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いやー、「竜とそばかすの姫」、実質的な「ラブライブ!スーパースター!!」の第一話でしたね! 作品としての出来はラブライブの100分の1にも満たないですけどね(素人の雑感です)!
以下感想(ネタバレあり、パンフレットは売り切れていたため未読です)。
なんなんですかね、あの序盤は。三幕構成でいうなら、第一幕が終わるまでの部分がとにかくひどい。ひどすぎる。監督氏も僕みたいな正社員経験のない四十手前の人間にいわれたくないでしょうが、あえて申しましょう。冒頭開始からの35分は10分程度に短縮できます。
劇中で主人公の幼少期と、母親の死のシーン、幸せな生活の終わりが描かれますが、プロットにおいてどうでもいいし、とくに母親の死のシーンなんて、死ぬほどどうでもいい。心底どうでもいい。
プロットに関係ない部分は省きましょう。劇中でも描かれましたが、母親がすでに死んでいることを伝えたいのなら、画面に遺影を写すだけでかまわないのです。「見知らぬ子どもを助けるために、川に入って死んだ」という事実は、シナリオの進行になんら影響をもたらしませんから、シーンごと削除すべきでした。
序盤が冗長すぎるせいで、この映画の主題がぼんやりとしかわかりません。インサイティング・インシデント(物語のつかみとなる事件)をおこすことに失敗しているため、観客が映画に集中することができないのです。
この映画はなにを描きたかったのでしょうか? 仮想空間での冒険を描きたいのか、仮想空間と現実世界とのギャップを描きたいのか、母親の死の克服、学校での人間関係、恋愛にまつわるエピソードを描きたいのか、主題がまるでわかりません。もし全てを描きたいというのであれば、つまらないことはやめろといいたい。
映画は積み重ねではなく、省略の美です(数えるくらいしか映画観たことないです)(素人の妄言です)。
劇中で描かれる仮想空間は、一言でいうならよくわかりません。なんのためにつくられたのか、それを使ってなにができるのか、いまいちよくわからないまま映画は終わります。しかし限られた上映時間のなかで、わからないことをわからないまま置いておくという決断を下したことは評価できます。
問題は仮想空間の描写が古すぎるということです。監督氏のネット認識は、「電車男」あたりの時代から更新されていないのではないでしょうか。
劇中で登場した仮想空間は、よくわからないスキャンシステムにより、現実の姿を反映したアバターを生成し、乗り込むというかたちになります。仮想空間には50億アカウント以上の登録があり、一種のインフラともいえる規模です。現実世界の姿のまま活躍している人間が一人も確認できないのはおかしいとも思いますが、劇中の人間にはそんな発想はないのでしょう。
しかし、どうも仮想空間の描き方というか、劇中で描かれたネット空間の概念自体が古いとしか感じられません。ネットの世界なんて、しょせんは現実の延長線上でしかありません。監督氏はネットと現実は切り離された世界だと思っていらしゃるのでしょうか。
仮想空間で主人公は竜(とある登場人物のアバター)と知り合いましたよ→竜が困ってますよ→でもアバター同士でしか面識がありませんよ→現実での顔を知らないため、オンラインで顔出しチャットしても、自分のことをわかってくれませんよ→だから全世界に素顔を晒すって、論理としては破綻していませんが、その発想の爺むささに腰を抜かしました。
劇中にはおもに二人の悪役が登場します。仮想空間の自警団長(間違った表現だが、そうとしか言いようがない)と、竜の中の人のパパです。
両者は悪役としてまさに力不足です。びっくりするほどうすっぺらく、たいした思想もないのに悪逆非道をつくすさまは、令和の時代に出てくる登場人物とは思えません。
まずは自警団長を紹介しましょう。彼は事実上の無法状態である仮想空間において、企業とスポンサー契約をかわし、自分の正義において悪を裁く役割を担っています。「TIGER & BUNNY」に出てくるヒーロー的な存在といえばわかりやすいでしょうか。
彼の必殺技は「ネットに素顔を晒しちゃうぞビーム」です。なんなんすかね。読者の皆さんはなんだと思います? 警察的な役割を果たすのであれば、わざわざ仮想空間でバトルするのではなく、現実側でアプローチする(主人公サイドはそうしていた)とかしたほうがいいと思いますが、これ以上紙幅を割くのはやめておきましょう……。
もうひとりの悪役である、竜の中の人のパパ氏を紹介しましょう。彼は自分の子どもに暴力を振るう最低パパです。しかし、劇中では主人公に立ちはだかれ、主人公の「にらみつける」に気圧され、敗走することになります。
この描写はおかしいとしか思えません。彼は日常的な暴力に慣れ親しんでいますが、主人公ににらまれただけで、腕を振りかぶったままの状態でおびえ、尻もちをついて、家に逃げかえってしまう。いったい彼はなにをしたかったのでしょうか?
劇中ではあからさまな暴力描写はありませんが、パパ氏の爪が主人公の頬に引っかかった結果、劇中で血は流れます。暴力シーンを写せないのなら、暗喩で表現すればいいとも思います。パパ氏が子どもに暴力を振るう暗喩は見事でした。主人公にちょっと流血させただけで逃げかえるという彼のふるまいは、キャラクターとして説得力がないとしか思えません。
まずはじめに、筆者は高知県民エアプということをお伝えします。都会人に差別されて当然のいなかっぺ(ヘイトスピーチ)(不適切表現)として生をうけましたが、生涯を田舎で過ごしてきたわけでもありません。
しかし、そんな僕にもわかることもあります(適当に書いてるだけなので、後述の内容は多分間違ってます)。四国という保守的な土壌において、高校生の自由活動を許している、いきいきとした生徒が多い、主人公が遠距離から汽車通学していることから、主人公の通学先は県内有数の進学校だと推測されます。主人公のパパがなにかとカツオのたたきを話題に出すので、おそらく彼は県外どころか四国外からやってきた移民でしょう。高知県民はアホのように酒を飲みますが、飲酒描写はこの映画になくていいと思います。返杯という未開の蛮族の汚い習慣が出てこなくて、本当によかったと思います。
しかし、免許を持っている大人がいるなかで、車を使わずに河川敷を徒歩でぞろぞろと移動する高知県民なんて、絶対にありえません。この映画にたずさわるスタッフにひとりもいなかっぺがいないとは思えませんが、どうして誰も止めなかったのでしょうか?
いなかっぺは都会人以上に地球環境に優しくない存在です。高知県民に関わらず、いなかっぺはちょっとした距離を移動する際でも、必ず車を使います。いなかっぺの最大歩行距離は、駐車場からイオンモールの入り口ぐらいまででしょう。『東海道中膝栗毛』の時代でもあるまいし、大人の集団が徒歩で移動する? ありえません。
もっとも、劇中の世界は現実世界とは違います。劇中では誰も高知弁を操りませんし、そもそも劇中で描かれた仮想空間は現実には存在しません。ガソリンがリッターあたり1万円を突破している世界かもしれませんし、政府によって運転自体が規制された世界かもしれません。しかし、それなら登場人物が車を運転するという描写をしてほしくはありませんでした。
ああ夏だね、河川敷は涼しいや、気持ちいいからみんなで歩こう的な描写を平気で行えるのは、アーバンの空気を吸って育った人間だけでしょう。主人公一派は全員都会からの移住者かもしれませんが、違和感をぬぐうことはできません。
とにかくつまらない映画でした。脚本の出来がよろしくなく、なにをしたかったのかがわかりません。
前から思っていたのですが、監督氏は宮崎駿監督になりたいのでしょうか。監督氏はアニメーターとして例外にあたる才能をお持ちだとは思いますが、宮崎駿監督になることはできないでしょう。宮崎駿監督は例外中の例外にあたるお方だと思います。宮崎監督の御業は誰も真似できない。だからこそ、宮崎監督は天才と呼ばれるのでしょう。
監督氏には才はありますが、脚本を自分で手がけるのは、本当にやめていただきたい。監督氏は身の程を知り、自分に不得意なことをあきらめて、ご自分の頭の中にあるアイディアをまとめてくれるライターを雇うべきだと思います。
一応書いておくけどここで書いてるのは山と集落しかないようなド田舎の話。
でも多少都会だったとしてもそんなに変わらないのかもしれない。
役に立つかどうかはわからないけど少なくとも第三者の目がある分都会のイジメは隠れてする(あくまで想像)だろうけど田舎はそんなの気にならない。
誰もいないし誰も通らないし何よりみんなでいじめる。
いじめられてる方=村に馴染めない子供=仕方ない という方程式まであり得る。
「ここまで」という線引きがない。
下手に都会に憧れてる分メディアが作ったいじめをそのまま再現してイキってるクソ馬鹿ガキもいるんじゃないかと思う。
都会へのコンプレックスをヘイトという形で相手にぶつけることを何とも思っていない人が多い。
まず比較対象がいないから自分がしていることが異常だと一生気付かない。
異常者ばかりだから異常行動にも何にも感じない。
田舎は隠蔽しやすい分色んなことを隠して真人間みたいに暮らしてる人が多い。
カースト下位の子供はカースト上位の子供に傅きながら青春を終える。
生徒数が少ない分みんなでいじめる。
強く生きてほしいなんて口が裂けても言えない。
村によっても結構違う。
移住考えてる人は本当にやめておいた方がいい。
もし子供が村の価値観に染まったら子供が何考えてるかわからなくなる可能性もある。
これ読んで移住成功体験でマウント取る人少なからず出てくるだろうけどこれはあなたを否定する内容じゃないから突っかからないでね。
以上。
どうせ学校や会社の外ではユニクロGUの服着てイオンシネマで映画見て、ブックオフとかツタヤで本買ってくら寿司食ってニトリのベッドで寝るんだろ。
上京して数年経つが上記は休日はいつも混雑してるし、30万人都市もそんな感じだったよ。
そこから差別化するとして美術館だの博物館だの言ってるけど正直苦しい。自分もその辺によく行くが、ある程度教養積んでからじゃないと、印象に残らないただの落書きとガラクタだろう。家で鑑定団とか見てる方が文化的だろう。実物を見たから自分が文化的だと思うのはあまりにも野蛮。
下北沢や神保町みたいな街は確かに田舎にはないね。カレー、コーヒー、古着…この辺は簡単に周りと差別化できるからアイデンティティを守れていいね〜。蕎麦打ちにハマってるおっさんとそっくりだよ。
東京の大きい街は薄く延ばした田舎のデカいイオンモールでしかない。バーガーキングがないだけで店は一緒。バーガーキングが文化的資本だとしたら負けを認める。
昔は悪だったよ。地方の公立の中学校でさ、動物園みてえなところだった。動物どもにテキトーに合わせてながら生きててさ、勉強ができるのなんてガリ勉だと馬鹿にされるだけだからずっと隠してた。悪と遊びながら隠れて勉強。タバコふかして帰ってきて、夜はハイデガーを読むとかね。で、進学校に行ったのは俺だけだったかな。それで東京の大学に合格してさ、村じゃあ天才だと崇められながら地元を離れたけど、大学に行ってみりゃ金持ちばっかりで、予備校とか行ってた奴ばっかなのな(笑)。びびったよ。俺は予備校とか行ってなかったから。でもボンボン供は俺の知らない教養を沢山知ってたよ。美術にも音楽にも造作が深くて。でもな、なんていうのか、”知らない”んだよな。公立中学校でさ、男子も女子も金持ちも貧乏にもごちゃ混ぜで過ごす生活とかさ。中卒で働く予定のヤンキーとか、高校で妊娠してそのまま結婚しちゃうような女子とか、多分会ったこともねえんじゃねえかな。悔しいけどインテリ気取りのボンボン達の方が、留学経験もあったし、あいつらは勉強以外にスポーツも楽器も英会話もなんでも出来たよ。でも、やっぱり”知らない”からかな。経済とか政治とかの話になるとダメなんだよな。理想主義者っていうか、まあ、現実知らずだよね。その点俺は”知って”いるからわかっちゃうんだよね。お坊ちゃん、いい子ちゃんのリベラルにはわかんないことがさ。リベラルは多様性なんて言うけど、俺の方がよっぽど多様性を”知って”るんだよな。
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昔は悪、今はインテリ、ただのボンボンよりも”知ってる”ぜってのがな。リベラルよりリベラルだし、保守の気持ちもわかってるぜってのがカッコいいんだよ。