はてなキーワード: 平和教育とは
自分の信条に合わない企業を使わないのも、それを公言するのも個人の自由だし、まったく批判される謂われはないし
また、遊就館は濃厚な政治的メッセージを含有しているのは間違いないので、そんなところに新入社員連れて行くのはパワハラの一種だろうし
津田氏を批判する側が差別や多様性の問題を持ち出すのは取り違えもいいとこだと思う。
その上で遊就館研修批判している側が、歴史教科書問題前後に流行していた、中学高校生を韓国や中国に連れて行って「日帝の蛮行」記念館を見せたり、
「被害者」の講演を聴かせて謝罪させる教育。あっちは容認してないのか気になる。
①それらが反日プロパガンダや非中立的な曲筆・誇張を含んでいる事を同時に教えない。
②子供らに歪んだ(憎悪を含んだ)トラウマを刷り込むことを意図。心を傷つけることに鈍感。
③多くの場合侵略教育イベントを回避できない。したら白い目で見られるなどの圧力がある。
④教員が自分の思想信条を権限を利用して子供らに押しつけるパワハラ性含む。
などの問題を抱えていたのだけれど
実際初期の「ネトウヨ」の潮流を作り上げたエネルギーは、歴史教科書問題・謝罪教育世代の自分たちが受けた教育へのルサンチマンだったし
(このあたり「ネトウヨ」批判側はわりと目を背けてる。今まとめサイトに群がる「ネトウヨ」はそれの劣化コピーだが)。
これに比べれば、そういう会社と分かって入社した成人が対象のゴーゴーカレーはまだ罪が軽いのではないか。
日本の蛮行を子供に教えることは当時「正しいもの」だという空気はあったから遊就館研修よりは当時の常識の範囲内ではあるけれど
嘉手納基地の横には「道の駅かでな」があり、そこの展望台からは基地の滑走路が一望できる。
戦闘機が訓練で離着陸を繰り返しており、爆音と共に普段見ることのない米軍の戦闘機や大型の輸送機に私はなかなか感銘を覚えていた。
12月初旬は、修学旅行シーズンらしく、ひめゆりの塔や国際通りもそうだったが、この道の駅も観光バスの休憩スポットとして多くの修学旅行生が訪れる。
女子高生の集団。展望台に来るなり、「オスプレイはw?オスプレイないの??」とはしゃいでいた。
それは思想も信条も関係ない、純粋無垢な好奇心から発せられるものだった。
平和教育がどうこう、という意見や風潮があるが私は良くも悪くもこの程度の軽い認識でかまわないと考えている。
むしろそこらへんの女子高生が米軍の兵器の名前を知っているだけでもすごいことではないか。
夏になると思い出す話があるので書く。
小学校中学年のときに平和教育の一環で、近所の戦争体験者のおばあさんの話を聞くという授業があった。暑い暑い体育館で、静まり返って話を聞いた。
その後、クラス全員でおばあさんにお礼と感想を兼ねた手紙を書いて送ったところ、おばあさんから返事があって、それを先生がしばらく教室後ろの黒板に貼り出していた。
おばあさんの手紙の最後にはこう書いてあって、とにかく今も忘れられない。
「これからの戦争は核戦争なのでもう助かりません。戦争はこわいですね」
おばあさんはもう老い先短いかもしれないけど、私達にはこれからがある、戦争のなくし方も生き残り方も教えてくれなくてただ怖いですねで終わらせるなんて、無責任なババアだと。
そして私もアラサーになって、身の回りの親しい人間がいろんな理由でどんどん死んでいくようになった。
あの時感じた子供の頃の死への得体の知れない恐怖感も、死んでもいいと思う無鉄砲な若さも失って、それを見てると今はとにかく死にたくないと思う。
病気になっても、地震が来ても、日本がまた戦争をしようがしまいが、核兵器の火の海に曝されても、私は絶対死にたくない。
まあそんな論理が飛躍した話は置いといても、おばあさんの言うとおり戦争が怖いだけじゃどうにもならないから、なんとかしたいと思って省庁で働いてるけど、色んな個人的感情を持ってたら混乱するばかりでまだ何にもわからない。
ただ、私が何歳になっても、絶対絶対最期まで生き残りたい。私も、親しい人も、それ以外の人もあのおばあさんも全員生き残らせたい。この思いだけはどこかで持ってたい。
いやいいところは大いにあったよ、みんなが仲間になるアベンジャーズ展開とか好きだし贅沢だし、絵はもちろん整ってるし構図も面白くて、音なんかは爆音上映をやるところもあるだけあってほんと良かったんだけどさ。
でも明確な不満点が結構大きかった。
不満点の一番は、チハタンと継続っていう味方側の新キャラ2勢力が魅力なかったこと。魅力なかったっていうかハッキリ言って不快だった。
洋画のギャーギャー騒いで事態を悪化させる子供キャラって嫌われやすいけど、私の中でチハタンはそれと同ポジションだった。
オタクは馬鹿なキャラを嫌いすぎる傾向にあるし、私もその性質があるから、できるだけ広い心でキャラに接しようとは思ってるものの、それでもチハタンには苛立ってしかたなかった。
大洗のみんなも、テレビ版の序盤ではポンコツで、「真面目にやってくれよー!」と全く思わなかったと言えば嘘になるんだけど、でもがんばれベアーズ系としてはお約束だし、こういう作品群の中ではもどかしさがかなり少ない方で見心地がよかったんだ。
その見心地のよさは、バカさのレベルがほどほどだみたいな話ではなく、私にはよくわからないけど何か演出でうまくやってたり、キャラの魅力でカバーリングしてたり、そういうことで絶妙に飲み込みやすくしてるんだと思う。
でもチハタンはそういう心地よさがなかった。
テレビ版を終えての試合、ってていで始まったから、大洗の子らは凄く成長したし、他校はもとよりレベル高くて、一段上のステージでのハイレベルな争いを見れると思ったのよ。
野球で言えば日本シリーズ、とびっきりの最強vs最強、全ジャンル最強決定戦、スタローンとジャン・クロード・バンダムどっちが強い、そういうワクワクをかき立てられた。
なのにチハタンだけ馬鹿なのが、ハイレベルなカッコヨサや美しさを見せてくれそうなところをグッと押し下げて、大洗の足も引っ張ってるし、それどころか戦闘全体の足も引っ張ってるように感じられてなんだか悲しくなってしまった。
もちろん、お話の流れとしてある程度ルーキーキャラがいた方が作りやすいのはわかる。
ゲームでも続編ではレベル1からだし、ロックマンはロックバスターのみ、スネークだってほぼ無装備から、ランスも毎回怠けて弱くなってる。(この辺にも賛否はあったりするけど)
キャラの魅力でカバーしてくれたらよかったのかもしれないが、とにかくまあ尺がなくて、既存キャラたちの描写も食い足りないくらいなわけで、チハタンは事情も立ち位置もキャラもよくわからないポッと出の迷惑な子らって見えてしまった。
おまけに旧日本軍パロってのが、輪をかけて校風萌えもキャラ萌えもしづらくさせてる。
ガルパンってただでさえミリタリー・軍事・武力・戦争萌えのキワキワを歩いてて、色んな議論があるわけですよ。
平和教育受けた私としても多少抵抗があって、でも周囲の盛り上がりで試しにテレビ版を見はじめてみたら、上手にオブラートに包んでくれてたし、ほかの魅力が大きくって結局大好きになった。
でも日本軍パロは、かなりド真ん中じゃん。触れづらいとこに切り込んでるじゃん。
それが軍事賛美やオタクの右傾化に繋がるとは思わないけど、咀嚼するのに多少顎の力と喉の力が必要だ。スクリーンを見てて、外国パロに比べてどうしても色々考えてしまう。私の日本の軍備への屈託も煽られるし、「ああー、これっていろんな議論のネタになるだろうな」というファンダムについての余計な懸念も想起されてしまう。
とはいえ、だから創作において日本軍パロは控えるべきだ、とは思わない、そうするとますますタブーでアンタッチャブルになっちゃうし、それがよいことだとは感じないから。でも現状では私が身構える属性なので、この属性を組み合わせるキャラは受け入れやすいものにしてくれてる方が嬉しい。
しかし実際に旧日本軍パロをしたのはチハタンですよ。めっちゃ足を引っ張るってだけでイラ立つのに、おまけに日本軍パロで、食べづらい+食べづらいで、まったくもうやりづらいんすよ。イラ立つから好きになりづらくて、でも旧日本軍パロなせいで「あいつらホント駄目だな!」と本気で嫌悪するのもキツめの左翼の人っぽくて嫌だし、けれど一方で「も~、バカな子カワイイ♥」と頑張って萌えるには旧日本軍への悪印象が強くてやりづらいし、ホント扱いに困る。
なのでチハタンが、複雑に嫌い。
後半ある程度活躍してたけど、それも前半の悪印象を覆すことはありませんでした。ダメな子たちが成長する魅力はテレビ本編の大洗の子らに遥かに及ばず。
成長を描くんだったらチハタンよりもオタクチームや風紀チームを、「優勝に貢献はしたけど他に比べるとまだ今一歩 → 完全に頼れる仲間に」とか、ウサギさんチームが次期エース格にとか、その辺の大洗の子らをもっと描いてくれた方がずっとありがたかった。
具体的には隊長のスナフキンが盛り下げまくりでお前なんなんだよ!
そういうキャラ付けもありだとは思うけど、やりすぎで盛り下げすぎ! チハタンとは違う意味でしょっぱくしてる!
ガルパンTV~OVAは、否定に傾いてめんどくさく陰気に考えちゃいそうなところを、適度なしんみりさでうまく抑えてくれたのが私は好きだったんですね。片眼鏡なんかに対して、ほかのメンバーが不満をため込んでやる気をなくしたりしそうなのに、そこで否定的なことを言うキャラがいない。好みはあるだろうけど、ガルパンにおいてはそういう優しい世界だったのが私は見ていて楽しかった。
けど能登スナフキンはヤバイ。そんなの気にしない。否定しまくり。ひねくれてるとかムーミンパロとかそれだけじゃ片づけられない否定。ヤバすぎ。
継続高校の校風の説明、ポジションの説明、各キャラクターの説明がなかったのも痛いです。それらがうまくやられてれば、あの厭世的なキャラ付けもきっと愛せたと思うんだけど、なかった。どこの国をモチーフにしたのかもよくわかってない。
北欧? なの? みたいな。
CV石田みたいに出てきて思わせぶりに盛り下げること言ってなぜか参戦してきて戦闘シーンだけやたらカッコイイ動きして静かに退場したかと思ったら最後のセリフも持ってった。ホントなんなんだあいつら。
この2陣営への鬱陶しさが魚の小骨みたいにずっと邪魔で、気持ちよく味わえなかったのが非常に残念。
同じ新キャラでも、大学選抜の子らは、やっぱりキャラ描写薄いのでめっちゃ好きとはならなかったけど、決して不快ではなく嫌いでもないです。
んでもどっちかというとサヨ側(北の地にて北海道新聞を読んで育ち、内地に来てからは朝日新聞だった)の人な私ですが、時々意味がわからん人がいるのよね。
いや、まぁ中国とか韓国とかについて、ちゃんとケリはつけた方がいいんじゃねと思うんやけど、なんでそれが共産主義マンセーやら日本卑下とかになるんやろ。
敗戦の結果として国民全体に「排他的なナショナリズム」に嫌悪感を持つようになって、そうじゃない国として日本は戦後振舞ってきたわけでしょ。
だから今後もそうあってほしいと思うのが普通の感覚じゃないのだろうか。
http://www3.nhk.or.jp/news/html/20150803/k10010176121000.html
これは非常に興味深い。
特にこの部分
『「アメリカが原爆を投下したことについて現在、どう考えていますか」と聞いたところ、
「今でも許せない」と答えた人は、広島で43%、長崎で46%、全国で49%でした。
一方、「やむを得なかった」と答えた人は、広島で44%、長崎で41%、全国で40%で、
広島では、ごく僅かですが、数字の上では「やむを得なかった」と答えた人が、「許せない」と答えた人を上回りました。』
小学生まで広島にいて、中学生から関西の進学校に通った個人的な経験から思うことを書いてみる。
(僕の小学校だけではなく広島がそんな感じだった、のを前提とする。経験からおそらく正しい)
まず、中学生の時に驚いたのは、同級生が原爆が落ちた日を知らなかったことだ。
もちろん全く知らないわけじゃなかったが、知ってる人でも、笑いながらあれ広島9日だったっけ?
というようなレベルだった。
広島の公立の小学校では、ほとんど全員知っていたし、知らなかったとしてもそれが何か恥ずかしいことである、という雰囲気があった。
それが、知的レベルが相当高いはずの進学校でこんな感じなのか、というのは、良い悪いではなく、単純に驚いた。
広島で原爆が落ちた日、というのを他のことで例えるなら、たとえば、阪神大震災が起こった日、東日本大震災が起こった日。
それが近いと思う。その地方にいた人はおそらく起こった時間まで覚えているだろう。
それと同じ。広島では小学生でも、原爆が落ちた時間まで覚えている。
広島では小学生はどんな感じだったかといえば、ことあるごとに原爆の話を聞くし、戦争についての話も聞くことが多い。
それは、反戦教育、という言い方になるのかもしれないが、小学生からしたら客観視はできないし当たり前のことのようにその中で育った。
中でも、僕の小学校では、僕が3年生の時から「平和集会」というイベントが1年に1回開催された。
それまでは学年ごちゃ混ぜの運動会みたいなものが開催されていたのだが。
平和集会というのは、各クラスで、平和に関するプレゼンをしあうものだ。歌や劇や朗読や方法は自由。
その結果、僕はどうなったか。
ほんとうにうんざりした。
それは小学校6年生の作文に書いてあったのをこの前見つけた。(写真で出しても良いぐらいだ)
何年も続けてやってたら、同じ話ばかりだしプレゼン作るのもうんざりする。
おそらくこれは僕だけではなかったと思う。
一つの例として、小学校6年生の時に、湾岸戦争が始まったのだが、その時クラスの男子何人かは「やったー」と叫んでいた。
僕は叫ばなかった。そして、女子はもちろんたしなめたが。
それは単純に幼さとも言えるが、その背景に平和教育への反発があった気がしてならない。
やりすぎは良くないのではないか、と思っていた。
原爆に関しても、そんな感じだった。
原爆原爆うるさいよ、と。そんなに言ったって、落とされる方にも問題はあっただろ、と。
そんな気持ちになっていた。
で、このアンケートの結果。
もしかしたら、そういうことなんじゃないか、という気がしてしまうのだ。
原爆落とされた日はもちろんおぼえているけど、だからって今でも許せないとは言い切れない。そんな空気を感じてしまう。
一応、これでは終わらない。終われない(笑)
中学生ぐらいまでは、そんな風に、今言われているのとは違う意味での「自虐史観」のようなものを持っていた。
僕が大学に入った頃、98年ぐらいから右傾化ブームが訪れる。きっかけはおそらく小林よしのりの「戦争論」だろう。
僕もなんとなく読んだし、そんな雰囲気が自分にも周りにもあった気がする。京都大学でも。
そうすると、だんだん核武装論みたいなことをいう人も出てきて、口に出してもおかしくない雰囲気が出来てきた。
それはおそらく今にまで続いているだろう。
たとえば、石原慎太郎なんかが言ったりする。
ところがだ。
核武装については完全に反対だ。
よく言われるのは、持っても誰も使えないんだから大丈夫、国際的な地位を高めるためだけだ、という理屈。
でもそれは明らかにおかしい。本当に使えないなら初めから核の脅威などない。本当に使えないなら持つ意味もない。
で、持ったとして、もしも打たれたら打ち返すのか。ちょっと待ってくれ、と思う。
「安らかに眠ってください 過ちは繰り返しませぬから」という原爆死没者慰霊碑の碑文がある。
時に右寄りの人から、これは我々は被害者であり自虐史観だ、という意見を聞くことがある。
それは違うと思う。
原爆というのは、誰がやったとか、誰が被害者だとか、そういうレベルの話ではないのだ。もう絶対的な破滅的な悲劇なのであって、その点において人類全員の罪なのだ。
そういう発想なのだと思う。って今調べたら、広島市のホームページにもそう書いてあった。
http://www.city.hiroshima.lg.jp/www/contents/1137568968454/index.html
ということは、だ。これは、仮にもう一度原爆を落とされたとしても、自分たちが打ち返す、なんてことはありえない、という意味であるはずだ。
誰が落とすとかではなく、もう一度原爆が落ちる、ということ自体を否定する、そういう気持ちを表しているはずだ。
なんなら、どこかの国がどうしてもどこかに落とすというのなら、それならもう一度ここに落としてくれ、と。そんな気持ちにすらなる。
もう一度、原爆が落とされるような世界なら、もうここにはいたくない。そんな気持ちにもなる。
で、ここが重要なところ。
僕がこんなことを思えるのは、おそらく、本当にうんざりするほど、勢い余って落とされても仕方なかったんじゃないか、と思ってしまうほどに、
原爆について、その悲惨、ありえなさ、どうしようもなさ、を叩き込まれたからではなかろうか。
体験こそもちろんしてはいないが、理屈ではなく、肌感覚としてそれを学んだからではなかろうか、と。
そんな気がするのである。
実は僕は自衛隊を持つことには一概に反対はしない。だが、核武装は絶対反対だ。
これを説明するには、たぶん刷り込まれた肌感覚としか言いようがない気がする。
ということで、この理論を裏付けるための一つの予言をしてみよう。
おそらくかなりの数、下回ると思う。
被害者の話やら映像やらを見せて、こんなにひどくて悲しいことだから戦争はダメなんだよってのは、
今思うとズレてたきがする。
一発ぶん殴って、ほら痛いでしょ?だから殴り合いはダメなのよっていうのは違うだろ?
単に怖がらせたり脅したりして忌避感を煽るだけのものは教育じゃなくて洗脳だろう。
子どもに対してはそれが一番手っ取り早いからっていって、だから洗脳するってのは違うだろう。
一つの花とかさあ。おとなになれなかったおとうとたちにとかさあ。
悲惨で救いようがないものだけ押し付けられてどないせーっちゅーねん。
そんで模範解答として「戦争はいけないんだと思いましたまる」とか書かせるんだろう?
答えのわかりきったものをやらされることほど無駄なことはないよ。
やるなら合わせて国のお偉方レベルで戦争をしないためにはどうしたらいいかってのを考える必要があるだろう。
いち国民として大衆レベルでこわいねーいやだねー戦争ダメだねーなんてだけで終わる教育は、押し付ける側の自己満足にすぎない。
左翼教師は『はだしのゲン』の映画や漫画見せたがるけど、子どもの頃にアレを読んだせいで
グロトラウマと核戦争の恐怖に怯え、数々の戦争本が図書室においてあった為にうっかり読んでしまい中2まで平和の尊さよりも人間の醜さに絶望して
あの頃は『人間はなんて愚かで醜い動物なんだ』と思えるような核戦争の恐怖を煽るようないらん放射能知識とか
とことん核に対する恐怖を埋め込まれて育った 平和よりも人間嫌い刷り込まれたの抜け出すのに時間がかかった
今ならいや今でも再び読んだり映画見るのを教育で強制されたくない
それこそリョナでもグロでも暴力でもその手の漫画の趣味が無い人に自分の趣味の漫画を押し付けるようなものである
平和教育でグロい描写のある映画や漫画を小さい子に見せるのはマジ100%精神的な虐待
『夏休みの友』にも反戦的な鬱話載せていたので開くのも嫌だった 登校日さぼれない時は映画の時間は目を瞑って寝た振りしてたけど、周りの目の手前
耳は塞げなかった
「嫌なら見ない、読書感想文を書かないという自由が子どもにもあってもいいはずだ」という考えの元
夏休みの登校日は時々小学校をサボるようになった 悲惨と恐怖を煽られるだけでうんざりするから
図書館に置くなとはいわないけど「グロい描写があります。注意!」ぐらいのマークは欲しい
と正直には読書感想文に書けないのでここで書く
いじめで人格まで破壊されて、極端におどおどするようになりヒッキーでコミュ力0の人間不信者になり勿論どこにも雇われず
ワープアやブラックで雇われてもキョドリで揶揄の的になるか「あの人大丈夫?」とか言われてまたクビになりひきこもりニートに逆戻り
その内高齢ニートになり、養い切れなくなった親に殺されるか 追い出されて 野垂れ死に。もしくはそうなる前に自傷行為を繰り返し
「制度や組織がある程度はちゃんと機能していた」という結果が必要
その結果あってこそ人格が破壊された被害者もその後の惨めな人生を社会の一員として受け入れる事ができるわけ
制度や組織が被害者に我慢のみを強いて、加害者達ばかり擁護して見てみぬふりして怠慢してきたのがこれまでの教育現場
つまりは「喧嘩両成敗」「反撃して同じレベルに落ちるな」「大人になって見返せ」「被害者に転校を奨める」「学校なんか行かなくてもいい」
これ全部奇麗事いって被害者を丸め込み被害者に我慢させて何事も無かったように収める為の嘘
今度のいじめ事件でばれちゃったんだよ。ろくに制度や組織が機能しようとすらしていなかったのが
加害者は人権屋が擁護してくれるのに、被害者は被害届出してもなかなか受け付けてもらえない
まだ教師に洗脳されたいじめ被害者でマインドコントロールから抜け出せていない人がはてな村にもいるみたいだけど
そりゃ教育現場に丸め込まれてそのまま卒業しちゃって上記の人生辿るコースに乗っちゃった人達の中から教育現場に恨みを抱いて
で、8月15日に大津で教育組織が襲撃されるという事件が起こらなかったら、なぜかいじめ被害者が学校に退学奨められたというあの別の県のいじめ事件、学校側が退学奨めるの果たして8月17日に撤回しただろうかって考えちゃうね 襲った犯人のお陰なんてことは秩序ある社会の一員としては認めてはいけないことなんだけどさ
自主退学奨められて7月31日に自主退学してしまった被害者がその後正攻法で学校と裁判で争ったとしてその間の空白期間がその後の人生で就職活動などでもたらすデメリットにもなりかねなかったのに傷の付きにくい夏休み中に解決したことを考えるとさ
教育現場の襲撃者はその後の人生レール駄目にしても、他のいじめ被害者のその後の人生を結果的に1人救ったのかなって
殴られた人も公の場で元いじめられっ子達の反感煽りまくるような発表してヘイト値高めた挙句殴られてニュースになったことで
2年間学校に行くたびに廊下で後ろから、ボスからなぐられる様を見て調子に乗った男子達に代わる代わる殴られ飛び蹴りされつづけた元増田はつらつら考えてしまう
あの頃先生達は集団による暴力を止めてくれようとさえしなかった「喧嘩両成敗」「反撃して同じレベルに落ちるな」「大人になって見返せ」
とばかり言っていた 殴られた教育長みたいに殴られているときには誰かが助けてくれることさえなかった
それでいて「平和教育」「子どもを戦場に送るな」とかほざいていた 増田が無抵抗主義のサヨク嫌いな根源はここに尽きる
学校が戦場だよ 増田は8月6日は時々学校さぼった 集団で殴り続けられる痛みすら分からない教師に「平和」などぬかされると殴りたくて怒鳴りたくて
仕方なくなっていたから
男子女子とも両方やられたことがあるけど、女子の方が遥かにマシだったぞ
男子の場合は主犯以外の男子が他の人がしてるから自分もと調子に乗って・・・毎日廊下で後ろからふざけて背中に蹴りを代わる代わるに入れてくる
集団暴力とネチネチだったらネチネチの方がまだ耐えられる 女子は自分の過ちを自覚すればすぐ泣いて謝ってくるが男子はそもそも暴力を悪ふざけの一環だとしか思ってない。男にとって弱い者を虐げ暴力を振るうのは武勇伝 やった方は1回きりでも、5人続けば1日につき5回だ。
一回でも後ろからとび蹴りしてきた男子の顔は20年過ぎても全員憶えている
学校にいる時間ずっと集団でいるわけではないので、飛び蹴りした男子達が1人になりやすい場所を見はからって恐怖を植え付けてまわってやっと飛び蹴りは止んだ
左翼教師で平和教育に毒されてる担任には「喧嘩両成敗」と怒られたけど、「恐怖」を植え付けないと男子は暴力やめないよ
男子は中学2年になるくらいまでは本能動いてる動物みたいなもので、教師だって何人かは男子生徒達にいじめられていたくらいだった。
不安をつぶやきTLに垂れ流しお互いに「発狂トリガー」引き合ってこっちの地域に逃げてきて
なおも毎日不安になる材料をわざわざ探すのを見てて「刷り込まれているからね
我らが世代以上は。幼い頃から左翼教師やマスコミによって放射能に対する恐怖心を」と思った。
今の若い世代は知らないだろうけど、昔は放射能への恐怖を煽るマスコミや教師が結構あった。
8月6日が近づくとテレビ付けるの嫌だった。登校日には平和教育と称してグロ映画やグロ話
無理やり聞かされるし。ほんと登校日が憂鬱だった。
ネットで名を上げたいとか恐怖を煽ってアフィ美味しいみたいな人たちのことは心配してない。
地元で活動している反原発の声の大きな面々は何人かが元々メンタルがギリギリな人たちと
いうかスレスレで、そういう人々の「発狂トリガー」を引いてしまって色んな変な行動を取らせてしまう
ギリギリだと分かっている人ほど健康が悪化したときの未来が不安だろうしね。
でもこのままだと放射能で体が損なわれるよりに先に、人生の中で相応に傷つき歪みヒビ入っている
部分が、放射能の不安を煽りあうつぶやきの大量ツイートを毎日素直に何も疑わず受け止めるうちにその部分から壊れて
砕けたら心は二度と同じ形には戻らないかもしれないよ ハンプティダンプティ
壊れそうになる前に戻れる人はツイッターしばらく休むといい。
「自分」が無い人が他人のつぶやく一見良さそうなことをすぐRTして深く考えないような人達に放射能への
がれきよりも撒き散らかされたつぶやきの「恐怖」に汚染されて既に壊れてしまった人達にはごめん。何を言ってあげたらいいのか分からない。私も壊れてるから。
Togetterでy_arim氏の立てた「とある午前の左右論争」というトゥギャりの紹介文にて
「以前「アイヌ民族を先住民族とすることを求める決議って考えてみるとやばくね?先住民だぜ。つまり日本人が攻めてきて彼らの土地なんかを奪っていったってでっち上げられる可能性が」とつぶやいていた@hiriumi氏(シアトル在住)と朝のご挨拶。ちなみに@metatran氏はぼくの知人で、外国人参政権反対派の在日アメリカ人。
と触れられていながら、まとめが用意されていなかったy_arim氏とhiriumi氏のやりとりをまとめてみた。「とある午前の左右論争」が2010年3月2日、以下のやりとりはそれから約二週間前のことになります。
以下はすべてtwitter検索から再構成、すべて時系列順です。
hiriumiによる問題定義。
hiriumi 2010-02-16 14:21:04
なんか民主党ががんばっている政策って日本を壊すことだけ。外国人参政権、夫婦別姓、日本人を差別する人権擁護法案、公共事業の削減、アイヌ民族を先住民族とすることを求める決議・・・どんだけ?日本人そんなにいじめて楽しい?
hiriumi 2010-02-16 16:06:34
アイヌ民族を先住民族とすることを求める決議って考えてみるとやばくね?先住民だぜ。つまり日本人が攻めてきて彼らの土地なんかを奪っていったってでっち上げられる可能性が。
y_arim登場。
y_arim 2010-02-16 17:50:55
y_arim 2010-02-16 17:52:25
自国中心主義が登場するとつながりますね。 RT @hiriumi: なんで自国を思うことが他国を蔑むということに繋がる?ってか国と国って基本ぶつかり合いでしょ。
y_arim 2010-02-16 17:55:53
妄想です。 RT @lgaimmk7: @hiriumi 戦争放棄、武力放棄、ってのが究極的になったものが、外国人参政権ですからね~。自分の命がかわいい。戦争したくない。武器はもってはいけないとなると、外国人に合法的に侵略していただこうってなりませんか?
hiriumi 2010-02-16 17:56:58
@y_arim 自国中心主義は現在日本は奨励していますか?ODAとか国際協力めちゃめちゃやっているでしょ。それなのに日本は理不尽に叩かれ続けている。多くの日本人がいい加減にしろ!という気持ちではないですか?
hiriumi 2010-02-16 17:58:28
y_arim 2010-02-16 17:59:17
@hiriumi 多くの日本人というのはどのあたりの方々でしょう? 少なくともあなたがそう思っていて、ぼくはそう思っていないことはわかりますが。
hiriumi 2010-02-16 17:59:51
@y_arim そんなの知らんがな。世論調査なんかしてないし。w
y_arim 2010-02-16 18:00:12
@hiriumi なるほど。ぼくは以前ウヨクでした。
hiriumi 2010-02-16 18:01:05
@y_arim んで?純粋まっすぐ君は何が言いたい?
y_arim 2010-02-16 18:02:10
@hiriumi じゃあ多くの日本人を想定するのはとりあえずやめておきましょう。代表するのは自分自身までにしておきたいです。
y_arim 2010-02-16 18:02:17
@hiriumi じゃあ多くの日本人を想定するのはとりあえずやめておきましょう。代表するのは自分自身までにしておきたいものです。
hiriumi 2010-02-16 18:03:35
@y_arim いや多いよ。
このあたりからhiriumiとumetenによる小さなやりとりもあったのだが、割とどうでもいい言葉遊びなので除去。
y_arim 2010-02-16 18:05:43
@hiriumi 右曲がりなやり取りがたまたま目に入ったので突っ込み入れたまでの話です。
hiriumi 2010-02-16 18:07:00
@y_arim 無駄だったね。w
y_arim 2010-02-16 18:11:11
@hiriumi しかしまあシアトルにいらして、ご自分がマイノリティの立場に立ってなおそのようなお考えとは。日本にずっといるか否かは思想傾向にあまり関係ないのでしょう。
y_arim 2010-02-16 18:11:18
@hiriumi しかしまあシアトルにいらして、ご自分がマイノリティの立場に立ってなおそのようなお考えとは。日本にずっといるか否かは思想傾向にあまり関係ないのでしょうか。
hiriumi 2010-02-16 18:13:15
@y_arim 私の考えのどこが悪かった?突っ込まれたところがよくわかってないんだけど。
hiriumi 2010-02-16 18:15:26
y_arim 2010-02-16 18:16:06
まずこれ。でっち上げとは如何に? あなたの歴史観はどうなっているのか。 RT @hiriumi: アイヌ民族を先住民族とすることを求める決議って考えてみるとやばくね?先住民だぜ。つまり日本人が攻めてきて彼らの土地なんかを奪っていったってでっち上げられる可能性が。
hiriumi 2010-02-16 18:18:18
@y_arim 歴史観はどうなっているのか言われても。よくわかりませんけど。もっとちゃんと質問してください。
y_arim 2010-02-16 18:19:24
そもそも「サヨク」には社会民主主義から無政府主義まで含まれて多種多様、こんな単純明快なものはない。むしろこの「サヨク」は右派の妄想では? RT @hiriumi: これがサヨクの本当の思想なんでしょうね。おおコワ。
y_arim 2010-02-16 18:21:00
hiriumi 2010-02-16 18:21:02
y_arim 2010-02-16 18:21:44
hiriumi 2010-02-16 18:21:47
それを知ってもらいたくて議論を。ありがとうございます。RT @lgaimmk7: @hiriumi チャンネル桜でアイヌの真実が語られています。それを参考にしてくださいな。昔の歴史はよくわかりませんが、今、昔差別を受けた人間がのさばっている現実を知る必要があると思います。
hiriumi 2010-02-16 18:24:39
@y_arim サヨクというのは人権、平等、自由、反戦平和を唄って気持ちよくなっているうす甘い戦後民主主義平和教育を受けてきたあなたのような人を言います。これが定義ね。
hiriumi 2010-02-16 18:25:50
やべ、もう1時半だ。ねよ。
hiriumi 2010-02-16 18:29:17
@y_arim あと、最後に日本人はアイヌ居住地域を侵略なんてしていません。99%異常が和人との混血です。差別はあったと思いますが、侵略なんかしていません。弱者権力という言葉ご存じですか。
hiriumi 2010-02-16 18:29:38
ここでhiriumi就寝。夜のy_arimタイム。
y_arim 2010-02-16 21:14:51
茫漠としすぎてはいますがそれはいいとして、かなりその恩恵受けていますよねお互いに。 RT @hiriumi: @y_arim サヨクというのは人権、平等、自由、反戦平和を唄って気持ちよくなっているうす甘い戦後民主主義平和教育を受けてきたあなたのような人を言います。これが定義ね。
y_arim 2010-02-16 21:17:18
混血に至った経緯は如何?ちなみに侵略しても混血します。例:南米 RT @hiriumi: @y_arim あと、最後に日本人はアイヌ居住地域を侵略なんてしていません。99%異常が和人との混血です。差別はあったと思いますが、侵略なんかしていません。弱者権力という言葉ご存じですか。
朝のhiriumiタイム。前日のy_arimによるpost(2010-02-16 18:11:11)への返答。
hiriumi 2010-02-17 01:30:45
起きた・・・おお、昨日の自分の発言に返事がついてる。サヨクはどうしても日本人がアイヌを侵略したことにしたいらしい。嗚呼、どこまでMなんだ。wアイヌの真実。 http://bit.ly/a2qsui
hiriumi 2010-02-17 01:37:34
うむ、人権、平等、反戦平和を唄うのはいいが、事実を捏造してまで弱者権利を利用し、日本国を海外に犯罪国家だと宣伝している人たちに疑問を持つのです。どこまでM?w
hiriumi 2010-02-17 02:07:46
「あなたはアメリカに住んでいてマイノリティなのにそんな考え方か」というご指摘がありました。それに対してお答えしたいと思います。
hiriumi 2010-02-17 02:09:01
日本人は確かに第二次世界大戦中痛烈な差別にあいました。日本人というだけで収容キャンプに入れられ、それは酷い扱いを受けたそうです。
hiriumi 2010-02-17 02:10:16
hiriumi 2010-02-17 02:11:51
hiriumi 2010-02-17 02:14:46
そして自分はその恩恵を享受しています。日本人だからということのみで給料が5000ドル上乗せされたことがありました。日本人のおじいさんやおばあさんが一生懸命築いてくれた日本人に対する信頼。それに感謝をせずにいられましょうか。
いえ!申し訳ないのはこちらこそ。お付き合いいただいてありがとうございます。
増田は交通事故の被害者や、新聞紙面に載る殺人事件の被害者にも、今回と同じような問題意識で持って「何を思うべきか」を考え込んでしまったりするのでしょうか。
たいていのことは考え出すと考え込みます。戦争然り事故事件然り。ただ事故/事件の発生を良しとした歴史や価値観を知らないので、ああ痛ましいなと思って、こんな風な「痛ましいな」の思い方でいいんだろうかと思いはしますが、そこで止まります。戦争犯罪とその他の犯罪は(その他の犯罪の中でもそれぞれ)性質が違うと思うので、同じようには悩みません。でも神聖視と言われればそうかもしれないなと思いました。区別なのか差別なのか自分でも分かりませんが、昔から戦争に興味があって。国内の暗いニュースだと治安や世間の変化や報道のあり方や、そんなことを考えてしまいがちです。
懐疑の意識を持つことに対して恐怖を感じるのは何故なんでしょう。平和であろうと、社会のありように懐疑心を持つことはおかしなことではないと思いますが…。また、立脚する正しさのなさへの不安から迷いが生まれているのなら、その足場を可能な限り確かなものとしよう、という方向性に進むことを考えたりはしないのですか。「何を思うべきか」で内面へと向かうことをひとまず置いて、外面からの理解を進めても良いんじゃないかと。
なんだかんだ言っていますが、実感としては戦争は悲惨だな平和な世界の方がいいなと思っていて、戦争は私が(知識として)知る物事の中で一番怖いものです。それを考えていて、自分の中で理屈(平和が善ではないかもしれない)と感情(平和が善だ)がイコールじゃなく、しかも自分がこの世で一番怖いものと同じかもしれないと思ったら、それは怖くないですか。社会に対して疑問を持つこと(例えば民主党政権の行く末を危ぶむような)自体が怖いわけではないんです。
正しさの足場を確かなものにしようとしないのは、ここでも感情(立脚する正しさのなさが不安)と理屈(ある正しさに立脚するのが不安)の対立があって、どうすればいいか分からないからです。そんなこと言ってたらなんにもできないじゃないかと自分でも思いますし、日常生活を営む上で私は私の正しさに則って動いているんですが、考えてみたら… →「私はなにを思えばいいんだろう。」というぐるぐる。
戦争と比較して平和が「良い」とされる点は、そうした意思決定の正否の問題とは無関係なように思われるからです。平和が全ての問題を解決してくれるかの如き過剰な期待がなければ、こうした問題を見て『本当に平和は良いものなのか』等と言う疑問は出て来ないのではないかと思います(それは押し付けられた平和教育の罪なのかもしれませんけど)。
意志決定の正否の問題とは無関係に、平和を良いものと断定できる、ということでしょうか。平和が万能だとは思っていないつもりですがその理屈はよく分りません。なぜ無関係なのか、なぜ断定できるのか、解説をお願いできますか? …本当に長々と付き合わせてしまって申し訳ないです。
そうなんです。だから「思うこと」が問題になって… →「私はなにを思えばいいんだろう。」
なにもかも思うこと故に起こるんだし思わずにいることはできないのだけど、なにもかも思うがゆえに起こるなら何を思うかは重要で、しかし何を思おうかを思うことで既に私は思っていて、あれ?というぐるぐる。思い続けることを非難する気持ちは少しもありません(ここでいう「思い続けること」は他者への不寛容とは別物です)が、レトリックになるくらい当り前に、思い続けるが故の戦争であり平和でありなんです。
ついでにいうとわざわざそういう事例を持ち出したことの含意も考えてもらえるとなお幸いです。
自分なりに考えて答えました。考えが足りないならストレートにご指摘いただけると助かります。
増田さんのいうことを自分が理解できていないのか、いいたいことを伝えられていないのかがもう分からないので、できるだけ分かりやすく書いていただけると嬉しいです。自分ができないくせに求めてごめんなさい(これが私の精一杯です)。なんかずれてるなあと思うのですが、うまく説明できないし説明したそれがまた伝わらない(ように私には思えるのだけど実際どうだか分からない)し。いつも似通った発想をする人に囲まれて、その理解力に頼っているんだなぁと痛感しました。
何か長々つきあわせて申し訳ないです・・・。
個人が個人内部で戦争をどう扱えばいいのか、という話です。
自分の中で消化した後の議論や活動も他者のそれも言うなればどうでもいいんですが、伝わっているでしょうか
一応それは伝わってます。自分には、増田の内面で問題意識が定まっていないために「何を思えばいいのか」ということになっているように感じられたので、それを確かめようと必要以上に回りくどくなっている部分があると思います…すみません。社会全体のありようについての疑問がいくつか出ているようでしたから、そこから主張・見解を引き出すことで論点を絞り込めるかなと思ったのですが、こちらの手際が悪いせいでいまいち上手くいってない感じですね…。
ところで、エントリを読み直していたんですが、増田は交通事故の被害者や、新聞紙面に載る殺人事件の被害者にも、今回と同じような問題意識で持って「何を思うべきか」を考え込んでしまったりするのでしょうか。被害者の訴えのようなものを聞いたときも、やはり今回のような疑問を感ずるのでしょうか。たぶん違うんじゃないかと思うんですけど、どうでしょうか。どこかで戦争と戦争被害者を神聖視してるんじゃないかと思わされる節があるのですよね。
それと、『平和への疑問を持たざるを得ない状況が怖い』ですけど、懐疑の意識を持つことに対して恐怖を感じるのは何故なんでしょう。平和であろうと、社会のありように懐疑心を持つことはおかしなことではないと思いますが…。また、立脚する正しさのなさへの不安から迷いが生まれているのなら、その足場を可能な限り確かなものとしよう、という方向性に進むことを考えたりはしないのですか。「何を思うべきか」で内面へと向かうことをひとまず置いて、外面からの理解を進めても良いんじゃないかと。
意思決定の正否の問題は、戦争・平和のいずれの状態であっても生じるものでしょう。これを指して『本当に平和は良いものなのかと怖くなりました』というのはちょっと焦点がずれていると思います。
1文目には賛成です。2分目はどうして? 何故、どうずれていますか。
戦争と比較して平和が「良い」とされる点は、そうした意思決定の正否の問題とは無関係なように思われるからです。平和が全ての問題を解決してくれるかの如き過剰な期待がなければ、こうした問題を見て『本当に平和は良いものなのか』等と言う疑問は出て来ないのではないかと思います(それは押し付けられた平和教育の罪なのかもしれませんけど)。
「いくら寛容であろうとしてもそれぞれ正しさを待たずにいることはできず、対立を生む原因もここにあるのではないか」です。
そこまで遡って「正しさ」を定義するのであれば、「戦争は思ったことを思い続けたから起る」と言えるでしょうが、そういった「正しさ」から無縁であることは、(一切の意思決定を放棄しない限り)平時にあっても不可能です。集団での意思決定を伴なう出来事は大半が「思ったことを思い続けたから起る」と言える(もちろん、平和だってそうです)。なら「戦争は思ったことを思い続けたから起る」というのはレトリックに過ぎないのではありませんかねえ。
そもそもISAF対アフガニスタンで戦争をしているという認識がありませんでしたが、この両者間の対立は特筆すべき例外にはなりません。
これ一つでもう一個ツリーが立つぐらい面倒くさい話になるので適当に端折りますが、ISAFはアフガニスタンと戦争をしているわけではありません。また、括弧内で触れているように、厳密な意味で「戦争」と定義するのに留保を置いていることを気に留めていただけると幸いです。ついでにいうとわざわざそういう事例を持ち出したことの含意も考えてもらえるとなお幸いです。
こちらこそお返事ありがとうございます。
『戦時下』で起った出来事を教えられて、どうして『平和は良いものなのか』と怖くなるのさ?
簡潔にいえば、過去に間違った→現在も間違っているかもしれない、という不安です。
戦中、戦争反対を叫ぶ人は法律によって裁かれ民間レベルでも差別されたと習いました。対して現在はどうかと言えば、憲法で国が平和主義を掲げ、殆どの国民も平和を大切だと思っていて、戦争を支持する主張に眉を顰める風潮もあります。主張を逆にしただけで状況は同じじゃないかと感じ、怖く思いました。思想や表現の自由は手厚く保障されるようになりましたが、個人の思想はどうしたって環境や時代に影響を受けるので「かつて国家と大衆が間違ったのなら、現在の国家と大衆が支持する正しさが正しいとは言い切れない」というのが第一の怖さです。また、これを発展させて「しかし国家と大衆が一致して正しいというものさえ正しくないかもしれないと考えるならば、正しいと言えるものなんてなくなる」というのが第二の怖さです。加えて、自分の受けた平和教育が平和主義の押し付けにも感じられるものだったので「戦争と平和にまつわる教育の内容は変わったが、やり方は変わっていないんじゃないか」と思ってまた怖くなりました。
『思ったことを思い続けたから』戦争が起ると考えてるの?それって、どうしてそうだと思ったのだろう。
「思ったことを思い続ける」というのは、1度もった自分の視点・主義主張に固執する、という意味です。妥協を知らず、他の意見を顧みず。自分が正しいと思っている複数の主体が他の正しさを拒むから戦争が起こるのだと思っているのでそう書きました。(例えば「別にどちらのものというわけでもないが資源が欲しいので戦争をしよう。国民には相手国が攻撃してきたと思いこませよう。」と国が思って戦争をするにしても、そういった理由で人を殺すことも資源のためなら厭わないという思想をどこかで肯定しているから戦争になるんだし、あるいは「戦争などしたくないが戦わなければ自国が滅びる」と思って戦争をするんでも、国を滅ぼすよりは戦争をすべきだという正しさに則って戦うんだし。)
じゃあ、シンプルに、『何を知り、考えれば戦争を抑止・防止することに役立つだろうか?』って質問をすれば良かったんじゃないかなー。
そういうことが聞きたかったのではなくて、自問を増田に書くなよって話なんですが、「私はなにを思えばいいんだろう」ということが主題でした。だからどんどん内面の話に持って行くんです。
アメリカだと大統領に憧れたりするガキがいるんだろうなと思ったりする。
カッコイイともおもわないし、どうもなれるとかなれないとかそういう職業ではないような気がする。
そういう家柄の人がなるもののような感じがする。
この国をどうしたいかとか、そういうことに思い悩んだりしなかった。
どうせ話せるようにならないし、話せる必要がない外国語なんかよりも、政治経済を必修にしたほうがいいんんじゃないかと思う。
世の中の事件や争いの原因や、その解決方法を教えずに、平和教育とかしても無駄だろうって思う。
ぜんぶすっ飛ばして
戦争って悲惨ですね。
平和って素晴らしい。
どうすれば自国が豊かになるか、どうしたら他国を飢えさせることができるか、そういうことから学ばんとダメなんじゃなかろうか。