はてなキーワード: ダビとは
動画編集ソフトのダビンチは基本的に実写動画の加工がメインだ。どちらかというと映画などで使われることが多くて、日本のようなアニメーションを多用する切り貼り動画にはあんまり向いていない。
その上に元々がカラーグラデーションの調整に特化したソフトということから、AdobePremireとかの本格的な動画編集ソフトより使い勝手や機能は劣っている。しかも珍しくノードを基準にしているので、レイヤーで考える普通の動画編集ソフトよりとっつきにくい。海外産ということもあってQ&Aもあまりなくて日本語ローカライズが中途半端ってところから、日本の利用率ってあんまりない。
無料な高機能ソフトなのでチャレンジした人もいるはずだけど、ちょっとしたVLOGの切り貼りならともかく、ゆっくり動画とかには全然使えなかった。なにせ矢印や四角形を置くこと一つが手間を要すんだもの。
特にゆっくりのキャラに口パクさせたり自在に動かすってのはダビンチには向いていない。
というのは1年位前までで、最近になってその考えがちょっとだけ変わってきた。
VoiceVoxやゆっくりボイスを簡易的に連携させたり、口パクやキャラの動きをつけたりといったことが楽になるツールが開発されているからだ。最初こそ補助的に使えるかなってものだったが、もはや立ち絵と音声合成ソフトがあれば十分に使えるレベルにまでなっている。YMM4の使い勝手にはあと1年程度で追いつくんじゃないかな。
そのころにはYoutubeの解説動画関係が軒並み下火になっているかもしれないが、なんにせよ日本語でダビンチのツールが開発中ってところにオラワクワクすんぞ。
以下のツイートとそのブコメの着眼点が一面的で残念だったので考えを述べる。
@koshian
というか学者なんてのは真理探求のために一般よりずっと不道徳であることが認められたり奨励されたりするもんでしょ
https://twitter.com/koshian/status/1485127978162229252
https://b.hatena.ne.jp/entry/s/twitter.com/koshian/status/1485127978162229252
その変更が主流派にとって受け入れられないものであれば不道徳と批判される。
パラダイムシフトと呼ばれるような重大発見であり、学者はそれを目指すべきだ。
中世の神学的な道徳に反してコペルニクスが地動説を主張したり、
ニュートンが地上も神の世界である宇宙も同じ自然法則で物体が動いていると証明したからこそ、
素朴な感覚に反して実験と理性が導き出した世界観を採用する科学という営みが生まれた。
それを継承して相対性理論や量子力学や遺伝学を生み出し、人類の科学技術はここまで発展できた。
逆にソ連では共産主義的に道徳的なニセ科学あるルイセンコ農法を採用し、
大量の餓死者を発生させ、正当な遺伝学社達を投獄・粛清して生物学の後退を招いた。
学問のために不道徳であることを恐れない学者と、道徳のために学問を利用しようとする学者だったら
おそらく後者の方が問題を引き起こすであろう。そもそもそれは学者ではなく活動家だ。
ダビンチや平賀源内の時代は間違いなく解剖という当時としては非道徳で奇妙な行為が必要だった。
ただ現代では過去の失敗やいざこざがあってこういう手順でしましょうねって基準がある。
簡単にいうと、艦隊これくしょんで軍艦が女性に擬人化される、ウマ娘でサラブレッドが女性に擬人化される、刀剣乱舞で日本刀が男性に擬人化される、などの事例だ
この擬人化はヒットしやすい(もちろんあんまり人気がなくてポシャるコンテンツ擬人化もあったりする)
コンテンツの擬人化には亜種となるものがあって、戦国武将の女性化、歴史上の人物の性別を反転させる(女性化が多い)、などがある
前者は織田信奈の野望などがあるし、後者はFate/Grand Orderでアーサー王、ダビンチ、宮本武蔵、葛飾北斎とやりたい放題である(これでも女性化したうちの一部である)
コンテンツの女性化、擬人化で古いものは2009年の織田信奈の野望あたりからになるようだ
もっと遡ると1987年のらんま1/2あたりまで遡れる(ただこれは主人公が水を被ると女体化してしまうものであって本来の性別や性嗜好は男性のまま)
話を主題に戻そう
艦隊これくしょんやウマ娘や刀剣乱舞で日本人のオタクが擬人化に弱すぎるとバレてしまった
実は魅力的、深みのあるコンテンツを擬人化することでとっつきやすくし、性欲や萌えなどに結びつける手法なのだが、この組み合わせに日本人はとても弱いようだ
性欲ニハ抗エナイヨ!
萌エニハ抗エナイヨ!
そろそろ意図的なPRで悪用されそうな手法なので、コンテンツの擬人化いい加減にしろとかコンテンツの擬人化に警戒していったりした方がいいだろう
2004年に刊行された『ライトノベル完全読本』(日経BP社)では、「表紙や挿絵にアニメ調のイラストを多用している若年層向けの小説」
←新潮文庫とかで表紙がそういうイラストになってる若年層むけ文学作品が該当、それこそ太宰とか
榎本秋は自身の著書における定義として「中学生/高校生という主なターゲットにおいて読みやすく書かれた娯楽小説」
←中学生と高校生でけっこう違う気がするけど、「SF 純文学っぽい」「ファンタジー 純文学っぽい」で検索すれば出てくるんじゃないかな。
あるいは「青年期の読者を対象とし、作中人物を漫画やアニメーションを想起させる『キャラクター』として構築したうえで、それに合わせたイラストを添えて刊行される小説群」
森博嗣は、著書『つぼねのカトリーヌ』(2014年)において、「会話が多く読みやすく、絵があってわかりやすい小説」
純文学って、文学のための文学というか、言語表現そのものを楽しむものかなと個人的には思っていて、
上の定義にあるような「読みやすさ」と相性が悪いかもしれない。
平山瑞穂とかはどうかな。
『国歌斉唱 皆様ご起立ください』
一同「「「「「「スカ パラパルビ ルリバン ドゥリルラ バンドゥリャロ ベンべベロレロランレンデロレロベルルロレロレルレロダンダン ダビュドド」」」」」」」
俺が中3で姉が高2のとき、姉の本を借りようと俺は姉の部屋に入った。
姉はいなかったので、ちょっとした好奇心で、姉のタンスをあさってしまった。
どんな下着つけてるのか興味あったからだ。けっこう派手な下着をいくつか見つけた。
すると、タンスの奥にビデオテープが隠してあるのに気づいた。シールとかは、なにも張ってない。
俺はピンと来た。姉がどんなエロビデオを見ているのか興味あって、このビデオを自分の部屋に持ち帰った。
早速再生してみると、まったく予想していなかったが、モニターに現れたのは姉の姿だった。
ただのAVをダビングしたビデオだと予想していたから、結構びっくりした。
姉は制服姿でホテルの一室と思われる部屋の中にいて、撮影している男と仲よさそうに話している。
姉は撮影者の男とキスし始めた。男は社会人っぽい年齢だった。どうみても、高校生には見えない。
「これって、援交か!?」
俺はマジで動揺した。
今見ている姉のビデオは、その援交ハメドリビデオに雰囲気がそっくりだった。
男「それじゃ、やろうか?」
姉「うん、やる?」
男は姉のブラウスのボタンを外し始めた。姉のブラジャーが見える。
「おおっ!」
初めて見た姉の乳首に、俺はつい声を出してしまった。子供の頃ならともかく、もう高校生になった姉の乳首なんて見れないだろうと思っていたからだ。
姉「はは、サダさん、おっぱい好きだよね」
姉と男は親しそうに会話している。援助交際なのか、本当に親密な仲なのかは微妙なところだった。
結構スローなセックスだった。それに姉は確実に感じ始めていた。
額に眉がよって、顔が赤くなってる。
女の表情になっている。こんな顔した姉を見たのは初めてだった。
もちろんモザイク無しで、姉のアソコがはっきり見えた。
女のアソコをモロに見たのは、俺は初めてだった。しかも、それは実の姉のだった。
姉「もう、そんなに撮らないでよ」
男「ははは、濡れてるじゃない。パンツにもシミができてる」
姉「もう!」
男は姉のスカートも脱がした。
姉は、はだけたブラウスだけの姿になる。その姿が弟の目から見ても正直エロかった。
男は姉に挿入した。ちゃんとコンドームはつけている。その結合部分もはっきりアップで映っていた。
男が揺れると、姉も声を漏らす。
男「お尻を向けて」
姉はなにも言わずにそれにしたがった。四つん這いになって、お尻を向ける。
その姿を男ははっきり撮影した。姉のお尻の穴まで見えた。
男はバックから姉を犯し始めた。
スローなセックスがだんだん激しくなって、パンパン肉のぶつかる音がし始めた。
姉も、外に漏れるんじゃないかというぐらい大きな声を出し始めた。
男は5分ほどで射精した。
姉を仰向けに寝かすと、まだ感じて、うつろになっている姉の姿を舐めるように撮影していた。
ビデオはそこで終わった。
俺はすっかり興奮してしまい、もう一度まき戻して、オナニーし始めた。
姉の正常位での乳揺れシーンがいちばんエロくて、何回も巻き戻してチンコをしごいていた。
姉「ねえ、隆典~、あっ!」
いきなり足音も立てずに姉が入ってきた。
俺「ああっ!」
俺は本当にびっくりした。世界が終わったかと思うぐらいびっくりした。突然戦争が始まっても、こんなにはびっくりしなかっただろう。
姉は深刻そうな顔で俺を見た。
姉に見られながら、俺はパンツの中で射精していた。ドクドクいって、股間に生暖かい感覚があった。
オナニーを見られたのはまだいい。しかし、見ていたオカズが姉のハメドリビデオ
だったのがばれたかどうかは微妙だった。姉が入ってきた2,3秒後に停止したから、もしかしたら気づいてなかったかもしれない。
俺はただオタオタしていた。
はっきり言って、こんなに危機感を感じたのは生まれて初めてだった。中学生のとき不良に絡まれたことなんか比じゃない。
20秒ぐらい後に、姉は今まで見たこともない怖い顔で、俺の部屋に戻ってきた。
俺を押しのけると、ビデオデッキから姉のハメドリビデオを取り出す。
姉は自分の部屋に帰って、タンスの中にビデオがなかったのを確認したんだろう。
姉はビデオテープで本気で俺のこめかみを殴った。
こんなに怒りをむき出しにした姉を見たのは初めてだった。
おれは、もうこの家にはいられないと思った。
俺は着替えをかばんに詰めると、書置きを残し、自転車に乗って本気で家出した。
町をふらふら自転車でさまよう。とにかく逃げることしか考えられなかった。
本気で死ぬことも考えた。
手持ちの金でコンビニ弁当とか食べながら、4日ぐらい野宿を繰り返した。
途中、首が吊れるような枝や設備を探したりもした。
実家から40キロぐらい離れた公園で寝ていたら、どう見ても薄汚れた家出少年の俺は、警察に職務質問された。
腹が減って、疲れきっていた俺は、もう警察から逃げる気も起きなかった。
両親は家出の理由を問いただしたが、俺は答えられなかった。姉のハメドリビデオを見ていたら、それが姉にばれたので家出したなんて言えるわけがなかった。
俺は、学校でいじめにあって、もう嫌になって家出した。家に問題があったわけじゃないと、適当にウソの言い訳をした。
家に連れ戻された俺が、鬱病寸前で部屋にこもっていると、姉が入ってきた。
俺「ごめん、姉ちゃん!ビデオのことは、絶対言わなかったから」
俺は土下座して謝った。
姉「いいよ。私も言い過ぎたわ。まさか本気で家出するなんて思わなかったから。本当に死んだんじゃないかと、本気で心配したわよ」
俺は、正直、本気で死のうと思ったことなども話した。
姉「そんなバカなこと考えないでよね。本当に生きててよかった」
姉は俺の頭を抱きしめてくれた。
俺「ごめんなさい。もう絶対姉ちゃんの部屋に入ったりしないから」
俺が泣き出すと姉も泣き始めた。ふたりで30分ぐらい、メソメソ泣いていた。
姉に許してもらえたのは救いだった。絶縁も覚悟していたからだ。
それから二人がそのことを口にすることはなかった。
俺も、もう二度と姉の部屋に黙って入ったりはしなかった。
姉は許してくれたが、その後も俺はあのビデオの映像が頭から離れなかった。
服の上から姉の胸を見たら、あの形のいいおっぱいと乳首が浮かんでくる。
お尻を見たら、あの白くてきれいなお尻が浮かんでくる。
本当に自分は最低の男だと思う。
最初からずっと「こいつらに同類意識持たせて俺がライターとして稼ぐための餌にしたろ!」としか思っとらんよ。
つうかはてな出身(笑)とかツイッター出身(爆)とか言ってるような奴ら全部そうだろ。
医者クマ・借金王・ALFA・ダビ山・元ポリス、みーんなみんな「ネットの陰キャに同族意識もたせて俺の餌にしたろ」としか考えとらんわな。
ぶっちゃけアイツら今よりもっと売れて本格的にテレビとか出るようになったりしたら「陰キャと付き合ってたの黒歴史になるからなんとか否定したろ」とかやりだすよ。
予言してもいい。
だからまあネットで陰キャムーブしてる奴みかけたら「あっ、擦り寄ってきてんな。金のために」と思えばいいよ。
最近だと陰キャ代表みたいなムーブからVtbuer題材のゲーム作りましたーって奴とか本当にあのゲームが売れたら「あーネットでそういうことしてた時期もあったけどぶっちゃけ黒歴史ー」とか言うと思うわ。
Vtuber委員長はそういうムーブしてないように見えるけど、ゆーてアイツは陰キャが勝手に共感してるだけで本質的には陽キャっていうポジやかんね。
そもそも最初から味方じゃないのにあまりにこの世界に味方が少なかった陰キャの側が勝手にそう思ってきて、それに影響されて向こうもそう思ってただけだからね。
いやまあヨッピーもソレに近い?
どっちにしろ「有名になるために利用したるわwww」って気持ちでしか見てないと思うし、陰キャの側も「俺らが陽キャより面白いもの知ってるってマウント取るために利用したるわwww」ぐらいにしか思っとらんやろ?
もともとそういう関係だよね。
映像コンテンツの倍速視聴に関する話題を目にして、ふと思い出したことがある。以下に記すのは、個人的な昭和の思い出話である。
歳の離れた兄が買っていた『SCREEN』と云う映画雑誌が、実家の本棚に何冊も置かれていることに気づいたのは、私が小学校の高学年になった頃だった。裕福な家庭ではなかったので、我々兄弟は一つの部屋を共有して過ごしていた。だから実際には、もっと以前から、その雑誌が本棚に置かれていたことを私も知っていた。したがって、正確に言えば気づいたではなく、興味を持つようになったと言うべきであろう。
それらは70年代に発売されたもので、ちょうどSF映画、オカルト映画、パニック映画が流行した時期に該当する。だから、これらのジャンル作品のスチール写真を載せたページを眺めるだけでも、子供には十分に楽しめたものだった。
やがて、そう云うビジュアル記事を眺めるだけでは飽き足らず、活字の部分にも目を通すようになった。最初は、やはりSF、オカルト、パニック作品に関係するところから読み始めたが、それらにも限りが有る。こうして、あまり子供向けではない記事にも、当時の私は目を通すようになっていった。現代とは異なり、地方の非富裕層の家に生まれた子供には、娯楽の選択肢が極めて少なかった。従って、ほとんど已むを得ずと云う形で、元々は興味対象外だったものにも手を出すことになったと云う次第である。私と似た境遇に在った地方の名も無き小中学生も、私と大同小異の経験をしたのではなかろうか。例えば、家に置きっぱなしにされた古いジャンプ/マガジン/サンデー/チャンピオンを、何度も何度も読み返し、その結果として、元々は興味が無かった作品の魅力に気付かされたといった、そう云う経験のことである。
話を戻すと、こうして結果的に活字記事も読むようになった私は、雑誌『SCREEN』に淀川長治の連載記事が掲載されていることに気づいた。当時の子供でも、淀川長治の顔と名前は知っていた。テレビに出て「サヨナラ、サヨナラ、サヨナラ」のセリフを言うことでお馴染みの、有名なオジサンであった。その連載記事は、読者からの質問や相談に淀川長治が答えるコーナーであった。
読者から寄せられた「僕は映画監督になりたいのですが、どうすれば映画監督になれますか?」と云う質問に、淀川長治は次のような回答をしていたと私は記憶している。
「こうすれば映画監督になれると云うような、確実な方法や手段は無い。それは無いが、強いて言うならば、同じ映画を十回は観なさい」と。
馬鹿な小学生だった私は、これを読んでも何のこっちゃとしか思わなかったが、世の中には淀川長治が言わんとするところを正しく理解して、きちんと実行した人も存在したのだった。それを後に私が知ったのは、中学生になった頃、GAINAXが初の作品『オネアミスの翼』を製作・劇場公開した時のことである。
中学生になった私は「何だか凄いアニメ映画が、若手クリエイターたちによって作られて、劇場で公開されるらしい」との情報を知った。知ったは良いが、そこはド田舎に暮らす非富裕層の哀しさである。公開する映画館は近隣に無かったし、そんな映画館が有る都市部まで行く手段も無かった。当時の私に出来ることといえば、劇場公開に合わせて発売されたムック本を、少ない小遣いで買って、それに掲載された場面の絵を見て、実際のスクリーンで動いているところを想像することぐらいであった。これもまた、同じような経験を持つ人がいることだろう。なお、そのムック本には物語の最後の場面までしっかり掲載されていたので、話そのものに関しては、当時の私も知ることができた。
さて、映画の場面を載せたビジュアル記事を読み終えた私は、もちろん活字記事の部分にも目を通した。そこには、本作品で監督を務めた山賀博之氏のインタビューも掲載されており、映画監督を目指そうとした山賀氏の若き日の思い出も語られていた。その思い出話こそが、淀川長治の「同じ映画を十回は観なさい」に関する話なのである。
雑誌『SCREEN』の淀川長治の当該記事を読んだ当時の山賀博之氏は、その教えどおり、同じ映画を十回観たと語っていた。ちなみに、実際に山賀氏が十回観た作品の例として挙げていたのは、少年野球チームの少年少女とコーチの奮戦を描いた、アメリカ映画『がんばれベアーズ!』である。テイタム・オニール、かわいい。山賀博之氏が語ったことは、概ね以下のようなことであった。
「最初の2〜3回目は、普通に観客として楽しんで観ているだけ。4〜6回目辺りは、もう観たところばかりだと思って、飽きて退屈する。それが7回目頃を過ぎると今度は、場面場面で作り手が何をしようとしているのか、ココで溜めてココで盛り上げようとしているんだなとか、画の見せ方とか、そう云う作り手の意図に気づき始める。同じ映画を十回観ると云うのは、こういうことかと理解した」やはり、何かを成し遂げる人は同じ文を読んでも、凡人とは違い有益な学びを得る能力が高いということなのだろう。
ここで紹介した淀川長治氏の教えと山賀博之氏の実践エピソードは、あくまでもプロを目指す人たちに向けた話なので、我々一般人とは関わりの無い話に思えるかもしれない。また、現代はコンテンツの数量が昔よりも多い時代なので、一つの作品を繰り返し読む/観るという時間的な余裕が無い現代人が大半だろう。しかしそれでも、一つの作品を繰り返し味わうこと、そして運が良ければ、そのリピート鑑賞を通じて何かを気付く/発見することは、貴重で豊かな経験であると私は思う。倍速視聴をしてまで観る作品の数を増やすことにも、一定の理由や合理性は有るのだろうとは思うが、何かしら自分のレーダーに引っ掛かるモノを持つ作品に出会った時には、少しだけ立ち止まって、それを繰り返し味わうことも試してみるのも一興ではないだろうか。
ここまで書いた上に蛇足だが、もう少し思い出を書き残す。昔、Blu-rayやDVD、レーザーディスクはおろか、家庭用ビデオすら普及していなかった時代の思い出話である。その頃は、アニメ映画作品の音声を収録した、LPレコードやカセットテープが販売されていた。(一部では家庭用映写機で上映出来るアニメ映画作品のフィルムテープのリールも販売していたが、これを買って楽しむことが出来るのは、本当の金持ちだけだった。)私は子供の頃、この手の音声収録レコード商品の一つ『ルパン三世/カリオストロの城』を所有する人物から、兄弟のツテでカセットテープにダビングしてもらい、それを何度も何度も繰り返し聞いて、頭の中では『水曜ロードショー』で観た『カリ城』の映像を想い起こして楽しんでいた。この体験のおかげで、私は今でも『カリ城』の全セリフを暗誦できる。何の自慢にもならないが。
そして、歳月が流れた。
後に社会人となって働き始めた兄が、VHSビデオデッキを買ってくれたので、我が家もビデオを利用できるようになった。金曜ロードショーで放映された『カリ城』を録画すると、当然それも繰り返し何度も視聴した。カーチェイス場面などはコマ送り再生で作画をチェックしていたので、倍速視聴とは正反対の行為である。
ほどなく小さなレンタルビデオ屋が我が町にも出来て、兄がスプラッター映画とかゾンビ映画とか借りてきてくれて、一緒に楽しんだりもできるようになった。古い『SCREEN』の記事を読んで、勝手に凄い作品だと思い込んでいた『巨大蟻の帝国』や『スクワーム』が、実際の映像を観るとショボい作品であることも思い知った。
大人になって、現在の宮崎駿のことは反吐が出るくらい大嫌いになり、ルパン三世作品としての個人的な評価も、軍配は『vs.複製人間』の方に上げるようになった。
子供の頃には観ることはおろか、存在を知ることも叶わなかった様々な作品の数々を、今では視聴して楽しむことが出来るのだから、明らかに子供の頃よりも、現在の私は恵まれている。
それでも、熱に浮かされたように古い映画雑誌を何度も読み耽って、観たことも無い映画の内容を勝手に想像したり、何度も何度も『カリ城』のカセットテープに耳を傾けて台詞を暗誦していた子供自体の思い出は、それらが経済的な制約から生じた行為だったにも関わらず、何だか私には宝物のように思えるのである。ただのガラス玉が宝石より愛しく思えるように。
B'zがようやくサブスクにやってきたわけだが,アーティストのページに並んでる曲のリストを見たら半分以上知らない曲ばかりで驚いた.
自分は40台半ば,B'zがデビューした頃中学生だった.その頃大好きで聞いていた(今は聞いていないとはいわない)TM NETWORKに関連したグループがでてきたよと教えてもらったのを覚えている.高校を卒業するくらいまでは新曲も聞いていたが,だんだんと洋楽を聴くようになってJ-POPをパクリの塊として軽蔑するようになってB'zを聞いていたことを黒歴史として封印するようになった.あの頃の若者っていつかは洋楽に行き着くものでそれが正当な成長とみなされていたものだったよな?最近の若い人には洋楽への憧れをみたいなものがないようなのでびっくりです.
自分が聞いているかどうかに関わらず彼らは活動を続けていたので時々耳に入ってくる曲に対して「なんか男くさい曲ばっかりになったなー」「まだやってんだな」と感想をもつくらいの関わりで過ぎてきた.CDをレンタルしてテープにダビングして聞くという時代だったので,往時に聴いていた音源はとっくに処分し,ふと懐かしくなって聴いてみようかと思っても,サブスクで音楽を再生することに慣れきってCDを再生することすらできなくなっていたので中古のCDを買うわけにもいかず,デジタルミュージックを購入してまで聴く気にはなれなかったので,実はB'zがサブスクにやってくるのは心待ちにしていた.ようやく愛用のApple musicに彼らが登場して,喜んでアーティストのページを開いたら冒頭のように半分以上は知らない曲が代表曲として並んでいるのに遭遇したわけだ.
そんなわけでデビューして最初の5年くらいにポップソングの主要購買層だった人間が作ったB'zのプレイリストに入れた曲に思い出話も付け加えた.昔はこの手の文章は個人がブログにたくさん書いていたものだが,今となっては検索してもそういうページがヒットしなくなった.
この曲はちょっと過小評価なのではないかと思う.MARSというミニアルバムの冒頭に収録されているが,残りの曲は過去曲のリミックスなので実質的に孤独のRunawayのシングルのような構成になっている.そういえばこの頃シングルよりちょっと曲数の多いミニアルバムっていう形態が流行ったよね.歌詞はもろにB'z的な「すべてを投げ出してどっかに行ってしまう男」の歌である.昔誰かがB'zはどこかに行こうと歌い続けながら,ずっとどこにもたどり着かない歌を作り続けている,みたいなことを書いていたが,その典型の歌といっていいだろう.ある意味彼らは20代の頃からずっと中年の危機を歌っているのだ.
今の若い人たちはモノラルっていっても意味がわからないかもしれないが,30年前は音楽をステレオ環境で再生するのは当たり前じゃなかったんだ.だからこの曲の出だしで「Be be be…」とヘッドホンやスピーカーの左右から交互に音が出てくるのにびっくりした人たちがたくさんいたんだよ.スピーカーが壊れたと思った人もいたとかいないとか.ちなみに自分はこの曲よりも前にTM Networkの「Come on everbody」の冒頭で音が左右にふられるのは経験済みだったのでそこまでは驚かなかったが.
少なくとも最初の数年はB'zといえばこの曲だと思っている人が多かったんじゃないか?カラオケでは「あのこは太陽のコマチ,」のあとの「エーンジェール」でみんなで一緒に手を挙げて歌ったものだ.90年代に勃興したCMタイアップという曲の一つだった.この頃はまだ日本が豊かだったなーという感想がでてくる.いわゆる失われた20年だか30年だかに入る前の時代の明るさとポップソングが激しく商業化していく時代の流れを思い起こさせる.
これもタイアップ曲だった.強く美しい女の人を称える歌を彼らはよく作っているがその典型といってもいいだろう.カップリングの曲の方が明らかに彼らに気に入られているように思われるので,タイアップ曲をA面に持ってこざるをえなかった大人の事情でもあったのだろうかと邪推する.当時は考えなかったことをおっさんになると考えるようになる.これを聴いて見えてくる女性像も90年代というか少しバブルの残り香があるように感じられるね.
自分にとっては新しめのB'zの曲…と思ったら1995年発表だった…まだ前世紀だとは思わず.つまりこの時点ではほとんど自分からは追っかけなくなってヒットしたら耳に入ってくるという状態になっていたわけだ.記憶を掘り起こすともともとのB'zらしい曲がひさしぶりに出たなあと思ったような気もする.これは「誰かとずぶずぶの関係になってしまったことを打開したい願望」を歌った曲で,彼らの曲に似たようなテーマが頻出する.これの派生で「自分の狂おしいまでの相手への執着(性欲?)をもてあましている」みたいなテーマも頻出しているように思う.あとは関係ないけど不倫らしき恋を歌った歌も多い.
えーと2001年なんでギリギリ21世紀の曲ですか.もはやこれがB'zの代表曲ですね.さすがにこれは世代を越えているようで,小学生ですら知っている.「ウルトラソウッ!」のあとにちゃんと「ハァイ!」が入れられる.運動会で使われることも多い.(以前サンプラザ中野くんがRunnerはずっと運動会で使われ続けているので今でも小学生が知っていると言っていた)ラテンの要素が濃いめで,後年サンタ・エスメラルダの「悲しき願い(Don't Let Me Be Misunderstood)」を聴いたときに,ああB'zには日本人の好きなラテン歌謡の要素がいれてあるんだなと理解できた.結局僕たちは哀愁をおびたメロディにロック風のアレンジをされた歌謡曲が大好きなんだ.そういうことを考え出すとJ-POPを聴くのが恥ずかしくなるのが大学2年生くらいだったんだけど,今となってはもうどうでもいい.子供と一緒にウルトラソウッ \ハァイ/ で超楽しい.
当時のカラオケで流れる背景がこの曲専用で,「仲の良いカップルがいて女性が交通事故で突然死んでしまう」というベタベタなストーリーだった.その頃はまだカラオケの背景動画は曲のイメージに合わせて適当なやつがランダムに流れるものが多かったのでじっと見入ってしまって,悲しい曲調と歌詞にあわせた展開にちょっと涙腺を刺激された覚えがある.関係ないが徳永英明はカラオケの映像に本人が登場するのですごく自分のことが好きなんだろうかという話をしていた.
同タイトルのアルバムのタイトルチューンだった.「新しい理想のために 上々の現状捨てたい 瞬間が来るだろういつか」と後年のポップ・ミュージック界のモンスター的存在になることを考えるとまだまだ駆け出しだった彼らはこの初期のアルバムにして既に「うまくいっている現状を放り出してどこかに旅立つこと」を歌っている.男は現状に満足してはいけない,常に新しいフロンティアを探して旅を続けなくてはならないのだ,というのはある種の強迫観念であろう.B'zには女性ファンもすごく多いけれど,そういう男の気持ちを歌っていることを女性たちはどのように考えているのだろうか?
アルバムの隅っこの曲だが,個人的に好きなのでいれた.若い頃に聴いて好きになった曲は年をとっても好きだということだ.最近は誰かにアルバムを通して聴くこともほとんどなくなったし,聴いたとしてもシングル・カット(これも死語か…)にならないような曲を記憶にとどめるようなこともない.売れない画家がタクシー運転手をして日銭を稼いでいることを愚痴る歌,という他にはあまりないテーマのユニークな曲.売れないミュージシャンだった頃の心情を投影しているのだろうか.
●RUN
これもアルバムのタイトルチューン.一緒にやってきた仲間たちとの,今ならホモソと呼ばれてしまいそうな連帯感を歌っている.どこかへ走り出そう→走っているときの高揚感→走ってきた俺たちの回顧,という流れの概ね後ろ半分が歌われている.B'z的世界の中では男の人生はこれの繰り返しなのだ.一番最後だけ歌うと別アルバム収録の「相変わらずなボクら」になる.
今回始めてMixtureというアルバムでリミックスされているのを聴いたが,元のバージョンの曲の印象を損なわずに,パワーアプしている感じがしてこの曲だけ新しいバージョンの方をリストに入れた.この曲を聴くとなぜかとても失礼なことをしてしまった女の子のことを思い出す.思い出すといってもその子にはほとんど会ったことがないのだけど.(会わないという失礼をしてしまった)
●Pleasure'91
一番最後に挙げたが,B'zがサブスクにやってきて最初に検索した曲はこれ.シングルのB面曲だったが,その後もツアー名になったり韻を踏んだTreasureがベストアルバムのタイトルになったりで,本人たちも気に入っているのがよくわかる.その後95,98と歌詞違いが生まれて,男の人生の年代記みたいになっているのは知っているが,やっぱり91が一番だ.
これを聞いていたのは10代半ばでまだ何も始まっていなかったのに,自分の人生を振り返りながら「止まれないこの世界で胸を張って生きるしかない」と歌うのに共感していたのは今考えると不思議だ.もちろんそこから30年経って,子どもたちを乗せた車で「怖いものはありますか,守るものはありますか」と歌っているのを聴くと自分もずいぶん遠くまで来たと感じる.あの頃の友達と今年は集まる予定だったけどコロナのせいでいつ会えるかもわからなくなってしまった.下らなかったあの頃に戻っていつも同じ思い出話をしたい.