はてなキーワード: 表現の自由とは
"ハッカー集団"アノニマスが、メキシコの麻薬組織につかまっていた仲間を無事奪還した、というニュースを読んだ。
"ハッカー集団"という称号から、アウトロー的な、コンピューターのハッキングを行う犯罪者の集団をイメージするけれども、アノニマスはそんなにかっこいい存在じゃないらしい。
日本の「ふたば☆ちゃんねる」と「2ちゃんねる」をモデルに作られた「4chan」に集まる暇人が自然発生的に集まってできた集団で、要は日本のVIPPERらと同じようなものだ。
しかし、今回の彼らの実行力には、脱帽した。
それにしても、日本のVIPPERや鬼女さんやはてなーと比べると、彼らには機動力・戦闘力があり、目的実現のための能力が高く、行動に一貫性があるのが羨ましい。
くらべて日本のVIPPERなどには、なぜそういう凄みがないのか……いや、凄みがないのが悪いわけじゃないけれども、彼らと同じくらいの実力がVIPPERらにはあるはずなのに、いささかアノニマスに見劣りするのが、日本人として悔しい。
余計なお世話かもしれないが、日本のネット集団が、アノニマスに負けないくらい力を発揮するための方法を考えてみた。
彼らには「アノニマス」という共通の名前で、サイエントロジーやソニーと戦ってきた歴史がある。
それに比べて日本では、VIPPERとか鬼女とかに細分化されていて、それらをくくる名前がない。
4chanの「Anonymous(アノニマス)」に当たるのは「名無しさん」だけど、これは、名前として微妙だ。
VIPPER、鬼女、はてなーの機動隊をまとめる、もっとかっこいい名前はないか?
ちなみに「匿名旅団」という名前を考えてみたんだけど、どうだろう?
2chanではお馴染みの人気作家の富樫作品の中の「幻影旅団」をイメージしている。
生存の優先順位が、原則、団員ではなく旅団そのもので、メンバー全員が戦闘狂、なんて幻影旅団の特性が匿名旅団にあってもいい。
VIPPERや鬼女さんのような、ネットでゆるく結び合った人間集団の名称としては、悪くないんじゃないか。
VIPPERや鬼女は、これまで、犯罪行為をネットで自慢したバカの会社に電凸を行ったり、個人情報を晒したりして、一定の成果を上げてきた。
しかし、花王やフジテレビ、電通のような巨大企業を相手では、力不足じゃないのか?
具体的な成果が挙げられないまま、ネットの話題はTPPへと移ろうとしている。
たぶん、これからもフジテレビや電通は、韓国から金をもらい、韓国に偏った、事実と異なる報道を続けるのだろう。
せいぜい潰せるのは個人程度で、企業が相手ではなんの痛痒も与えられないなんて、なんて無力なんだろう。
「敗北の味が知りたい」
なんてうそぶいていたって、結局それが実力だ。
ソニーに何百億という損害を与えたり、中近東の革命の際に政府機関のコンピュータに侵入したりと、アノニマスに機動力があるのは、「表現の自由」という共通の理想があるから。
人間ってのは、衣食のためだけでは実力以上の力を出せないもの。
現実以上の“理想”を実現しようとした時に、異常な実力を発揮できるもので、そのための「錦の御旗」が必要だ。
昔、堀田善衛という作家が「長い未来についての理想をもたぬものは、それをもつものの未来像のなかに編入されて行く」と書いていた。
理想という共通の目標がなければ、実行力を発揮しようにも、矛先はあちらに向いたりこちらに向いたり、散漫となり、結局何も成し遂げられないままに終わってしまう。
かといって、アノニマスと同じように「表現の自由」を理想として掲げるのも芸がないし、たぶん、誰も賛同しない。
理想は外から与えられるものではなく、自然発生的な、VIPPERや鬼女やはてなーたちの行動に共通して見いだせるものでなくては、たぶん共感は得られない。
あると思うのだ。
たとえば嫌韓。
韓国人だから嫌い、という人種差別的思想を持った人々は、2ちゃんねるには案外少ないと思う。
そうじゃなくて、韓国人の「歴史の捏造」や「自己中心的な態度」、「道徳や法律に反していても、反省せずに開き直る行動」に嫌悪感を感じる人々が多いのではないか。
そして、嫌韓に限らず、これまで炎上の対象となったものには、日本の匿名旅団の中の人々が抱える、共通の価値観に反するものへの嫌悪感があると思うのだ。
そういう価値観を、絞り込んで、改めて理想・信条とできれば、たぶん匿名旅団の戦闘力は上がる。
(内容は別の人に任せた!」)
アノニマスは「ガイ・フォークス」の仮面をかぶって、団結力を高めている。
やる夫の仮面をかぶるのもいいけど、他にあったらいいなと、ここも他人任せ。
……と、以上、思いつくままにダラダラと列挙してみた。
イタリア語版Wikipediaのプロテストによって日本のネットでも話題になった「通信傍受法」の改正案問題について、誤解が大きいので、簡単にまとめておきたい。というのも、TechCrunch の次の記事「イタリアのWikipedia、『ネット傍受法案』に抗議して自主的に閉鎖」があまりにも極端で、また一般にイタリアが誤解されたままでいることにも耐えがたかったからだ。
http://jp.techcrunch.com/archives/20111006italian-wikipedia-shuts-down-in-protest-of-proposed-law/
前もって断りを入れておくと、イタリアの法制度はもちろん、法律の専門家ではないので、間違いがあれば喜んで指摘を受けたい。また、訳のまずさについてはご寛容願いたい。
さて前段として、話題の法案DDL Intercettazioni(ちなみに、DDLとは”Disegno di legge”の略語で、英語に直訳すると”Design of law”、日本語では単に「法案」と訳すのが適当) で問題になったのは、ネットの規制に関する部分よりも、傍受された通信記録の公開に関する変更についてだった。これまでは裁判前であっても当局と弁護人の合意のもとで通信記録を公開できたものが、裁判中、また事件に関わる部分のみの公開とすることに限定されるというものである。当然、各メディアともこれには批判的な論調を取っているようだ。
最近では、ベルルスコーニが売春婦を政府専用機に乗せていたというニュースが日本の報道でもあり覚えておられる方もいると思うが、これらのことについて話された会話はすべて新聞紙上に掲載された。傍受された通信記録が公開されることの是非についてはひとまず置いておくとしても、こういう背景があることを指摘しておきたい。
そのうえでイタリア語版Wikipediaなどによって、日本でも話題になった部分は次の第29条(24ペ-ジ)であった。
同条の冒頭部分を見れば分かるように、この条文は次の法律の改正だということが分かる。すなわち、Legge 8 febbraio 1948, n. 47 Disposizioni sulla stampa の第8条の改正がこれである。
http://www.mcreporter.info/normativa/l48_47.htm#8
ここでいうstampaとは「出版を目的とするあらゆる様態の、機械的あるいは物理-化学的手段を用いて印刷され、あるいは獲得される複製物」と、ようするに平たく言えば、出版物や新聞等メディア・報道などなどのことを指すのでしょう。たとえば、第5条においては新聞・定期刊行物は裁判所の書記課に登録することなしに出版してはならないとあり、この法律がどういう法律かなんとなくでも分かると思う。
そこで問題の第8条は、一言で言ってしまうと、「訂正請求」”Richiesta di rettifica” を受けた場合、責任のある者は定められた期限内に定められたように訂正を発表すべし、というものだ。
そもそもこの条文の目的は、次のようなものだと理解している。つまり、考えを表現することの自由は、時に、憲法によって保障された他の権利と衝突し、あるいは侵害することもありうる。そのような場合に、速やかに権利を回復することができるようにするためのものである。したがって、客観的な真実性は問題ではなく、当事者にとっての主観的な真実性が問題になると。すなわち、趣旨としてはメディアによる暴力から権利を守ることを狙いにしていることがうかがえる。
http://www.giuffre.it/age_files/dir_tutti/archivio/santalucia_1004.html
これが出版物のみならず、テレビやラジオにも適用されるよう改正されて現在にいたっているのだけれども、ここで注意してもらいたいのは、こう書いてしまうとえらく危ない条文に見えるけれども、実際には1948年以来60年以上も運用されており、メディアがそれで委縮するとか、「メディアが死ぬ」ということは全くないということ。まして第8条の乱用悪用によるメディアの弾圧というものは見られない。
常識的に考えれば、そのようなことがもしあれば、それこそ「表現の自由」の侵害になるはずなので、つまり運用の問題になってくるのだと思うけれども、残念ながら具体的にどのような運用がされているのか僕には分からない(「訂正請求」がどのようなものかは検索すればすぐ出てくる)。ただ、第8条そのものにはたいした問題はないように見えるという点を指摘することしかできない。
そこで、今回騒ぎとなった改正部分は、次の部分であると思う。「訂正請求」の対象となるものとして、
"i siti informatici, ivi compresi i giornali quotidiani e periodici diffusi per via telematica,"
すなわち、データ通信を経由して流布される日刊または定期刊行紙を含む「情報サイト」”i siti informatici” となっているが、はたして「情報サイト」の範囲はどこまでなのだろうか、と。この法律の趣旨や文脈からすれば、例示されているように新聞やテレビニュースなどなどのプロフェッショナルのサイトのことにも読めるけれども、素人のブログはどうなるかはっきりしない。
事実、当初は素人のサイトやブログもこの適用範囲内にしようとしたらしい。たとえば訂正期限を訂正請求後10日以内に延長するとか、罰金を引き下げようといった案も出されていた。
http://www.rainews24.rai.it/it/news.php?newsid=156864
結局どうなったか結論だけ言うと、先述の第5条によって定められている、登録済みのプロフェッショナルによるサイトに対象を限定することで与野党合意となり、落着した。
以下、個人的な感想を書くと、まず仮に与野党合意がなくても、これまで同様の運用がなされるのであれば、それほど心配するような改正ではなかったのではないかという点で、「ブログ殺し」条項とイタリアのネットではあだ名されたようだけれども、そんなことにはまずならなかっただろうと思う。
また、TechCrunchの記事がいかに間違っているか、これでよく分かってもらえたはずだ。第8条を使ってなんでもかんでも訂正請求できるというのは非現実的な妄想ではあるまいか。特に追記部分の、
法案は「正式な報道機関の記事」のみを対象とするよう修正されたもようだ。これがなんらかの改善になっているかはきわめて疑わしい。
http://jp.techcrunch.com/archives/20111006italian-wikipedia-shuts-down-in-protest-of-proposed-law/
というところは、何の根拠があって「きわめて疑わしい」と言えるのだろうか。
なによりこの問題を見ていて思ったのは、これだけインターネットが普及してしまってもなお、「表現の自由」だけを金看板にできるのかという問題についてもっとよく慎重に考えられるべきではないかということ。確かにこの法改正はベルルスコーニ絡みなので微妙なところがあるとはいえ、しかしながらごくごく一般的に考えれば、いくら「本当」であっても「知られたくない流布されたくない事実」というものは誰にでもあるはずであって、よほど悪質であったり問題性の高い場合、第8条が規定するような処置があるいは何らかの助けになることもあるかもしれない。
もちろん、素人目にもこの第8条をインターネットに広く適用しようとするのは筋悪に見えるし、与野党合意で適用範囲をはっきりさせたことは結構なことだと思うわけだけれども、仮にもっとちゃんとした、インターネットを対象とする法律が出された場合、ネットの住民たちはどういう反応を示すだろうか。「表現の自由」の金看板だけではかばいきれない部分があるのではないかと、正直言って思う。
その意味で、イタリア語版Wikipediaの声明は難しい部分があるのではないだろうか。ごく一般的なサイトならまだしも、これだけ有名かつ頻繁に利用されるWikipediaのようなサイトになると、それなりに記述に責任が持たれるべきなのは当然だという意見もあってしかるべきであって、あの声明を肯定しているだけで本当にいいのかどうか。ネットで言われているほど、また信じられているほど簡単な問題ではないのではないか。
お祭り好きのイタリア人のネットにおける「ショーぺロ(ストライキ)」の言い分を鵜呑みにして、その流れに乗っかってしまう前に、色々考えることがありそうに思うのだが。
お前らが、変なヤギに付いてくからだろwwwww
ある教師の子殺しを書いた作家に書いた(この作家が原発についてRTして返信されてたから。見つけたのはさらにそれが別の人にRTされてたから)
> 原発で騒ぐ奴に言いたい!お前らが変なヤギに付いてったからじゃないのか!東電に限らずに日銀だって官僚だって弁護士だって医者だってやりたい放題搾取し放題。自分に関係なかったら困らされてる人がいても放って置いたくせに
これが一番最初で上の奴の前
>はじめまして。大分前ですが山川先生の子供を虐待死させた事件の小説を読んだ事もあります。ああいう事でお金儲けをされるのであれば還元は考えないんですか?私は親から20年逃げてます。正確には言っても全部妄想にされてしまう施設か
3つ目
>週刊spa強制入院。私が暴れたわけじゃないのは実家隣の人も知ってます。証言を頼んだら隣やから隣やからと。読売記者のは妄想にできないhttp://goo.gl/FCbmp
>国やエライ人やお金を引っ張ってくれる人を信じて、精神病院の事なんか見向きもせず、書いても検証もしてない確証がない段階でキチガイキチガイ言うまたは無視な人たちが、自分が危なくなったら騒いでる。昨日原発書いてた教師にブロック( された )
>うちの親は教師で管理職で退職して教育委員会に再就職してたそうで、そんなわけはないと思われるので、教師でよい人が居ると相対的に私の話が信じてもらいにくくなるので、変な人だった方がほっとはしますが。
>こんなにキチガイなのに。http://goo.gl/P1GMG 昨日精神医療を考える会の人には母親は優しい人とRTされました。根拠は私が書いた養護教諭を養護施設教員と間違え勝手に想像を膨らませたからです。
> 他にも居ますよ。親から逃げてる人。先生がたのように、放蕩の限りを尽くされた方には想像できない世界でしょうけど。想像したくもない。見たくも無い興味も無い世界でしょう。http://goo.gl/K4tPm住民票ロックなど ( 同じロックでもエライ違いやなぁwww )
これは独り言>http://oo.gl/6khBQ 岩手のマコトくんが精神病院に。 せめてこれくらいは騒ぎにならないとあれかなぁ。。。 これと同じようなものかhttp://goo.gl/ShWPZここの中の効率のよい疑似科学批判は科学的態度ではなかったという部分
独>安息の地だった。山川健一氏の親が子供を殺す小説。私はあれは親子関係じゃなくて( 先生は母親が性交渉時逝ってない原因みたいなのを匂わす記述も ) あの名前の人を殺したくて殺したんじゃないかと。親が子に同じ名前付けて若い頃自殺未遂。人を殺したい変な人と家族になったって事ではないかと
独>ストレスがものすごく溜まったり、何か抑圧があったりすると、人を殺したい気持ちになる人も居るのではないかと。殺したくてもできないから、普通は抑圧されたり他に転化されたりするが、中には実行力ある人もいるのではないか?何十年か前に自分を殺そうとしてやめて、その事と何の関係があるのか
独>続き知らないけど、子供に同じ名前付けて、それで殺してしまった。青年期の人の心理で親殺しっていうのがあるらしいけど、( それも、とんでも分析何とかかも )親の子殺しって?青年期に自我の発達を阻害されると殺したいとか言うとか、本当か嘘か知らないけど河合
独> 河合隼雄か何かの本で読んだ。それをカウンセリングで口にしてもそれほど怖がる必要はない、正常な自我の発達過程にあるのだからとか、何とか。でも、10万人に一人くらい本当に殺す人がいたらどうなるのかな?とも思ったけど。親の子殺しはどういう心理?異常心理?
独>安息の地色々書いてあったけど、先に殺したい気持ちやエネルギー?みたいなものがあって、たまたまそこに子供が居たからじゃないのだろうか?それまでの育て方で暴れるとか何とかあったとしてもそれはそう持っていかれている。離れれば良かったんじゃないのかな?
独>あの子供も逃げればよかったんじゃないかな?だいたい同じ名前というのがおかしい。自分の自我を子供の自我にするみたいで、子供の自我を殺している。そして今度は本当に殺した。ああいう事でお金儲けするなら還元もしてほしい。子供は利権にならないから圧力団体が無
上に書いてた作家に>検索しました。安息の地でした。ああいう事でお金儲けするなら還元もして下さい。子供は利権にならないので圧力団体が無いので、このスレの人も公団URは保証人無しで入れるとか生々しい情報のやり取りをしつつ助け合いも無く行政に働きかけようと言っても盛り上が
> このスレとはこれです。http://alfalfalfa.com/archives/14943…さっきも貼りました。男女間DVは女が利権になるから助けるのに
独>山川氏に、安息の地のような小説でお金儲けするなら、還元してと書いたけど、変な人なんていっぱいいるだろうから、変な人って目で見られるんだろうな
独>作家は作家で表現してるだけだからなぁ 表現の自由はあるし、現実を持ち込むのは野暮というものなのかもしれない。究極のオナりだからなぁ。ネタや素材にされる方はいい気がしない。
全国的に中高生の自殺が相次いでいる。場合によっては小学校高学年の児童も自殺しており、ゆゆしき問題である。
ここ数十年で中高生の自殺が増えた理由について、1997年の経済破たんによる社会人の自殺者数増加が影響しているなどの見解があるが、
中高生は経済問題ではなく、学校生活に起因する諸問題により自殺を決意すると考えられるため、他に理由があると考えるべきである。
そこで理由の一つとして考えられるのは、インターネットの出現により、巧妙に一般人に成りすました暴力団員その他の反社会的勢力が、
その独自の資金力や行動力により、インターネットという無法地帯に勢力を拡大するという異常な現象が1999年頃から発生しており、
卑猥でひれるな掲示板やウェブサイトを立ち上げ、インターネットにアクセスした無垢な中高生が彼らに騙されたり苛められたりすることにより、
精神的衝撃を受け、その結果自殺に走る事例が増加していると思われる。
この問題について、政府や警察は、概ね2006年頃から、学校等においてインターネットに関する指導を行ったり、保護者への指導推奨、
フィルタリングの設定といった対策を講じたりしているが、反社会的勢力が根城にしていると思われる「2ちゃんねる」という巨大掲示板は1999年頃から秒刻みで次々にスレッドが立てられ、ほぼ休みなく続いているなど、その勢力は強大であり、そこからアングラ掲示板や、
児童生徒が直接書き込む誹謗中傷に満ちた学校掲示板、各種の風俗サイトが派生しており、中高生がそれらを閲覧することに関し、
学校での指導やフィルタリングが何ら功を奏していないと推測される。すなわち、増加している中高生の自殺は、
インターネットを通じて暴力団員等の卑劣な価値観が社会に流布され、99年以前に存在した学校教育の成果による健全な社会的風潮が
かなりの程度汚染され、社会内に誹謗中傷や疑心暗鬼が蔓延し、その結果、うつ病等の精神的疾患を発症したり、
人間不信に陥ったりした中高生が厭世観に囚われて自殺を決意するようになったと思われる。
これに対し、インターネットの掲示板等を規制すると表現の自由が奪われるという見解があるが、そもそも社会言論は公教育で設定している
公序良俗を損集することが前提とされているし、「2ちゃんねる」に書き込まれるような卑劣な門限は公共の福祉に反するものとして
表現の自由を享受するに値しない。また、これらの卑劣な文言が中高生の精神に及ぼしている悪影響も考えると、なおさら規制の必要は高く、
国会および文部科学省は、より早い時期に規制法案を作成すべきであった。係る不作為は文部科学省や国会としては致命的な不作為であり、
EFFのこの記事をざっくり訳した。訳の正確さはまったく保証しない。素人の雑な訳です。ちゃんと読みたいひとは原文参照すること。pseudonymはとりあえず「仮名」にした。
A Case for Pseudonyms (Commentary by Jillian York)
https://www.eff.org/deeplinks/2011/07/case-pseudonyms
pseudonym (スードニム) 名詞:著者が身元を隠すために使用する架空の名前。ペンネーム
個人が生来の名前とは別の名前を使いたいと考える理由は無数にあるだろう。生命や生活への脅威への配慮もあるだろうし、政治的、経済的報復へのリスクがあるかもしれない。人種差別の防止を望んでいることもあるだろうし、生活文化圏で発音や記述のしやすい名前を使うこともあるだろう。
オンラインではさらに理由は増える。インターネットカルチャーでは、オフラインでの人格と結びついているかもしれないし結びついていないかもしれない「ハンドル」や「ユーザ名」を使うことが長い間推奨されてきた。古くからのオンライン住人のなかには20年以上使っているハンドルを持つものもいるだろう。
仮名での発言は歴史的にも重要な役割を果たしてきた。ジョージ・エリオットやマーク・トウェインの文学的偉業、ザ・フェデラリスト論文でのパブリアスの政治的主張、18世紀ロンドンでのユニウスのパブリックアドバタイザー紙への寄稿。人々は仮名の下で公の論議に大きく寄与してきたし、今日に至るまでそれは続いている。
Google+の身元確認ポリシーから、オンラインプラットフォームにおける仮名性に関する新たな議論が持ち上がってきた。Google+はユーザに「友人、家族、同僚が普段呼ぶ名前」を使うことを要求する。このポリシーは、Facebookの「本名と実情報を提供せよ」という要求と似ている。Googleのポリシーは、Google+の開始から数週間で同コミュニティーの内外両方から大きな注目を集め、ソーシャルプラットフォームがアイデンティティに制限を加えるべきかどうかという議論に火をつけている。「Skud」という名前を使っていたことによりGoogle+から追い出された元Google社員、キリリー・“Skud”・ロバートの詳細な記録によれば、すでにかなりの人数のGoogle+ユーザがこのポリシーに基づくアカウント停止を受けている。
ソーシャルプラットフォームでの「実名」支持者は多くの論点を示している。実名はユーザの行動を改善し、より文化的な環境を生み出す。実名であれば攻撃者を追求することが容易になるのでストーキングや嫌がらせを防ぐ助けになる。実名ポリシーがあることで、ユーザ監視のために当局がサービス内部に「侵入する」ことを防げる。実名によってユーザは行動に責任を持つようになる。
これらの論点にまったく意味がないわけではないが、問題を間違った方向から議論している。厳格な実名ポリシーの支持者は、実名使用を主張するポリシーに良い面が一つあることを示せばいいのではない。彼らはこれらの利点が、いくつかの非常に深刻な問題より重要であることを実証する義務がある。
例えば、数千人の人々が1月蜂起に参加するきっかけになったFacebookページ「We Are All Khaled Said」を作成した著名なエジプト人、ワエル・ゴニム氏のことを考えてみよう。ページが作成されたのはハリド・サイードが警官によって殺害されてからすぐの2010年夏だったが、ページが本当に勢いを得たのはその年の後半だった。しかしその後も抗議運動の中で存在感を得るのは難しかった可能性もある。2010年11月に管理者(今ではゴニム氏だと知られている)が仮名を使っているとの報告によってこのFacebookページは停止された。Facebookは「身元の明らかな」人物が介入することによる解決を提供することができたが、ゴニム氏はFacebookのスタッフと連絡をとって解決することができたためこの件は非常に特殊な事例となった。誰もがこのようなコネクションを持っているわけではないし、アカウント停止に抗議する方法を知らないことでどれだけ多くの人々が無視されているか知るすべもない。ゴニム氏のケースでは実名を使うことは深刻な危険を伴っていた。仮名であれば安全という保証があるわけではないが、仮名は当局による活動家の追跡を大きく困難にする。
個人が本名以外の名前の方が安全に感じられる理由は無数にある。例えばLGBTコミュニティのティーンエイジャーはオンラインでいつも嫌がらせを受けるので仮名を好むかもしれない。政府のために働く配偶者やパートナーを持つ人や生活を隠したい有名人は、オンラインでは別の名前で行動するほうが安心だと感じるかもしれない。家庭内暴力から逃れている人は加害者から発見されないために、部分的または全面的な別名の使用を望むかもしれない。非主流派の政治的見解をもつ人は仮名を使うことによって生活を危険にさらさずに済ますことを選択するかもしれない。
マッキンタイア対オハイオ選挙委員会の裁判でジョン・ポール・スティーブンス最高裁判事が提案したとおり、
「匿名性は多数派による暴虐からの盾である。よって匿名性は権利章典、また特に米国憲法修正第一項の本来の目的、不寛容な社会において個人を報復から思想を抑圧から守ること、を体現している。匿名である権利は詐欺的行為に悪用されるかもしれない。政治発言はその性質上、時として不愉快な結末を迎えるが、一般的に我々の社会は言論の自由の悪用による危険よりもその価値に重きを認める」
「本当の」名前を使うことと同様に、「本当の」名前の使用の強制も、考えを明らかにすることによる被害を恐れる人々によって対話から排除されるという、現実的な結果を招く可能性がある。実名が対話の「文化度」を上げるかもしれないことに価値を見出す人がいる一方で、それは間違いなく多様性を損なう。
ギークフェミニズムのブロガーたちは、実名ポリシーの被害にあっている人々をWikiにまとめることで、個人がなぜ本名以外の名前の使用を許されるべきなのか何百もの可能性ある理由を示している。このリストに示された多くの例が安全のために仮名を使用している危険に晒された人々を説明しているものの、他にも仮名を選択できるべき重要な理由がある。
Michael Anti氏の例を見てみよう。彼の本名はJing Zhaoで、中国人ジャーナリストだ。おそらくは何者かが生来の名前を使っていないと報告したことによって、2011年1月に彼はFacebookから追い出された。10年近くニューヨーク・タイムズ等で「Michael Anti」のペンネームを使っていたにも関わらず、Facebookは実名ポリシーの厳格な強制を主張した。
Google+でも、誤判定があるとして、アカウントの即時停止ではなく、ユーザに警告を与え名前を変更する機会を与えるように処理手順を変更すべきだと促す動きがでている。
「本当の」名前を要求するポリシーを大規模に実施するのはほぼ不可能だし、多くの例が示すように強制は著名人や敵を持つ人々に対して不当に使われることが多く、またそれはコミュニティ監視機構の結果として生み出されやすい。
GoogleであれFacebookであれ、その他の企業であれサービスに適合していると思われるポリシーを作成する権利がある。しかしこれらの企業が多様性や表現の自由を犠牲にしておきながら、「実名」ポリシーがより文化的な態度を生むと主張するのは浅はかだ。「本当の」名前を要求するポリシーへの移行はオンラインでの表現の自由を萎縮させるだろう。
全国的に中高生の自殺が相次いでいる。場合によっては小学校高学年の児童も自殺しており、ゆゆしき問題である。
ここ数十年で中高生の自殺が増えた理由について、1997年の経済破たんによる社会人の自殺者数増加が影響しているなどの見解があるが、
中高生は経済問題ではなく、学校生活に起因する諸問題により自殺を決意すると考えられるため、他に理由があると考えるべきである。
そこで理由の一つとして考えられるのは、インターネットの出現により、巧妙に一般人に成りすました暴力団員その他の反社会的勢力が、
その独自の資金力や行動力により、インターネットという無法地帯に勢力を拡大するという異常な現象が1999年頃から発生しており、
卑猥でひれるな掲示板やウェブサイトを立ち上げ、インターネットにアクセスした無垢な中高生が彼らに騙されたり苛められたりすることにより、
精神的衝撃を受け、その結果自殺に走る事例が増加していると思われる。
この問題について、政府や警察は、概ね2006年頃から、学校等においてインターネットに関する指導を行ったり、保護者への指導推奨、
フィルタリングの設定といった対策を講じたりしているが、反社会的勢力が根城にしていると思われる「2ちゃんねる」という巨大掲示板は1999年頃から秒刻みで次々にスレッドが立てられ、ほぼ休みなく続いているなど、その勢力は強大であり、そこからアングラ掲示板や、
児童生徒が直接書き込む誹謗中傷に満ちた学校掲示板、各種の風俗サイトが派生しており、中高生がそれらを閲覧することに関し、
学校での指導やフィルタリングが何ら功を奏していないと推測される。すなわち、増加している中高生の自殺は、
インターネットを通じて暴力団員等の卑劣な価値観が社会に流布され、99年以前に存在した学校教育の成果による健全な社会的風潮が
かなりの程度汚染され、社会内に誹謗中傷や疑心暗鬼が蔓延し、その結果、うつ病等の精神的疾患を発症したり、
人間不信に陥ったりした中高生が厭世観に囚われて自殺を決意するようになったと思われる。
これに対し、インターネットの掲示板等を規制すると表現の自由が奪われるという見解があるが、そもそも社会言論は公教育で設定している
公序良俗を損集することが前提とされているし、「2ちゃんねる」に書き込まれるような卑劣な門限は公共の福祉に反するものとして
表現の自由を享受するに値しない。また、これらの卑劣な文言が中高生の精神に及ぼしている悪影響も考えると、なおさら規制の必要は高く、
国会および文部科学省は、より早い時期に規制法案を作成すべきであった。係る不作為は文部科学省や国会としては致命的な不作為であり、
表現の自由、こればかりは、僕は何があっても否定される訳にはいかないものだ、と思っている、だって、こう僕が言うことも否定されてしまうから。
それは身近な例で、たとえば人殺しという表現について規制されてしまえば、現実に人殺しが在るのに人殺しという表現は無くなってしまう。
醜いものが在った時、見て見ぬフリし、聞いて聞かぬフリし、考えて考えぬフリし、思って思わぬフリするかの如くである。
どうなるか?人殺しについて学ぶ機会すら規制されてしまう、ということだ。
愚、とは間違いの歴史の集積である。何も無かった空間で人が不利益を被ってきて、そういう失敗を成功によって打ち勝つために育ててきた定義たちだ。
愚、という価値観について人は大いに学べばいいと思う。なのに、人殺し、という重大な愚に対して考える機会を奪ってしまうのか?
考える機会がなければ、人は愚に対して準備ができなくなる。
無知であれば無理解となり、無理解であれば人はどうするかわからない、どうしていいかわからない。
そうすれば、曇った思索の中で殺人を犯してしまうかもしれない、この可能性を少しでも積極的に減らそう、とその目的を果たすために人は愚を定義してきたのだ。
愚を表現し、表現された愚を知り、理解し、学ぶこと。これは果たして愚か?間違いか?
そうは思わない。人が最大限の悲しみを払って血を流し、受け継いできた愚を消そうとすること、これは相当な愚であると思う、人殺しとどちらが程度の酷い愚か、それはまた別に考える機会を設けるとしてもだ。
何であれ、表現の自由は何処までも許された方がいいものだ、と思っている。
でも、表現をするにしても、TPOくらいをわきまえた表現の実現は必要。だって、名誉棄損は名誉棄損だ。
ん?待てよ?
表現の有無、既存の表現を消せ、という話ではないか、規制し有罪となる表現の枠を考えよう、という話か。
だから、だとして、実生活と相関のない架空のものを描いた表現は無罪で、実生活と相関のある表現は時に有罪となるのだ、と思う。
だいたい、実生活を営むのは人だ、だから法は人の不利益に関するものが多いはずだ、人の肉体を傷付けたいだとか、人のお金を盗んだりだとか。
でもまあ、不法投棄、という罪もあるが、これもよく考えれば人が不利益を被る可能性がある。
なら、実生活と関連しない空想上の表現、これは人に不利益をもたらす可能性はあるだろうか。
これはもしかしたら、なかなか難しい問題なのかもしれない、さかんに議論されているのもこのためなのかもしれない。
こればかりはもうどうにもならない。
表現が好きか嫌いか、表現でどれ程好い思いをしたか、嫌な思いをしたか、このあたりに大きく関与してくる。
表現は人に好い影響も嫌な影響も与える。
殺人の不利益を学び、それを起こすまいと考える場合、そのまま殺人を犯す場合。
おそらく前者が好い影響であり、後者が嫌な影響だ。
こういう二つの場合が存在する中で、これをどう評価するか、といった問題は
知らない方がいいことがある、これに対する意見、姿勢へ繋がる。
知らないことは知らないままにしておいた方が幸福だ、間違えない、と考える人、
出来るだけ多くのものを知ろうとした方が幸福を掴める、間違えない、と考える人、これはもう個人差であり、一概にどうこう言えない。
醜い現実に対する姿勢はそれぞれだ、強いられてはいけない(ただ、生きるということに知るということは内包される気はする、そこから更に主観に基づく言及もできそうだが、またの機会だ)。
感情が理解の先に来るものと、理解が感情の先に来るものがあるように思える、前者は易しいこと、後者は難しいこと、とか一般に言う。
ふむふむと納得してから、アッ!と感情が湧いてくるものと、アッ!と声を上げてからそれを理解できるもの。
だいたい、感情が生まれるのはアッ!という間である、理解だとかそういう言葉で説明できるような何某が追い付ける暇はない。
だからだいたいの場合、感情の方が先に来るような気がするのである。
性、性交は前者である。この場合、何故、は感情の後に付けたされるものだ。
何故、そういうものに興奮するの?という問いは愚問だ、性的欲情の理由はあってないようなものだ
(先に架空表現が人に不利益をもたらす可能性についてもあってないようなものだ、と言及したのを思い出しただろうか)。
感情の存在に善悪はあるか。それはわからないが、仮に消さねばならぬ存在が悪の感情があったと仮定して、感情の生成を阻止し切ることは可能か。
だいたい不可能である。感情よりも先に言語、などという記号を脳内に流し通すことができなければ幾ら特定の感情を否定しても、生成を防げない。
セックスは感情である。その感情の生成を先に防ぐことなど到底できない。
だから、こういうセックスは悪だ、とか言ってもその感情の発露を防ぐことはできない、その実行を防ぐことができても。
だから、何とかという否定されるべきセクシャリティがあったとして、その生成を阻止することは不可能である。
人は知るものと知らないものを持っている、もっと言えばその程度は、よく知っているもの、少し知っているもの、半端に知っているもの、あまり知らないもの、など様々だ。
だとして、知らないものは知らない方がいい、のだろうか、そもそも知らないものなど消してしまえ、害悪の元凶だから罪にしてしまえ、なのか。
この辺が、表現の影響の善悪が、知らない方がいいことがある、に対する姿勢に繋がると述べた理由だ。
しかし、これはもう解釈の違いでどうとでもとれてしまうので、唯一の解決策などない。あるとして政治的に言えば民主主義のお家芸多数決だ。
結局、架空表現が有罪か無罪かに対しての答えは、すごく曖昧で、有罪でも無罪でもあり、有罪でも無罪でもない、これに尽きる。
架空表現は、人の実生活からは断絶された存在であるから、それでどれだけ好い思いしたか嫌な思いしたか、その違いによって向けられる認識も変わる(断絶されているものが認識を変えるといった矛盾がこのセンテンスには含まれてしまっているが、他にどうしても説明がつかなかったためこうした稚拙な便宜しか思い付かない)。
レイプされた人(※例えば女)は、「あんな表現(※例えばレイプポルノ)に影響された人(※例えば男)がいけないんだから、あんな表現がいけないんだわ、無くなってしまえ」と言うかもしれないし、
レイプポルノでオナニーする人(※例えば男)は、「自分たちがこういう表現で愉しんでるだけなんだから、誰にも迷惑は掛けない、掛けていない」と言うかもしれない。
しかし、全ての罪、というものには基準、法則性など無い。有罪だから有罪なのであり、無罪だから無罪なのだ、理屈など無い、多数決だ。
これの、どちらが多く存在するか、単にこれが結論だ。
今現在、地球には何億の人が居て、それで男女はそれぞれ幾ら存在して、という話よりもここは僕の話をしよう。
僕は、架空表現により傷付いた人の肩を持ち、「性暴力に繋がる表現はよせ」と主張し、
片や、架空表現により笑顔になる人の肩を持ち、「実生活に関係はない、芸術は芸術だ、表現の自由は確保されてしかるべき」と主張し、
「ならお前は賛成反対どちらだ」と聞かれれば以上のような答え方をしてくるような平和主義者、事なかれ主義者、そして自称隣人愛好家だ。
(胡散臭い隣人愛好家だ、それにしてもなんと胡散臭いことか。ほんとに隣人を愛しているのか、それで?甚だ疑問は残る、大いに疑問は残る、そしれそれらは僕の好奇心を大いに揺さぶる。扨、饒舌が過ぎた。)
まんべくん問題 ver.20110818 ┃ ┣許せるよ ┃ ┗┳事実じゃん(史実派) ┃ ┃ ┣外務省の公式見解です(ゲシヒテ派) ┃ ┃ ┣歴史学における一般理解うんぬん(訓練された左巻き派) ┃ ┃ ┗ネトウヨむかつく(反右巻き派) ┃ ┣ネタじゃん(お笑い派) ┃ ┃ ┗ネタにマジレスかっこわるい(テンプレート派) ┃ ┣炎上マーケ参考になります(ハックルさん派) ┃ ┃ ┗長万部の検索数増えた(質より量派) ┃ ┗なんでもかんでも叩くのはよくない(出る杭叩くな派) ┃ ┣叩くのは日本人の悪い癖(自己反省派) ┃ ┣言論弾圧かよ(表現の自由派) ┃ ┗クレーマーに負けたらダメ(クレーマー撃退派) ┃ ┣許せないよ ┃ ┗┳自虐史観は許せん(右巻き派) ┃ ┃ ┗ブサヨむかつく(反左巻き派) ┃ ┣基本的に政治発言はダメ(原則派) ┃ ┃ ┣やるなら個人でやれ(リベラル原則派) ┃ ┃ ┗キャラに発言させるのは卑劣(発言責任派) ┃ ┣お前、他にもやらかしてるだろ(追求断罪派) ┃ ┣長万部にマイナス(ブランドイメージ派) ┃ ┃ ┗苦情になっても知らんぞ(穏健的恐喝派) ┃ ┗やりすぎだよ(諫言派) ┃ ┗調子に乗りすぎ(長幼之序派) ┃ ┗その他 ┗┳ギョロ目がキモい(生理的に無理派) ┣いいぞ、もっとやれ(炎上期待派) ┣またtwitterか(バカッター派) ┣きっと炎上すると思っていました(佐藤藍子派) ┣丸投げ尻尾切りかよ(下請けトラウマ派) ┣前振り不足(二軍で調整してこい派) ┗弱小観光地ゆるキャラの悲哀ですね(ドヤ顔解説派)
http://anond.hatelabo.jp/20110814141832
なんか勘違いしている人がいるので指摘。
放送法から、「偏向はダメ」に関わってくると思われる部分を抜粋してみる。
「不偏不党」というのはいずれの主義や党派にも加わらないこと。
つまりみんなが「偏向はダメ」と言っているのは何らかの意見や主張に偏りがあってはならず、
中立を保ちなさい、ということを戒めているわけだ。
韓国のアーティストをたくさん紹介することは単なる局の自律的な「嗜好」に過ぎず、
「偏向」とは言えないのだ。
このことを理解していないからフジに韓国ドラマが多いというだけで「フジは偏向している!」などと頓珍漢な勘違い君が出てきてしまう。
http://anond.hatelabo.jp/20110803124440
http://anond.hatelabo.jp/20110803124633
pixivが権利者の申し立てにしか応じない、二次創作やトレスなどグレーゾーンの創作物を作品として認めるというポリシーを持って運営していることは一貫しており、今回もそれに則ったに過ぎないんじゃないかな
pixivは広く表現を認める一貫したポリシーで運営されている!(キリッ)
権利者の申し立て以外で削除はしない!(キリッ)
特別な措置はない!(キリキリッ)
手法が問題視されたわけではなく、運営に対する害意があったから消されたのではないだろうか。
消された作品は運営に対する害意があったはず!(キリッ)
コミュニティも望んでいないに違いないはずだと思うし!コミュニティがそう言うんだから削除!(キリキリキリッ)
「俺が描いた絵をpixiv運営は残さなければならない」というお客様幻想もまた問題視されるべきではないのだろうか?
pixivはお客様の為に運営しているわけではなく、表現の自由を守るために活動しているわけでもなく、
「絵描きのコミュニティを構築する」という一点についてpixivの営利目的とユーザーの意図が合致しているに過ぎないということは留意する必要がある。
正直言ってお前の削除基準についての定見がどこにあるのかさっぱりわかりません。
一貫してるのは「なんかpixivを擁護したいんだなー」っていう方向性だけ。思考はきわめてぼんやりしてるけど。
思いついたことを端からでたらめに書き込みゃいいってもんでもないんじゃないでしょうか。
あと規約を自分で踏み倒して恣意的な措置するのがwebサービスの常識なんだ。それは凄いね。
世間の大半の、真面目にやってるwebサービス業者の皆さんにぶっ飛ばされそうだけど。
こういう反論を待っていました。
なお俺は自称中立を気取るつもりはありません。書き手のバイアスは当然あるわけで、主観が強い場所については意図的に「俺」という一人称を書き足して明示をしたつもりです。
そもそもPIXIVが注目されたのは
同時に同内容の通報してみたところ
この2つのアカウントについて語るのであれば、「誰か」のアカウントが本当にカオスラウンジのものと同等なのか、運営に悪質だと即座に消されるような問題を抱えたものだったのではないか?という点まで触れなければ話にならない。
発端となった2つのアカウントの通報を行ったのは誰なのかを調べると、多くのまとめではみかん理事の通報ということになっている。
だがそのみかん理事は「僕が通報したのはどっちもスルーされましたよ。 見てないタイミングで一時停止→復活があったかどうかはわからないですけど。」と発言しており、またtwitterではもう一つのアカウントがどこなのかは触れていない。
さてどういうことだろうか?
単純に考えただけで上の三つの可能性が考えられる。そしてどれが正解なのかは、複数のまとめを参照しても知りえることはできない情報だった。
みかん理事の言動を見ていると、彼がカオスラウンジメンバーとは無関係なアカウントを意味もなく晒しあげるとは思えなかった。
ゆえにこの件については何らかの誤りを含む可能性も十分考えられるため、デマの再拡散には慎重な立場からあえて触れていない。
カオスラウンジと同じこと、同手法の作品をPIXIVに投稿してみた人達がいたんだけど
手法が問題視されたわけではなく、運営に対する害意があったから消されたのではないだろうか。
害意があったことを意図的に隠蔽して、手法のみの問題に擦り変えるのは、俺はそれこそが「嘘」だと思う。
カオスラウンジと同じやり方をすることで、削除されるはずのない、運営やコミュニティが望まない画像を大量投稿する、そういう反撃方法を面白がるメンタルは理解できるが、賛同はしない。
さて、やがて運営の削除基準はひどく曖昧になり、規約上削除されるはずのない手描きの絵までもが、運営への害意の一点で削除されるようになった。
その恣意性は問題視されて然るべきだが、「俺が描いた絵をpixiv運営は残さなければならない」というお客様幻想もまた問題視されるべきではないのだろうか?
pixivはお客様の為に運営しているわけではなく、表現の自由を守るために活動しているわけでもなく、「絵描きのコミュニティを構築する」という一点についてpixivの営利目的とユーザーの思惑が合致しているに過ぎない、ということは留意する必要がある。
これはpixivに限った話ではなく、webサービスを利用する際の当然の心構えであると思う。
梅ラボの著作権侵害作品が問題ならば、最初から無断使用された著作権者に働きかけてルールに則った削除申請を行うべきだったし、自分の作品が残されるべきだというならそう運営を説き伏せて残される権利を勝ち取るべきだと思う。
pixiv運営がコミュニティを守るため、大多数のために少数を切り捨てたのは、実は今に始まったわけではない。
例えば現代アート用のコラージュ素材を用意した高橋けんじは、かつて初音ミクのデザインで有名なKEIがランキング1位を取るのを妨害する意図から、ラピュタパンの絵を投稿し圧倒的支持を得たにも関わらず、健全な絵ながら理由もなくグロテスク表現のレーティングに強制移動させられた、という過去がある。
例えばpixiv批判の絵を複数投稿しているK田は、かつて東方のファンアートがランキングを賑わせた際に、それを快く思わずアンチ東方のイラストを投稿し、運営から強制削除処分を受けた一人だ。
彼らの行為はコミュニティの大多数を不愉快にさせたのかもしれない。だが問題ある一部のユーザーを切り捨てることは、多数派を優遇するということだ。その優遇された多数派にとっては、運営の行為は居心地の良いコミュニティを保護した正義だったのかもしれないが、切り捨てられたユーザーにとっては到底容認できたものではなかったはずだ。
本来中立平等が望まれる運営が独善的に削除基準を振りかざすことには議論の余地はあるだろう。まして、そこに「(pixivにとって都合の良い)絵描きのコミュニティを構築する」というpixivの営利企業としてのエゴがあったことは疑いないのだから。
もっとも俺には万人を納得させる解決手段があったとは思えないが…。。
ともあれこの騒動はpixivがカオスラウンジの著作権侵害作品の後ろ盾とみなされたことだけではなく、運営の優遇政策により、「抑圧されてきたマイノリティ」たちの不満が爆発したという側面もあるのだろう。
現代アートの投稿による運営やコミュニティへの攻撃が、解決の道しるべだとは思わないが、運営はその裏にある「意図」を単純な「荒らし」だと切り捨てるべきではないという指摘も正しい。
既に書いたことの繰り返しになるが。
カオスラウンジが活動すること自体は罪ではなく、カオスラウンジがその活動の中で著作権者の心証を無視したコラージュ作品を展開したことが罪なのではないだろうか。
pixivを立脚地とするカオスラウンジのメンバーが、pixiv社長とプライベートな付き合いを持ち、人脈のきっかけとなったり、交流を深めることまで責めるべきだとは思わない。
pixivがカオスラウンジに対して受賞作品を素材として提供するなど、企業としての立場・権限を悪用して著作権侵害を幇助した事実があれば批判されるべきだろう。現時点でpixivはそうした事実はないと否定している。
ただ近づきすぎたpixivとカオスラウンジが襟を正さなかったから、癒着関係と見なされて批判されるのだ、という指摘は正しく、近しい距離感のユーザーならばこそ厳しい対処に当るべきだったと思う。
pixivにおける場とユーザーはの関係は、商業イラストレーターのそれよりも、90年代の投稿雑誌文化のメンタリティに近いように思う。
雑誌という場に対してハガキ職人が無償で投稿し、採用されれば金一封で応じる。編集は雑誌のカラーに合わない投稿に対しては冷徹に切り落とす。
雑誌文化はハガキ職人を食い物にしていたのか?そうではなくハガキ職人がその雑誌に対する愛を、場に対する愛着を持っていたからこそ成立した文化だろう。
だが運営の優遇政策は、愛され続ける場を作るために、切り捨てられた場を憎む人をも作り上げ、それがコミュニティに歪みをもたらし、今の混沌とした状況を作り上げた。
pixivにおける場は今や崩壊の分岐路にあり、運営の手腕が試されている。命綱である場への信頼を取り戻すことができるのか、或いは憎まれる場として生きながらえるのか、滅びるのか。
言葉を発し、行動を起こし、正しい選択へと導くことは、ユーザーにとっても運営にとっても利益があるだろう。
ならばこそ、事実に基づく批判は歓迎されるべきだが、解釈による非難の扇動に対しては慎重になるべきだと思う。
ネット上で伺える事実は、「pixivがカオスラウンジと癒着し支援していた」ともそうではなく「pixivの平常運転が招いた事態だ」とも解釈することができる。
それは所詮ネットを通じて得られる情報でしかなく、いずれも解釈であって真実ではないし、なおも癒着を批判するならば相応の証拠を示すべきだろう。
俺はカオスラウンジ憎さに活動の内面(問題の本質である著作権侵害)に直接関与したわけではない人々まで焙り出して魔女狩りする風潮が正しいとは思わない。
ただpixivがカオスラウンジの活動を間接的に支援したことで、彼らの行為を助長したのは事実であり、身内であったことも踏まえて癒着と見なされないためにも、通常よりも厳しい処罰に臨むべきだったと思う。
そういう「見せ方」の拙さ、信頼を失うやり方を続けていけば、何者かが擁護を書いたとしても、いずれ自滅するだろう。
人は広大なネットに自分が望む結論を探し、そこに落ち着くだけで、何者かも分からない俺が、何か書き残したからといってそれで誰かの結論を変えられるなどとは考えていない。
pixivに対してこれだけ非難が集中するということは、それが多くの人にとって「望む結論」だったというだけだろう。そしてその種を蒔いたのは他ならぬpixiv自身である。
Togetter - 「PIXIVから送付されたというメールについてまとめ」
感想としては大体同じだと思う。やはりpixivはユーザーとの距離の測り方に完全に失敗しているという印象。
「退会」という運営否定の最強のカードを切るユーザーまで出てきている、その意味を甘く見積もり、この非難の高まりに対して、コミュニティへの影響は僅かだという言葉が沈静化になると考えるのは、コミュニティ志向なあまりユーザーに対する敬意が疎かとなっている証左と見える。
運営サイドの論理とユーザーの論理とでは別物なのだということが、恐らくは分かっていないのだろう。その危うさはいくらでも悪意でデコレーションできるし、単なる身内意識なのだと好意的に解釈することもできる。
もっとも私信を流出させる方法には賛同したくないので、あの内容に対して第三者である俺には文句を付ける権利はないと考える。
願わくならば、受け取った人間が、一言ガツンと文句を言って欲しい。「運営がそんな考え方でいて、俺たちが気持ちよくpixivを使えるとでも思ってるのか」と。
フランスについては微妙だなぁ。国旗毀損については結構罰則ある国多いよ。これは外国旗毀損との兼ね合いでまとめて法制化してあるという事情もある。そもそも国旗を無理矢理拝ませるのと、積極的に壊しに行くことを許容するのとは、意味合いが違うからね。フランスでは国旗を拝めと強要されたりしないし、フランス国歌に至っては物議を醸すこと先進国随一だ。
アメリカなんかだと国旗を焼くのも表現の自由ってことにはなるけど、「他人が信仰しているものに対してわざわざ嫌がらせしに行く自由」(これはある種の自由を侵害する自由と言える)はどの程度守られるべきかってのは国によってやっぱり尺度が違う。欧州は「わざわざ嫌がらせをしに行く」のは「やめとけ」という考え方が強い。
まあ個人的にはフランスの制度は恣意の入る余地が多々あるし、アメリカの方がその辺に関して一貫したルールだよなとは思うけどね。いかにも弁護士の国らしい。
これらと比べると日本はかなりかけ離れていて、日本では国旗を「拝む義務」「拝ませる義務」が存在する(公権力が罰則付きの命令を行うことが許容されている)。これはいわゆる西側先進国というか例えばG7で見ると日本とイギリスにしかない。イギリスには自由を尊重しますなんて憲法がそもそも(コモンローだから)無いんで、日本よりもっとかけ離れてるというか斜め上にいるけどね。
アメリカは「国旗保護法は言論の自由に反する」と言って違憲判決が出た国だけど、
同時に「ヘイトスピーチ規制は言論の自由に反する」という判決が出た国でもある。
どのような言論であっても、憲法のもとに自由が保障されるのがアメリカ。
逆にフランスでは国旗損壊罪が定められてて、公の場でトリコロールを侮辱すると罰金刑を受ける。
ヘイトスピーチも規制されていて、差別的言論をすると罰せられる。
社会に有害とみなされる言論は規制されて罰せられるのがフランス。
日本は今のところ、国旗損壊もヘイトスピーチも罰せられないけど、
先進国になろうと思えばなるほど、自由に相対する表現への責任が問われていく。