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6 Reasons We're In Another 'Book-Burning' Period in History | Cracked.com
By: S Peter Davis
これを聞いた人の8割は私の顔を殴りたくなるだろうが、端的に言おう。
稀覯本を含む本を数万冊以上捨ててきた。
焚書と聞いて、一般にはおそらくナチスドイツを連想する人が多いんじゃないだろうか。
それは不寛容と反知性の象徴だ。
だが今回の焚書は違う理由で起こっている。
本を捨てているのは、利用者が誰もいないような辺鄙な田舎の図書館だけじゃない。
おそらく世界最高の権威がある図書館、大英図書館でも、本の廃棄が産業的な規模で行われている。
オーストラリアのニュー・サウス・ウェールズ大学やそのほかいくつかの大学では最近、本の処分に関するスキャンダルが起きた。
今年ボーダーズという書店がつぶれたときには、在庫は寄付されるのではなく廃棄された。
捨てられているのは、『TVガイド』とか重複所蔵の本だけじゃない。
17世紀に美麗に印刷されたシェイクスピアの作品集を想像してみてほしい。
奥付のページには、遠い昔に亡くなった所有者からの達筆なメッセージが付いている。
それをゴミ箱に捨てるのだ。
私は何度もその場にいた。
持ち帰ってeBayに出して売って、何百ドルかにはなったんじゃないだろうか。
これはオバマの共産ナチ新世界秩序に操られたソビエトの秘密作戦か何かではない。
血も涙もない官僚主義によって起こっているのだ。
というのも……
誰しも思うのは、恵まれない人たちに寄付すればいいんじゃないの、ということだ。
囚人でも、病気の子供でも、独立系の新興書店でもいい。寄付すればタダじゃないの、と。
蔵書であることが分かるようになっている。
その本を寄付したり売ったりするときには、印を消さなければならない。
盗品でないと分かるようにするためだ。
そればかりか、所蔵印が残っている本は、親切な人が見つけて図書館に返しに来てくれちゃったりもする。
そして、処理すべき本はとても多い。
図書館はやっきになって蔵書を減らそうとしている。
図書館館長になったつもりで、10万冊を処分しなればならないという報告を受けたと考えてみてほしい。
選択肢は二つ。
学者を何十人か雇って蔵書目録をもとに重要度や価値を評価させて、
また何十人かを雇って重要度の低い10万冊に一冊一冊処分の印を押させる、
というのがひとつ。
第二の選択肢は、コンピュータで貸出回数の少ない10万冊を列挙して、
数人に館内を回って集めさせて、シュレッダーにかけさせること。
第二の選択肢のほうがずっと速くて安いことはお分かりだろう。
そうなれば儲けがでることもある。
ことに司書にとっては、それはまるで、
ゾンビに噛まれた親友を前にして、自分だけが銃を持っているようなものだ。
それに、捨てられた本のなかに救われるべき本が埋もれてしまうことも忘れてはならない。
このやり方では明らかに、ものすごく貴重な本が引っかかってしまうことがある。
2011年版が書架にあるのに、『白鯨』の初版本を書庫から借りようとする人がいるだろうか。
コンピュータで出した貸出数ランキングではそうした区別ができない。
また、このやり方をする場合は、本は完全に破壊しなければならない。
ただゴミ箱に放り込むだけでは不十分だ。
盗られるかもしれないからだ。
誰も読もうとしないように本を引き裂くか、ゴミ箱に漂白剤を入れておく必要がある。
とにかく、ゴミ箱が「ご自由にお取りください」状態になってはまずい。
そして作業をする図書館員が16世紀の貴重書を見つけたとしても、
館長はそれを救えとは言えない。
捨てる代わりに調べるように命じていることになりかねないからだ。
どんな本か分からなければ捨てるのも楽になる。
みなさんがこの事実をご存じなかったとすれば、
ほとんどの場合、一般人が気づくのはゴミ箱に大量の本が入っているのを誰かが目撃してからのことだ。
とはいえ司書がこっそり話し合っている掲示板はいくらか見受けられるが。
2004年ごろ、ニュージーランドのビクトリア大学は13万冊の本を廃棄することを決めた。
計画では、廃棄対象の本に赤いテープを貼り、
それを救いたい人がペンでチェックマークを付けることになっていた。
ご想像のとおり、誰もが怒りをあらわにした。
ある教授は図書館を「野蛮人」と呼んで学内に電子メールを回し、
図書館をめぐりすべてのテープ付きの本にチェックを入れるよう、
職員と学生に呼びかけた。
私の場合は、本の廃棄に気づいたのはそれを盗んで逮捕された人だけだ。
一般人が気づくころには、すべて終わっていて、反乱の機会はなかった。
それに図書館は気づかせることのないよう巧妙な言い回しを使う。
たくさんの書架を空にして、本を書庫に送ったというとき、彼らは嘘をついているわけではない。
ただ、書庫はすでにいっぱいで、新しい書庫行きの本の分だけ廃棄をしているということを言わないだけだ。
本の廃棄を推進する人たちは、図書館の機能を「本の博物館」だとする見方に反対する。
みなさんは愛すべき古典文学の書架に代表されるたくさんの書架の集合こそが図書館だとお思いかもしれない。
通貨が少し下がったり上がったりすれば、外国雑誌の価格も少し変わるだろう。
さてここで、購読するのは数冊ではなく10万冊だと考えてみてほしい。
そして、いま降りかかっているのは小さな変動ではなく、大恐慌時代以来の最悪の不況だ、と。
これは一夜にして旅客機一台分が財布から飛んでいくことを意味する。
その旅客機の代金が払えないと、まずいことになる。
そうなったらとりうる手段は、燃え盛る蜂の巣を手放すように、
購読を打ちきることしかない……とお思いだろうか?
ところがそれは図書館のパワーユーザー、学者と学生が毎日必要とするものなのだ。
必要のないもの、それはたとえば、手書き挿絵の入ったネクロノミコンだ。
どれほどかけがえのない所蔵物であろうと、とにかく場所がないのだ。
というのも……
図書館が蔵書を引き裂く必要がある理由のひとつは、この不況だ。
悲しいことだが、それはそれで仕方ない。
コーヒーショップと引きかえに土塊にされているとしたらどうだろうか?
オーストラリアのニューサウスウェールズ大学でまさにそれが起こっている。
その図書館では、社交的空間を作るため、1850年代からの蔵書と新聞雑誌が廃棄された。
ピーター・スレツァク教授はそれを、図書館を「スターバックスのようなもの」に変えるものだと評している。
しかし、図書館の立場にたってみれば、それを要求しているのは、
彼らは本を保管することだけではなく、本を使う場所を図書館に求めているのである。
そして出版社は無数の本を出してくる。
ということで、図書館は、一方では新刊書を所蔵するために拡張を迫られ、
一方ではカプチーノを飲んで腰を下ろす場所を作れと言われているのだ。
問題は、その費用を誰も出してくれないということだ。
この報告書でも分かるように、図書館へお金を出している組織は予算増額をものすごくいやがる。
図書館が「拡張の資金が必要」と言えば、大学当局は「他を当たってくれ」と言うだろう。
ほとんどの図書館に他の当てはない(建物に放火して保険金をせしめるという手を勘定にいれなければ)。
本はもはや流行らない。このことは認めざるをえないだろう。
2010年最後の三カ月のAmazonの売上データで、電子書籍は紙の書籍を上回りはじめた。
最近のハードディスクであれば、場所をとらずに事実上無限の数の本を入れることができる。
小さめの図書館ならUSBメモリ一つでで置き換えられるとしたら、
巨大な防火設備で本を守り続けさせる原動力は、人々の愛しかない。
現在の経済状況下では、その愛はなかなか発揮されることがない。
この動きは三十年前に遡る。
1980年代、図書館のスペース問題を解決したのは電子化ではなくマイクロフィルムと呼ばれる新技術だった。
本や新聞雑誌をスキャンしてマイクロフィルムとして保存すれば、
図書館ひとつがキャビネットひとつに収まるというのが謳い文句だった。
ニコルソン・ベイカーは、マイクロフィルムブームの悲痛な記録を本にした。
それによると、大英図書館、アメリカ議会図書館といった世界の名だたる図書館が、
数千冊の古い貴重書を引き裂いてスキャンし廃棄したそうだ。
世界中の本好きたちがこれに抗議したところ、司書がマイクロフィルムを掲げて
今日では、インターネットの普及によって、本の圧縮はますます推進されるばかりだ。
ある組織では廃棄する本の選定にあたって、グーグルブックスに載っているかどうかというシンプルな基準を用いているそうだ。
もちろん、本好きの心はそれだけでは慰められない。
彼らは本の内容だけではなく、本それ自体に価値があると信じている。
彼らにとっては、同じ版の本がほかの場所にあるからといって、
貴重な書物を捨てることは正当化できない。
道は事務書類で敷き詰められていて、
これが現実だ。
あなたの話を聞いてると、父親のせいであなたは自分をブスだと思い込んでいるし、父親のせいで価値観が歪んでると思う
あなたを貶める価値観の人間を信じる必要もないし認める必要もない。
生まれついたあなたの性質を否定する様な人間の言う事を信じてしまっては駄目なんだよ
あなたは今学校と家庭しか社会がなくって学校と家庭の人間の言う事が全てなんだと思う。
中学生、高校生の頃って他人にも自分にも不寛容で自意識過剰で些細なことでも気になってしまう時期だし自分と周囲以外の価値観が存在することを信じていない。
でもね、自分の世界以外にも本当に社会って広くて色々な価値観がある。あなたがありえないと思っている幸せな結婚生活だってびっくりするほど手に届くものなんだよ
顔のせいにするんじゃない。もっと強くなりなさい
ブスって自覚があるんならせめて愛想良くして内面を磨きなさい。
陰鬱にしてたって鬱陶しいだけ。自虐的になったって誰もあなたと友達になりたいと思わないし助けてあげようなんて思わない。ましてや男なんて寄ってくるわけない
ブスならもっと努力して顔以外で魅力的になれる様に努力しなさい。
「想定してたけどお金が足りなかったから対策無理でした」とか、
「想定してたけど時間が足りなかったから対策無理でした」とか、
「想定してたけど技術不足で対策無理でした」とか、
「想定してたけど当時の水準では実現不可で対策無理でした」とか、
「想定してたけどクライアントがやんなくていいよっていうから対策無理でした」とか、
「想定してたけどやる気なかったから対策無理でした☆」とか、
がいいのかな。
で、こういう人らが
「完璧主義はダメ。50%ほどの水準をアウトプットし続けることが大事」とか、
「今の日本社会は不寛容。他者に寛容でストレスのない社会を」とか、
「今の労働環境じゃモチベーションが続かない。環境改善して生産効率UP☆」とか、
ヘドバンしてないといいなあ、とか、
思っちゃうんです。
嫌な女だね
まず女達がちょっと見ただけで「鬱陶しそうな表情をしていた」なんて思っちゃうその思考回路
別にお前のことなんて誰も見てないし、目すら合っていないだろう。そして見たとしても何とも思ってない。
大学生なんて男とばかり仲良くしてるってだけで嫉妬したり嫌な女なんて思ったりする様な年でもないだろ。高校じゃあるまいし
「女捨ててるかと言えばそうじゃない。おしゃれも化粧も好きだ。ネイルに何万もかけたり合コンで谷間を見せたりはしないけど」
殆どの女がネイルに何万もかけて合コンで谷間を見せてるとでも?んなわけねーだろw中にはそんな女もいるだろうけど、そんなのごく僅かだよw
身近にいる誰かにそんな奴が居たの?女友達が殆どいなくて少数の女としか深い付き合いをしたことがないくせに何がわかるというの?
「女は殆どがこうだ」という勝手なレッテル貼りをして自分から女と仲良くする道を断っているくせに、女達がまるで自然に遠のいていったとでも
言いたさ気な文章。
元増田の文章は全体から女を「劣った面倒くさい馬鹿」と思い込んでる雰囲気が滲み出ている。
「あたしは男のことばかり気にしてる女たちとは違うの」みたいな優越感も感じる。私にはそんな元増田が一番男のことばかり気にしてる様に感じる
他の人も書いてるが他の女に対して不寛容ですぐに切り捨てるくせに自分自身は人一倍自意識が強くて許容してもらって当然だと思っている。救い様が無い。
"自称サバサバ"でググってみて欲しい。元増田みたいな女が周りからどう見られてるかわかると思う。
元増田に同性の友達が居ないのは無意識のうちに女を馬鹿にしてるからだ。女から嫉妬されてるわけでも、性格が男っぽいからでも何でも無い。
自分を馬鹿にしている様な人間と友達になりたいという奴がどこにいるだろうか。そんな状態じゃ、どこに行っても女友達なんて出来る訳ない
漢字ミス程度で揚げ足取りするな、というけど、差別発言には不寛容。
いや、差別発言するのが国のトップに立ったら外交面に問題あるでしょというけど、麻生太郎はそれを覆すような外交っぷりだった。
というわけで、政策で判断しようよ、というと、ちょっと麻生太郎の掲げる政策は自分には合わないな、と。
人で判断する時点で清濁併せ呑むことは不可避なわけで、嫌な政策も我慢しなきゃいけないのはわかるけどさ、いくらなんでも古くありませんかね。
同じ事は石原慎太郎にも言える。僕はあの人の政策に納得するところは殆どないから不支持なんだけど、それ以外の面で判断してる人は何がしたいのかな、と思うわけです。
まあ都知事選って対抗馬なさすぎだよね。今期は小池晃に入れたけど、前期はほんと対抗馬なんていなかった。浅野史郎?ご冗談を。黒川紀章?ご冗談を。
もう投票行くのもやめようかな。
EFFのこの記事をざっくり訳した。訳の正確さはまったく保証しない。素人の雑な訳です。ちゃんと読みたいひとは原文参照すること。pseudonymはとりあえず「仮名」にした。
A Case for Pseudonyms (Commentary by Jillian York)
https://www.eff.org/deeplinks/2011/07/case-pseudonyms
pseudonym (スードニム) 名詞:著者が身元を隠すために使用する架空の名前。ペンネーム
個人が生来の名前とは別の名前を使いたいと考える理由は無数にあるだろう。生命や生活への脅威への配慮もあるだろうし、政治的、経済的報復へのリスクがあるかもしれない。人種差別の防止を望んでいることもあるだろうし、生活文化圏で発音や記述のしやすい名前を使うこともあるだろう。
オンラインではさらに理由は増える。インターネットカルチャーでは、オフラインでの人格と結びついているかもしれないし結びついていないかもしれない「ハンドル」や「ユーザ名」を使うことが長い間推奨されてきた。古くからのオンライン住人のなかには20年以上使っているハンドルを持つものもいるだろう。
仮名での発言は歴史的にも重要な役割を果たしてきた。ジョージ・エリオットやマーク・トウェインの文学的偉業、ザ・フェデラリスト論文でのパブリアスの政治的主張、18世紀ロンドンでのユニウスのパブリックアドバタイザー紙への寄稿。人々は仮名の下で公の論議に大きく寄与してきたし、今日に至るまでそれは続いている。
Google+の身元確認ポリシーから、オンラインプラットフォームにおける仮名性に関する新たな議論が持ち上がってきた。Google+はユーザに「友人、家族、同僚が普段呼ぶ名前」を使うことを要求する。このポリシーは、Facebookの「本名と実情報を提供せよ」という要求と似ている。Googleのポリシーは、Google+の開始から数週間で同コミュニティーの内外両方から大きな注目を集め、ソーシャルプラットフォームがアイデンティティに制限を加えるべきかどうかという議論に火をつけている。「Skud」という名前を使っていたことによりGoogle+から追い出された元Google社員、キリリー・“Skud”・ロバートの詳細な記録によれば、すでにかなりの人数のGoogle+ユーザがこのポリシーに基づくアカウント停止を受けている。
ソーシャルプラットフォームでの「実名」支持者は多くの論点を示している。実名はユーザの行動を改善し、より文化的な環境を生み出す。実名であれば攻撃者を追求することが容易になるのでストーキングや嫌がらせを防ぐ助けになる。実名ポリシーがあることで、ユーザ監視のために当局がサービス内部に「侵入する」ことを防げる。実名によってユーザは行動に責任を持つようになる。
これらの論点にまったく意味がないわけではないが、問題を間違った方向から議論している。厳格な実名ポリシーの支持者は、実名使用を主張するポリシーに良い面が一つあることを示せばいいのではない。彼らはこれらの利点が、いくつかの非常に深刻な問題より重要であることを実証する義務がある。
例えば、数千人の人々が1月蜂起に参加するきっかけになったFacebookページ「We Are All Khaled Said」を作成した著名なエジプト人、ワエル・ゴニム氏のことを考えてみよう。ページが作成されたのはハリド・サイードが警官によって殺害されてからすぐの2010年夏だったが、ページが本当に勢いを得たのはその年の後半だった。しかしその後も抗議運動の中で存在感を得るのは難しかった可能性もある。2010年11月に管理者(今ではゴニム氏だと知られている)が仮名を使っているとの報告によってこのFacebookページは停止された。Facebookは「身元の明らかな」人物が介入することによる解決を提供することができたが、ゴニム氏はFacebookのスタッフと連絡をとって解決することができたためこの件は非常に特殊な事例となった。誰もがこのようなコネクションを持っているわけではないし、アカウント停止に抗議する方法を知らないことでどれだけ多くの人々が無視されているか知るすべもない。ゴニム氏のケースでは実名を使うことは深刻な危険を伴っていた。仮名であれば安全という保証があるわけではないが、仮名は当局による活動家の追跡を大きく困難にする。
個人が本名以外の名前の方が安全に感じられる理由は無数にある。例えばLGBTコミュニティのティーンエイジャーはオンラインでいつも嫌がらせを受けるので仮名を好むかもしれない。政府のために働く配偶者やパートナーを持つ人や生活を隠したい有名人は、オンラインでは別の名前で行動するほうが安心だと感じるかもしれない。家庭内暴力から逃れている人は加害者から発見されないために、部分的または全面的な別名の使用を望むかもしれない。非主流派の政治的見解をもつ人は仮名を使うことによって生活を危険にさらさずに済ますことを選択するかもしれない。
マッキンタイア対オハイオ選挙委員会の裁判でジョン・ポール・スティーブンス最高裁判事が提案したとおり、
「匿名性は多数派による暴虐からの盾である。よって匿名性は権利章典、また特に米国憲法修正第一項の本来の目的、不寛容な社会において個人を報復から思想を抑圧から守ること、を体現している。匿名である権利は詐欺的行為に悪用されるかもしれない。政治発言はその性質上、時として不愉快な結末を迎えるが、一般的に我々の社会は言論の自由の悪用による危険よりもその価値に重きを認める」
「本当の」名前を使うことと同様に、「本当の」名前の使用の強制も、考えを明らかにすることによる被害を恐れる人々によって対話から排除されるという、現実的な結果を招く可能性がある。実名が対話の「文化度」を上げるかもしれないことに価値を見出す人がいる一方で、それは間違いなく多様性を損なう。
ギークフェミニズムのブロガーたちは、実名ポリシーの被害にあっている人々をWikiにまとめることで、個人がなぜ本名以外の名前の使用を許されるべきなのか何百もの可能性ある理由を示している。このリストに示された多くの例が安全のために仮名を使用している危険に晒された人々を説明しているものの、他にも仮名を選択できるべき重要な理由がある。
Michael Anti氏の例を見てみよう。彼の本名はJing Zhaoで、中国人ジャーナリストだ。おそらくは何者かが生来の名前を使っていないと報告したことによって、2011年1月に彼はFacebookから追い出された。10年近くニューヨーク・タイムズ等で「Michael Anti」のペンネームを使っていたにも関わらず、Facebookは実名ポリシーの厳格な強制を主張した。
Google+でも、誤判定があるとして、アカウントの即時停止ではなく、ユーザに警告を与え名前を変更する機会を与えるように処理手順を変更すべきだと促す動きがでている。
「本当の」名前を要求するポリシーを大規模に実施するのはほぼ不可能だし、多くの例が示すように強制は著名人や敵を持つ人々に対して不当に使われることが多く、またそれはコミュニティ監視機構の結果として生み出されやすい。
GoogleであれFacebookであれ、その他の企業であれサービスに適合していると思われるポリシーを作成する権利がある。しかしこれらの企業が多様性や表現の自由を犠牲にしておきながら、「実名」ポリシーがより文化的な態度を生むと主張するのは浅はかだ。「本当の」名前を要求するポリシーへの移行はオンラインでの表現の自由を萎縮させるだろう。
色々ツッコミどころが多いけど、
「魂の殺人行為だから、自分だったらとてもじゃないけどそんな要求を当然のように出すことはできない」ような発言を相手が先にしてきたからこういう状況になってるんだと思うよ。
何度も言われてるけど騒ぎになった直後にごめんなさいして作品取り下げてたらこんなことにはならなかった。
元増田も言ってるようにコミュニティ間の戦いだから、ダブルスタンダードとか不寛容とかは関係ないよ。
閉鎖的コミュニティを荒らした上で宣戦布告ととれるような言動が続いたから今の状況になったわけだもの。
まあ別の人種なんだろうね。
それはただの傲慢だよ。
反例はいくらでもあるが、搦め手としてゼロ年代のゲームオタクが生み出した最大最悪の二次創作「ゲハ戦争」がコミュニティに何を還元したのか考えてみればいい。
加えて言えばオタクはコミュニティ外のものを当然のように収奪する。
オタクコミュニティ以外の、例えば映画やドラマをネタを引っ張ってきた同人誌を読んだことはないか?ニコニコで洋楽や邦楽を無断使用した動画を見たことはないか?それらは正しく元のコミュニティに還元されているか?
スラムダンクやジョジョやハンターハンターなど有名漫画は海外文化(ファッションやアート)からトレスによって平然と収奪しているが、不買運動を展開したことがあるか?
答えは「NO」だ。「俺たち」は他文化の収奪には抵抗を持たない。
これも的外れだろう。
今オタク言論で主流のゼロ年代、そしてこれから生まれる10年代のオタクは迫害の歴史を歩んでいない。にも関わらずコミュニティの排他性を継承している。
なぜならこの攻撃性は迫害の歴史が生んだのではなく、韓国文化の流入に激怒しスポンサーに突撃するような、典型的な日本人が持つレイシズムが源流にあるからだ。
アメリカは「俺ら」側として洋画を許容し、韓国は「彼ら」側として文化を抹殺しようとする不寛容さを、「日本人の外れ者」のはずのオタクが色濃く引き継いでいるのは皮肉な話だね。
*
「現代アートコミュニティは〜著作権者の申し立てまでもに反逆する気はない」については、今後のカオス*ラウンジの動向に注目していこうと考えている。
動向に注目するまでもなく、法に逆らうことはできない。
「俺」の作品が奪われたならば訴えればいい。それが文明人として正しい態度だ。
「俺ら」の作品が奪われるかもしれないと恐怖に怯えるフリをしているが、実際に「俺ら」の胸の内にあるのは怯えなどではなく弱った獲物を追い詰める、野蛮な肉食動物の歓喜じゃないのか?
むしろ、彼らには彼らの信じる「現代アート」を徹底的に突き詰めて、オタクコミュニティも納得する作品を世に出すことを望んでいる。
その未来はありえない。
オタクコミュニティの不寛容さは、一度敵対した人間の作品を評価することはないだろう。より正しく言えば、評価することを許さない。今現在にしても、評価した人間も敵と見なされる。それが、永遠に続く。
バカ丁寧な解説にも関わらずこの点に触れないということは、意図的なんだと思うけど。
それまでは、収奪されたオタク系の諸コミュニティ側からの「作品を勝手に使うな!」という類の非難は許され続け、カオス*ラウンジが許されることは決して無いだろう。
ここが一番重要で、そしてカオス*ラウンジが一番理解していない部分。
オタクコミュニティは「俺たち」が二次創作によって収奪することはコミュニティ繁栄のため許容され、「彼ら」からの収奪は許されないというダブルスタンダートでひどく不寛容な文化だ。
自己を律して倫理的に二次創作を展開しているのだと極めて高く自己評価している一方で、外敵に対しては冷静さを見失い、とても倫理的とは言いがたい過剰防衛を行う。
直接の被害者(著作権保持者)ではない構成員の群れが、例えカオス*ラウンジや家族やその周辺の肖像権その他権利を侵害し、関わった人間すべての人生を破滅させたとしても、正当防衛が成り立つと思い込んでいる。
だから「謝罪しなければ許さない」という態度でいられる。
現代アートコミュニティは確かに著作権法を違反してはいるが、法自体、要するに著作権者の申し立てまでもに反逆する気はない。
対してオタクコミュニティは法に背き、コミュニティからの収奪を企てたカオス*ラウンジに人誅を下そうとしている。
果たしてどっちが正しい態度なんだろう、と考え込んでしまうね。
*
ああ、謝罪させるのは落としどころとして悪くないと思うよ。というより、もはやそれ以外の道は残されていない、というのが正しいだろうね。
それは彼らの作品群を見るに、同人誌絵描きに「利き手を潰せ」と言うのに等しい、魂の殺人行為だから、自分だったらとてもじゃないけどそんな要求を当然のように出すことはできないけれど。
*
自分は自分のことをオタクコミュニティの一員なのだと思っていたけれど、この不寛容さに恐怖を感じるということは、実は別の人種だったのかもしれないな。
19時7分 追記
私の記事内容への反応より、語尾云々のトラバ話題がとても興味深い。
自意識云々は意味がわからん絡みだから無視するとして、そういう理屈抜きに、不快に思う人ってどのくらいの割合でいるんだろう。
書き言葉だったから不快になっただけで日常会話では問題ないんだろうか。とかいろいろ気になった。
私の記事はもうどうでもいいからこっちの話題はもっと伸びろ。
ちなみに私は何人かの人が指摘されていたように千葉の人間ですわ。そこんとこよろしく。 > http://anond.hatelabo.jp/20110722112821
http://lovelove.rabi-en-rose.net/blog.php?n=317
記述内容に否定するべき要素は全くない。過不足なく書かれていると思う。
だから記事タイトルは補足と書いたけど、付け加える要素はない。あえて付け足すとすると「代替物としての他のゲームの存在」くらいか。
ただ、これだけ読むと格闘ゲームやってる人しかわからんと思う。
また、ゲームシステムの話だけだと、
「全くの格闘ゲーム初心者が北斗の拳という世紀末ゲーを稼働してから2年以上たって初めて、今かなり上級までいった」例
を知ってるからちょっと引っ掛かりを覚えるというのもある。
前々からの持論だが、
レイプされてやめていくを観察して、そいつらを保護しても大して効果ないと思う。
世紀末の環境でも種籾を育てて稲実らせる奴を観察することの方が大事だと思うんだ。
対戦において、システムの前提が了解されて、自分の意思表示が出来て、相手の行動も理解できて、と
コミュニケーションが成立する限りにおいては面白いが、そうじゃないなら面白くない。
で、そいつはどうしてうまくなったかというと、そりゃ友達がいたからだ。
下手だからレイプされるのは当然。あのゲームレイプなしだと面白くもなんともないしね。初心者相手でもバスケとか当たり前。
でも、とりあえず見ながら観察。分からんかったら教えて貰う。負けてもフォローあり。
いやもうゲームさておいて、とりあえずゲームやる友達がいるんだからコミュニケーション保証されてる。これ大きいよね。
どんなゲームでも、その人が成長する過程ってこんな感じだと思う。だから
例えて言えば、昔は普通に将棋をしていたのが、今は駒の重さが500kgぐらいになったので、マジックハンド付きロボットを操縦できないと将棋以前に駒を動かす事すらできません、といったような状態
こういう状態になろうが、マジックハンド付きロボットの操縦方法を覚える環境さえあればなんの問題もないはず。
それがないのが今の問題なんだわな。
じゃあなんでこういう操縦方法を身につけられなくなってるかというと、
「みっちり教えてもらわないと自分でできるようにならないから」であり、
「わざわざ初心者に教える」役割を引き受けたいと思う人はそうそう居ないし、
「操作方法を覚えるまでは楽しくならない」ものを辛抱できる人もそうそう居ないから。
師弟関係とか、レベルが違う友達関係ってなかなか成立しないのだよなー。
しかも後者にいたっては「練習中にレイプされる危険がある」わけだから、楽しくないどころか恐怖だ。
というわけで「教えてくれる人を見つけられないとそもそも上達できない」「あるレベルまで上達しないと楽しくならない」「上達までの道のりにはオオカミさんがいっぱい」という三重苦を乗り越えられる人は極端に少なく、まず他のゲームに逃げる。逃げ先はだいたいこんな感じ。
・少なくともレイプされない音ゲーやダンジョンアクションゲー、CAVE以外のシューティングゲーなどの一人プレイものに避難する
(※まぁ音ゲーでもギャラリーの視線レイプがあったり上級者が初心者に大してものすごく不寛容だったりしてダメダメなんだが)
・自分のレベルに応じた対戦相手を見繕ってくれるカードゲーやクイズゲーに移行する。
・直感でもプレイできる旧作などに戻る。
・とりあえず元ネタが楽しめるゲームでコミュニケーションだけは確保する
・もうモバゲーでいいや
ただ、本質的に求めていたのはガチ対戦であり、他のものは代替物にしかなれない、これらはあくまで腰掛けだ。(音ゲー、シューティングはガチの人も多い)いつまでもサブでは満足し続けることも出来ないので、そのうちゲーセンから去っていく。こういう二段階で人が減っていく。
昔は成長するのに環境の力を必要としなかった。
他の人の動きを見ながら覚えるとかできた。
自分で適当に触って試行錯誤していたらそのうちあるレベルまでは行けた。
今はもう無理。
自然に放置しているだけでは人は参入障壁が高すぎて成長するところまで行けないし、
消されてる記事のブクマなんだけど。
lovely 増田
釣りだと思うけど一応。この増田が人の親となったとき(授かったとき)に妻にまったく同じことが言えるのなら、そう思ってていいんでないの。 2011/06/08
こういう人。
いや、悪意は無いんでしょうけどね。
・一生結婚しない人
・一生結婚できない人
・一生子供を持たない人
・一生子供を持てない人
を疎外してるよね。
注意されてる元増田は、
電車内で見た妊婦さんへの悪意と汚い言葉遣いを垂れ流していて、自分も大いに眉を潜めて読んだのだけど
lovely さんによれば、一生「人の親」にならない人間は別にこのレベルで問題ないんだって(!)。
へー、自分はこの元増田のレベルだったんですか。気付きませんでした。
同レベルなのに元増田のことを「ヒドイ人だな」とか思っちゃってました。
身の程もわきまえずにほんとごめんなさい。
すぐこのlovelyさんみたいな物言いをする人が居る。
それを見るたびに本当にどーっと力が抜けるし悲しくなる。
子供を持ったことがなくても、同じ立場になる予定が無くても、想像力で何かしたいと思うのが思いやりだと思っています。
それなのに、
「将来自分が親になった時に思い知る」とか
そういう言葉で
毎回さらっと仲間はずれにされたり心無い人の一員にされたりしてしまう。
一見、それぞれ別の立場な人への想像力や優しさを求めてるようでいて
本当に立場が違う人間を最初から排除してる。もしくは頭に浮かんでも居ない。
そもそも「時期が違うだけで同じ立場でしょ?」っていうのは、
思いやりを持つことを教えてるんじゃなくて
利己主義を期待して脅しを掛けてるだけじゃないでしょうか。
情報をスタックしたり、マーキングするような使い道をする人間が多い。
ホッテントリに入った記事は信憑性があるものが多く、エントリページの批評を合わせて読むことで真偽の判断はやりやすい。
モヒカン族が恐れられていた頃は縄張りであるウェブに入り込み、使い道を誤った人間を消毒して回っていたが、ウェブが発達した今では村人たちはコミューンを作り自己擁護する術に長けているために空気になっている。
震災に乗じて自分の価値を高めるため、被災地や被害者に深い同情を示したり、自分たちにやれることがないかと模索するような、よく言えば前向きな、悪く言えば偽善に満ちた情報が溢れた。
さらに厄介なことに情報強者を名乗る人間が己のフォロワーに向けて虚実混じった情報を全て真実が如く喧伝した。
フォロワーたちは裏を取らずにそれを拡散し、それを見て自称情報強者は悦に浸る。自称情報強者のほとんどは自己顕示欲混じりながら善意でやっているから性質が悪い。彼らを説得する術はなく、何度炎上しても数百~数万のフォロワーたちが離れない限り、彼らはデマを流し続ける悪夢のようなツールでもある
twitterは一次情報の交換ツールとしては最も有用だが、真偽不明な二次情報や明らかなデマをも拡散してしまう点は欠陥でしかないのでそういう目的では利用しない方がいい。
twitterが「被害者に同情を示すことで自分の価値を高める」陽のツールならば、2chはその陰と言えるツールである。
「震災特番よりアニメを流せ」というような自己の価値を貶めたり、不謹慎厨や不寛容厨を呼び寄せ炎上するような恐れがある本音を垂れ流すには打ってつけのツールである。それでも阪神大震災や東海村臨界事故の頃の不謹慎発言と比べると毒気は抜け、一方で独善的な政治的主張が増えた印象がある。
情報交換としての地盤は最も脆弱だが、スレッドごとに網羅的に情報がストックされるメリットはある。ただしその中には多数のデマも含まれる。特に2ch世論に迎合する政治主張と絡めた悪質なデマは広がりやすい。また2chに書かれた適当なデマをソースとしてtwitterにて拡散されるという状況はしばしば見られた。
彼らは今回の悲劇を利用して、視聴率主義のために危機を煽る、旧来メディアの醜悪な部分が濃厚凝縮されたような記事を大量生産した。
2chまとめブログやネットメディアには報道者としての義務責任はなく、ただ今回の震災を利用してアフィリエイトで利益を得ることだけにある。それがデマであろうが誇大情報だろうがセンセーショナルな内容でPVを稼ぐことができればそれでいいのだ。
アクセスを稼ぐためなら手段を選ばない。ネット世論に迎合するために、誤読やデマを駆使して特定の人種・政党や無実の人物へのヘイトを煽った。
ニコニコ生放送は字幕の存在によりまともに機能しないかと思われたが、政党叩きやメルトダウンを必要以上に煽るコメントには検閲や規制が入る(しかもコメントが検閲されたことに当人は気付かない仕組み)のためにそこまで荒れていなかった。ただしそうした処理がなされていないと思われるニコニコ実況は荒れ放題になっており、別物とみなした方がいい。
許せというのはあくまで友人の意見。
自分が許せないなら許す必要ないよ。
実際問題、そのいじめのせいで不利益を被っているんだし許さない材料はあるけど
許す材料なんてちょっと会って頭下げられただけ。
そいつに会って色々辛い思いを思い出してしまったり身体に異常をきたすなら
そう思っているならもう顔を見せないで欲しいというのは正常だよ。
お友達は「許さないなんて不寛容!」と思っていてあなたを正そうとしている様だけど
あなたの辛さや現実的に被った不利益を知った上でなおそういうなら
お友達とも距離を置いた方があなたのためだよ。
っていうのは煽りタイトルなんですが(一部界隈でホットなので、自らセカンドレイプをしかけてみる)
こういう事例というか、「自助努力が欠けているからそうなったんだ」という俗流自己責任を持ち上げる輩はわりといますね。
で、ちょっとトポロジーな類例をふたつばかり考えてみたので、ひとまず被害程度の問題を無視して、読んでみてください。
要するにこれは、レイプの話題で言えば「胸を露出させる服を着ているのが悪い」とか、「ひとりで夜出歩いているのが悪い」的な言説ですね。いじめられる側の隙を探して、いじめる理由に足るものを指摘して、「お前がデブでハゲでバカでフケ散らかしてるのが悪い」って話です。
レイプ含め、性犯罪を根絶することは不可能でしょう。同様に、いじめを根絶することも無理だと思います。起こってしまったときに、適切な対応と、理解を促すぐらいしか、方策はないように思います。
別方面でもそれなりに話題になりがちなテーマですね。よく「コミュ障だから内定がない」となかば自虐的に書き込まれるケースが多いですが、それ以外にも「社会人としての自覚が足りないからだ」とか「甘えてるからだ」とか、飛躍して「○○大学なら当然だな」とか、無い内定になるのにはさも当人に落ち度があるのだから当然という主張がまかり通っています。
学歴に依る差別は合理的なものだから、区別であって正しい、という主張をする人がまだまだ多いです。それを盾にして「だから低学歴は無い内定になって当然。今までの努力が足りないツケだ」と主張すること自体も正統的な目線で見られがちです。
そもそもの話として、自助努力というのは存在しうるのでしょうか。こういう場で使われる努力というのは「最適解」を前提にしています。つまり、努力しようがしなかろうが、当人にとっての最善の努力だろうが、実現しなければ「甘え」であり「努力が足りない」ということです。
性犯罪で例えれば「深夜にバイトをしないで生活できるように、最善の努力をしてこなかったお前が悪い」とか「努力せずに低学歴になったんだから、性風俗のような相応の産業で働いてあたりまえだし、その帰り道でレイプされてもどうせ売春婦なんだから一回ただ働きしたようなもんでしょ、適切な努力をした人はそんな事されない」とか臆面もなく主張してくるわけですね。
社内いじめが功を奏してクビになってしまったとしても、それは政治力のないあなたが悪い、とも言われてしまうわけです。
能力がなくてクビになったとしても、勉強する時間を創ってこなかったお前が悪いと、誰も取り合わないわけです。サビ残ばかりで終電帰宅な毎日でもね。
されたのが悪い、されたのはお前に原因がある。
努力すれば報いがあるのだから、報いがないのはお前の努力が足りない、というわけです。
負の努力をすれば負の報いがくるのだから、正の報いがないのはお前が負の努力をしているからだ、ということです。
先天的にせよ後天的にせよ、それを改善しようと努めないなら相応の報いを受けるのだ、というのは一見聞こえはいい(自分に火の粉は降りかからないから)ですが、弱肉強食に塗れたキケンな思想だと言わざるをえないでしょう。他責的言説が支持されないのはこういう背景があると睨んでいます(他人の因果がなぜ自分と関係があるのか!と思う人は多いんじゃないかな)
そして自分が喰われる側となれば「もっと努力すれば」とスーパーマンを期待し、
相互で相互のハードルを上げあって、互いに息苦しくなる(もちろん、この息苦しささえ「それはお前が弱いからだ」と言い切る人もいるでしょう)
自律意志を持たず、ひたすらルーティンワークをして錆止めの油(給与)を与えられるだけのサラリーマンを皮肉ったものとして。
しかし、すべての成員は歯車だ、と私は思うのです。どちらかというとポジティブに。
つまり自分が歯車として機能しているということは、他の歯車も機能しており、自分の馬力が他人に作用している何よりの証拠なのです。
すべての事象は、社会に参与するすべての人間に関係があるのです。
なぜ、熊森は生態系撹乱を無視してまでどんぐりを森に撒くのでしょう。
なぜ、我が国の文化はガラパゴスとして他国からCrazyと思われるのでしょう。
なぜ、起業しろと、起業ノウハウも金銭もない人間に主張するのでしょう。
すべてを理解しろと言っているのではありません。超人ではないのだから、私とて理解できないモノだってあります。
自己を律するのは勝手ですが、同じだけの律を他人に求めるのは不寛容です。
そして、できるだけ、すべてを包摂していくことこそが求められるべきです。