はてなキーワード: スクールカーストとは
そうなんだけど、集団の力学っていうかガバナンスが体育会系スクールカーストから全然進化しないから
いかに悪目立ちしないように良い感じで目立つか、スクールカースト上位に気に入られるか、みたいなテクが
「ビジネススキル」「コミュ力」と言われていて、このあたり体系的に学ぶ機会がない。
技術スキルの高い人、高い教育を受けている人でこの辺のカースト力学に対応できずに腐ってしまう話が結構あるように思うんだよね。
だからって独立すると雑用も含め、人を雇う売上がたたないと全部自分でやらなきゃいけなくなってしまうし。
この10年位で
ネットでいろいろ直接販売できるようになったりプロジェクト単位でオンラインで仕事できたりしてそういうのに向いたスキルの人には
多少住みやすくなったのだろうか。
コロナワクチンの副反応が微妙にしんどくて気を紛らわしてたら変に思考が回ってしまい,最弱の男性のペルソナを思い浮かべてしまった.
もし小説など創作的なことをされている方がいたら自由に本設定のキャラを作ってください.
年齢:36歳
身長:165cm
体重:61kg
視力:裸眼視力は0.05であり,太い黒縁のメガネをしている.
容姿:思春期のニキビ跡により顔中穴だらけかつ苺鼻.表情筋は未発達でいわゆる不自然に幼いチー牛顔(かつタラコ唇).歯は歯石に満ちて黄色く出っ歯.6等身なほど顔が大きい.
服装:一張羅のスーツをクリーニングに出さず着続けている.休日は上下ジャージ.
家庭:
父親はアル中以外には疾病がない無職,いつもストロングゼロを昼から夜まで飲んでは中核派のような発言をして母親を叩いている.
母親はその実家含めカルト宗教の信者であり,専業主婦を自称しているがマルチ商法の会員として日々カフェで情報弱者をだまそうとしている(入会以降の収支は大赤字).
父親の実家については祖父が大日本帝国陸軍の軍曹でありシベリア抑留で死亡(遺骨無し),祖母は強度の認知症だが資金不足によりアパートで孤独に暮らしている.
父親は祖父の経歴を「アジア侵略に加担した者の当然の報い」だと息子であるMに幼少期の頃から言い聞かせており,安保闘争に参加して警察官にレンガを直撃させ後遺症を残したことに自信と誇りを持っている.
経歴:
中学まで地元の公立学校にて低いスクールカーストとして過ごす.一定程度の成績を残していたため自称進学校に進学するも落ちぶれる.1浪して地元のFラン大学に目的もなく入学し,第2種奨学金を借りた.
大学では単位取得をろくにせずに過ごし2回留年する.最終的には中退し,就職課の紹介で上記のような職場の非正規社員となる.
以後は人手不足に助けられて契約を更新し続けている.肩書こそシステムエンジニアだが社内雑用がメインであり,横展開可能なスキルは持ち合わせていない.
生活:
週休は不定期の1日で就業日は朝9時から夜9時まで勤務.自分は休みとボーナスを貰えるだけずっと良いと下を見て過ごしており,マクドナルドやコンビニの店員や介護士やAmazonの倉庫管理従事者を見下している.
特に店員が中韓の人であれば露骨に嫌な顔をし,日本人店員に対応されると聞き取れないボソボソ声で「やはり日本人が良いな」などとつぶやいている.
父の反動としてMはネトウヨと化し,今日も終業後はTwitter上で国士を自称して大日本帝国と大東亜共栄圏の復活を目指すと言いながら,排外主義的で支離滅裂な陰謀論をまき散らしている(ツイートの95%がRT).
毎日,朝ダチ処理と就寝前にマスターベーションをかかさない性豪.おかずは高校時代に3年間ずっと好きだったクラスメートの女性,或いはそれに似た女優が出演している制服モノAVで,レイプシチュを特に好む.
オタクの彼女がチャラ男やジョックに寝取られるシチュエーションは地雷であり,滅べと時々ツイートしている.度重なるオナニーにより男性ホルモンがやや過剰に分泌されており,腋臭はもちろん,朝に髭を剃っても夕方には無精ひげができるほど.
上述したような立場とスキルの無さから,業績不振になれば直ちに解雇される候補の一人である.にもかかわらず,一切の自己研鑽をせずTwitterにかじりついている.親の介護のことは一切考えていない.
ケン・ローチ監督の『わたしは、ダニエル・ブレイク』を観た。名作なので是非ファスト映画しないで観てほしいが、要するにダニエル・ブレイクという失業者の男性の物語を通じて、イギリスの中間層の人々の没落と緊縮財政の中で利用者の尊厳を奪っていくような福祉制度を批判している、ある種左翼的な映画である。取材に裏打ちされた、貧困に追いやられた人々のリアルな描写に胸が痛む。
この作品に、ダニエル・ブレイクと心を通わせるシングルマザーの親子が登場する。
シングルマザーで貯蓄も仕事もない母親は子どもに満足に衣服も買い揃えてやれない。小学生くらいの娘の靴も、ボロボロだけど接着剤でつないで凌いでいる。このボロボロ靴の のことで娘は学校でイジメの対象になってしまう。そして娘のイジメをきっかけに、靴を買い替えるお金を稼ぐために売春に手を染める。貧困が呼び起こす不幸のループに、やるせ無い気持ちになるシーンである。
以下は自分のこと。
この映画を観て自分はこれまでの人生で起きた後ろ暗いことにスポットライトが当てられた気持ちになった。
ボロボロ靴について。
小学生の頃、自分はスクールカースト下位のイケていない方で、いじめっ子体質の同級生に毎日ビクビクしながら過ごしていた。そんなスクールカーストにも下には下がいて、自分よりも遥かにいじめられていたKという同級生がいた。Kがいじめられていた理由は、Kの家庭に原因があった。Kの家庭にはお金がなく、Kに服を満足に買い与えてやれていなかった。Kはまさに、靴底に穴が空いたボロボロ靴を履いて学校に通っていた。
Kのことを思い出し、純粋に哀れに思える立場であるのであればどんなに良かったか。何を隠そう、自分もKのいじめに加担していたのである。いじめられて泣いているKに対して心無い言葉をかけて、さらに追い討ちをかけていた。よくある話で、いじめの対象が自分に向かないように、より自分の下のものをいじめていたわけである。学校のクラスという閉鎖空間で起こる暴力的な手続きの中で、自分もせっせと加担していたということだ。
人生で何度か、いわゆる風俗店に行ったことがある。当時付き合っていた彼女と別れ、1年以上セックスをしていなかったとき、吉原のソープランドへ行った。ソープランドでしっかり射精して、満足していたのだが、時間が余り、世間話をした。彼女はもともと美容師をしていたというが、さまざまな薬液を扱ったことで手荒れが酷く、泣く泣く仕事を辞めていまの仕事に就いているとのことだった。それ以上の話は聞いていないので、この仕事に至るまでにどんなことがあったのかはわからないけれど、以前某芸人がコロナ禍でお金に困った女の子が風俗に来るのが楽しみ、などと言っていたが、そのような類の事情があったのだろう。なんだか彼女をしっかり搾取してるようでやるせない気持ちになり、以降、風俗店には行かなくなった。
今年、娘が産まれた。かわいくて仕方がない。娘の幸せを願ってやまないが、『ダニエル・ブレイク』そんなは自分に対してきっちり刃を向けてくる。弱きを挫き、搾り取る側に自分が立っているということを、否が応でも思い出させる。
この映画は、もし自分の娘が将来いじめられたら?自分が失業し、娘に満足に服を与えてやれなかったら?妻や娘が生活のために売春せざるを得なくなったら?そのような問いを投げかけてくるが、自分がその問いを現実に突きつけられている人々を哀れむことを許さない。自分はただの加害者のクソ野郎だから。
こんなものを匿名で流しても、Kもソープ嬢も救われない。むしろ彼・彼女にとって自分はクソ野郎でしかない。その事実は絶対に変えられない。
一方、こんなのありきたりなよくある話でいちいち反省しなくてもいいという向きもあるかもしれない。だが、自分の中にある有害性について、ここで吐き出しておきたかった。
めぐるは、『はこぶものたち』等であの共感性が先天的なものではないかもしれないとなって、Pたちを困惑させてるけど、先天的である可能性が消えたわけではない。
(ここから)
めぐるの母親は元モデルで、美人でモテてスクールカースト高いけどあんまり深く物事を考えない感じの女性だった。
ある時、モデルの仕事中、急にカメラマンが来れなくなるトラブルがあって、その時たまたま居合わせのが後のめぐるの父親なんだよね。彼は自然の写真を撮ってナショジオに売ったりしてたフリーの写真家で、あまり感情を出さないシャイで職人肌な日本人らしい人物。仕方なく彼に撮影を頼むスタッフたちだけど、最初は人物は撮らないと断られる。それでもと頼み込んで渋々了承されて撮られた写真が、結局めぐるの母親の生涯のベストショットと言われ、色んな賞を獲るほどに評価されることになる。
これをきっかけにめぐる母は彼に興味を持ち、内に秘められた感性とか形而上のものにも意識が向くようになっていく。やがて二人は恋人になり、夫婦になり、産まれた子供は明るい社交性と繊細な共感性を併せ持つ完璧な美少女になったんだよね。
(ここまで幻影)
そんなもんは「ギャルも人間なんだから、オタクだろうがなんだろうが人間に優しい人もいればそうでない人もいる」で終わりなんだよ。
まずねぇ、現状を理解するためには、現代の若い人たちの間では「陽キャ」が悪口として機能しているという現象を理解する必要がある。
「美味しいヤミー」があまり良くない形でバズったのも記憶に新しいが、現代において「陽キャ」という言葉には「バカっぽい」「無神経そう」といったネガティブな印象を持つ人が多い。
「そういう意味で使う人が多い」というよりも、「無意識のうちに、そういう印象が付きまとっている」という感じ。
今の若い人を見ていると「陽キャ」って言われたくない人が本当に多いんだよね。たとえ褒め言葉だとしても。
まずこのような現実を知っておかなければ、「オタクに優しいギャル」というミームの立ち位置を理解することは出来ない。
ここで、「ギャル」というのは、「陽キャ女子」とニアリーイコールなわけ。
「オタクに優しいギャル」というのが「捨て犬に優しい不良」と同じ構造のギャップ萌えであることは明らかだが、では「ギャルは普通、オタクに優しくない」というを偏見はどこから来るのか?
多少誇張して言えば、「ギャルというのは性格が悪いから、スクールカースト下位に優しいわけがない」から。
そういうあまりよろしくない偏見を下地にしたギャップ萌えなわけ。
まあ、若い連中が「オタクに優しいギャルもいるもん!」とか言ってキャッキャしてる分には「若気の至り」として大目に見ることはできても、そもそも初めに述べたような「陽キャ」の立ち位置からして理解してないジジババどもが「オタクに優しいギャルなんているわけない!オタクの妄想!」とか言い出すのはもう擁護不可能だろ。老害はとっととフェードアウトしてくれ。
まして「オタクを嫌うギャル」を書けとか言うバカ、「ギャル」に対する偏見をエスカレートさせてるだけの差別主義者なんだよね。おまえらはもう喋るな。
同意。
ネットではスクールカーストの話題って盛り上がるけど中高の頃そんなの感じなかったからいつも不思議な気分になる。
自分の場合進学私立の中高一貫男子校だったからかなと考えてる。具体的には
・男子校なので異性の目がなく、異性からの評価をめぐって競争したり虚勢を張ったりすることがない
・基本的に勉強のできる人間が敬意を払われるので、いわゆる陰キャっぽい扱いされそうな奴でも尊敬されてたりする
・育ちの良いお坊ちゃんが多かった
あたりが大きいのかなと考えてた。特に1点目。
社会人なってからは外資系コンサルティングの巨大企業に務めたけどカーストとか以前に個人個人での剥き身の戦いだった。
これ去年も見た増田(anond:20210505162132)じゃん。でも丸コピかと思ったら結論部分変えてんのね。変わった結論には賛成。俺も「女を男並みに自由だけど粗末に扱う」方向で行くのがいいと思う。これは去年レスした通り(anond:20210505191016)。
その上で、重箱の隅として。
フェミニズムでは、「女を自立した人間と信頼して放任しろ、家父長制で口を出してくるのやめろ」というアプローチが行われていたため、その逆である、過度の信頼による放置という男性差別は問題視されづらいのです。
これはまったくフェミニスト側の言い分が正しい。国や社会が個人に過剰な口出しをするのは控えるべきで、可能性を狭める方向の「保護」や介入は言語道断だ。
だから、コロナ禍で女性の自殺率が上がったと騒がれていても、なお男性の方が多く自殺しているのだから、女性の自殺率の上昇は国や社会として気にすべきではない(男女平等に向かっているだけ)ということになるはずなんだけど、なぜかフェミニストはこれに騒ぎ立てたんだよな。あいつらわけわからん。
(男女問わない包括的な自殺防止プログラムはあってよいという意見もあるかもしれないけど、著名人の自殺報道に関してWHOのガイドラインとやらを振りかざして表現規制しようとしてくる連中が大勢湧いてくる現状ではどう考えても過剰な自由の統制にしかならないので反対。経済の好転とか、闇金の取り締まりとか、学校教員を増員して各学級に副担任を必ず配置するとか、学級を固定せず流動的にすることでスクールカーストの発生を抑止するとか、そういう間接的に自殺を減らす方向での対策を行うべきだ)
しかし同時に、「襲ってくるとしたらたぶん男だ。男を警戒すべきだ」「男の自分は、夜道で女とすれ違う時に怖がらせてしまうだろうから気を使わねばならない」「男の帰り道を気遣ってやる必要はない、男は粗末に扱っていい。自分も男だから、自分の事も心配せず粗末に扱うべきだ」という認識を強めることにもなります。
個人が何を警戒するかはそれこそ自由なので、男を警戒する女がいてもよい。もちろん、それに対してこちらが配慮する必要もないので、男は堂々と夜道を歩けばよい、というのが俺の結論。
俺は夜道で前を歩くのが男か女かで対応を変えたりしない。向かっている方向が同じならそのまま後ろをついて歩くし、歩くの遅いなと思ったら追い越すし、目の前でエレベータが閉まりそうになっていたら「待ってください」と声をかけて同乗しようとする。これらはすべて前を歩くのが男なら当たり前のことなのだから、女に対しても同様の対応をするだけだ。
そこで女側の言い分を聞いて「怖がらせてしまうと申し訳ないな」などと思うのがアホらしいと思う。何を怖がるかは個人の勝手だが、普通に歩いていただけで怖がられたとしても怖がられた側に一切の倫理的責任はない。「私は青いシャツを着ている人が怖いんです」という弱者がお前の街にいたら配慮するのか? バカバカしい。そんな感情は怖がる側の責任でどうにかしろ、以外の言葉がない。
なので、
私の主観的な意見としては、消極的自由を重視して積極的自由には疑問を持っている思想なので、保護よりも自由、安全よりも可能性を男女ともに重視する方がよいと思っています。
という結論には大賛成だ。俺は男女平等を強く信じている。女は男並みに扱われるべきだ。一人前の人間に対する過剰な保護は要らない。もっと自由で平等な社会にしていこう。
もう長いことフリーターやニートを行ったり来たりしている。仕事に就いても長続きせず、職を転々とする日々。もうかれこれ十社以上職を転々としてきただろうか。就いた職業の多くは施設警備や物流倉庫でのピッキングなど責任の伴わない仕事ばかり。コミュニケーションの得手不得手以前に、人と関係を結んで生活していきたくないと考える。人に指示を出すのも嫌だし、人の上に立って何かを行うことも好まない。集団の中において自分は空気のような存在でいたい。そういうわけで人間と関係を維持することもままならない。まさか自分が将来このような生活を送るとは想像もしていなかった。子供の頃は学校を卒業したらどこかの会社に就職してバリバリ仕事に精励するものだと思っていた。それがこのありさまである。未来と言うのは本当に不確かなものだ。
陽キャと陰キャの二元論で物事を語るのは好きではないが、今日はそれについて語りたい。学生時代の自分は割とスクールカーストの上位の方にいて、やんちゃで明るくてクラスでもみんなの中心となるような人物に囲まれて学生生活を送ってきた。といっても自分から進んでそうした人たちとコミニケーションをとって親睦を深めたわけではない。何というか気づいたら仲良くなっていただけのことに過ぎず、自分の意思で関係を構築していたわけではなかった。
自分は公立の小中学校に通っていたが、公立の学校には実に様々な人間が存在する。所得水準の高い家柄に生まれて幼少の頃から様々な習い事に触れてきて教養がしっかりと身に付いている人もいれば、親の社会的地位が高く、幼い頃から多大な投資を受けてきたことにより校内でもトップクラスの成績を誇る者。またそれとは反対に、貧しいが故にろくに教育を受ける機会のなかった人や両親がやんちゃをしていたために子もそうした性質引き継いで不良の道へと突き進んでいった人などなど実に属性の種類は豊富である。自分はたまたま同じクラスにやんちゃなことをする人が多かったからなのか、なぜか彼らと共にいることが多かった。公立の学校というのは本当にいろんな人がいるので、たまたまそういう人たちが近所に住んでいたから仲良くなったのかもしれない。詳しい事は自分にもよく分からない。
彼らとは本当にいろんなことやってきた。定期テストをサボってゲーセンに入り浸って夜を明かしたり、ワックスで頭を塗りたくって度々生徒指導の先生にお叱りの言葉を受けたりといったようにやることと言えば平気で校則を無視してきたことばかりであった。そうしたことばかりしてきたので周囲の人間からも自分はいたずら好きな人間なのだと認識され、近寄ってくる人たちも自然と自分と近しい人達ばかりであった。
中学生活も終盤に近づいてくると高校受験という大きなイベントがやってくる。自分は一応塾に通っていたので高校受験の受験をするつもりでいたし、そのための準備もしていた。しかし、しばらくするうちに自分と彼らとの間に深い溝ができ始めていることに気がついた。それは彼らが、僕が受験勉強に励んでいるのを快く思っていないのではないかということ。想像するところによると、自分が高校受験に向かって勉強してるのがどうやら彼らにとって喜ばしいことではないらしいのだ。彼らの中でも自分はまだ比較的に経済事情が恵まれていたので、教育にお金を費やすことができた。だから高校受験もできるし、将来の選択肢もそれほど狭くはない。しかし、彼らはそうではない。経済的に貧しいが故に教育にお金をかけることができず、高校受験を受けると言う資格すら与えられていなかった。また受験できたとしても学業への意欲が湧かないことやどうやって勉強すれば良いのかわからないなどといった理由により、レベルの低い学校に行くかのいずれかしか選択肢がなかった。そうした中で自分だけ勉強して彼らのもとから離れようとしている。それは彼らにとっては喜ばしいことではなく、どこか心にわだかまりが残ることだろう。これはグループの一人が自分だけ集団から抜け出して別の道に進むことをイメージしてもらえればよい。ドロップの主人公が自分だけ輪の中から抜けることや、ビリギャルの主人公がグループの反対を押し切って難関大学の受験に挑むのと似たような状況である。結局、自分は難関校とは程遠い偏差値が50いくかいかないかくらいの自称進学校に入学した。もともと勉強とは無縁の人間で、定期テスト100点中30点位がほとんどだったので、これが自分にできる限界の学習であったと言えるので特に後悔はないのたが。
高校に入ってから彼らと連絡を取ることもなくなった。もうすっかり別の世界で生きているような感じだったし、実際に会うことも何度かあったが、会話を交わす事はなく、以前のように親しい感じで接することもなかった。そこには陸と島ほどの距離感があった。そこそこ勉強して高校に進んだからこそ、彼らは自分を自分達とは別の人間だと考えていたようだし、自分たちのような悪質な遊びをすることも好まないだろうと考えていたから昔のように悪ふざけをして遊ぶこともなくなった。
高校は高校で中学までの人とは別のタイプの明るい人達と仲良くなってそれなりに楽しく日々を過ごすことができた。それでもたまたま仲良くなったから仲良くしていただけで、自分からそうした人たちと仲良くしたいわけではなかった。別に友達など作らなくても、一人で何かに没頭するような事があってもよかったのだけど、生憎オタクのように何か一つのことに強い情熱を注いだこともない。自分は人生そのものに関心がなかった。
自分の性質に関心を向けるようになったのは大学生活も終盤に近づいてきた頃である。これまでの学生生活を振り返ってみて、自分はどうしてやんちゃなことばかりしてきたのだろう、どうしてクラスでも目立つような人間とばかり付き合ってきたのだろうというようなことばかりを考えた。彼らと自分はベクトルの向きが真逆の人間であるというのに。自分は目立つことが嫌いで、教室でも隅の方で目立たず静かに生活していきたいと考える人間だった。思えば、僕は自分から人に話しかけて友達を作ったことなどなかったような気がする。自分がどんな人間と仲良くなりたいかと言う考えも持っていなかったし、主体性を発揮して何かを行ったこともない。いつも周りに流されて生きてきて、自分の意思で自分の人生を生きているという感覚がなかった。昔から自分は一人が好きで、人と関わりを持とうとせずに、一人で何かすることを好んできた。つまり、昔から自分は自閉傾向のかなり強い人間だったのである。それでも何とか今までやってこれたのは環境の影響や周りの方から声を掛けてきてくれたことにより、そうした性質が隠蔽され、それが浮き彫りにならなかっただけの事に過ぎない。
周りに流されて生きてきて自分の性質を客観的に見る機会を持たない人間は本来の自分がどういう人間なのか分からなくなる。人間の人格形成には遺伝的要因と環境的要因の二つが大きく関わっているけれど、子供の頃はそうしたことに頭を悩ませることもない。
結果として今では陽キャのようなアクティブな遊びを好んでみんなでワイワイ仲良く時間を過ごすこともなければ、アニメオタクやアイドルオタクのようにある一つの対象に過度に没頭してコミュニティを形成し、そこでのコミュニティーに強い仲間意識を持って生活することもない。陽キャにも陰キャにもなれず、中立的な立ち立場にいて、どこにも属さずに社会から孤立しているのがが自分である。
もっと早いうちから自分の性質や人物像を客観視しておけば後の人生もまた変わったものになったのかもしれないが、当時はそうしたことも難しく、後から結果論として物事を論じるしかない。それが人生というものなのだろう。
もう長いことフリーターやニートを行ったり来たりしている。仕事に就いても長続きせず、職を転々とする日々。もうかれこれ十社以上職を転々としてきただろうか。就いた職業の多くは施設警備や物流倉庫でのピッキングなど責任の伴わない仕事ばかり。コミュニケーションの得手不得手以前に、人と関係を結んで生活していきたくないと考える。人に指示を出すのも嫌だし、人の上に立って何かを行うことも好まない。集団の中において自分は空気のような存在でいたい。そういうわけで人間と関係を維持することもままならない。まさか自分が将来このような生活を送るとは想像もしていなかった。子供の頃は学校を卒業したらどこかの会社に就職してバリバリ仕事に精励するものだと思っていた。それがこのありさまである。未来と言うのは本当に不確かなものだ。
陽キャと陰キャの二元論で物事を語るのは好きではないが、今日はそれについて語りたい。学生時代の自分は割とスクールカーストの上位の方にいて、やんちゃで明るくてクラスでもみんなの中心となるような人物に囲まれて学生生活を送ってきた。といっても自分から進んでそうした人たちとコミニケーションをとって親睦を深めたわけではない。何というか気づいたら仲良くなっていただけのことに過ぎず、自分の意思で関係を構築していたわけではなかった。
自分は公立の小中学校に通っていたが、公立の学校には実に様々な人間が存在する。所得水準の高い家柄に生まれて幼少の頃から様々な習い事に触れてきて教養がしっかりと身に付いている人もいれば、親の社会的地位が高く、幼い頃から多大な投資を受けてきたことにより校内でもトップクラスの成績を誇る者。またそれとは反対に、貧しいが故にろくに教育を受ける機会のなかった人や両親がやんちゃをしていたために子もそうした性質引き継いで不良の道へと突き進んでいった人などなど実に属性の種類は豊富である。自分はたまたま同じクラスにやんちゃなことをする人が多かったからなのか、なぜか彼らと共にいることが多かった。公立の学校というのは本当にいろんな人がいるので、たまたまそういう人たちが近所に住んでいたから仲良くなったのかもしれない。詳しい事は自分にもよく分からない。
彼らとは本当にいろんなことやってきた。定期テストをサボってゲーセンに入り浸って夜を明かしたり、ワックスで頭を塗りたくって度々生徒指導の先生にお叱りの言葉を受けたりといったようにやることと言えば平気で校則を無視してきたことばかりであった。そうしたことばかりしてきたので周囲の人間からも自分はいたずら好きな人間なのだと認識され、近寄ってくる人たちも自然と自分と近しい人達ばかりであった。
中学生活も終盤に近づいてくると高校受験という大きなイベントがやってくる。自分は一応塾に通っていたので高校受験の受験をするつもりでいたし、そのための準備もしていた。しかし、しばらくするうちに自分と彼らとの間に深い溝ができ始めていることに気がついた。それは彼らが、僕が受験勉強に励んでいるのを快く思っていないのではないかということ。想像するところによると、自分が高校受験に向かって勉強してるのがどうやら彼らにとって喜ばしいことではないらしいのだ。彼らの中でも自分はまだ比較的に経済事情が恵まれていたので、教育にお金を費やすことができた。だから高校受験もできるし、将来の選択肢もそれほど狭くはない。しかし、彼らはそうではない。経済的に貧しいが故に教育にお金をかけることができず、高校受験を受けると言う資格すら与えられていなかった。また受験できたとしても学業への意欲が湧かないことやどうやって勉強すれば良いのかわからないなどといった理由により、レベルの低い学校に行くかのいずれかしか選択肢がなかった。そうした中で自分だけ勉強して彼らのもとから離れようとしている。それは彼らにとっては喜ばしいことではなく、どこか心にわだかまりが残ることだろう。これはグループの一人が自分だけ集団から抜け出して別の道に進むことをイメージしてもらえればよい。ドロップの主人公が自分だけ輪の中から抜けることや、ビリギャルの主人公がグループの反対を押し切って難関大学の受験に挑むのと似たような状況である。結局、自分は難関校とは程遠い偏差値が50いくかいかないかくらいの自称進学校に入学した。もともと勉強とは無縁の人間で、定期テスト100点中30点位がほとんどだったので、これが自分にできる限界の学習であったと言えるので特に後悔はないのたが。
高校に入ってから彼らと連絡を取ることもなくなった。もうすっかり別の世界で生きているような感じだったし、実際に会うことも何度かあったが、会話を交わす事はなく、以前のように親しい感じで接することもなかった。そこには陸と島ほどの距離感があった。そこそこ勉強して高校に進んだからこそ、彼らは自分を自分達とは別の人間だと考えていたようだし、自分たちのような悪質な遊びをすることも好まないだろうと考えていたから昔のように悪ふざけをして遊ぶこともなくなった。
高校は高校で中学までの人とは別のタイプの明るい人達と仲良くなってそれなりに楽しく日々を過ごすことができた。それでもたまたま仲良くなったから仲良くしていただけで、自分からそうした人たちと仲良くしたいわけではなかった。別に友達など作らなくても、一人で何かに没頭するような事があってもよかったのだけど、生憎オタクのように何か一つのことに強い情熱を注いだこともない。自分は人生そのものに関心がなかった。
自分の性質に関心を向けるようになったのは大学生活も終盤に近づいてきた頃である。これまでの学生生活を振り返ってみて、自分はどうしてやんちゃなことばかりしてきたのだろう、どうしてクラスでも目立つような人間とばかり付き合ってきたのだろうというようなことばかりを考えた。彼らと自分はベクトルの向きが真逆の人間であるというのに。自分は目立つことが嫌いで、教室でも隅の方で目立たず静かに生活していきたいと考える人間だった。思えば、僕は自分から人に話しかけて友達を作ったことなどなかったような気がする。自分がどんな人間と仲良くなりたいかと言う考えも持っていなかったし、主体性を発揮して何かを行ったこともない。いつも周りに流されて生きてきて、自分の意思で自分の人生を生きているという感覚がなかった。昔から自分は一人が好きで、人と関わりを持とうとせずに、一人で何かすることを好んできた。つまり、昔から自分は自閉傾向のかなり強い人間だったのである。それでも何とか今までやってこれたのは環境の影響や周りの方から声を掛けてきてくれたことにより、そうした性質が隠蔽され、それが浮き彫りにならなかっただけの事に過ぎない。
周りに流されて生きてきて自分の性質を客観的に見る機会を持たない人間は本来の自分がどういう人間なのか分からなくなる。人間の人格形成には遺伝的要因と環境的要因の二つが大きく関わっているけれど、子供の頃はそうしたことに頭を悩ませることもない。
結果として今では陽キャのようなアクティブな遊びを好んでみんなでワイワイ仲良く時間を過ごすこともなければ、アニメオタクやアイドルオタクのようにある一つの対象に過度に没頭してコミュニティを形成し、そこでのコミュニティーに強い仲間意識を持って生活することもない。陽キャにも陰キャにもなれず、中立的な立ち立場にいて、どこにも属さずに社会から孤立しているのがが自分である。
もっと早いうちから自分の性質や人物像を客観視しておけば後の人生もまた変わったものになったのかもしれないが、当時はそうしたことも難しく、後から結果論として物事を論じるしかない。それが人生というものなのだろう。