
私たち一人一人は、弱く愚かです。間違いも犯す。だからこそ、いろいろと問題のある中で民主主義が選ばれ、尊重されているのです。たとえ自分が民主的で人権を尊重する人間であると自負していたとしても、私たちは不断に自らが本当にその名にふさわしい振る舞いをしているか、再確認する必要があるでしょう。人権や民主主義はありがたく飾っておけばすむ錦の御旗などではなく、常に実用の最前線にあり、限りない問いかけと異議申し立ての中で磨きぬかれてきた存在なのです。