はてなキーワード: 社会秩序とは
~~~~~~~追記~~~~~~~
ブコメやトラバをみて僕の狙いというのをちゃんとかいておくべきだったと感じたので追記。
お布施に上限をつけたい、というのは生きていく上での悩みや不安を少しでも減らしたいと思って宗教にすがったのに
その結果、自分だけでなく家族も含めて今日食べるものにも窮するという本末転倒なことが起きないようにしたいという考えから。
いまはみんな旧統一教会に目を向けてるけどそれ以外にも胡散臭いものはたくさんあるし今後また起きる可能性をなるべく減らしたい。
個人の自由を制限することになるのではというコメントがあるんだけども会社法人における36協定の宗教法人版だと思って欲しい。
会社法人は裁量労働契約の労働者がどんなに働きたいと思っても労働者の肉体的、社会的健康をまもるためにそれを止める義務がある。
生活に支障がでるレベルであればそれを止める義務を宗教法人は持つべきだという考え。
強要が行われていることに着目すべきという意見もわかるんだけど、信心深いひとだと強要だと認識しない、という問題があるんだよね。
なにより強要だ、ということになってくれればすでに現行の法律で対処できる。
あと霊感商法かどうかを基準にしちゃうとぶっちゃけ仏壇や戒名も霊感商法みたいなもんだからね。
(まぁ個人的にはあれも制限していいとは思っちゃいるけど信教の自由の観点から一律に制限しづらいでしょう)
なので「経済的困窮せしめ社会生活をおくるのに支障を及ぼすようなお布施、献金を法として制限する」
が信教の自由をある程度担保した上で依存による生活の破綻が防げるラインじゃないと考えてるのです。
(本文では10万とかにしたけど別に生活が破綻しないのであれば年収の2, 3%とかでもいいとは思う)
旧統一教会の話が最近持ちきりで、旧統一教会を規制しろ、という声をよく見かける。
多分、個々の事案、トラブルには裁判等で対応していくということはできるとは思うんだけど
傀儡となるような人を立てて別の宗教法人を立ち上げるってことも現実的には可能なわけでそれをやられたら結局防げない。
何より日本は信教の自由が保証されているから教義の内容に政府が口出す、ということはできないし
するべきではない。
頭がおかしいとしか思えない教義でも存在は許されるべきではある。
となるとカルト宗教とそうじゃないものの間はグラデーションで「XXと◯◯があればカルト宗教である」という定義はなかなか難しいんじゃないだろうか。
というわけでここ最近、全宗教法人の寄付金詳細の公開義務付けと
一世帯あたりからの寄付の年間総額の上限設定、というのを立法化できないかなと考えてる。(年間10万までとか)
全宗教法人の非課税廃止というのもありだと思うんだけど、その非課税が認められてる建て付けが「宗教法人は営利団体ではないから」なんだよね。
であればそれを逆手にとって営利団体じゃないんだから寄付金、お布施が目的じゃないよね、という感じで押し付けたい。
てか、個人的にも信者の幸福、功徳が第一とか無償の愛だと言っておきながらお布施を払わせる事に矛盾を感じる
前段で日本は信教の自由があるから頭がおかしい教義でも許されると書いたんだけど、
流石に社会秩序を乱すような、例えば人を殺せば天国に行けると言った教義をもとにした「活動」は許されないわけなので
~~~~~~~追記~~~~~~~
ブコメやトラバをみて僕の狙いというのをちゃんとかいておくべきだったと感じたので追記。
お布施に上限をつけたい、というのは生きていく上での悩みや不安を少しでも減らしたいと思って宗教にすがったのに
その結果、自分だけでなく家族も含めて今日食べるものにも窮するという本末転倒なことが起きないようにしたいという考えから。
いまはみんな旧統一教会に目を向けてるけどそれ以外にも胡散臭いものはたくさんあるし今後また起きる可能性をなるべく減らしたい。
個人の自由を制限することになるのではというコメントがあるんだけども会社法人における36協定の宗教法人版だと思って欲しい。
会社法人は裁量労働契約の労働者がどんなに働きたいと思っても労働者の肉体的、社会的健康をまもるためにそれを止める義務がある。
生活に支障がでるレベルであればそれを止める義務を宗教法人は持つべきだという考え。
強要が行われていることに着目すべきという意見もわかるんだけど、信心深いひとだと強要だと認識しない、という問題があるんだよね。
なにより強要だ、ということになってくれればすでに現行の法律で対処できる。
あと霊感商法かどうかを基準にしちゃうとぶっちゃけ仏壇や戒名も霊感商法みたいなもんだからね。
(まぁ個人的にはあれも制限していいとは思っちゃいるけど信教の自由の観点から一律に制限しづらいでしょう)
なので「経済的困窮せしめ社会生活をおくるのに支障を及ぼすようなお布施、献金を法として制限する」
が信教の自由をある程度担保した上で依存による生活の破綻が防げるラインじゃないと考えてるのです。
(本文では10万とかにしたけど別に生活が破綻しないのであれば年収の2, 3%とかでもいいとは思う)
旧統一教会の話が最近持ちきりで、旧統一教会を規制しろ、という声をよく見かける。
多分、個々の事案、トラブルには裁判等で対応していくということはできるとは思うんだけど
傀儡となるような人を立てて別の宗教法人を立ち上げるってことも現実的には可能なわけでそれをやられたら結局防げない。
何より日本は信教の自由が保証されているから教義の内容に政府が口出す、ということはできないし
するべきではない。
頭がおかしいとしか思えない教義でも存在は許されるべきではある。
となるとカルト宗教とそうじゃないものの間はグラデーションで「XXと◯◯があればカルト宗教である」という定義はなかなか難しいんじゃないだろうか。
というわけでここ最近、全宗教法人の寄付金詳細の公開義務付けと
一世帯あたりからの寄付の年間総額の上限設定、というのを立法化できないかなと考えてる。(年間10万までとか)
全宗教法人の非課税廃止というのもありだと思うんだけど、その非課税が認められてる建て付けが「宗教法人は営利団体ではないから」なんだよね。
であればそれを逆手にとって営利団体じゃないんだから寄付金、お布施が目的じゃないよね、という感じで押し付けたい。
てか、個人的にも信者の幸福、功徳が第一とか無償の愛だと言っておきながらお布施を払わせる事に矛盾を感じる
前段で日本は信教の自由があるから頭がおかしい教義でも許されると書いたんだけど、
流石に社会秩序を乱すような、例えば人を殺せば天国に行けると言った教義をもとにした「活動」は許されないわけなので
旧統一教会の話が最近持ちきりで、旧統一教会を規制しろ、という声をよく見かける。
多分、個々の事案、トラブルには裁判等で対応していくということはできるとは思うんだけど
傀儡となるような人を立てて別の宗教法人を立ち上げるってことも現実的には可能なわけでそれをやられたら結局防げない。
何より日本は信教の自由が保証されているから教義の内容に政府が口出す、ということはできないし
するべきではない。
頭がおかしいとしか思えない教義でも存在は許されるべきではある。
となるとカルト宗教とそうじゃないものの間はグラデーションで「XXと◯◯があればカルト宗教である」という定義はなかなか難しいんじゃないだろうか。
というわけでここ最近、全宗教法人の寄付金詳細の公開義務付けと
一世帯あたりからの寄付の年間総額の上限設定、というのを立法化できないかなと考えてる。(年間10万までとか)
全宗教法人の非課税廃止というのもありだと思うんだけど、その非課税が認められてる建て付けが「宗教法人は営利団体ではないから」なんだよね。
であればそれを逆手にとって営利団体じゃないんだから寄付金、お布施が目的じゃないよね、という感じで押し付けたい。
てか、個人的にも信者の幸福、功徳が第一とか無償の愛だと言っておきながらお布施を払わせる事に矛盾を感じる
前段で日本は信教の自由があるから頭がおかしい教義でも許されると書いたんだけど、
流石に社会秩序を乱すような、例えば人を殺せば天国に行けると言った教義をもとにした「活動」は許されないわけなので
俺が思うのは、世の中には暴力が足りていないということだ
今の法律は日本が今よりもっと荒んでいて、凶悪犯罪が横行していた時代に制定されたものだ。
法律で暴力を抑制するのは社会秩序を守るためだったのだろう。しかし今の日本は暴力欠乏症なのだ。やり過ぎたら殺されるかもしれないという、当然の緊張感が社会から消え去って久しい。暴力を押さえ込みすぎて、馬鹿の増長を許し、心優しい者がすり減る一方・・・その結果、聞けば毎年2万人も自殺してるそうじゃないか。かえって社会秩序がめちゃめちゃになってしまっているのだ。
間違い。
なんか、真に受けてる人が多いみたいなのでちゃんと書いておくけども。一部ブクマが指摘しているとおり、「公共の福祉」を人権相互の矛盾・衝突を調整するための実質的公平の原理であると解する立場は「一元的内在制約説」と呼ばれ、昭和30年代からわりと長らく憲法学の主流な学説とされてきた。
けれど、机上の空論に過ぎないことが既に広く知られている。
みんな大好き長谷部教授の「新法学ライブラリー2 憲法」(新世社。当増田の底本は第4版(2008年))から持ってきてみよう。
もっとも,一元的内在制約説については,より根底的な点で,その妥当性に疑問を呈することもできる。
第一に,人権を制約する根拠となるのは,かならず他の人権でなければならないとの前提は,「人権」という概念をよほど拡張的な意味で用いない限り理解が困難である。たとえば表現の自由を規制する根拠として持ち出される街の美観や静穏,性道徳の維持,電波の混信の防止などは,いずれも個々人の権利には還元されえないものであり,社会全体の利益(公共の福祉)としてしか観念しえない。一元的内在制約説のよって立つ前提は,政府がかならずしも個々人の権利には還元し得ない社会全体の利益としての公共の福祉の実現を任務としているという明白な事実をあいまいにするばかりでなく,現にある人権が制約されている以上,その制約根拠となっているのも人権であるという誤った思考を導く危険がある。
元増田は、一元的内在制約説という古い欠陥理論に依拠している点で誤っているのみならず、一元的内在制約説の解釈適用においてすら、「『人権』という概念をよほど拡張的な意味で用い」る必要があるにもかかわらず、表現の自由の対抗利益に置きうる「人権」を限定的にすることで「公共の福祉」概念を過小に設定している。
一元的内在制約説は1955年に登場した古い学説で、かつては一世を風靡したが、今じゃ(というか十数年前には既に)芦部憲法に高橋教授が個人の人権の間に損する矛盾の衝突の調整と、自由国家にとって最小限の任務とされる社会秩序の維持と危険の防止である
という定義を付記せざるを得なくなっている。すなわち、現代ではもはや維持されていない学説だ。
そもそも元増田自身が「最低限の性道徳」による制約を引っ張ってきた時点で気付かなかったのだろうか。
そして増田の論はその後、創作物規制・広告規制を行うとするならば、それは当然に『表現の自由』に対抗できるだけの権利・利益が無いといけない。
という独自の見解を開陳し、それを武器に、対抗利益の要保護性をお気持ちで断じてバッサバッサと巻藁切りを始める。
まぁこれは、一元的内在制約説の広く共有された欠陥である「制約の可否を判断する具体的な基準が導かれない」という弱点の犠牲になったものとみることもできるが、それにしても、トラバで指摘されている屋外広告物規制条例のように「そうはいっても結構規制されてるよな?」と気付かなかったのだろうか。今じゃ常識の三段階審査とまでは言わないまでも(交通事故が業務上過失致死だと書いているくらいだから、法律を学んだのは何十年も前のことなのだろう)、古来より伝わる二重の基準くらいは持ってきて欲しかったものである。
anond:20220702054142の追記。基本引用元は元記事ブコメ(https://b.hatena.ne.jp/entry/s/anond.hatelabo.jp/20220702054142)。
frothmouth 公権力でないから規制でない、ってのも今の時代の実態にそぐわない気がするなあ。キャンセルカルチャー批判とか考えるとね/真面目に書いた増田に「精液で全身ドロドロ〜」みたいなブコメ付けられて気の毒
ここで問題にしているのは一般人の抗議運動やボイコットのことで、その手のものは「規制」と考えることは不適切だということである。公権力でないから規制ではないとは言っていない(私人間効力の論点はもう半世紀以上前からある)。せっかくだから書いておこう。
2022年現在、公権力以外の「規制」を論じる意味があるとすれば、デジタルプラットフォーマーの問題だろう。我々の言論はあまりにも出版・放送・通信のインフラに依存している。たとえばツイッターやフェイスブック、「マンガ・アニメ」の類を配信しているプラットフォーム、pixivなんかの同人投稿サイト。こうしたプラットフォームに言論は依存しているので、もはや作者の書く自由を擁護するだけでは何の意味もない。その手のプラットフォーマーが恣意的な管理をすれば言論は生き残れない。一方で、こうしたプラットフォーマーもまた出版の自由を有するから、「持ち込まれた言論は絶対に出版しなければならない」義務を政府が課すことは許されない。そして実例として、SNS各社はプラットフォーム内でのヘイトスピーチを禁止しているし、pixivも同様である。みんなプラットフォーマーというとGAFAしかイメージしないが、もっと小規模なレベルのプラットフォーマーに目を向けるのが大事だ。
言論の流通過程全体を保護するためには―わかりやすく言えば2chの削ジェンヌみたいな滅茶苦茶な「管理」をされないようにしないとけない―プラットフォーマーが私人とはいっても、その行動を公権力によって規制する必要が出てくる。そしてプラットフォーマーのもつ出版の自由との慎重な調整が必要となる。その繊細な調整が表現の自由論の課題にますますなっていくだろう。
なぜ繊細慎重な調整と必要となるか。DPへの介入は、プライバシーや名誉毀損にあたる言論を裁判所が差止めるのと同じ構図だし、言論の分野ではないが、旅館業法が、ホテル・旅館(これも私人だ)に宿泊者を原則として拒否できないとする義務を課すのと同じ構図がある。似たような調整はこれまでも行われてきたわけである。ただ、後者の営業の自由は、もともと社会権を保障したり公平な自由を確保するために制限することが幅広く認められると観念されているのと違って、前者は、差止めの要件がかなり厳しく設定されている(『宴のあと』事件などを見れば明らか)。それは表現の自由がそれだけ「重い」権利だという観念があることによる。プライバシーや名誉毀損と営業に対する介入を比較すれば分かるように、表現の自由(就中送り手の自由)を重視すればするほど、プラットフォーマーのもつ「表現の自由」へ介入するのは困難となる。ブコメした多くの人が「表現の自由」はとにかく大事なんだという観念を持っているようだが、果たして一般論として表現の自由を称揚すればするほど、プラットフォーマーの地位が向上していき、利用者の立場は低下していく関係にある。DPに限らず、出版社も独自のポリシーを持っていて、刑法175条の要求とは別に、原稿に対していろいろな要求をして、修正しないなら出版を拒否する。表現の自由を称揚し、表現の自由の地位を向上させればさせるほど、出版の拒否に対して裁判所が介入するのは困難となっていく。皮肉な話である。「表現の自由」を称揚すればするほど、公権力以外の「規制」はつよくなりうる。私人間同士の対立場面で「表現の自由」を登場させないことには、それなりの理由がある。
なお、私は一般人の抗議運動を「規制」と言っているような人に調整作業をやらせたいと直感的に思えないところがある。その人こそが削ジェンヌになるのではないか。
minominofx66 まずは宇崎ちゃんにしろたわわにしろ、萌え絵やアニメが規制されるべき「エロ」なのか、健全な表現の範囲内なのか、この際だから徹底的に議論して白黒はっきりさせるべきだと思う。
第一に、さしあたって規制されるのは「わいせつ」(刑法175条)である。「エロ」ではない。そして「エロ」とか「健全」かそうでないかという問題は、表現の自由を擁護する上でどうでもいいことである。重要なのは「不健全」でも公権力によって規制されないということではないか。「不健全」なら規制しても良いという観念が前提にあるように見えるのは驚くほかない。アニメ・マンガの類の少なくない作品が不健全とか不道徳とか退廃的とか言わざるを得ないのは確かだろう(少なくともハード・コア・ポルノ的なものなら、だいたいどれかには当てはまるだろう)が、だからといって公権力が刑罰をもって発売頒布を禁止することは許されない。それが表現の自由論ではないの。
第二に、「規制」がどんな規制かも考えなければならない。仮に刑法175条が廃止されたとする。そうすると性器修正処理などは全廃されるだろうが、成人向けの書籍・ビデオ等は依然として年齢制限が課せられる(公権力が法律・条例をもって年齢制限を課すこともあれば、出版業界の内部協定として行うこともある)。販売頒布は禁止されなくても、流通過程が制限されることがある。それは言論の内容に着目したものではなく、付随的害悪(たとえば見たくない人の目に偶然触れるのを防ぐため)の阻止するための規制(内容中立規制というやつだ)である。一般論としてそのような規制は認められなければならないだろう※。付随的害悪を阻止するための規制もいっさい認められず、街路に成人向け書籍の広告を出したり、街頭モニターでビデオを上演したりすることも制限なく認められなければならないというのなら、もはや見解の相違としか言えないが。
第三に、宇崎ちゃんの欠缺ポスターやたわわのポスターに対する抗議や批判は、いかなる意味でも規制ではない(国連からという声もあるが、それは「日本の」公権力ではないし、日本国に対して強制力を持ったなにものでもない)。批判や抗議は、表現の自由がもともと予定するものであろう。「不健全な表現は規制せよ」と主張することすら(私はそうは思わないが)、表現の自由である。それに反論するのも自由だが、そういう主張自体が「規制」と言うのは馬鹿げている。
※
とはいってもこれがかなり厄介で、そのような規制によって出版社に過剰な経済的負担を課し、実質的に内容規制をしていこうという方法がないではない。しかし、付随的害悪の阻止のために合理的な規制を行うことは、一般論としては認めなければならないだろう。あとは個別事例による。
(1)
daydollarbotch 用語はそれっぽいが内容が所々おかしい。嫌がらせがあるなら不法行為たり得るし、間接適用説の下で表現の自由は考慮され得る。判決の引用部分では特にわいせつ表現が表現の自由の保護範囲外とは読み取れない(2階へ
①「わいせつ」に該当してもただちに保護範囲外にならないと最高裁が認定しているという趣旨か。だったら以下は何なのだろうか。なお、これはわたしやあなたが考えているところのあるべき「わいせつ」概念ではなく、最高裁の判例法理では「わいせつ」がどういう扱いを受けているかという問題である。
ところが猥褻文書は性欲を興奮、刺戟し、人間をしてその動物的存在の面を明瞭に意識させるから、羞恥の感情をいだかしめる。そしてそれは人間の性に関する良心を麻痺させ、理性による制限を度外視し、奔放、無制限に振舞い、性道徳、性秩序を無視することを誘発する危険を包蔵している。もちろん法はすべての道徳や善良の風俗を維持する任務を負わされているものではない。かような任務は教育や宗教の分野に属し、法は単に社会秩序の維持に関し重要な意義をもつ道徳すなわち「最少限度の道徳」だけを自己の中に取り入れ、それが実現を企図するのである。刑法各本条が犯罪として掲げているところのものは要するにかような最少限度の道徳に違反した行為だと認められる種類のものである。性道徳に関しても法はその最少限度を維持することを任務とする。そして刑法一七五条が猥褻文書の頒布販売を犯罪として禁止しているのも、かような趣旨に出ているのである。
②間接適用説のもとで「誰の」表現の自由を考慮するかが問題である。抗議者の言動を裁判所が差止めれば、それこそが表現の自由の制限となるから、裁判所が差止の権限を行使するにあたっては、表現の自由の趣旨を取り込んで適用しなければならない、というのが間接適用説だろう(ドイツのリュート判決はこれとそっくりな構図だった)。表現の自由の私人間効力は、抗議者に対して、一般論として相手の表現を一切抑制しないように注意する義務を課すものではない。もしそうだとすれば、あらゆる抗議の類が不法行為になるはずである。
③嫌がらせがあるなら不法行為なのは違いない。それは個別事例による。
関連して。
type-100 175条にしても猥褻物の作成・所持を禁じているわけではない。猥褻性を持つものも表現言論の自由の保護を受け、他の権利との綱引きで規制されている。
確かに、刑法175条はわいせつな文書・図画等の作成・所持を禁じていない。その限りであなたのいうとおり、「保護を受け」ると考えてみよう。しかし、販売・頒布は禁止される。警察が刑法175条の取締りの方針を変更して、性器が露出したり、性行為を描写するあらゆる作品を取り締まったとする。そこで作成・所持だけが保護されたとして、何の意味があるのか。「保護されない」という言い回しが気に入らないなら、「保護のレベルが著しく低い」という風に言い換えた上で読んでいただきたい。加えて、最高裁は作成・所持の禁止まですれば違憲となる、とも言っていない(アメリカなら、Stanley v. Georgia, 394 U.S. 557 (1969) 判決がそう言っているが)。
(2)
CocoA "一般に「エロ」の表現の自由を目指していきたいのであれば、少なくとも刑法175条を廃止しなければならないはずである"<-えっ、廃止に賛成している表現の自由の戦士たちを知らない・・・?
「戦士」なら刑法175条を廃止する署名運動なり政治運動なりをやるべきであろう。あるいは「戦士」とはただのネット弁慶か。廃止が提案されたら賛成するが、そうでなければ特に何かしないのか。
(3)
hom_functor これだけ長文書いても表現を規制する合理的な理由は絶対に説明しないんだよな。「抗議をやめる~ように請求する法的資格を有する」なんて見かけない主張を創作したり反論しやすいブコメをチェリーピッキングするだけ
「規制」なのかという問題か否かを読み取っていただけてないらしい。上記で書いたように、抗議運動なりボイコットなりは「規制」ではない。政治道徳的な観点からそれに理由があれば正当だし、理由がなければ不当だというだけのことである。むろん嫌がらせの類は、不法行為である。抗議運動なりボイコットに理由があるかという部分はともかく、「規制」というおかしな問題設定をしていることが馬鹿げているということだけはくみ取っていただきたいのだが。
(4)
sirobu 表現の不自由展に対する街宣カーも自由を制限する不当な圧力だと思ってるんだけど、増田はそう思わないってことかな?
あなたが街宣カーで街宣される時点で表現の抑圧だと考えていることはよく分かった。そういうレベルから見解が異なるのなら、議論がかみ合うことはないだろう。以下は参考まで。街宣カーで道路を走りながら何か言うだけなら、それは自由である(馬鹿なことを言っているなとは思うが)。問題は街宣カーそれ自体ではなく、殺害予告だったり大量電話のような嫌がらせだろう。また、名古屋市長の支出拒否しかり、大阪府知事の会場施設利用不許可しかり、公権力が規制に乗り出していることを考えれば、表現の不自由展では「不当な圧力」どころか、ズバリ「規制」が問題だった。公権力が嫌がらせを煽っていることも見逃せない(特に名古屋市長の愛知県知事リコール運動)。
(5)
thesecret3 憲法は法律ではないので専門家や判決がどうでも各自が独自の解釈で主張してもいいと思う。自由を保障すると言ったら基本は保障されなければならないのであって政府が邪魔しなければいいってもんではないと私は思う。
なんか進次郎構文っぽいトートロジーが・・・。
俺が性犯罪が許されないと思うのは被害者を生みたくないからだし、社会秩序を守りたいからだし、身勝手な犯罪者は罰せられるべきと思うからだ
もっと勝手にやってろよ的な意識が強いと思ってた。しょせん他人事というか。
例えば殺人や暴行は自分がされたら困るから抑止力は強い方がいいと思っているだろうけど、痴漢は被害にあうこともないだろうし刑罰を重くしたら冤罪をかけられた時に困るから、あんまりガタガタ言うなと思われてる、と思ってた。
「性欲は悪と思え」「男の性を憎め」と思っていたわけではない。男性が全員悪い訳じゃないし(ほとんどが悪くない)、男ってだけで悪っていうのもおかしな話だし。
【シン・ウルトラマンのネタバレあり というかネタバレ気にせず話す】
現在公開中の『シン・ウルトラマン』を2回見てきた。あまりにも良かった。感想をどっかで書きたい。
ところで、その感想や叫びを漁る中で見かけた勘違いが「リピアくんが『野生の思考』って本を読んでる!」→「リピアくん地球人類のこと野生動物か何かと思ってる?」というもの。
別に誰がどんな感想を持とうが、或いはその人やそれに近しい観点を持ってしまった人が何をどう勘違いしていようが、それ自体は全然どうでもいいのだけれども、リピアくんとこの本の著者(レヴィ=ストロースの名前は聞いたことある人多いだろう)の名誉のためにもツッコミの言葉をネット上に残しておきたい。ついでに、この映画にこの本が登場した意味の考察をちょっぴり披露させてほしい。
1950年代までのフランスをはじめとした西欧に多かった(今でもかなり多い)哲学や思想が「西欧の文明における思考と、アジア・アフリカ・中南米の未開文明の思考とでは根本的に違う」という考え方で、主に科学技術や文化の面での進歩史観や優越感、啓蒙思想や資本主義と結びついて植民地主義や覇権主義の土台の一つになっていた。それに異を唱えたのがフランス出身の人類学者レヴィ=ストロースの『野生の思考』という書。特に文化人類学者やリベラル系の人に言わせれば「戦後の思想における最大の転換点」となっており、いわゆる人文系に広げてみても、構造主義を生み出し、更にその後のポスト構造主義などの思想にもつながる端緒となったという点ですごく重要な一冊になっている。
内容をものすっごく要約すると「『事象の切り取り方』『概念の置き方』ひいては社会秩序の維持や幸福追求に対する考え方はどの文化においても根本的な構造は変わらず、表出の仕方、あるいは社会が持つ興味の向かう先と取捨が違うに過ぎない。あらゆる文明が進歩史観的考え方を持つわけではなく、発展を望む文化もあれば安定を望む文化もあるというだけ。栽培思考(=科学によって裏付けられ、概念を用いて行われる文明的思考)と野生の思考(=記号によって行われる思考。「野蛮な思考」ではない)との間に優劣があるわけではないし、一つの文化の中で両方の思考は両立しうるし、実際個人の中ですら両立している」といったもので、その歴史的意義は「20世紀半ばの西欧にはびこっていた進歩主義、特に西欧の文化を中心とする思考、科学技術を背景に自分達を上位に置こうとする考え方への批判を行ったこと」「しかし、だからといっていわゆる”未開文明”や自然主義を礼賛するわけではないこと」「文化を『仕組み(構造)』に置き換えて分析するツールとして学問の場に登場したこと」あたり。
「文化を構造的に捉え、それぞれの要素が社会の中でどう表出しているかを研究する」という所から後に『構造主義』と呼ばれる思想を生み出したことで有名。更に言えば西欧の奢りや発展途上国(昔は「後進国」と言われてたよね)への見下しを批判する流れを生み出したという点でも評価を受けている。
ザラブにしろメフィラスにしろ、コミュニケーションの初手は「自分の科学力、技術力を地球人類に見せつける」事から始まる。その科学技術力の差を背景に、劣等感と焦りを刺激して地球人同士を争わせようとするのがザラブであり、劣等感と無力感……謂わば絶望によって人類を心理的に支配し最終的に兵器として利用しようとするのがメフィラス。それらに抗うのがウルトラマンたるリピアくん、というのが中盤の流れだった。
物語の序盤で、わざわざ観客に見せつけるようにリピアくんがこの書を読んでいた(演出しての)理由はここにある……気がしなくもない。16世紀から20世紀……あるいは紀元前から現代に至るまで、我々地球人類が奴隷、植民地、後進国、押し並べて言うなれば『未開人(文明人/強者たる自分達とは構造的に違う考え方をする者)』である他者に対する接し方は、ザラブやメフィラスをそこまで強く批判できるような立派なものではなかった。
宇宙人ゾーフィもそう。彼が裁定を行使できる者・絶対者としての力を行使したのは「『未開人』である地球人類が、未開人のまま我々『文明人』並みの危険性を持つ可能性が出てきた」からじゃん。
使用を思いとどまったのも、リピアくんもといウルトラマンの意思や感情を汲んであげたのもあるけど、基本的には、地球人類がβシステムを自力で解析・利用し、グリッチじみた手法ではあるがゼットンを無力化せしめたことで「『未開人』から『文明人』に格上げされた」だけに過ぎない。
そんなゾーフィにもリピアくんは抗う、というのが終盤のストーリー。もちろん滅ぼされる我々としてはたまったものではないけれど、じゃあ地球人類の歴史において、他人、他国人、あるいは他の生命に対してゾーフィと似たようなことをしてこなかったか、を考えると……やはり「滅ぼされるのは困るからやめてくれ」くらいしか言えない。
逆に言えば、あの外星人や地球人の中でリピアくんだけが”変”なのよ。我々が他者と相対する時、普通はザラブとはいかんまでも、マイルドなメフィラスかゾーフィくらいの扱いになるし、そうでなくとも暴力や政治で言う事を聞かせてその力を利用しようとする各国政府みたいな事をする。地球人類とリピアくんとの科学技術の差や大きさの比で考えれば、虫か何かを前にした人間、の方が理解として近いかもしれない。
しかし、リピアくんは(各国政府ひいては人類の歴史の悪辣さを知りながらも)、あのネロンガ戦のたった一度、リピアくんの足下でただ一人リピアくんだけに見えた星のような輝き、小さな他者のために命をかけられる個、そういう価値観を共有できる群体のために命を張った。そういうことをできる生命体のことを知りたくて、知り続けるために守りたくて、学んで、感じて、支えて、何度か支えられて、それでも分からなくて、その果てに見つけた『他者のために命を賭けられる自分』。虫のような他者のために、ネロンガの電撃や、ガボラの激ヤバ光線や、メフィラスのグリップビームや、1兆度の火球の前に身体を晒せる者。ザラブにもメフィラスにもゾーフィにも、あるいは普通の地球人類の日常の中にもない”変”な価値観を持つ、だからこそ『ヒーロー』、ウルトラマン。
自分が今回の『シン・ウルトラマン』に感動したのはまさにここで、「ウルトラマンとはこういうヒーローなのだ」「我々がウルトラマンをヒーローだと感じてしまうのはこういう理由なのだ」を2時間かけてぶつけられたのがあまりにも気持ちよかったからなのだ。
結論から言うと「わからない」。それはリピアくんに対してという意味でも、『シン・ウルトラマン』という作品に対してという意味でも。
というのも、リピアくん、地球人類のことをめちゃめちゃ頑張ってお勉強してて(かわいいね)、ものすごい量の本を超速で読んでるわけで、『野生の思考』だけがリピアくんの人格形成や思想信念の確立に寄与しているかと言われれば、まあもちろんそんなことはないだろうという演出はなされてる。レヴィ=ストロースの思想だってその後にやって来たグローバリズム等の思想史において批判を受けてきたわけだし。
そもそもリピアくんがザラブやメフィラス、あるいはゾーフィから地球人類を守ろうとしたのは「我々と彼らの文明は構造的に違わない」という計算、あるいは知識を基にした思想や信念からではない。「彼らの事を知りたい」という知的欲求から来る寄り添い、ゾーフィが言うところの「好き」、米津玄師が言うところの「あこがれ」という感情こそが、リピアくんの力の根本なわけで。
文化人類学の中でも大きな意味を持つ書でもあるし、作中においても先の展開を示唆しかねないアイテムでもあるけど、知らずに見ていた人なら分かる通り、別にこの書が作品全体に超大きな影響を与えているかは正直微妙かもしれない。でも、知っておくと↑のような考察も楽しめるという点では面白いよ。
・本の内容は『シン・ウルトラマン』という作品に意味を落としているかもしれないし落としてないかもしれないよ
・それはそれとして読んでおいて損はない本だよ
以上
私もそう思う
その中でも「本人の人格形成にかかわらない生態的な反応で感想が発生している」
「くさい」「うるさい」「いたい」等感覚的なものと動作原理は同じ
「生物的に危機感を感じる」に近いけれども「危機感」という具体性や方向性を持たない負の感情
これにより
「生体的に負である」という「個人とかかわりのない感想≒同型の生物的に共通的な」にすり替えることができている
逆説的にそれを容認することは異端であり、人格形成など本人の能力によって補われる部分があり補われていることを異常性として指摘もできる
もちろんそんな存在でも存在している限り存在を容認されているし、そんな存在でも容認されることが福祉であり社会秩序や自由、人権といったものになるはず
福祉や人権と結びつけて肯定すると人格形成など知能的な部分であったり治療や矯正が可能な部分において異常性があると認めることができる
そこから引きはがすと生物的で原理的な部分で負の感情をもって否定することができる
救いがない表現だ
それはすなわち人にむけて使っていい言葉ではないだろう
法治国家では社会秩序維持のために、報復として正当な範囲であったとしても、個人が暴力による私刑を行うことを禁じているんだよ。
だからウィル・スミスの行為は『社会秩序に対する罪』にあたる。
『殴られたコメンテーターに対する罪』ではなくてね。
コメンテーターは殴られるくらいの報復を受けて当然だし、そこに異を唱えている人はそっちの方が(侮辱された人に対しての)人権意識が欠けていると思う。
あとは『社会秩序に対する罪』をどの程度の重さと捉えるかだけど、個人的には「まあ、あの状況ならカッとなるのもしょうがないでしょ、ドンマイドンマイ」程度のモノとしか思えないし、世の中的にもそんな流れになるんじゃない?
ドヤ顔社内喫煙注意ボコられボーイもそうだけど法律なんて眼前の暴力には無力でしかない。
そりゃ殴った奴はその後に逮捕されてそれなりの罰を与えられるけど、それは殴られた事実とトレードできない。
仮に「俺のこと殴ったら逮捕されるで~ww」と舐めた態度をとって相手を怒らせて
その当たりどころが悪くて失明してしまったら、相手が逮捕されてムショにぶち込まれたって
お前の失明した目が見えるようになるわけじゃない。
仮に死んだら相手が一生ムショで暮らそうがもうお前には何の関係もない。だって死んでんだもん。
クンニ危うきに近寄らずというが、実際にそう。
中国拳法の達人である宮平保先生も、ジークンドーインストラクターの石井東吾先生も
「護身が必要な状況に身を置かないことが本当の護身」と常々言っている。
ヤバいと思ったら一目散に逃げるのが吉。
車の使用は認められるという功利主義的な立場に立ちながら、一方で義務論的立場から死刑制度を否定するのは、そのときどきで都合よく立場を使い分ける二重基準だということを言いたいのだろう?
車の使用は認めらるという功利主義的な立場に立ちながら、一方で義務論的立場から死刑制度を否定するのは、そのときどきで都合よく立場を使い分ける二重基準だということを言いたいのだろう。
車の使用は認めらるという功利主義的な立場に立ちながら、一方で義務論的立場から死刑制度を否定するのは、そのときどきで都合よく立場を使い分ける二重基準だということを言いたいのだろう。
車の使用は認めらるという功利主義的な立場に立ちながら、一方で義務論的立場から死刑制度を否定するのは、そのときどきで都合よく立場を使い分ける二重基準だということを言いたいのだろう。
車の使用は認めらるという功利主義的な立場に立ちながら、一方で義務論的立場から死刑制度を否定するのは、そのときどきで都合よく立場を使い分ける二重基準だということを言いたいのだろう。
日本の刑法で刑罰として死刑が課されているのは以下だ(刑法以外での死刑も少しあるが割愛)。
罪名 | 刑法 | 保護法益 |
---|---|---|
内乱 | 77条 | 国家の対内的存立 |
外患誘致 | 81条 | 国家の対外的存立 |
外患援助 | 82条 | 国家の対外的存立 |
現住建造物等放火(致死の結果を生じた場合) | 108条 | 不特定又は多数の者の生命、身体及び財産 |
激発物破裂(致死の結果を生じた場合) | 117条 | 公共の安全、人の生命 |
現住建造物等浸害(致死の結果を生じた場合) | 119条 | 公共の安全、人の生命 |
汽車転覆等致死 | 126条 | 交通の安全、人の生命 |
水道毒物等混入致死 | 146条 | 公共の安全、人の生命 |
殺人 | 199条 | 人の生命 |
強盗致死・強盗殺人(故意殺の場合) | 240条 | 人の生命・身体 |
強盗・強制性行等及び同致死 | 241条 | 人の生命・身体 |
人の生命は、刑法における個人的保護法益のうち最重要の法益で、国家的法益(国家の存立)と同じぐらい重視されている。しかし、死刑はその「人の生命」を奪う刑罰である。「人を殺したら、その犯人を殺す」という報復原理(同害復讐の原理)は一見わかりやすいが、そもそも刑法が「人の生命」を至上の保護法益としていることとは矛盾した関係にある。死刑は、すでに有罪判決を受け、拘置所に収監され、これ以上他者の生命を危険にさらす懸念がなくなっている人間から、刑法自体が最大限に尊重し保護しようとしているはずの人の生命を奪う刑だからだ。
これは憲法36条(公務員による拷問や残虐刑の禁止)に反しており違憲であるという観点から、1948年の死刑制度合憲判決事件において最高裁大法廷で違憲審査がなされたこともある。当時の判決文は次の通りだ。
生命は尊貴である。一人の生命は、全地球より重い。…憲法第十三条においては、すべて国民は個人として尊重せられ、生命に対する国民の権利については、立法その他の国政の上で最大の尊重必要とする旨を規定している。しかし、同時に…もし、公共の福祉という基本的原則に反する場合には、生命に対する国民の権利といえども、立法上制限ないし剥奪されることを当然予想しているといわねばならぬ。そしてさらに憲法第三十一条によれば、国民個人の生命の尊貴といえども、法律の定める適理の手続によって、これを奪う刑罰を科せられることが、明らかに定められている。すなわち憲法は、現代多数の文化国家におけると同様に、刑罰として死刑の存置を想定し、これを是認したものと解すべきである…社会公共の福祉のために死刑制度の存続の必要性は承認されている。
「全地球より重い価値がある、尊貴なもの」を奪う刑罰が、「社会公共の福祉のために」正当化される。こういうインチキくさいレトリックは、この後も死刑肯定論の随所に顔を覗かせる。こういうインチキで辻褄を合わせざるを得なくなってしまうのは、結局は「人の生命」が個人的法益として最大限に尊重・保護されるべき尊い権利なのか、国家に従属する劣位の法益なのかが、刑法条文の自己矛盾によって曖昧になってしまっているからだ。
(いっそ死刑を存続する国家は「国家には生殺与奪権がある。国家の円滑な運営と社会秩序の維持のために、国家は施政権の及ぶ範囲に住む国民や住民の生命を恣(ほしいまま)にしてよい」と明言したほうがいいと思う。そのほうがずっとわかりやすいし、現実に即してると思う)
死刑制度を存置する国家では、「個人が他者の生命を奪うこと」と「国家が他者の生命を奪うこと」の倫理的な違いはぼんやりしたものになり、逆に両者の権力・執行力の違いが決定的な差として立ち上がってくる。国家というシステムは、国民と住民に対して法的な権力・執行力を持っているから、人を殺すことができる。個々の国民と住民は、国家の権力・執行力に従属しているから、人を殺して捕まったら国家に殺される(こともある)。このような制度は、「人を殺すこと」の意味と是非を、価値ではなく制度の問題、倫理ではなく力の問題に還元する。
死刑制度を存置する国家では、「なぜ人を殺してはいけないのか」という問いにきちんと答えることができない。「国が『人を殺すな、殺したらお前を殺すぞ』と決めているからだよ」「人を殺して捕まったら自分も死ぬから損だよ」という風に権力関係や因果関係を説くことはできても、それは「人を殺してはいけない」というモラルの根拠にはならないし、むしろ「一定の条件では人を殺すことが許される」ことを追認してしまうからだ。
死刑制度を廃止(または執行停止)しない国家に住み、その現状を受け入れている自分は、「なぜ人を殺してはいけないのか」という子どもの問いかけに「人を殺すと殺されるから」という損得勘定以外の答を返すことができない。それが嫌なこともあって、自分は死刑を廃止すべきだと思ってる。
なにしろ暴力というのは、人々が自分勝手に行使すれば、ときに人権を脅かし、社会秩序を乱し、それを収めるには軍隊や警察など、さらに強い武力が必要となってしまう。人間社会では、いかに人の持つ暴力性を抑え、あらゆる対立を非暴力的な手段によって理性的に解決する努力がなされてきた。
だから格闘技においても、暴力性をいかに否定し、大衆文化として認知されるかというのは、常に大きな課題なのである。朝倉やABEMA、スポーツ紙などに欠けているのはその認識で、格闘技に関わっていても、そもそも格闘技とは何で、どのような均衡の上に成り立っているのかという点を十分に考えていないように見える。
多くの格闘技はそれぞれルーツを辿れば血なまぐさい原点を持つ。プロボクシングもその原点は奴隷を死ぬまで戦わせる古代の見世物だった。原始的で野蛮なものが、社会が成熟する過程でスポーツとして整備されるのには、かなりの年月を要している。
歴史の古いボクシングは、かつて白人が黒人との対戦を拒否できる制度のために人種差別問題と無縁ではなかったり、プロモーターによる選手の独占的契約が「奴隷制度」と重なって、アメリカではこれを規制するモハメド・アリ法もある。五輪競技となるまでにも紆余曲折あり、良識派の人々から「暴力ショー」と見られることから、関係者たちは必死に自分たちの協議を守ってきた。
総合格闘技の変化
一方、朝倉がやっている総合格闘技についても、いま世界的な人気イベントとなったUFCでさえ発足当初はルールが整備されておらず、1993年の第1回大会は目潰し、噛み付きなど最小限の反則以外は自由で、無制限ラウンド、体重の階級制も判定決着もなかった。
そこで暴力ショーとの批判が各地で巻き起こり、アメリカ国内でも開催が許されたのは一部の州だけだった。実際、ケガ人も続出。日本でも初期UFCの影響下で行なわれた1995年の「バーリ・トゥード・ジャパン」では、中井祐樹が相手の反則で右目を失明した。
背景には、ポルトガル語で「何でもあり」を意味する大会名のために、大会がノールールの喧嘩マッチのようなイメージとなっていたことがある。いまほど格闘技が「スポーツ化」されていない時代には、ルールを守る意識の薄い格闘家がいたのだ。
結局、エンターテインメントの発展がうまいアメリカでは、UFCは、2000年に州のアスレチック・コミッションが指導した統一ルールに従って、28回目の大会から一気に「競技化」が進んだ。ルールが整備されると参加者が増え、喧嘩屋レベルの者が淘汰され、いまやプロボクシングに並ぶ人気イベントになった。
アメリカのコミッションは、日本のボクシング・コミッション(JBC)のような一財団法人ではなく、知事が責任者を選ぶなど行政下の組織で、強い権限を持つ。格闘技イベントの聖地、ラスベガスのあるネバダ州コミッションの責任者、ボブ・ベネット氏は元FBI捜査官で、力の差が大きいと判断したマッチメイクは、主催者が大手の組織でも遠慮なく却下した。
ベネット氏は「とても危険な職業なので、できるだけ安全にするのが我々の義務」と語っていた。アメリカであれば、朝倉と素人の喧嘩ショーは、コミッションが開催許可をしなかったはずだ。