はてなキーワード: 留保とは
自分自身の内面を見つめなおす事も大事だが、一歩下がった所から、何か考えることを留保して、冷静になるまで待ったほうが良いこともある、ということを学びつつある。
どんなに自分が冷静である、思考に自身があると思っていても瞬時に思いつくものは、やはり感情的なものであり、冷静さに欠いている。
もちろん、瞬間的な感情の発露も大事だが、それを殺さない程度にその感情の発露のプロセスを一旦眺めることも必要な気がしている。そういったプロセスを丁寧に眺めることで、実は目前の課題を乗り越えるヒントになりえるからだ。
今の自分にとって、本当に必要なことを、一旦立ち止まって問う、という習慣を身につけたい。
http://anond.hatelabo.jp/20110823091052
ぼくもお答えします。
だんだん難しくなってきたのでついていけるかわかりませんが…
わかる範囲で答えたいと思います。誤解があったらすいません。
でもやっぱりちゃんと理解されるほうが嬉しいです。
「音楽を聞いて感動することはでき」ると私も考えています。ですから音楽表現の場合は私の述べた理解から共感に至るまでのプロセスはそもそも通用しませんし、最初から文章表現に限定した話をしたわけです。(書いてないことを取り上げて批判することは簡単ですが、それは藁人形論法という詭弁であることを指摘しておきます。)
絵や写真、音楽のような表現なんかは良し悪しや感動するしないがハッキリしていて理解や共感がしやすいけど、文章表現はそうじゃないという話です。
それもそうか…。音楽と文章を同じものとして扱っては余計わかりにくくなるのかもしれないね。
あと「徹頭徹尾、理路整然としてなければいけない」なんていうのは思ってませんし、そういう話はしていません。
①人に文章表現を共感してもらうには②人から理解が必要で③そのためには発信者が正確で、分かりやすく書いたほうが望ましいという話であり、誰に対しても(自分自身に対しても)「徹頭徹尾、理路整然としてなければいけない」というのは思っていないわけです。
そういう話じゃなかったのならぼくの誤解だったね。ごめんなさい。
ぼくはこう思うって話と
あなたはこう思うって話がとりあえず明らかになったのかなあ。
「この人の言ってることはよくわからないけど、なんとなく切羽詰まってる感じが伝わってくる」と書いてもらえれば大分理解しやすいです。
蛇足ですが、そういう人が現実生活にいた場合、相手の状態に拠って励ますか慰めるか共感するといった行動を個人的には取りますね。
文章だとそれが分からないので(文章だと相手の気持ちが分かったつもりになるのでそれは避けたい)、たぶんスルーしてしまいますが。
わかりやすかった?よかった^^
そうだよねーぼくも同じ立場だったらどういう対応をするかちょっと悩むなあ。
「完璧に論理的な文章を書くことのほうが難しい」のはもちろん同意です。というか難しいのではなくて不可能です。
「文章を書きたい」という気持ちは誰にも邪魔できません。そして文章を書くという行為自体は「敷居の高い行為」である必然性はありません。
ですが「何かを伝えたい」という目的がある場合には話は変わります。「何かを伝え」るということには当然のことですが他者の存在が必要です。
文章を紡ぐ行為の先に他者がいるということは必然的に文章が公共性が生まれ、責任が生じてきます。
そうした場合にはミスリードによって翻弄される他者も出てきます。
こういう事態に直面した時に取りうるスタンスは少なくとも2種類あります。
①「理解してくれる人はしてくれるし、してくれない人はしてくれない。」から誤解した人はスルーするというスタンスと、
②「理解してくれない人(大多数だと思います)に理解に近づけさせる」ために対話を続けたり、根気良く文章を紡いだりというスタンスです。
私は後者のスタンスです。そして前者のスタンスも認めています。
ただし前者のスタンスを採用している人たちには「人を翻弄している可能性を放置している」という事実を直視していただき、他者がいる文章表現に否応無く、避けがたく存在している責任=ハードルをぜひ自覚していただき、自覚の上でハードルの下をくぐるなり、きちんとハードルを飛び越えるなりご自由に行為を選択していただけたらなあと思います。
(念のため言っておくとハードルの下をくぐる場合でもヘイトスピーチなんかは避けてください。ヘイト野郎はどんな場合も美しくないと思いますので。)
ぼくは①と②のどっちのスタンスなんだろうなあ。
わかりやすいように書きたいとは思うけど
たしかに翻弄している可能性あるなあ。
翻弄してしまうのはイヤだけど
かといって「ある程度」以上の努力をしてしまうのもイヤなんだよなあ、わがままかなあ^^;
ハードルは飛び越えられたらいいなという願望はあるけどめんどくさかったらやめてるかも…。
「この世に神様なんていなければ世の中の宗教はほとんど詭弁だってことになる」と仰る意味がよく分かりません。
「この世に神様なんていなければ」という仮定が良く分かりませんし(だって神様が存在するか否か、実在するか否かなんて真偽の水準では判断不能ですし)、
「世の中の宗教」という言葉が組織としての宗教なのか、制度としての宗教なのか、人々の信仰対象としての宗教なのか、など
要するに、ぼくは詭弁を弄することが悪だとは思ってないってことかな。
読者に文章を理解させようとする気があるのなら
詭弁のような不当な推論はなるべくやめたほうがいいんじゃないか
もし、詭弁を使うつもりなら留保を付記しようって話だったかな(合ってる?)
うーん…。ちょっと考えてみる。
理解してもらいたいとは思ってるけど
だからといって詭弁を言ってはいけないのかどうかもわからないし
ミスリードは理解を困難にする…ような気がする。
もしそうなら、詭弁はなるべく少ないほうがいいってことになる?
ウソはついてないつもりだけど「つもり」なだけかもしれない。
なるべく詭弁を書かないつもりでいたいなら
この理解であってるなら、それに対するぼくの答えは
まず書いてしまいたい!ってことかな。
したくなったらやろうかな~。
ちょっと勉強する手間を惜しんでいるだけで
かなり間違ったことを言ってる可能性はあるのかもしれない。
そんなこと言ってる場合じゃないのかなあ。
私は貴方の「悲しいなあ」に関する表現を「『こいつはウソを言っている』と思われた場合、悲しい」と解釈しました。
それで今回の返信に「悲しいのは事実なんだよ。」と書かれてました。
私の解釈と貴方の書いたことを総合すると、「こいつはウソを言っている」と(私に)思われようが思われまいが関係なく「悲しい」ということで良いんですかね(繰り返しますが私は貴方が嘘を言っているとは思いません)。
いや、勝手な推測ですが、誤解されること自体が悲しいのでしょうか。
どういう経緯で「悲しい」と感じたのか仰っていただけると、こちらもそちらに配慮できるかもしれないので、うれしいです。
悲しいまでの経緯か~うーん・・・
的確に表す言葉が思いつかないけど
頭では誤解されることは仕方ないことだと思うけど
でも、実際に誤解されたときにはっきりと心がきしむ。
そう言いながらも実は「わかりあえるはずだ」と思っているのかもしれないけど。
「こいつはウソをついている」と思われているのならぼくは悲しい。
そう思われていないなら悲しくない。これはたぶんハッキリしてる。
誤解されること自体が悲しいということだと思います。
それは「(あなたに)誤解されることが悲しい」と言ったわけではないのです。
ぼくも「あなたに嘘つきだと誤解されている」とは思いません。
「もし誰かに誤解されることがあるとするならば、それは悲しい」ということです。
うーん・・・わかりにくかったらまた言ってください^^;
他者に「どう思ってくれてもいい」と思いながら「他者からどう思われてるかということを気にせずにはいられない」という感覚ってどんなものなんですかね。
「どう思ってくれても構わないけど誤解されると悲しい。でも誤解だろうがなんだろうが何でもオッケー。悲しいけど否定はしない。」ってスタンスなんでしょうか。
私は「ある程度こちらを理解してくれたらどう評価しても良い。明らかに誤解されてる場合は理解してもらえるよう努力する」みたいなスタンスなので後学のためにどんな感覚なのか理解したいです。いや、やっぱり書かなくて良いですよ。この辺でお話はやめておきましょう。
おおむねそんな感じです。
悲しいけど否定しないんです。
でも、諦めるってことでもないなあ。なんだろう。
ある程度の努力をしてみて
どこかにボーダーがあって、もうそれ以上は努力をやめようという気になる。
あれ?矛盾してる?
うん、「否定しない」はたぶん違う。
否定しないんじゃなくてぼくと相手の理解を近づけようとする。
それで…どこかはわからないけど
ぼくが相手に対して「この人はわかってくれたかも」と思ったら
理解を近づけることは一時停止する。
「この人はまだわかってくれてないかも」と思ったら
引き続き理解を近づけようとする。
でも、「まだわかってくれてないかも」と思う人でも
ぼくは理解を近づけることを一時停止することがある。
そのスイッチがどこにあるのかわからないけど、そんな場合があります。
「まだわかってくれてないかも」と感じるだけでも悲しくなります。
加えて、「わかってくれたかも」と感じる人でも
こんな感じです。
んー…ウソがあるかもしれない…。
あらゆる状況下でぼくの言ってることが
必ずしも再現されるかというとそうじゃない気もします。
まだわからなかったら遠慮なく言ってください。
長々と述べてきましたが、言いたいことは以上です。もしハードルの下をくぐるような無責任な文章を書いていくつもりならこれからもどんどん批判や指摘を行っていきますし、ちゃんと責任を意識した文章を書いていくのなら批判や指摘もしつつ応援していきますので、よろしくお願いします。増田ではなくてブログやツイッターなどのご自身のフィールドでやるなら批判も指摘も何も書きません。何れの文章記述のスタイルを貴方が採用するにせよ、私は貴方を応援しています。
批判や指摘は大歓迎です(でもやっぱり心がチクチク痛いです)。
わーい応援ありがとう^^
私も人が死ぬのは嫌ですし、弱い者の味方でありたいし、弱い者が弱いままで生きられるコミュニティを実現するかもしれない連帯の可能性を信じたいですから。
ちょっと救われました。ありがとう。
よかったらどうにかして繋がりましょう。
私自身は読者が誤読をしていたらなるべく指摘するようにしているので、一応いくつか誤解を指摘させてもらいます。
「音楽を聞いて感動することはでき」ると私も考えています。ですから音楽表現の場合は私の述べた理解から共感に至るまでのプロセスはそもそも通用しませんし、最初から文章表現に限定した話をしたわけです。(書いてないことを取り上げて批判することは簡単ですが、それは藁人形論法という詭弁であることを指摘しておきます。)
絵や写真、音楽のような表現なんかは良し悪しや感動するしないがハッキリしていて理解や共感がしやすいけど、文章表現はそうじゃないという話です。
あと「徹頭徹尾、理路整然としてなければいけない」なんていうのは思ってませんし、そういう話はしていません。
①人に文章表現を共感してもらうには②人から理解が必要で③そのためには発信者が正確で、分かりやすく書いたほうが望ましいという話であり、誰に対しても(自分自身に対しても)「徹頭徹尾、理路整然としてなければいけない」というのは思っていないわけです。
①②③の理路が正しいかは判断不能なので留保しておきますが、私はそういうロジックで文章を書きました。
「この人の言ってることはよくわからないけど、なんとなく切羽詰まってる感じが伝わってくる」と書いてもらえれば大分理解しやすいです。
蛇足ですが、そういう人が現実生活にいた場合、相手の状態に拠って励ますか慰めるか共感するといった行動を個人的には取りますね。
文章だとそれが分からないので(文章だと相手の気持ちが分かったつもりになるのでそれは避けたい)、たぶんスルーしてしまいますが。
「完璧に論理的な文章を書くことのほうが難しい」のはもちろん同意です。というか難しいのではなくて不可能です。
「文章を書きたい」という気持ちは誰にも邪魔できません。そして文章を書くという行為自体は「敷居の高い行為」である必然性はありません。
ですが「何かを伝えたい」という目的がある場合には話は変わります。「何かを伝え」るということには当然のことですが他者の存在が必要です。
文章を紡ぐ行為の先に他者がいるということは必然的に文章が公共性が生まれ、責任が生じてきます。
そうした場合にはミスリードによって翻弄される他者も出てきます。
こういう事態に直面した時に取りうるスタンスは少なくとも2種類あります。
①「理解してくれる人はしてくれるし、してくれない人はしてくれない。」から誤解した人はスルーするというスタンスと、
②「理解してくれない人(大多数だと思います)に理解に近づけさせる」ために対話を続けたり、根気良く文章を紡いだりというスタンスです。
私は後者のスタンスです。そして前者のスタンスも認めています。
ただし前者のスタンスを採用している人たちには「人を翻弄している可能性を放置している」という事実を直視していただき、他者がいる文章表現に否応無く、避けがたく存在している責任=ハードルをぜひ自覚していただき、自覚の上でハードルの下をくぐるなり、きちんとハードルを飛び越えるなりご自由に行為を選択していただけたらなあと思います。
(念のため言っておくとハードルの下をくぐる場合でもヘイトスピーチなんかは避けてください。ヘイト野郎はどんな場合も美しくないと思いますので。)
「この世に神様なんていなければ世の中の宗教はほとんど詭弁だってことになる」と仰る意味がよく分かりません。
「この世に神様なんていなければ」という仮定が良く分かりませんし(だって神様が存在するか否か、実在するか否かなんて真偽の水準では判断不能ですし)、
「世の中の宗教」という言葉が組織としての宗教なのか、制度としての宗教なのか、人々の信仰対象としての宗教なのか、など
宗教の多様な存在形態のうちのどのような形態を指しているかが具体的ではないので分かりません。
とりあえず宗教と文章表現は異なりますという簡単な指摘だけで留めておきましょう。
私は貴方の「悲しいなあ」に関する表現を「『こいつはウソを言っている』と思われた場合、悲しい」と解釈しました。
それで今回の返信に「悲しいのは事実なんだよ。」と書かれてました。
私の解釈と貴方の書いたことを総合すると、「こいつはウソを言っている」と(私に)思われようが思われまいが関係なく「悲しい」ということで良いんですかね(繰り返しますが私は貴方が嘘を言っているとは思いません)。
いや、勝手な推測ですが、誤解されること自体が悲しいのでしょうか。
どういう経緯で「悲しい」と感じたのか仰っていただけると、こちらもそちらに配慮できるかもしれないので、うれしいです。
他者に「どう思ってくれてもいい」と思いながら「他者からどう思われてるかということを気にせずにはいられない」という感覚ってどんなものなんですかね。
「どう思ってくれても構わないけど誤解されると悲しい。でも誤解だろうがなんだろうが何でもオッケー。悲しいけど否定はしない。」ってスタンスなんでしょうか。
私は「ある程度こちらを理解してくれたらどう評価しても良い。明らかに誤解されてる場合は理解してもらえるよう努力する」みたいなスタンスなので後学のためにどんな感覚なのか理解したいです。いや、やっぱり書かなくて良いですよ。この辺でお話はやめておきましょう。
長々と述べてきましたが、言いたいことは以上です。もしハードルの下をくぐるような無責任な文章を書いていくつもりならこれからもどんどん批判や指摘を行っていきますし、ちゃんと責任を意識した文章を書いていくのなら批判や指摘もしつつ応援していきますので、よろしくお願いします。増田ではなくてブログやツイッターなどのご自身のフィールドでやるなら批判も指摘も何も書きません。何れの文章記述のスタイルを貴方が採用するにせよ、私は貴方を応援しています。私も人が死ぬのは嫌ですし、弱い者の味方でありたいし、弱い者が弱いままで生きられるコミュニティを実現するかもしれない連帯の可能性を信じたいですから。
相手から文章を理解してもらい、内容を批判的に検討してもらい、受容されるというプロセスを経ない限り、文章に真に共感してもらうということはできないのではないでしょうか。
んーそうなのかなあ。わからないなあ。
あれって感覚だけのおおざっぱな理解なんじゃないかなあって思うんだよ。
あんまり言ってる意味が分からないけど、なんとなく心があたたまるような詩ってない?
「徹頭徹尾、理路整然としてなければいけない」なんてことはないと思うんだー。
もっと人の自由な感性を信じてるよ。ぼくは。
日常会話であればこうしたプロセスを経ずに共感(した振り)してもらえる可能性は残されています(そもそも日常会話においてでさえ共感してもらうというのは中々に困難であり、共感は僥倖ですが)。発信者が内容の理解しやすさに配慮しない場合でも、です。何故なら相手の誤解をコミュニケーションによって即時的に取り除くことが可能だからです。
あーたしかにそれはあるね。
口で話すより、こうやって文章に表したほうが伝わりにくくなってる気がするよ。
しかし文章表現であれば、発信者と各受信者で使ってる語句の定義や用法が異なるので、発信者側が文章を極力正確に、シンプルに記述し、理解へと促さないと共感など到底望めません。例を挙げると
「なんかわかるかも」って感じ
「難しいことはわかんない」って感じ
庶民感覚
という語句が曖昧すぎて何を含意しているか分からないので個人的には共感以前の状態です(理解できれば共感するかもしれませんが)。
うんwこれは何言ってるかわかんないかもねw
例えば
「この人の言ってることはよくわからないけど、なんとなく切羽詰まってる感じが伝わってくる」とか
そういう理解でも充分かな?
文章表現にすると伝わりにくいっていうのならなおさらね。
もっとシンプルに書ければいいんだけど難しいなあ。
それは書いて練習したいなーって思うよ。
よって読者(受信者)に文章を理解(そして共感)させるには、文章を破綻させたり読者をミスリードさせたりする詭弁のような不当な推論はなるべく(能力的に可能な範囲で)避ける必要があります。もし詭弁表現を使うのであれば留保を付記してから用いるのが良いでしょう。
もちろんここまでの水準での共感を望んでいない(つまりみんなに共感した振りをしてもらいたい)場合には別にどのように記述してもよろしいかとは思いますが、全うな読者の多くからトンデモだと思われる可能性は覚悟しなくてはなりません。
トンデモだと思われる可能性は常にあると思う。
ぼくはむしろ、完璧に論理的な文章を書くことのほうが難しいんじゃないか?って気がしてて
それで、「文章を書きたい」とか「何かを伝えたい」って思い、行為は
そんなに敷居の高い行為でなくてもいいんじゃないか?とはぼくが個人的に思うところだよー。
理解してくれる人はしてくれるし、してくれない人はしてくれない。
ぼくはそれでいいかな。
ちなみに私は「こいつはウソを言っている」とは思いません。
ほんとに??
それだけでもすごい助かるよー!
あ、でもぼくは「あなたがウソだと思ってる」とは思ってなかったけどね。
そっか~少なくともあなたにはウソとは思われてなかったのか~^^
「この人は言説に詭弁を用いてる自覚があっても言説を真だと思える人なんだろうなあ」(私は詭弁があると真偽の判定以前の問題だと思うので)
うーん。どうなんだろう。
そうかもしれないなあ。
この世に神様なんていなければ世の中の宗教はほとんど詭弁だってことになるけど
ぼくはどっちでもいいなあ。
「他者から批判された時に『悲しいなあ』というフレーズで自身の文章表現のまずさの責任を他者の誤解へと転嫁してしまうことを恥じない人なのかなあ」(そもそも他者が誤解するのは当然というか必然的ですし、きちんと理解されることの方が異常ですから他者の誤解に一々落ち込む意味などあまり無いのですが)
恥ずかしくないよー悲しいのは事実なんだよ。
文章がまずいのか誤解してるだけなのか(自分の文章がまずくないとは思わないけど…)
自分の文章がうまくなくてもいいって思ってるんだ。
相手の理解力にあまり期待もしてないし。
わかりやすいようには書いてるつもりだけど、自分が書きたいって思う気持ちを優先させてる。
だからといって、「まず人様に見せられるちゃんとした文章じゃないといけない」なんてことは思わないから
だから、誤解されるのは仕方ないけど
やっぱり悲しくなるなあ~凹んでしまう。
ぼくも仕方ないから気にすることないだろうと思ってたんだけどね…。
どうも、他者からどう思われてるかということを気にせずにはいられないみたいだ。
どう思ってくれてもいいんだよ。
相手から文章を理解してもらい、内容を批判的に検討してもらい、受容されるというプロセスを経ない限り、文章に真に共感してもらうということはできないのではないでしょうか。
日常会話であればこうしたプロセスを経ずに共感(した振り)してもらえる可能性は残されています(そもそも日常会話においてでさえ共感してもらうというのは中々に困難であり、共感は僥倖ですが)。発信者が内容の理解しやすさに配慮しない場合でも、です。何故なら相手の誤解をコミュニケーションによって即時的に取り除くことが可能だからです。
しかし文章表現であれば、発信者と各受信者で使ってる語句の定義や用法が異なるので、発信者側が文章を極力正確に、シンプルに記述し、理解へと促さないと共感など到底望めません。例を挙げると
「なんかわかるかも」って感じ
「難しいことはわかんない」って感じ
庶民感覚
という語句が曖昧すぎて何を含意しているか分からないので個人的には共感以前の状態です(理解できれば共感するかもしれませんが)。
よって読者(受信者)に文章を理解(そして共感)させるには、文章を破綻させたり読者をミスリードさせたりする詭弁のような不当な推論はなるべく(能力的に可能な範囲で)避ける必要があります。もし詭弁表現を使うのであれば留保を付記してから用いるのが良いでしょう。
もちろんここまでの水準での共感を望んでいない(つまりみんなに共感した振りをしてもらいたい)場合には別にどのように記述してもよろしいかとは思いますが、全うな読者の多くからトンデモだと思われる可能性は覚悟しなくてはなりません。
ちなみに私は「こいつはウソを言っている」とは思いません。
(私が他者の文章表現で嘘だと判断するのは事実とは異なることが堂々と書かれていた場合以外あまりありません)
「この人は言説に詭弁を用いてる自覚があっても言説を真だと思える人なんだろうなあ」(私は詭弁があると真偽の判定以前の問題だと思うので)
「他者から批判された時に『悲しいなあ』というフレーズで自身の文章表現のまずさの責任を他者の誤解へと転嫁してしまうことを恥じない人なのかなあ」(そもそも他者が誤解するのは当然というか必然的ですし、きちんと理解されることの方が異常ですから他者の誤解に一々落ち込む意味などあまり無いのですが)
カオス*ラウンジのアレのどこら辺がここまで激しい敵意を喚起するのかがちょっとわからない。
権利処理が緩いこと、訴えれば確実にクロなケースも相当な割合で黙認され続けてることが
同人・ネットを含む豊かな文化の背景にあるのは間違いないように思える。
(中には明示的に許可を出しているところもあるがまだまだ少数派)
やっぱ商売しようとしたというのが致命的なのかなとも思うけど、同人アンソロの商業コミックとかですら
ここまで激しく叩かれたりはしていない。
一次権利者がNGを出したら、二次創作同人だろうとネット上の二次創作絵だろうとコラ絵だろうとカオス作品だろうと、
法的にはほぼ同等に真っ黒になるのがほとんどだと思う。
商売して利益出してるかどうかは権利者側の訴えるかどうかの判断材料になるだけで、
法的な黒白の度合いには基本的には関係がない。(よね?)
「おれら」とは違う高尚ぶった「現代アート」の連中が、表舞台で堂々と「おれら」のネタで商売しようとしてる、
けしからん、みたいな感じなのだろうか。
キュレーターが挑発的な態度・と解釈されうる態度をとったこと、
作家が幼い無防備な反応を返したことが問題を必要以上に悪化させたのだろうか。
そこに限定してならば、まぁ理解出来るんだけど。
でも今回ふたばでキメこな騒ぎが起きるまでって、そもそもカオスの人たちって
「pixivで(主に)二次創作作品を発表してる人たち」であり、位置的には広い意味では上記「おれら」側だと
実際に破滅ラウンジの感想とかも「面白い」「分からんけど面白い」「ただただ分からん」の三種類が主で、
今回みたいな敵意をぶつけているものとかほとんど見た記憶がない。
やっぱ商売しようとしたことが大きかったのか。
それとも「堂々と」商売しようとしたことがポイントなのか。
今回のコピペ紹介で初めて知って、元ネタへのリスペクトが感じられず馬鹿にされてると感じたとか?
これに関連したPixivの対応が最悪だってのには全く留保無く同意出来るけど、あそこの運営がアレなのは
今回の問題以前からずっと一貫しているので、そこには特に理解困難な部分とかはなかったりする。
でもカオスそのものへの敵意の激しさは自分にとっては理解が難しい。
マジで誰か教えて!
Togetter - 「カオスラウンジ騒動に対する、東浩紀と村上隆の対話。」
http://b.hatena.ne.jp/entry/togetter.com/li/151267(はてブ)
この梅ラボ関連の話題は、東浩紀の言うように、かなりめんどくさい。でも、思ったことをまとめていこうと思う。
なんというか、周期関数かとツッコミを入れたくなるぐらい同じ話題が繰り返されているような気がしますが、こういう創作に関しては、原則として「やっていけないものはない」という前提があります。
極端な例示をするなら、「無差別殺人をしてその血をテンペラ画のように塗りたくって、最後にその包丁を突きつけなければ作品が完成しない」として、じゃあ人を殺してはいけないか、ケチャップじゃいけませんか、というとそうじゃない。
人を殺した代償として裁かれるのであって、人を殺していけないわけではない。
つまり、量刑と藝術を天秤に掛けて、藝術の方に重きがあるなら殺しても仕方がないでしょう、殺された人には気の毒ですが。やっぱり刑は嫌だな、となれば別な作品を探すしかないでしょう。
つまり、何次創作を作るにせよ、著作権なんて屁じゃねーよ!っていう無敵の人にとっては「著作権違反だ!」も「愛がない!」も説得力ゼロなわけです。まあ私自身も、ああいう手法を以て「誠意がない」とか言う批判は正直アホだと思ってます。
繰り返しますが、著作権は明らかに違反していますよ。あとは訴えられるかどうかです。そして、その訴えられたかどうか、刑に処されたかどうかというのは、作品評価の是々非々とは一切無縁だということです。
むしろこの騒動自体は、騒げば騒ぐだけ大成功ということになりますし、私はもう成功したとみなしています。ふたばがどうだ4chがどうだというキメこな起源の文脈はあまり本質ではありません。
たとえば、まあこういうところで引き合いに出されるだろうものとしてマルセル・デュシャンの「泉」があるでしょう。男性用小便器に署名だけして出品したあれです。
今同様のことをするなら、それに小水でも引っ掛けて署名の代わりとし出品するでしょうか、もうされたかな?
作品に関して端的な説明とデュシャンの人となりはここが短くて分かりやすいかと思いますのでどうぞ(http://www.cc.kyoto-su.ac.jp/~konokatu/nakaoku(06-7-31))←括弧付き年月日までURL
そしてもう一人、アンディ・ウォーホルも取り上げるべきでしょう。Togetterまとめの中では、鶉アイコンが今作とウォーホルとを態度の違いで「同列には語れない」などとアホ臭いことを語っておりますが全身全霊をもってスルーしてあげてください。(ウォーホルの言う「表だけを見てください」というのは、裏がないことを意味しない。逆もしかり)
今回の騒動は明らかにこういった系譜の延長上にあります。ゆえに、「もう面白くない」というのはまっとうな言い分であると私も思います。デュシャン以降、何が独創性たりうるのかという問題を突きつけられた芸術家達は、常にデュシャンを意識せざるをえないのです。あの藝大アカデミズムからの反動ガチ保守な村上隆さえも。
このキメこな騒動(そもそもキメこなが使われてるのは一部なんですが)以前にも、近い話題としてChim↑Pomのいわゆる岡本太郎の絵画に添えつけた「原発アート」の話題がありました。
これも同じく私は成功したとしている(というか基本こういうやり方もある、という人が界隈では多いのですが、社会との関わりもあって留保的な回答にせざるを得ない)のですが、権威を借りただけだどうだといろいろな反響がありました。
しかしながら、こうもたてつづけに同じような反応を見ていると、何かを感ぜずにはいられません。
藝術と法律というのは別レイヤーで処理されるべきものであり、例えば貨幣偽造にしても千円札裁判のようなものは、法律で裁かれるのはともかく、「裁かれたのだからこれは藝術ではない」と看做している人が一定数存在するような気がしてならないのです(すなわち、同じレイヤーとして法律>藝術という階層がある)
そして著作権違反だという申告をする人々らは、おそらくその人が裁判にかけられるということそれよりも、「こんな表現が藝術として認められるわけがないから、法律で裁いて非芸術にしろ」という動きのようにも見えるのです。
それ自体はひとつのリアクションなので、どうということはないのですが、様式美にハマっているような気がしないでもないです。
(まとめ中で村上隆が「赤瀬川原平との呼応は矮小化だ」とこきおろしてますが、彼は矮小化の意味をわかっていないのではないでしょうか?あるいは、本質であるところを意図的にずらして矮小化を捏造しているのだろうか?もっとも、彼の態度は藝術と非藝術は明確な区切りがあると考える立場だと察するので、何か藝術階層から退けられる言葉があれば何でも良かったのかもしれませんが)
まあ僕の意見としては、こうして日本にも藝術が浸透していくのは大変喜ばしいことであり、みなさんどんどん騒いでください、というぐらいの感想です。
横だけど、特定の行為が正当かどうかとその行為の正当性をどう争うかは違う話だよ
じゃあ誰がどうやって正当かどうかを決めるの?
その決定方法の正当性は誰が担保してくれるの?
決まるまでの間その命令が留保される事で被る損失や損害は誰が保証するの?
裁判で争わないといけません、判例上正当性は認められています、っていうだけじゃなくて、なんで判例上正当性が認められてるかを語らないと元増田の疑問には答えられないんじゃないの
そんなん知らんがな…。
俺が知ってる限りでこの類の判例は20以上はあったはずだから、後は元増田がそれ一つ一つ読んでいけばいいだけでしょ。読んで内容を把握した上で、どこがおかしいとかこれが間違ってるとか具体的に論じればいいだけの話。
判例は最高裁のサイトで検索できるし、裁判を起こした教職員側もネットで色々公開してる。もし読まないのなら元増田の疑問はおそらく解決しないだろうけれど、そんな事俺は知ったこっちゃない。
重要なのは、色んな時代の色んな判事が色んなケースに臨んできたわけだけれども、起立命令を不当だと判断した判事は非常に少なく、しかも全てがより上級の裁判所で否定されてるって点。
おっす、オラ就職王。辞職届は提出したので、再来月から起業王へジョブチェンジだ。
ちなみに、「まだ就職してない」という人は、http://anond.hatelabo.jp/20110107214632を読んでくれ。
以前この文章を投稿した直後は強烈な鬱に襲われて削除してしまったので、二度目の人は勘弁な!
ちなみに「辞職願」ではなく「辞職届」とするのがキーポイントだということは、君も社会人になればわかるさ!
いいかい、こないだ入社式だった全ての新人達。先輩とは上手くやれそうかい?まぁ、これから理不尽地獄の社畜生活が始まるわけだけど、俺の話を聞かないかい?この心得を守っておけばとりあえず、職場のゴミ扱いはされずに済むはずだ。
①二択だ、選べ。
いいかい、君も社会人になって三日目。先輩社員から、様々なありがたいお言葉を賜ったかもしれない。中には「素晴らしい言葉だった、俺も甘えを捨てて頑張ろう、立派な社会人になろう」なんて思ってしまった人もいるかもしれない。しかし、君がまずやるべきなのは、そういう気持ちを1ミリ残らず綺麗に捨て去ること、あるいはその言葉に完璧に一ミリの狂いもなく染まり切る、すなわち狂信者になることだ。このどちらかを選ぶかは趣味の問題だ、俺は前者を選んだが君は後者が向いているかもしれない。一応、念のため言っておくけれど、後者を選ぶことは決して間違いとは言えない。場合によってはこの先40年を戦う場所なのだから、立派な信者になり布教に努めるというのも一つの賢い選択だ。日本で就職した多くの人々にとって「金こそが絶対」という信条を選ぶことは難しいから、結局はこの二つから選ぶしかない。ちなみに、うっかり投資銀行や外コンなんかに就職した人々は、例外なので俺の文章は役にたたない。君たちは、資本主義一神教の教義を読んでくれ。大丈夫、どこのホテルに備え付けられた机にも「資本論」は置いてある。さぁ、どっちにするか決めたかい?じゃあ読み進めてくれ。
②コストとリターンの諸問題
馬鹿馬鹿しい、と思う。例えば、会社に一時間早く出勤すること。これは、本当に馬鹿げてる。くだらない、狂ってる、クソの群れだ。九時から五時までキッチリ働いて賃金をいただく、あるべき姿はこっちだ。しかし、コストを支払いリターンを最大化する、という面でこの行動は一概に間違いとは断定出来ない。そして、社会人にとって重要なのは払ったコストに見合ったリターンを得るということなのは、言うまでもないことだ。過程などどうでもいい、結果を出したものが勝ちだ。しかし、新人に与えられる業務の中で周囲を黙らせるほどの「結果」を出すのは、余程特殊な業種でない限り不可能だと思っていい。金融業界の法人営業マンですら、一年目は「結果」を数字で括られることはないだろう。では、ド新人である君に求められる「結果」とは何か。それは、周囲が「あいつは頑張ってるし好感の持てる奴だ」と思うこと、つまり就職活動の延長線上にあることだ。当面、君には責任のある仕事など与えられない、会社に貢献するチャンスなどゼロに等しい。その境遇の中で、君はなんとかして周囲の信頼を勝ち取り、愛される人間にならねばならない。さもなければ、実に悲惨なハンデを背負ったまま数年を戦い抜かなければならない羽目になるだろう。この文章に食いついたということは、君はコミュニケーション能力にそれほど自信がないことだろうと思うし、では職務遂行能力に自負があるかと言えばそんなこともないだろう。だが、安心していい。そういうのは、新人にとってさほど問題にならない。コストとリターン、この観念を忘れるな。逆に言えば、それ以外は忘れろ。
③15分のアドバンテージ
君は「8時30分に出社するように」と申しつけられた。当然、君は弱気で自分に自信もないから「8時15分には出ておこうかな」と思ったことだろうと思う。しかし、そこは敢えて8時に出社するのが今日のミソだ。いや、8時に出社し続けることこそがミソだと思っていい。何故なら、新人の職務遂行にはおよそ差は出ない。あるいは、差が出たとしても数年は評価に直截的に響くことはまずない。日本の大企業は、およそ10年かけて評価を固める。最も数字に詰められる証券マンやMRですら、五年は様子を見てもらえる。(ただし、この様子を見てもらえる、というのは「詰められない」という意味ではない。無論「詰め」られる)そこで仮に新人としての君の評価がクソミソであったとしても、俺が断言するが8時に出社している限り君の評価は「アウト」にはならない。日本人というのは、凡そにしてアホだ。それもたちの悪いアホだ。怠惰な俊才よりも勤勉なクソマヌケを高く評価する傾向がある。逆に言えば「勤勉なマヌケ」である限り、君は当分生きていられる。こういう部分を細かく守ることが、非常に重要だ。他にも、気遣いポイントは無数にある。例えば、君はドアを開けた。同じタイミングで先輩が向こうから出てきた、ドアノブを最初に回したのは君だった、しかしここで君は一歩下がって道を譲り、軽く会釈をする。これを、嫌味なく最適にやれている限り、君の立場は大丈夫だ。大きな声で挨拶をして、まるで先輩たちを心から敬愛しているかの如く振る舞い、機会のある限り尊敬の言葉を口に出せ。「やりすぎかな・・・」くらいで丁度いい。この十五分のアドバンテージが、君を守る。誰かと話す時、必ず誰かを褒めるセンテンスを織り交ぜることを徹底しろ。実にくだらないが、得られるものと比較すれば実に安いコストだ。
『世界を回しているのは何か?』と問われたら、色んな答えがあり得ると思う。しかし、社会人になって俺はこれに一つの答えを得た。世界を回しているものは、マニュアルだ。しかし、社会人になった君に一冊の完璧なマニュアルが与えられる、という状況は余程恵まれた職場でない限りまずあり得ない。君に与えられる情報は常に断片的で、状況はいつだって切迫している。複数のタスクを同時並行で回しながら、職場全体の状況にも気を配らなければならない。挙句の果てに、それは間違いだらけで全ての人間の言うことは矛盾している。だが安心して欲しい、それはデフォルトだ。例えば、君は「AをBしろ」と言われるかもしれない。しかし、君にはAをBすることの目的、あるいは工程A~Zの中で、AをBすることの役割がどのようなものなのか、それを知る機会はそう簡単には与えられない。君は完成像の見えないまま、どこのパーツかもわからないプラモデルと取っ組み合わなければいけない。さらにそれは、往々にして全体像さえ見えていればサルでも出来るような工程だったりする。しかし、君はやらなければいけない。メモの重要性について君は学ぶ必要がある。どんなにクソくだらない、と思ってもメモは取れ。しかし、世の中には「メモなんか取るな」と「なんでメモの一つもねーんだよ」を同じ口から発するゴミクズ野郎も大量にいる。ボウフラとどっちが多いかな?くらいの数がいる。しかし、君はクソボウフラ野郎からなんとか情報を吸出し、戦っていかなければいけない。コレに対する方法論は幾つかあるが、俺は「フレーズ凝縮式」を推薦する。例えば、この文章は一章ごとにその章を集約的に表象するワンフレーズで取りまとめてある。メモにもこの方式を採用するといい。人間の記憶というのは、基本的にイモヅル方式で形成されている。メモは、その一文を取るだけでいい。夜にそれを見返せば、君は絶対におよそのことを思い出せる。それを記憶が新鮮なうちにノートに取れ。一年も経てば、君はマニュアルが書ける人材に育っている。いいか、メモから吸い出した一冊のノート、それは宝だ。それが世界を回している。忘れるな。メモは詩の如く取れ。君の記憶を呼び覚ます、美しい一文を素早く書きとめろ。これに慣れればいずれメモも要らなくなる。
半年も経った頃、君には「もう限界です」くらいの作業量が与えられる筈だ。これは多くの職場でそういうことにしているフシがあって、そいつが食べきれるか食べきれないか、ギリッギリの量を口にねじこまれる。ブラック気味なところだと、「精神力で食えや!」方式になる可能性も否定出来ない。しかし、俺が断言するがそれは君なら絶対にこなせる量だ。人間はそういう状況になると、概して頭が回転しない。三つも作業が並行すれば、何がなんだかわからなくなる。ジャグリングしながらテトリスをしつつダンスダンスレボリューション、みたいな気分になるはずだ。しかし、君には便利な外部記憶媒体、すなわちノートというものがある。「やべー、いますぐ手をつけなきゃ絶対おわんねー」と思った時こそ、ノートに全てを書き出せ。作業のエンドが見えないまま手を動かすな。エライことになる。いいか、まず大事なことは「俺には出来る」という確信を、全くの無根拠であっても持ち続けることだ。そして、君は実際に出来るはずだ。これは実にシンプルな話で、設計図なしで機体は組み上がらない。しかし、大量のタスクに追い立てられるとこれが見えなくなる。ヤバイ時、君が真っ先にやることはエンドまでの工程図を組むことだ。焦るな、まずはこれをやれ。これが終われば、どんな仕事も五割は終わっている。それを忘れるな。いいか、君は絶対に無能なんかじゃない。信じろ、信じなければ予定なんか組めやしない。それでも出来なけりゃ、そんなタスクを振った上司がクソ無能なんだ。いいか、これを忘れるな。
⑥お局を殺せ
どの職場にも必ずいる悪性新生物、「OTUBONE」は骨の折れる相手だ。まるで癌のように転移し、害悪を放ち続ける。あんなに愛らしかった新人一般職も、十年経てば仲間入りだ。誰だ、新人にベヘリットを配布したのは。今すぐガッツ呼んでこい、義手大砲ブチこめ。なんにせよ、「この道20年」みたいなお局は男女職種全て問わず新人にとって最初の難関と見て間違いない。カンタダみたいなものだ。個人的に、一般職の定年は35歳にすべきだと俺は確信している。君の立ち居振る舞い、仕事のこなし方、日常生活や趣味、果ては性生活や好みの体位まで奴らは干渉してくる。顔面に正拳突きをブチ込みたくなったのは君だけじゃない。これで、僕の燃料棒もブチこみたいです!みたいなヤツらならまだヤル気もみなぎってくるというものだが、あいつらは原発も一瞬で1ケルビンまで冷却するタイプの生き物だ。今すぐ福島に送り込めばみんなハッピーになれる。民主党は何をしてるんだ、今すぐやれ。しかし、大体の場合現場仕事の詳細はこの厄介な生き物から盗み取るしかない。就職王に続いて新人王を目指して戦った俺だが、この生き物の攻略だけは些か苦労した。ここだけはイケメン補正がかかるからだ。日常面での攻略は、「15分のアドバンテージ」に準ずるが、「マニュアル作成」作業が更に重要になる。早い話、現場の仕事回しがクソお局より優秀になれば、君はお局をぶっ殺せる。とにかく、血を吐く思いをしてでもマニュアルを完成させろ。これだけは言っておく。クソお局が20年かけて学んだ内容は、君なら半年で絶対にやれる。ここまでいけば、お局の存在意義などゼロに等しい。そこまでは、耐えろ!大丈夫、君は独りじゃない。少なくとも、世界のほとんどの新人(除くクソイケメン)は君の味方だ!
⑦上司の足を掬え
マニュアルが完成すると、君には見えて来るはずだ。職場の全体像が。必然的に、君には「足払い」をかけられるポイントも見えてくる。散々足を払われて得た教訓がここで生かされる。つまり、あれをこうしたら上司コレミスやらかすんじゃね?みたいな部分が、君には見えているはずだ。未必の故意、という言葉がある。これは社会人生活に於いて「無罪」の同義語だ。この辺りから、君は逆襲に転じなければならない。つまり、これまでは多くの人間にへつらい、腰をヒン曲げ、頭を下げ倒して来た君だが、そろそろそこから得られる実り、リターンは小さいものになって来ている。君は手柄を立てなければいけない。しかし、所詮三年目くらいである君に「手柄」を立てるチャンスはほぼない。少なくとも、業務が正常に回っている限りは。ここは一つ、コケていただかねばならない。そして、コケたところに君ははせ参じる「こうなる可能性は見越していました!」。これは、実のことを言えば正攻法で手柄を立てるよりは、よっぽどイージーなことだと言っていい。予測された失敗には、対処が出来る。しかし、予測もしていなかった上司はパニックに陥る。もし、上司がパニックに陥らなかったとしても、君は別段何も失わない。ただし、責任の遡及が及ばないことは入念にチェックしてから行うのは当然のことが。自分の足を払って流血するなんて馬鹿馬鹿しいことをするくらいなら、何もしないほうがよっぽどマシだ。しかし、チャンスは見逃すな。やれる時は、殺れ。
⑧グチニケーション
同期というものが、多分君にもいるだろう。実際のところ、同期というのは競争相手であり君が会社に残る気であるならぶっ殺すべき相手なのだが、実際は「デキない同期」こそ大事にした方が得られるものは大きい。君の同期にも、必ず一人は「どーしようもない」と評される奴が出てくる筈だ。これは、人間関係の力学として必ずそうなる。しかし、君は常にそういう同期に優しく接し、かつ失敗談を綿密に聞き出すべきだ。「デキる同期」と仲良くするメリットは概して少ない。奴らは往々にして情報をこぼさないし、そもそもウザイ。奴らの「頑張ればいいんだよ!」論は、脳に悪い影響を与える。大脳新皮質がどんどん死んでいく。むしろ、「どーしようもない奴」から得られるネガティブな情報こそ、明日に生きる。彼のやらかした失敗は君もやらかし得る。ダメ同期から一つミス談を聞くたびに、君のリスクは一つずつ軽減される。そして、君と彼の友情は実に強固なものとなる。どんなダメな同期であっても、一応は毎日出社し、仕事はこなしている。噂に聞くほどの差は実はない。そこから得られる情報は、常に君を救い得る蜘蛛の糸だ。そして、君の存在はダメ同期を支え、助けるだろう。これほど素晴らしい情報源が他にあるだろうか?これは、職場の「ダメな先輩」にも言える。過度に職場で仲良くすることはデメリットが大きいが、それでも先輩は先輩だ。長いキャリアの分だけ多くの情報を持っている。それは、大事にしろ。デキる同期はコケるまで放置しとけ、無論デキ同期がコケた話を聞いた時は速攻で電話を鳴らすのは言うまでもない。
⑨体調
俺は社会人になって、人生最大の苦難にブチ当たったことをここに報告したい。俺は、ナルコレプシーだった。俺は学業もそれなりの成績で収めてきたし、自分が無能だと思ったことはそれほどない。しかし、思い返せば俺はあらゆる授業を眠り倒して生きてきた。なまじ、独学が得意だったせいで、この歳まで気づけなかった。俺は、自分が救いのないブサイクで初対面の女性にアメフラシを顔面に投げつけられたような嫌悪感を与える部類の生物だということは認めても、自分がそれほどのハンデを抱えていると認識したことはなかった。ちなみに、攻撃されても紫色の汁は出ない。入社直後、上司の談話を聞きながら俺は爆睡した。現在は、お薬を飲みながら問題なく業務を進めているが、「居眠りクソ野郎」の汚名を被ったまま進めた社会人生活は、正直言って辛かった。俺の職場はそんな人間に仕事を任せるように出来ていなかったので、必死に隠し通しながら検査入院の時間をヒリ出すのにも相当の苦労をした。これほど特異な例ではないにせよ、体調というのは凄まじく大事なものだ。睡眠時間が十分でなかったり、体調が悪かったりした場合職務遂行能力は7割減だと思って間違いない。新入社員は、何はともあれ六時間寝ろ。他の何を犠牲にしても、寝ろ。そして食え。エスタロンモカはポケットに入れておけ。体調に不安を感じたら、何を差し置いても病院に行け。ワイパックスを一錠を持っているだけで、人生は随分楽になる。ソリッド・スネークだって狙撃の時には使っていた。使えるものは全部使え。薬は、偉大だ。いいか、おまえはそれほど強くない。頼れるものには頼れ。ヤバい時こそ精神論に逃げるな。現実的に対処しろ。死ぬ前にデパスを飲め、それで9割は生き残れる。
⑩生きろ
正直に言えば、社畜ライフに辛いことは山ほどある。精神論に逃げるな、と言った口でおれはやはりこれを言わなければならない。おまえは、生きてるだけで素晴らしい。生きてるだけで、人間は合格だ。もし、どうしても耐えられない時が来たら、首を括るか仕事を辞めるかの二択を迫られた時は、迷わず辞めろ。やれることを全部やっても尚、どうしようもないシュチュエーションというのは起こりえる。地震が起きて津波がなにもかもを浚っていったり、飛行機がビルに突っ込んだりする世界なんだ。それは、仕方がない。そんな時、おまえが一番に考えることは「生き抜く」ということに他ならない。俺は再来月仕事を辞めて、新しい世界に挑んでいく。これは、とりもなおさず俺が組織人として適応不全であったことを示している。俺は、本当のことを言えば負けた。ここで勝ち抜いていくことに、どうしても意味や意義を見出せなかった、もっと正直に言えば同期の「とうだい」軍団にこの土俵で勝つ方法論を見出せなかった。そりゃあ、幾つかのハンデは喰らったにせよ、俺は同期の中で常に上位一割をキープした自負はある。しかし、結局のところを言えば、俺は負け組だった。「就職王」でも明白だったが、所詮俺はフェイクだった。ここには向いていなかった。でも、人生は続く。まだ生き抜かなきゃいけない。だから、こんな十カ条を完璧にこなす必要なんかハナっからないんだ。とにかく、君は生きていけ。社会生活は理不尽の繰り返しだ、また自分自身がその理不尽を他人に振るわなければならないことも多々ある。そんな中で、君は生きていかなきゃならない。いいか、君は生きるべきだ。一切の留保や付帯条件なしに、君は生きていかなきゃならない。それだけは忘れないでくれ。
どーでもいい話だが、ブコメ数に気を良くした俺は文章仕事が欲しいなぁ、とか思い始めた。
お米券とかビール券とかでも書くので、商業誌から学生の同人雑誌までそういう界隈の人、なんか仕事ください。
基本、筆は早いです。実力はともかくとして、コレ書くのに大体20分です。穴埋めが必要なら、是非。
syusyoku0@gmail.com
うん、冷静に考えて7000字を20分は無いね!秒速3.5文字は流石にムリだね。
泥酔状態の感覚で20分ってことで。素面ならもっと良いものが書けるかと言えばそうでもないから困る。
というわけで、やっぱり仕事ください。
これを思い出した
その理由となるのが、科学の実像とパブリックイメージと のギャップである。推測だが、科学に対しては「さまざまな問題に対して、曖昧さな く白黒はっきりつけるもの」というイメージを抱いている人が多そうである。もちろ ん、現実にはそうではない。科学は本来曖昧なものである。科学者に質問したとして も、いろいろな留保条件をつけたりいくつもの言い訳をした上で、しかも往々にして 歯切れ悪く曖昧な結論しか出せない。科学者の態度としてはこれが普通なのだが、パ ブリックイメージからすればこれはあまり科学らしくない。
http://www.cp.cmc.osaka-u.ac.jp/~kikuchi/nisekagaku/nisekagaku_nyumon.html
なんで留保しなきゃいけないんだという話になるが?
金持ち視点からすると、消費しなきゃいけないんだ?という話になる。
金持ちなんだから、マインドとしては原則資産を増やすことに興味があって、福利運用したいという要望が強い。だから今の社会が出来上がっている。
という前提で
ありとあらゆる手段を使って、貯蓄や資産増加に励んだ結果、が企業内留保。
企業内にストックオプションでもなんでも、あらたな形式として、法の裏を付く形で個人資産を留保すれば同じ。
認めないことを認めない。のが現実。
だからまずは、お金持ちに増田の方式をどうやって、許容させて協力させるか?という前提を合意させる方法がひつようだけど、それが出てきていない。
大切な事は、優れたシステムとか、みんなのため。という事は『『どうでもよくて』』。
現在のお金持ち、権力者 が それに協力するメリットがあって、本当に協力するか? そして、それ以上に資産を形成する方法がないか?(資産を形成する法保があればそちらがさいようされるので)
という事でしかない。
反応がいろいろあって興味深いですね
えーどうしてー
とか
信じられない!
とかFacebookの利用規約を読めばいいんじゃないかなと思ったりもします。
それでFacebookを使わないなどの判断をご自身でされればいいかと存じます。
なかには
実在するニックネームなのに!
姓と名のフルネームを記載する必要があります。フルネームのかわりにイニシャルを使うことはできません。ニックネームは、姓名のいずれかのバリエーションである場合に限り、記載することができますが、「名、ニックネーム、姓」の形式にする必要があります。
http://www.facebook.com/help/?faq=13070
とありますので、ぜひご検討していただければいいかと存じます。
これらを理解せず
Facebook終了のお知らせ
とは、びっくりですね。
利用規約より抜粋
https://login.facebook.com/terms.php
Facebookでは、ユーザーの皆様に実名および実在の情報を提供していただいています。これを維持するには、ユーザーの協力が必要です。ユーザーは、登録とアカウントのセキュリティの維持に関連して、以下の点を守ることを弊社に確約するものとします。
1. Facebookで虚偽の個人情報を提供したり、許可を得ることなく自分以外の人のアカウントを作成することはできません。
2. 個人用プロフィールを複数作成することは認められません。
3. アカウントが弊社によって停止された場合、弊社の許可なく新たなアカウントを作成することはできません。
4. 個人用プロフィールを営利目的で利用する(近況アップデートを広告主に販売するなど)ことはできません。
5. 13未満の児童がFacebookを利用することはできません。
6. 有罪判決を受けた性犯罪者がFacebookを利用することはできません。
7. ユーザーは連絡先情報を正確かつ最新の状態に保つものとします。
8. パスワード(開発者の場合はシークレットキー)を共有したり、他の人にアカウントへのアクセスを許可したり、その他、アカウントのセキュリティを脅かす恐れのある行為を行わないものとします。
9. あらかじめ弊社から書面による許可を得ることなく、自分のアカウント(管理人となっているFacebookページやアプリケーションを含む)を他の人に譲渡することはできません。
10. ユーザーがアカウントのユーザーネームを選択した場合、弊社は、適切であると考えられる場合(ユーザーの実名と密接な関係がないユーザーネームについて、商標の所有者から申し立てがあった場合など)にそれを削除または撤回する権利を留保するものとします。
+
ボイコットは大手のみ
こうした業者向けイベントの開催が死活問題になるのは小さい企業
↓
パターン1:条例の可否を問わず・大手および大手出版社関連タイトル未出店のボロボロでイベント開催。中小出展者が痛い目を見る
→おそらくない。
TAF開催の頃には条例の是非、可否なんて半分忘れ去られている。
☆パターン2:都知事が自身の態度について謝罪&大手TAF出店
→これもおそらくない。
条例そのものじゃないから単なる気に要らない発言→気に要らないと言われた奴が気に要らない、と喧嘩しているだけだから
謝罪は絶対ない。
→ただし、完全な否決ではなく、骨子に不備があるため「見直し、留保」といった状態になる
何の解決になってもいないが、なぁなぁで流れる
また繰り返す。
※都側に今回みたいなヲタ側のトンデモ反対論を出させなくするような頭のいい人がつけば別だけど
都知事は変わらないし、都民はアホなんでまた選び続けるからエンドレス
★本命
☆大穴
ところで都知事のこういう態度だの言動だのは毎回毎回の事なんで、
http://d.hatena.ne.jp/softether/20101005#p1
http://b.hatena.ne.jp/entry/d.hatena.ne.jp/softether/20101005%23p1
http://b.hatena.ne.jp/entry/d.hatena.ne.jp/softether/20101005
こんな事に「頭がいい」とか「回転が速い」とかついてるわけだけど。
普通に考えれば、返金の基準日は誰でも気になるだろ、返金額に影響する話なのだから。
書類を出せといわれたら、電話の日時なのか、書類の日時なのか、普通は確認する。
電話の日時になると言われたら、提出までの期間はどういう状態なのか?という疑問も普通に出る。
「仮解約状態」と説明されたら、キャンセルも可能なのですか?となるし、そうした場合の保険がどうなるかも普通に繋がる。
で、だ。
そこから先、一年保留しておけば払わずにその間保険が受けれるね、と思ったとして。
それにどんな意味があるんだと。
払わずにいれば解約になるわけで、次の年は別の保険に入る必要がある。
事故って保険を使用する事になれば、手続きの間は解約しないだろうから、結局保険料をその分支払う事になる。
解約するまでの期間、年を跨ぐまでは保険料を留保しておけますねと言うだけなんだけど。
これに対して
絶対悪用してる人がいる
とか
すごい発見だ
とか言っちゃうわけですよ。
めちゃめちゃ考え抜いて10ヶ月くらいそういう留保期間を作ったとして、それって幾らに相当するんですかね?
それは、継続によるメリットを相殺するくらい凄いことなんですかね?
そんな程度のために保険屋を転々として、「保険料払い厨m9(^Д^)プギャー」とか言っちゃうわけですか。
ありえなくね?
それこそ、こういう事を言葉の勢いに踊らされて「すごい」とか言っちゃう輩は、いろいろと気をつけた方が良くね?
長生きって無条件に善なんだろうか。
前から思ってたんだけど。
孤独死とか老老介護とかのドキュメンタリーを目にするたびに考え込んでしまう。
今の70、80代なんかは戦争経験者だから、生きてるだけで儲けもんだって考えるのかもしれない。
あるいは、人間よほどのことがない限り、今すぐ死にたいかっつったらそりゃ死にたくないわけで、その意味では究極的に長生きは善、なのかもしれないけど。ただ、そうすると最終的に死んでしまう点では50年生きようと100年生きようと変わらなくなってしまうので、長生きではなく不死こそが善となってしまう。
そこを措いておくと、尊厳ある最期を、とか、家族に囲まれて物質的にも不足なく、満足ある老後を、みたいな感じに留保をつけたものでなければ、長生きって肯定できないんじゃないかなーと。
ゴメンメモ用紙がなかったから一時的にコピペさせてもらう。後で消す。
ttp://bipblog.com/archives/1006525.html
「navrasa(9つの情緒)」という文学的価値観に基づいてるんだよ。
だから登場人物の生い立ちや、人間関係の細やかな変化とか、
ーーー
カースト制度については
カーストは決して古いものではなく、ヴェーダの時代も、イスラームが侵入してきた時も、
英国統治時代でも、その時代時代で常に変容し新しくなってたし、現在でもなってる。
「カースト」が無くなれば、また新しい言葉や概念を引っ張り出して新種の差別を生むだけ。
今のインドでは留保制度という被差別層の逆差別問題が事をややこしくしてる。
あと日本の世界史の授業での「カースト」の扱い方にはかなり問題がある。
限られた授業時間で扱うには複雑過ぎることは理解できるけど、
そもそも教員自身の理解が浅くて、それがインドに対するステレオタイプを助長させてる。
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ガンジーさんに関する評価は、日本とインドでは正反対と言っていい。
独立後から主流な評価は、
「建国の父という功績は揺ぎ無いが、工業化を阻んだ時代錯誤の石頭で、
パキスタンの分離独立を許し国家の安全保障を半世紀以上脅かす契機を作った大馬鹿野郎」
という扱い。
ネルー:
五カ年計画の頓挫、農地改革後回し、
ヒンディー語なり英語なり統一共通語をゴリ押ししなかった言語政策での失敗、
駄目な点は色々あるけど独立後インドでは最も評価されてる政治家。
個人的に一番の功績はインドの文系トップ大学のJNU作ったことだと思う。
獄中で書いた「インドの発見」を読んで、ネルーさんの民主主義への情熱がひしひしと伝わってきた。
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違和感のあるディテールが積み重なって、インド人的にはあまりにも不自然過ぎるし、
「いかにも外国人がインドに持ってそうなイメージに合わせました」臭がプンプン。
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サリー巻き込みガードがついてるのを見たときは感動した。
インド人もみんなあれを褒めてる。
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日本のインド料理屋で本当に美味しいと思ったのはこの一軒だけ。
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遠藤周作 深い河について
インド人として脳味噌空にして読めば「いつものステレオタイプだなー」という感想しか出ないけど、
登場人物の心情を投影するためにたまたま題材として選ばれた一装置と割りって考えると、いい作品
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パキスタンからのバングラデシュ独立に絡んだ第三次印パ戦争(1971)になるんだけど、
でも近代史上インド人の意識の上で重要体験は、第二次印パ戦争(1965)と独立直後の印パ分離独立。
朝鮮半島は政治イデオロギーで国家が分断されたけど、印パは宗教。
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その際、魚介類エキスが原材料に入ってる事だけは絶対事前に説明していたけたら
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「ガタガタ抜かすパキスタンさえいなければ、バングラデシュはインドに再編入して
貧困の痛み分けして助けてやれるのに」と考えてる。
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それに対する悲観論と、その裏返しとしてエンジニアリングに対する過剰な地震と両極端。
自分は純粋に技術的な話題に言及する知識を持ちあわせてないけど、ナノに関しても同じ議論。
「走る棺桶」と声高に罵る人と、枯れた技術を応用し高コストパフォーマンスを生み出す能力は
世界随一と賞賛して反論を許さない人たちとの罵り合い。
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蛇のとぐろっぽい形のターバン巻いてる人は宗教とは無関係で、ラージャスターンの人。
1980年代にハリヤーナー州がパンジャーブ州から独立しようとして、
パンジャーブの治安が著しく悪化した時期に、米国に移住したパンジャービーがすごく多い。
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インドではゴロゴロ宝石採れるから、本物の石が日本円で数百円~という信じがたい値段。
で、家族の健康とか金運等の目的とその人の星座の位置との兼ね合いで切な石が決まる。
それを指輪やネックレスに加工して男女を問わず身につけてお守りにする。
宝石屋店内に星占いのソフトがインスコされたPCが置いてあったりする。
ーーーーーー
インド人からみた日本の宗教は日本は土着のアニミズムと仏教の習合。
儒教は科挙制度が無かったから儒教と権力が結びつかずに、知識人の一教養の枠を出なかった。
ーーーーーーーーーーー
『「欝は誰でもなる」「虐待だめ」「イジメ駄目」そういった標語を
全部「家族仲良くする方法考えよう」に一本化すればウザイぐらいの効果を発揮する。
犯罪、虐待、すべてはパパとママが互いを尊敬する気持ちを忘れ、
罵り合ってる姿を見た子供が大人になり引き起こす』
ーーーーーーーーーーーーー
時代の分析で一番重要な前提は、インドにとっての独立=パキスタンの分離独立、
それと数千万人単位で発生した難民の扱いが最重要課題だったので、英国や大戦云々どころでは無かったこと。
日本人が韓国ほかアジア各国への賠償問題と印パ英国比較する際に、これを見落としてる人が恐らく相当いるんではないかと。
ーーーーーーーーー
一貫してオンリーワンさせてもらってます。
日本に対しては、プッっていうか「あ~……」という落胆
インドの望みは当時も今も一貫して、米国&西欧の側でもない、共産主義でもない、
それに一番近いのが日本だった。
ーーーーーーーーー
日本はリーダーを選ぶのが下手だし、選ばれたリーダーはシステムを劇的に改革するだけのパワがー無い。
しかし逆説的に言えば、ショボショボなリーダーでも驚くほど安定して機能するシステムの堅牢さは奇跡。
トップの采配如きでシステムが劇的に変わってしまうようでは、法治国家としてどうなのか?
と考えた時に、笑うどころか、日本のシステムからはまだまだ大いに学ぶ所はある。
ーーーーーーーーーー
昨日まではシャンカルと名乗ってた人が今日からはトーマスといったように、
[外見]と[中身]を結ぶ思考経路の距離がべらぼうに短いので、
肌色、服装、靴といった外見で人をするのはごく自然な行為であると同時に、
例え身につけた外見が背伸びの結果の付け焼刃であっても、
一度身につけたからにはその外見にふさわしい中身を身につける為に途方も無いエネルギーを費やし、
その為の努力を惜しまない。
つまり、先に高い目標を設定→急ピッチで追いつき、というパターン
ーーーーーーーー
宗教と生活の兼ね合い、食事習慣(料理そのものではなくて)、オタ文化への理解
この3つ。
ーーーーーーーーー
イギリスがインドに謝罪した事はありません。そして謝罪や賠償を求めるような教育も行ってません。
その理由は、法に照らした結果インド支配のプロセスに違法な点は無く、英国支配によってインドの資産が失われたことを
立証できず、賠償を請求できないというのがひとつ。
同様に、インド帝国として英国の戦争に付き合わされインドの資産が失われたプロセスにも、何ら違法な点がなく、
これもまた賠償を請求できないというのがひとつ。
つまり要求する権利が無いのに賠償よこせ!と促す教育をは、そもそも無意味
理由2つ目。インドは英国から独立するために、英国の保護が無くても民主主義と法の適正手続を守り抜くと
国際社会に約束する必要がありました。すなわち法的根拠をもたない賠償請求を行う=法の適正手続に反することは
悲願であった独立と、インド人の目指す民主主義国家としての理念と矛盾する行為であったのです。
勿論インドも道義的責任を追求したり、言いたいことは色々あったでしょうが、法をねじ曲げて頂戴する賠償と、
恥じることのない民主主義国家として、国際社会から敬意をもって受け入れられる事を天秤にかけた結果、
「僕は原発賛成ですが、反原発運動もそれなりに必要だと思いますよ」と
発言していたと記憶している。
『事故を起こさないようにしよう』『情報をなるだけ公開しよう』
と心がけるようになり、いい意味での『緊張感』が産まれる」
と言っていたと思う。
さて、最近『ホメオパシー』批判が朝日や「はてな」で沸き上がっている。
なるほど、確かにホメオパシーは『カルト』だし、山口地裁の件は
これは弁解の余地はない。
ただ、そうだからと言って、ホメオパシーを『100%抹殺』していいのかどうか、
『現代医学に対する野党勢力・批判勢力』として存在することは、
それはそれで意義はあるのではないか?
効果が出るのであれば、それはそれで『存在意義』が出てくるのでは?
それと同様に、自分は反ホメオパシー派だが、ホメオパシー一派の
存在意義を認めてあげたい・・・と思わなくもないのだが。
自意識問題について。
まあ思春期には、「自我」がどうしようもなく膨れ上がる。みんなそうだ。
このころに、つまり言葉が一定の水位を超えてあふれ出す時に「思考」が始まる。
そして、現実ではなく、「自己意識の中では」自分は「自由」な存在だということを突然発見する。
若者の「思考」の最大の仕事は自分を正当化すること、そして自分を世界の絶対的な主人公とすること。
そんなわけで、14~15歳前後から、世界のすべてを自分流に解釈し、
自己意識の中で激しく「俺は誰でもない俺だけの存在だ」という感覚を確認しようとする。
要するに、思考の自由がやってきて、はじめて人間は「自分という存在のかけがえのなさ」を実感することになるわけだ。
おめでとう。
しかし、ここには問題がある。
第一に、それは「意識」の内側だけの自由であって、その人を取り巻く現実は、やはり親や社会のルールによって縛られ、拘束されている。
自力で現実的な自由の条件を獲得できない大抵の場合、当分は内的な「自由」で我慢するしかない。
第二に、自分自身を世界の絶対の主人公と見立てたいのだけれど、
この望みは誰もが同じようにもっているものだ、ということに気づかないわけにはいかない。
「周りの奴らは馬鹿ばっかで、俺の考えてることはわかんねーんだよ」という人も、
「俺は誰でもない俺だけの存在だ」ということが、誰にもあてはまる平凡な事実だということに薄々気づいている。
「思考の自由」が、人間に「自分だけは特別な存在である」という新しい真理を教えるのだけれど、
その自意識を満たしてくれる「クリエイティブ」で「他者が賞賛」するような職種で成功を収めないかぎり、
そして「別の生き方」を選ぶようになる。
そこにいたるまで我々は自意識問題という名の厨二病を煩い続ける。
ヘーゲルはこの「俺は誰でもない俺だけの存在だ」という「自己意識の自由」の三類型ということを言っている。
第一の類型は「ストア主義」。
人々は醜い承認争いをしているが、そんな競争はつまらないものだと「俺だけはよく知っている」と考える自己意識のことだ。
このことで自己意識は、自分の価値と独自性を、内的に確保する。
「お前ら必死だなw」って奴だ。
人の意見の弱点を見つけてはこれを相対化しようとする人が懐疑主義者だ。
どんな意見もちょっと観点を変えればみな相対化されてしまうということを「俺だけはよく知っている」と考えて「自己意識」を確保しようとする。
この2つは、両方とも自分の意見、態度、生き方を留保しておいて他人の価値を低く見積り、
第三の類型は「不幸の意識」。
若者は独自の強力な世界観、理論に出会うとその世界にどんどんのめりこみ、世界や人間のどんなことにも「立派な」ことが言えるようになる。
しかし、この高尚な世界観が要請する理想の姿と現実の自分の姿の間で、引き裂かれる自己意識が発生する。
これらはすべて「自分の心の内側だけで、自己価値を確保しようとする試み」だ。
人間の自己価値は「他者の承認」を必要とする。だけど、それは結構きつい。
だから、人間は自分の中の「自由な思考」のうちで自己価値をつかもうとする。
でもそれはたぶん無理だ。
現実はどうしようもなく存在していて、そのうざったい自意識にうってつけの現実なんて向こうからやってこない。
その不可能性が頭ではなく身にしみた時こそが、めでたく厨二病卒業の時となる。
おめでとう。
で、その「別の生き方」ってのは自分なりに探してくれ。ニヒリズムに気をつけて。