はてなキーワード: 公理とは
いや
全ての 2 よりも大きな偶数は二つの素数の和として表すことができる だったと仮定しても
そもそも 大雑把に言うと
すべての素数の積が偶数かどうかは 公理系の問題だから まずどの公理を選択するのか?という事を決めないとしょうがないという問題であって証明できないわけじゃない。
すべての三角形の内積の和が180度であるかどうかは、リーマン平面上の話とするか、という公理を選択しないと答えがない。というだけで
いわゆる一般的な平面上の話しなら、内積の和は180度だし、特殊な平面上を扱っていいなら内積の和は180度じゃない。
もう少し別な話で言うなら 2つの物体を落とした時に、質量が落下速度に影響するか?という話で 空気抵抗を無視するか?しないか?という事を選択しないといけないけど
つまり、どうしたいか?という事を先に言わないと 答えが出ない。
無限を扱う数学なら 2を含む無限の集合は 偶数でも奇数でもない。
というふうになるだろうし・・・そこから先は僕にもよくわからない。
公理や論理なんてもんは脳がうまく物事を理解するために編み出された手法かもしれないってこと。
人間とはまったく異なる脳の構造、もしくは思考することができるものがあったと仮定するなら、またそれにあった公理なんかが必要になるんじゃないかな。
まあ、人間は自分の中に無い概念をそうそう理解できるもんじゃないから、それが具体的にどういうものか?ってのは俺もよく分からんけど。
1+1は、当たり前の話だが、2である。
「1+1を、3にも4にもする」という比喩表現は、比喩であることがわかる。
社会人になってから、「チームワークで、1+1を3にも4にもするように」という比喩を、部下にもするようになる。
それは自身も部下も、1+1=2であることを公理として知っているから、比喩が重みをもっている。
でも、ネットの世界では、1+1=2のような「極めて当たり前のこと」は、GoogleSEOでは、「当たり前すぎて」上位に来ない。
割と上位に来るのは、1+1=3とか1+1=100のような、極めて異常な方が、かえって上に来やすい。
もし、1+1=2、という「予備知識」を持たない子供が、1+1=3、というGoogle上位エントリを見たら、どう思うか?
「ああ、1+1は、3なんだ」と、そのまま記憶してしまうだろう。
今回、比喩で1+1の話をしたが、例えば「アンネの日記は、偽書だった」というネタを、予備知識がない子供が
Google上位で見てしまうと、そのまま信じてしまう危険性がある。
今の子供はネットリテラシーが高いから、中学生、いや小学生高学年で、それなりに検索してしまう。
教育が1+1=2を中学3年で教えるつもりだったのが、先に中一の時点で1+1=3、というのを見てしまうと、その修正に時間がかかってしまう。
中には「教育では1+1=2と教えてもらったけど、実は1+1=3じゃないか?」と教育そのものに疑義を持ってしまう。
自分たちの世代は、子供の頃はネットなんてなかったから、1+1=2、2×2=4、と正規に教育されている。
でも、今の子供の世代は、ネット上に上位に来る「1+1=3」「2×2=8」のような誤答を、先に認知してしまう。
「アンネの日記は偽書だった」のようなネット上の「1+1=3」は、全面削除しととは言わないが、Google検索結果のベスト10に表示されないように
これが私に起因する問題なのか
彼らにも共通するものなのか
それは定かではない
言語に、論理に、より上の階層で俯瞰しよう、俯瞰することを正当化しよう、という働きは、日常を紡ぐことからの逃亡なのだ。
どちらが本質なのか、という問題は、両者の側が自身の陣営の擁護という形でそれぞれによって、論理の解れがないほどに、厳しく規格化されている。出自とする公理の源泉が対極に位置するのだからそれは現状仕方のないことだ。
しかしながら、しかしながら、我々は既存の世界から教育を、影響を受けた存在であるにも関わらず、既存の世界での"正しさ"を知っている存在なのにもかかわらず、その"正しさ"の本質を問おうとする。
"正しさ"に則って明日の生きる糧を作るはずであるのに、答えを保留にして逃亡するのだ。
早いことが正義である。即答できることがこの世界の"正しさ"である。
にもかかわらず、その本質を問うのだ。
既存の体系の中で自由になれるだけの力がないから、体系自身に難癖をつけるのだ。
問題解決の本質を抽象化し、難解なものである、という合意を取り付けることによって、結論が出ない、出せないことに対する論理的根拠にするのだ。
鏡に苦手意識を持っている人は多いと思う。
昔、鏡が左右が逆の光景を映していると知って怖くなった。
怖いと思った理由は
それでずっと鏡やガラスを避けてきたんだけど、ふと、じゃあ鏡に映っているのは僕なのか僕ではないのかと考えた。
普通の人は、鏡を自分の姿形がそのまま反映されていると考える。
すなわち鏡の中に自分を見る。
だけど僕は鏡の中に自分を見ることができない。
もし鏡に映るのが自分だと認めてしまうと、理由1に反してしまう。
では鏡に映る人間が自分ではないと決めると、理由2に引っかかる。
この世で最も僕に似ている人、違いは左右が入れ替わっているだけ。
この考えも受け入れることができない。
本当はそうじゃなくて、もしかしたら、鏡の中にいるのが誰かという判断を先延ばしにしたかったためかもしれない。
そう考えると、写真に写るのが嫌いな理由は、そこに写っているのが誰かを考えたくないからかもしれない。
こうなりたくないな人は、ちゃんと鏡を見て自我を形成しましょう。
いろいろ掘り下げが足りんとしかられましたが、僕は基本的にヒュームが好きなので公理として心象から始めてみました
貰ったコメントの中ではtoru-nakataさんのコメント"四次元で回転させれば、鏡像は原物に一致するので気にせんでもよい。"が一番すっきりしました
友人のコネで20代後半の元グラビアアイドルと合コンしてきた。
合コンというか、男女2対2の食事会という感じでな
俺の友人の女の子が舞台などに出ている奴で、そいつにはちょっとした貸しがあり、
礼をしたいと言うので、兼ねてから頼んでいた元アイドルとの合コンを設定してもらったという流れ
当方は某大手企業勤務の研究職二人で、年収は1000に届かない程度
開成から東大へと進んだ俺にとっては、あのレベルの女に会うなんてことまずなくて
顔は俺の顔の半分くらいしかないんじゃ?ってくらい小さいのに目がすげーデカイw
その上に体は細いと感じるのに、太ももとか知りの肉付きが絶妙で胸もあって
見てるだけで起ちそうになってしまうほどにエロくてたまらんかった
これで性格悪いんだろ?ってなりがちだろうけど
性格なんかも凄くいい、聞き上手でどんな話でも楽しそうに聞いてくれて
その笑顔にやられちゃって、こちらのスペック以上の何かを引き出されちゃうんだよ
かと思えば、アイドル時代の逸話や今の話も努力してきた形跡があり、聞いててかえって刺激を受けるほど
で、飲み物が空になったら何も言わずとも店員を自然に呼んでくれたり、
さっきと同じものでいいんですか?とかって飲んだものも覚えてるんだから驚く
料理を取り分けてくれたり、皿を片付けてくれたりなんて序の口で
極め付きには、出る時に自分のだけではなく俺らの上着まで取って着せてくれんのw
あり得んよなw
あんな可愛い子に上着を着るのを手伝ってもらうなんて、もう生きてる間はないわw
正直ね
向こうからしたら俺なんて、相手にする価値もないレベルのつまらん男だったと思うんだ
彼女にとってはつまらない会だったはずなのに、あれ程の気遣いを示してもらって感動してしまった
いい女って、何から何までが完璧なんだな、という当たり前のことを思い知ったよ
あれだけ可愛ければ幼い頃から皆に大事にされ愛されてきただろうし、育ちが自然と良くなる
金のある男やいい男が集まってくるから、酷く傷ついたりせず、金を使ってもらって色んな経験もしている
そらそうなるわって話ですよ
いかに当方がその子にとってはクソみたいな男だったとしても、俺にもこれまで全力で生きてきた誇りがある
勉強と研究に全てを注ぎ込んで必至にやってきた。最高の女でなければダメだと言うほどじゃないけど、
ブスだけは選んだら負けだと、改めて思い知った
普通以上に可愛い子は、それこそ見た目から性格なんて分からない部分も大きいんだけど
横だけど、
別に政治的なとか文化的なとか、さらに公理がどうこうとか、ちょっと皆落ち着け。
経済なんかでもそうだけど、取り敢えず、これまでの動き等をみて、適当な「モデル」を作るんだよ。
勿論、それで全てを完璧に記述できるわけではないけど、ある範囲でその方程式に値を入れると特定の状態の数値を出してくれるようになる。
これが「モデリング」の基本で言ってしまえば素粒子の理論ですらこの域を超えない。それこそ全てを司る方程式、みたいな話になっちゃうから。
特に、経済や政治関連の数値はモデルを作るための参考にするのが過去のデータしかなく、数が少ない上に
だけど、取り敢えずモデル化して、現在の状況を数値的にどうなってるか、それこそ微分して上昇してる、さらに二階微分して上昇が加速してるのか、減速してるのか、
見ることは出来る。
ただ、こんな所でそんな話をいきなり持ってきて、「二階微分( ・´ー・`)どや」と言うのはどうかと思うし、
仮に上昇が緩やかになってるよね、と言う話をした場面があったとしも、
例え理系出身でも、二階微分、なんて言葉がそう簡単に日常会話に出てくることは無い。
数学科の人間なら冗談でそういう言葉を使うならもっと違う言葉を使うし、この程度の言葉だと逆に冗談にもならない。
他の分野でも同じ。
確かに黒寄りのグレーだけどさ、それがわかってる人なんて(教師でそれを強調して教えられる人も)ごくごく一部だと思うよ。
リンク:教師「虚数をiと表します。」俺「ほう」教師「i^2は-1になります」俺「…」 - 発声練習 http://d.hatena.ne.jp/next49/20130809/p1
そもそもこの人も過去そうであったように、「数学は人間のおいた仮定(公理という)から人間のつくりだした論理的集積物(定理のあつまり)であって、数学が真理を体現しているかはわからない」ということがわかってないのよ。多くの人は。
発声練習の人も確か工学の大学教員でしょ?そんな人ですら「私は高校~大学にかけて「定義」、「公理」、「定理」の区別がついていなかった。」というくらいだから、この問題は相当根深いのよね。
複素数を理解するのに何が難しいかって「虚数って本当に存在するの?」っていう疑問を(数学教師も含めて)真剣に考えたことのない人が大半だからで、むしろ今の日本の学校教育はそういった素朴で根本的で(世界がひっくり返ってしまう可能性を持つという意味で)ラディカルな質問を封じ込めているんだよね。そういった疑問を抱かずにお上の言うことに盲従する人間が再生産され、そういった人間が教師になるという不幸な再生産システムがあるのよね。だから教育は難しいんだけど。
あと、この疑問を徹底的に考えると「じゃあ、数学なんて現実世界となんの関係もない、記号遊びにをやっているだけだな。だから、僕には必要ないな」というように、シニシズムに陥いりがちでそういった方向に思考させないことも必要だし、それに陥った人をうまく掬い上げなきゃいけない。
この増田のエントリーも含めて、「虚数って本当に存在するの?」っていう疑問から目をそむけずに考え続ける人が増えてほしいと切に思う。
そもそも空間に内積が入ってるというのは、内積から自然に誘導されるノルムや距離や位相がある空間だということだ。
ノルム、距離、位相だけでは記述できない、内積によって規定される構造というのは、角度であり特に重要なのは直交という概念だね。
直交性というのは、その(線形)空間の中である意味「お互いに独立」な要素を決める。
n次元ユークリッド空間なら、n本の直交なベクトルを定義することができて、空間中の点はそれぞれのベクトルの方向に、「他のベクトルの方向には影響を与えず」独立に動かすことができる。
逆に、平行なベクトル同士では、互いに完全に影響を与え合う形でしか動かすことができない。平行性も内積によって定義される性質であり、これを従属と言う。
n本以下の平行でない適当なベクトルの組を持ってきたときに、内積を使って直交したベクトルの組を得ることもできる。グラムシュミットの直交化とかで。
空間中の直交なベクトルの組を見出すということは、空間の性質をかなり詳しく知るということになっていて、そのための演算として空間に定義された内積は超重要。
ベクトルに関する操作は、和、スカラー倍、ノルム、そして内積くらいしか高校では使っていない。内積という操作を禁止すると何ができなくなるかを考えてみるといい。
ちなみに内積は標準内積と呼ばれる高校で習う定義に限るものではなくて、内積の公理を満たす演算ならなんでもいい。
これは逆に空間にどういう構造を入れるか?というユーザの意思や物理的要請から決まるもの。内積の定義が各点で変わるような空間もあって、これは空間が曲がっているということに対応する。
ユークリッド空間みたいに平坦で内積が一様な空間というのは特別な空間ということだな。
また、線形空間という概念は実はユークリッド空間に限ったものでもなくて、空間の元に対して和やスカラー倍、単位元や逆元が定義されていて、いくつかの性質を満たせばよい。
これは例えば関数をたくさん集めてきた関数空間についても成り立つことがあって、そこに内積を定義することでユークリッド空間のベクトルの議論と完全に同じ話をすることができる。
親鸞は仏教にたいして、矛盾を感じ、無矛盾な体系を持つ浄土真宗を作った。
しかし、無矛盾であることは、完全であることではない。とはゲーデル不完全性定理の言い分。
キリスト教においても、バイブルの解釈を複雑化させることで、無矛盾を編み出そうとしているが。
神の無矛盾性を人間が認識しようとするならば、完全かどうかはわからない。
結局、宗教というのは、無矛盾な公理を求める作業であり、無矛盾があれば人間の精神が救われると思った。 無矛盾なら完全だからという直観があったから。
しかし、無矛盾だからと完全かはわからないという現実を突きつけた時に、
「人が作った宗教というものは、人間が人間をすくいたいために無矛盾を作っただけです。」
ということにはならないだろうか?
http://anond.hatelabo.jp/20130629204133
今までであれば、「若者の高学歴化は、当然必要な政策・望ましい政策である」という
「疑いようがない公理」があって、「受入側こそ、高学歴を使いこなせるよう、職種の高次化を
進めるべきだ」との論調が主流であった。
…
そろそろ、「大学進学率が高いほど、望ましい社会だ」という「社会学者・政治家の常識」を
疑ってかかってはどうか?
意味のない高学歴化に対する批判なんて、有り余るほどあったと思うけど。
むしろ、「大学進学は、社会的意味がある」ということを立証しようというサイドの人のほうが
大変そうに見えるけどねえ
http://anond.hatelabo.jp/20130630010055
低学歴化によって、少子化の歯止め効果が生まれうる、という話はもちろん
多少は頭のまわる政策関係者だったら、そりゃ理解はしてるとは思うけど、
その話には、ざっと5つぐらいの問題があると思われる。
1.差別的
女性に低学歴化を強いるとか、男女平等じゃなさすぎてやばいっつーか、勘弁してくれって思う
(おれも、そんな前時代的な政策が打ち出せれたらこの国を捨てるわ。女性手帳どころの騒ぎじゃない)
全体にとっては高学歴化のデメリットが大きくても、個々人にとっては、高学歴化したほうがメリットは圧倒的に大きい。(就職が有利)
なので、たとえ「高学歴化を止めよう」という話をしても、確実に総論賛成各論反対に陥りやすい。
具体的な個々人や、個々の組織にとってのメリットが小さすぎる話なので、
政策としてゴリ押しを非常にしにくい
※低学歴な人間のほうが、経済的・社会的に有利な職業(漫画家とか?)が、増えるとか。
そういうことが前提として存在してないと、低学歴な社会にはなだれ込みにくいだろうねぇ。
お断りされるケースより、受け入れられるケースのほうが、確率としては高い現状でしょう。
そこが逆転するところまで言ったら、高学歴化が高止まりするとは思うけれども。
「高学歴の有利性は逆転してます」ってのを、就職マーケットの統計データとして、
誰かがはっきりと信頼性のあるデータとして提示し、
かつ、それが一般に広まるみたいな、ことが起こらないとダメなんじゃね。
3.証拠不十分
低学歴化と高学歴化のメリット・デメリットについて、定量的・国際比較した社会科学者による信頼出来るデータというのが
あまり見たことがない。
4.よりよい政策の可能性
少子化政策を、低学歴化≒個々人にメリットうすい方向によって解決するというよりは、
フランスのように、婚外子やシングルマザー等を手厚く保護する政策などで少子化を解決するという方向に話をもっていけたほうが
だいたいの国は、大企業より中小企業の占める比率のほうが圧倒的に高い。
「東大卒・早稲田法科大学院卒の入社希望者をエントリーシート段階で落としてやった、少し優越感」と
書いて「炎上」したらしい。
しかし、中小企業などでは、「あなたはウチに来るには、あまりにも高学歴過ぎる」と
「おことわり」するケースは、案外多いらしい。
思うに、日本の「中小企業が多い産業構造」に対して、「あまりにも大学を作りすぎ」てしまい、
「社会が必要とする学歴比率」に対して「オーバースペックなまでに社会が高学歴化してしまった」
ということはないのか?
今までであれば、「若者の高学歴化は、当然必要な政策・望ましい政策である」という
「疑いようがない公理」があって、「受入側こそ、高学歴を使いこなせるよう、職種の高次化を
進めるべきだ」との論調が主流であった。
しかし、逆の発想として、「職種の高次化がなかなか進まないのであれば、若者の『行き過ぎた』
高学歴化の方を抑える」方が、現実に即した政策にならないのか?
高卒比率が増えると、一見年収が低く抑えられて「不利」に見えるが、
生涯勤労年数は「大卒比で4年は増える」(1割増える)ので、実は生涯トータルで見れば大差ないのでは?
加えて、年金加入年数も増えるので、その点でも有利。
また、実質的に親が負担している大学教育コストも「不要」になるので、「親子連結家計」で見れば、
なによりも、第一子の親になる年齢が30代⇒20代と若くなるので、
大卒だと「30代で第一子作り⇒体力・精神的に参ってしまって、子供は1人だけ」
のようなところが、高卒だと「20代で第一子作り⇒体力・精神的に余裕があるので第2子も」
となり易い。
そろそろ、「大学進学率が高いほど、望ましい社会だ」という「社会学者・政治家の常識」を
疑ってかかってはどうか?
なんか「うまくいかないなあ」と思ってしまうとき、考えつく原因は、
人間関係とか、積み上がってる仕事だったりするかと思うんですが、
そういう外部要因というよりも内部に原因がある場合のほうが多いと思います。
なぜなら「うまくいかないなあ」の発生源は内部というか自分なんす。
「こうすりゃいいかも」とか「まーそんなにたいしたことない」とかに出来たら消える。
問題はどうすれば気分を変えれるかなんですが、
ほんとは運動が一番ブチキめれるんですけど、職場とかじゃ無理だし。
なんか食べましょう、おなかすいてなくても。
おなかすいてるとイライラしがちなのと一緒で、
以上から
食うと元気になるんで、[公理:元気があれば何でも出来る]より
かなり無敵ですね。良かったですね。