はてなキーワード: 竹の子とは
焼売がおいしいのはもちろん、一番好きなのはあの竹の子の煮物。その隣にある魚もいい。
卵焼きに唐揚げなどおかずもいいけれど、紅ショウガと昆布のゾーンもいい。
ただ焼売弁当を食べながら、最近焼売弁当を見た記憶があると思った。
どこで見たんだろうと考えて、新幹線殺傷事件の報道だと思い出した。
新横浜を出てすぐのことだったというので、駅で買って新幹線が出発して食べようとしたときの凶行だったんだろう。
あのひっくり返った弁当を見たとき「日常が破られたんだな」という気がした。
新幹線で食べる弁当の格別さややすらぎをひっくり返すような、卑劣な犯行。
一時期、大手IT企業やらベンチャーやらが参入して漫画アプリが雨後の竹の子のようにたくさん出てきたことあったでしょ。
あの時オレは「資金力あるIT企業が今までの倍以上の原稿料と印税を餌にして出版社のメジャー雑誌から大物漫画家をアプリ連載に移籍させることあると思います!」と思ってワクワクして見守ってたんだよね。
移籍金50億円払って尾田栄一郎のワンピースが集英社のジャンプからLINE漫画で連載開始!ってなったらものすごいインパクトじゃん?
そうやって漫画家がスポーツ選手みたいに移籍することが普通になったら、今「出版社に搾取されてるんですぅ~」って不平言ってる漫画家なんていなくなるでしょ?
でも結局そんなことならずにIT企業は既存出版社と同じく、新人漫画家を安い原稿料でこき使って量産型漫画を撒き散らして市場を汚していくだけ。
一方、アメリカ発の動画配信サイトではオリジナルのコンテンツ制作に膨大な資金力を投資して、製作者はウハウハ状態。多分、もう数年したらアメリカか中国の大手企業による日本の大物漫画家の引き抜きを本格化させるんだろうけど、そのときには日本の企業には引き止めるだけの資金力はもう残っていないんだろうな。
90年代から00年代にかけて、さんざん「巫女」「メイド」を記号的、かつ無意識に消費してきたんだから、陳腐化するのも当然なのだと思う。
「巫女」「メイド」に関心を示した層(あえて「オタク」という表現を避ける)は、何も考えず消費していた。だからこうなる。後述するとおり、これは仕方がないことなのだけれど。
この消費が続くとどうなるか、「巫女」「メイド」を扱う作品がどうなっていくのか。それをあの時代に考えていた者は少なかった。
未来視をせず、まったくただ消費するだけだった。焼き畑農業に近い。
自らの髄脳をただ刺激し、そのニューロンと、「巫女」「メイド」の記号とを焼き切ってしまって、10年代を迎えた。
あの時代に「萌え」という風が吹いていた点が、この問題を助長していると感じる。
「萌え」は思索をある種放擲する営為だ。何も考えず、リラックスして作品やキャラクターに触れる。ストレス社会&大きな「物語」が消えた社会に生まれた、ふわり、とした感覚。
雨後の竹の子のように現れた「メイド喫茶」では、ふわふわのオムライスが尊ばれたという。
これは、脳をふわふわさせて無意識に快楽を得られる「萌え」の具現化として、妙にしっくりきていたと、今更ながら思う。
擦り切れた「巫女」「メイド」へのキャラクター付けをどうするか。あるいは昨今流行している「記号」をどう大切に扱うか。
大衆社会の個人に出来ることは存外少ないのかも知れない。今も「萌え」の風はどこかで吹いていて、無思想的快楽へ私たちを誘っている。
この記号が、数年後どうなるか? 作り手側はどう考えているのか? なんてことをちょっと心の片隅で考えながら、作品に触れるのが、視る側としてインスタントに出来る効果的な姿勢なのかも知れない。
「死ぬがいいです。貴方の敗因は、その無駄に華美な縦ロール!」
おかっぱお嬢様の得物であるヒルティのコンクリートドリルが縦ロールお嬢様の高慢な顔面に突き出される。
紙一重でかわしたはずの一撃は、自慢の縦ロールを巻き込み、頸骨をへし折る……かに思われた。
「オホホホホ!」
縦ロールお嬢様のもう一方の縦ロールが雨後の竹の子の勢いで地面に突き刺さり、ドリルへの頭部の巻き込みを阻止した!
「なんですって!」
「その程度のトルクでわたくしのおぐしを巻き取ろうなんて無謀でしってよ!」
縦ロールお嬢様のチェーンブロックがおかっぱお嬢様の首に巻きつき、細身の体を鉄骨の梁に吊るしあげた。
残り10人!!
次回
こちら東京23区。わりと同世代。同じく朝はパン。目玉焼きとハム、またはベーコンとかかなあ。小中は給食、昼に家で食べるときは麺類が多く、夜は常にご飯食で、おかずはまあ一般的なレシピ本に載っているようなありふれたメニューに、母が祖母から受け継いできたようなものも多少で一汁三菜程度。大皿ものはあまりなかった。
ところで(と言いつつこれが本題)“超熟”は20世紀終わり頃に登場した商品なのだが、関西では“絶対超熟(PASCO)”という商品があったのだろうか?(新しい商品を買うと、保守的な家族に何かしら文句を言われていたのだが、超熟に関しては「当たりだった」と褒められた記憶がある…)それまでスーパーの食パンの主流といえばヤマザキのサンロイヤルブレッドだった。超熟以降、追随して急遽開発したと思われる類似コンセプトの“超芳醇”主流になってもう15、6年くらいになったと思うのだが、記憶違いではない?(最近では東洋水産の“正麺”と、後追いで雨後の竹の子のごとく生麺風インスタント麺が登場しているが、そんな感じ)
いろいろ見方があると思うんだけど
個人的に印象に残ったのが、前半の幼少期のシーンが強く印象に残った
野山を駆け巡って暮らす生活が魅力的に思えた
ボール遊びはダメ、大声出すのもダメ、近隣の人の苦情で保育園も開園できない
野山を駆け巡る子供たちは、実は危険がいっぱいで、竹の子と呼ばれていたかぐや姫も、猪に殺されそうになってる
確かに安全が第一だとは思うが、危険だからあれもだめこれもだめというのも息が詰まってしまうように思う
と、ここまで、子供の視点で書いてきたが、大人になった自分も野山で自然と共に暮らしてみたいと思う
実際は凄く大変な生活で、近代の生活に慣れすぎてしまった自分には無理だろうと思うが非常に魅力的な生活に見えた
どんどん便利になっていく世の中だけど、これでいいんだろうかと考えてしまった
私の知り合いも被害に遭ったのですが、相当歌舞伎町慣れしていた人だったので驚いてしまいました。
同じような被害者を増やさないためにも、ぼったくり対策や安全な夜遊びのためのことを書きたいと思います。
基本的には酔っぱらいを狙ってますので、うっかりと言うこともありますが、憶えていて損はないです。
当たり前だろうと言われるかもしれませんが、これを守っているつもりでも被害に遭うことはあります。
それと、知っているといってもメディア等で見たことがある、知り合いから話を聞いている程度ではなく、
以前に行ったことがあるお店以外は必ず無料案内所を通してください。
案内所は店を構えている、つまり逃げられないのでまずぼったくり店は取り扱いません。
(いわゆるプチボッタみたいな、会計ちょっとごまかすお店はあるかもしれませんが…)
風俗も店舗や受付があるので、終電後のキャッチに捕まる以外は心配ありません。
行きたいお店があったら「○○行きたいんだけど」と聞いてみてください(キャバクラの高級店はあまり扱ってないことがあります)
決まっていない場合は条件を伝えてください。(予算、店の雰囲気、女の子のタイプなど)
私はあまり風俗では利用したことないので、キャバクラ系の相場観は以下の通りです。
・高級店
6000円/60分
・1.5、2流店
5000円/60分
・その他
4000円/60分
もしくは5000円で時間が長い、ハウスドリンクグレードアップ、乾杯ドリンクサービスなど
お店によって場内指名無料など、サービスがある場合もあります。
案内所は初回料金なので、基本的には上記以外にはかかりません(いわゆる税サ込み)
女の子のドリンクや場内指名は別途かかります。そちらは料金+30%前後のTAXがかかることがほとんどです。
「自動延長制になってます」といわれた場合、「時間になったら教えてください」と事前に言いましょう。
言われなければ時間で声がけしてくれます。延長料金は正規料金になります。
セクキャバ(おっぱいパブ)は45分で大体上記の値段です。セクシー系は先払いなので安心感はあります。
ガールズバーはセット料金もっと安いですね。ただいろいろなお店があるのでなんとも。
キャバクラの場合、キャバキャバに載ってればまず安心だと思います。
一番危ないのは花道通り(旧コマ劇の奥の通り、交番や二郎などがある通り)です。
さくら通り、東通り付近も昔からぼったくりキャッチが多いですが、最近は区役所通りにぼったくり店があったりするので
案内所の外で案内所を名乗る人間には一応気を付けてください(呼び込みしてる人は除く)
行列ができてたりするのですが、そこでいかにもスタッフの体で「今混んでるんです」「系列ならすぐ入れます」とかいってきますが、ただのぼったくりです。
お店のサイトでも注意書きがされているくらいです。
ここの系列は「ロボットレストラン」「タンクガールズ」(ガールズバー)しかないと思います。
最近はぼったくりも無茶やり過ぎてますので、近いうちにキャッチはいなくなるのではといわれています。
セントラル(入り口にドンキがあるメインの通り)も大量の高性能防犯カメラを設置中です。
それと、深夜1時以降は基本的に営業禁止ですので、そういうお店は行かないという考えも必要だと思います。
深夜営業しててもぼったくりじゃないお店はありますが、あんまりいい娘いないですよ!
それでは皆様、楽しい夜をお過ごしください。
『かぐや姫の物語』を観てきた。本当は観るつもりなど全くなかったのだけれども、色んなところでいろんな評判をきいて、思い立ってその日に観に行った。
映像の美しさや、帝の顎の話や、上川隆也の女たらしっぷりだとか、そういうこともいっぱい思ったけれど、そういう話は割愛しておいて、ただの子育ての話として感想を書きたい。
ガンガンネタバレをしながら書いていく。自己語りも絡めながら書いていく。
昔から愛情というものは暴力の別名にしか思えなかった。むしろ愛情は善意からきている分拒絶することすら出来ない性質の悪い暴力だと思っていた。
かぐや姫の物語を観たとき、やっぱりはっきりと親の愛情というのは暴力であり同時に呪いであるのだなと思った。
かぐや姫は竹から生まれたうちの子じゃないから、あんなに猫かわいがりされたのかといったら絶対そうじゃない。金のなる木だったから可愛がってたわけでもない。翁はきっと、あの竹からこぼれでた金を全て「かぐや姫のため」と思って使いきっただろう。もしかしたらあの金だけでは足りなくて、翁は別の仕事で金を儲けそれすらもかぐや姫に費やしたかもしれない。
実子であったならあのお金がやってくることはなかったから、仕方がなく「竹の子」として育っていったと思うけれど、お金があったら翁はきっと同じことをしたように思う。
将来子どもに苦労をしてほしくない。幸せになってほしい。どうやったら幸せに一生を過ごせるだろう。
親ならきっと誰だって思うことなのだと思う。そう思いながら出ないと子育てなんて多分出来ないのだろう。子どもどころか結婚すらしたことのない私には想像でしか語れない世界ではあるけれど。
そう思うのは当然で、非難されるべきことではなくて。
翁はそこで「姫にして、良家に嫁いで一生不自由のない生活を送ってもらう」という発想になったのだろう。一般的な幸福として想像するととても不自然ではない。不自然ではないけれど、それがかぐや姫にとっての幸せとは限らない。それも当然の話だ。
もしもかぐや姫がそういうことに幸せを覚えてくれる子であったのならば、もっと話は単純だったのにね。
村で「竹の子」と呼ばれ、楽しそうに笑うかぐや姫をちゃんと翁が見つめていたらそうならなかったのかもしれない。翁が見つめ続けたのはあくまでも「姫」で「女の子」だった。
じゃあ、翁が理解の無い親だったのかと言われればきっとそうじゃなくて。こういう親はたくさんいる。私の親もそうだ(私の場合は母だったけれど)。
かぐや姫が望まぬ翁の思う「姫の幸せ」を享受し続けたのは、それが翁からの無償の愛情であったと知っているから。翁が自分の幸せなんて全く考えずにそれがかぐや姫の幸せであると信じて一心に行動していた。かぐや姫は何度も「それは私の幸せではないのだ」とアピールをしてきたけれども、翁は最後まで受け取らなかった。翁にとって「自分のしていることはかぐや姫の幸せにつながることである」と頑なに信じていたから、もはやそこには本人が入ってくる余地すらなくなってしまっていたのだと思う。
でも、これが翁が自分が裕福になり贅沢な生活がしたいからといった下心があればかぐや姫はもっと簡単に拒絶できただろうにって思うの。
そういう下心や私欲が入った願望の押し付けの方が、拒絶することはとても簡単だし、罪悪感がないから。かぐや姫にとって翁を傷付けてしまうことよりも、自分を殺して翁の希望にある程度まで沿ってあげることの方がきっと楽だったんだろうなって思う。
愛してくれている人の愛情を拒絶することはなかなかできない。それも、大事に思っている人からだと余計。
愛情の力ってすごい。翁の愛情がなければきっとかぐや姫は帝に求婚されるようなところまでいけなかった。本人が望もうと望まなかろうとそこまで人をそこまで変えてしまう力が愛情にはある。
親の愛って無償の愛とよく言われるぐらいだから(それが本当なのか私はしらない)きっとものすごく膨大な力なんだろう。多分、親本人ですら時にはセーブ出来ないほどの力になっていくのだと思う。
その力は「あなたのためだから」という魔法の言葉と共にダイレクトに子どもに送られていく。子どもは受け止めるしかない。本当は受け止めきれない量の愛情であったなら、愛情の重みで気付かぬうちに自身を押しつぶしていって、少しずつ壊死していくのだと思う。
愛情は怖い。愛情はいいものだけれども、いいものだからって押し付けないでね。
そして、自分自身も「愛しているから」を免罪符に色んなものを相手に押し付けないでいたい。そして、そのやり方が当分分かりそうにもないから、やっぱり私は子どもを作ることなど出来ないんだなってぼんやりと思った。