これが私に起因する問題なのか
彼らにも共通するものなのか
それは定かではない
言語に、論理に、より上の階層で俯瞰しよう、俯瞰することを正当化しよう、という働きは、日常を紡ぐことからの逃亡なのだ。
どちらが本質なのか、という問題は、両者の側が自身の陣営の擁護という形でそれぞれによって、論理の解れがないほどに、厳しく規格化されている。出自とする公理の源泉が対極に位置するのだからそれは現状仕方のないことだ。
しかしながら、しかしながら、我々は既存の世界から教育を、影響を受けた存在であるにも関わらず、既存の世界での"正しさ"を知っている存在なのにもかかわらず、その"正しさ"の本質を問おうとする。
"正しさ"に則って明日の生きる糧を作るはずであるのに、答えを保留にして逃亡するのだ。
早いことが正義である。即答できることがこの世界の"正しさ"である。
にもかかわらず、その本質を問うのだ。
既存の体系の中で自由になれるだけの力がないから、体系自身に難癖をつけるのだ。
問題解決の本質を抽象化し、難解なものである、という合意を取り付けることによって、結論が出ない、出せないことに対する論理的根拠にするのだ。