はてなキーワード: 少女像とは
貞本義行の絵(またはキャラデザ)なくしてエヴァは成立しなかったと思うが、本人の人生においては別にそうでもない(エヴァがなくてもそれなりに絵描きとしてやってっただろうという感じ)のかも知れない。「シンエヴァの実作業には参加してない」という発言もあるし、あれは庵野監督とそのスタッフの作品だっていう距離を置いた見方なのかも知れない。「来年シンエヴァ公開なのに」「韓国のエヴァファンの気持ちを考えろ」という意見も寄せられているが、本人としては結構他人事のようだ(「良かったらシンエヴァ見てあげてください」とか言うくらいで)。
「天皇の写真を燃やす映像を展示するなという人は、天皇の写真が掲載された新聞とかも絶対捨てないのか?」ということを言ってる人がいるけど、それはしょうもない屁理屈だ。例えば我々は屠殺された豚や牛の肉を平気で食べるけど、その屠殺場の様子を映像で見ることは平気ではない人の方が多いだろうし、それを展示することに不快感を示す人がいるのは当たり前のことだ。作者はそういうある種の露悪的な表現でもって訴えたいことがあったから天皇の写真が燃える映像を作ったのであって「それのなにが不快なのか?」と言うのはしょーもない野次でしかない。
色んな人が、それぞれ燃やしたいものを燃やす映像を公開したら面白いかなと思ったけどよく考えたら不毛なだけだな。
チマチョゴリを着たレイとアスカの絵は、個人的に絵柄がいまいちなこともありピンとこなかった。じゃあプラグスーツを着た少女像だったらどうかなと思ったけどそれじゃ同人業界に対する風刺になっちまうなとか思った。
普通の日本人は一連の騒動に対してどう思っているだろうか? それは知らんけど、俺は「俺には関係ないから、少女像を展示しようが天皇の写真を燃やそうが、その展示を中止させようがどうでも良いけど、みんな仲良くすればいいのに」と思っている。
日本兵による性的暴力(買春であれ、軍による公設風俗であれ)、ひいては戦争における女性への理不尽な暴力、性的搾取を訴えてるだけやん。何が怖いのか、何似怒ってるのかまじで分からん。
そうやね、日本軍による女性への性的暴力、搾取という悲劇があった。うちはそっから更生したし、世界に向けて戦時の女性搾取について振り返るよう努力すとる人権先進国家やで、とドヤ顔してたら良くない?それこそ日本スゴイじゃん
貞本義行の件のツイッター発言、言い草は問題あるが、内容としては正直、同感だった。
被害者たちの活動には、痛み入るところはある。性的搾取などあってはいけない。
しかしアレをアートの領分にまで出張って祭り上げて、そこに対するいかなる批判も、ヘイトだ!差別だ!被害者蔑視だ!ということにして、殴りつける大義名分にする連中には辟易する。
なるほど便利だ。そういう「無敵の棍棒」が欲しいだけで、被害者のことなんて、どうでも良いんだろ。
表現の不自由展だってそうだ。あれを潰したのは間違いなく「悪意」だが、開催側も、結局表現の自由の為なんてのはタテマエもいいとこで、気に入らない相手を挑発するためにアレらを「悪意」的に利用したに過ぎなかった。コンテクストだの被害者のことだのは、どーでも良かったんだよ。
だいたい津田氏は、自身への批判した人を「殺すリスト」なんてものを作ってそれを公言するような人間らしいですし?そんなヘイトまみれの人間の正義ヅラした「表現」に、一体何を期待できるというのか。
そんな連中の手垢にまみれたあの像の歴史をこそ貞本氏は「キッタネー」と評したのだと思うし、自分もそう思う。「あの像のコンテクストを汲め」というならば、散々歪な形で利用されてきたことも前提にすべきだ。
自分としては、少女像はどーでもいいし、性的に他人に何かを強要する立場になるくらいなら死ぬが、とにかく、攻撃的に正義を喚いて、その実被害者に目もくれず喧嘩を楽しんでるヤツらが、目障りでしょうがない。
アートと単なるプロパガンダの区別って結局そこしかないじゃない
例えばゲルニカにしてもピカソが共産党のシンパだったというのは有名な話だし、あの絵に政治的主張があるかないかで言えば確かにあるだろう
ちなみに今ではゲルニカの空爆で死んだのは本当は250人もいなかったんじゃないかなんて話もある
それはともかく、ピカソの絵がアートであるかどうかを疑う人なんてまずいない
でもよくよく考えてみると、それは「ピカソの絵に今でも高値がついているから」という理由以外何があるんだろうね?
芸術的価値をカネでしか計れないのか! とか言われるかもしれないが、コンテキストがどうのこうのと理屈をこねくり回してみたところで、それを実際に身銭切って評価する人間がいなければ何も始まらない
というか、どっかの金持ちが高値をつけさえすれば、落書きだろうが変なフィギュアだろうが、アートとして扱われるじゃないか
だからさ、あの少女像だの肖像画だのを大枚叩いて買うような、酔狂なリベラルを探すべきなんだよ
税金に頼るより確実だ
どっかの合気道の人とかさ、金有り余ってそうじゃない?
質の悪さ、ってのは顔の造形が気に入らんとかそんなレベルの話
後のツイートにもあるようにあの少女像の瑕疵としてまず「美人じゃない」ってのがあるらしい(笑)から
そりゃ貞本絵とは全然違うからそう感じることもあるだろうな、ってレベルになるけどプロパガンダがどうのなんて言ったらそんな顔面の造形の話なんて通り越してるのは隠せないんだよね
キッタネー少女像。
天皇の写真を燃やした後、足でふみつけるムービー。
かの国のプロパガンダ風習
まるパク!
現代アートに求められる
面白さ!美しさ!
驚き!心地よさ!知的刺激性
が皆無で低俗なウンザリしかない
ドクメンタや瀬戸内芸術祭みたいに育つのを期待してたんだがなぁ…残念でかんわ— 貞本義行@腰痛 (@Y_Sadamoto) August 9, 2019
というツイートに対して、
https://t.co/3wqZGCqLzd"所詮個人の(特定集団の、というべきか)感想だし何を言おうが勝手だが、胸の悪くなるような悪意でグジュグジュの言語感覚が本当に気持ち悪いので、人の目に触れるところに文字を書いちゃ駄目な人だな、と思った。
特に胸糞悪くなる様な文章では無いと思うのだけれど、どのあたりがそうなのだろう。もちろん、胸糞悪いというのも、個人の感想なら勝手だし、ブコメを書いちゃ駄目な人だとも思わなのだが。
私の書いたことを反復してやり返されてるあたりに煽りを感じなくもないけど、
上記ツイートを読んで胸が悪くならない人にとっては正当な疑問だと思うので、
説明を試みる。
「キッタネー」なんて言うのは、論評の範囲を外れた軽蔑の吐露でしかないと思うが、
ここは文頭でもあるし、多少どぎつい表現で書き出して読み手を引っ掛けるのは、
ぎょっとするけど、まぁ何を言うのか読んでみるか、と思わされるところはある。
ただし問題は、後段で「キッタネー」と思う理由の言語化を試みていないところにある。
あえて斟酌するなら、技術の不足や表現の杜撰さによって不快を感じた、ということで、
イラストレーターの鋭敏な美的感覚からすればそういうこともあるだろうと思う。
「そんな重いものを表現するのに、そんな適当な仕事でいいのか?」という方向で、
表現の意図を(賛同しないにせよ)酌んだ上で、その実現における難点を、
実物に即したかたちで(つまり実際に観察した上で)言語化しているのであれば、
「キッタネー」と文頭で言うことぐらいは許されると思う。
でもそれをしないで「キッタネー」とだけ言ってるので、やはり論評とは言えない。
単に政治的文脈に対する不快感を、仮構した芸術的不備に転嫁しているように読める。
ただしこれだけなら「感想」の範囲ではあって、明確な悪意までは感じない。
単にぶっきらぼうで露悪的な言動を好む人なんだな、と思うだけ。
「天皇の写真を燃やし〜」という作品についての論評として書かれているのだが、
ここで「風習」という語を選択するところには、明確な悪意が込められている。
この文脈(作品の表現の引用元を指摘する)で「プロパガンダ」と連結しうる語は、一般的には
「手法」、次点で「技術」「様式」、あるいはちょっと意味を拡大して「文化」といったところである。
しかしそれらの語を選ばず、あえて非標準的な「風習」という連結語を選ぶことの含意を分析すると、
「プロパガンダ」に「風習」という語が含む土俗的、前近代的なイメージを付着させ、
かつそれを、発言者が揶揄の対象としている(おそらく)東アジアの一民族が古来から持つ習俗、
と考えていることが見て取れる。
言い換えるなら、特定の民族に対して「未開人」「土人」などと呼称するのと同型の差別的な認識を、
しっかり内面化し、かつ機会があれば表現するのをためらわないからこそ、
「風習」という語が(「手法」や「文化」を押しのけて)ここで選択されているわけである。
作品についての論評の一部(引用元の指摘は端的な論評と言える)ということで、
ギリギリ許容されうるのかもしれないが、婉曲的なヘイトスピーチである。
婉曲的、は外してもいいかもしれない。
「現代アートに求められる」もの(あまり一般的ではないようだけど)を列挙して、
これは個人の感想であって、自由に発言されるべきものだとは思う。
より辛辣にすべく「低俗な」と付け足すところに、悪意の奔出が感じられるのだが、
「発言者がウンザリすること」自体を「低俗(下品で程度が低い)」だと言っている、
とも解釈しうるので、「(作品が)低俗なことにウンザリ」と補うべきだったと思う。
悪意が先走りすぎて言語が崩れている箇所、と言える。
「胸の悪くなる」とまで言ったのは、こういうところである。
4)「育つのを期待していたんだがなぁ……」
言うまでもなく、展覧会の将来を勝手に先取りして否定して悲観してみせるのは、
現在行われている展覧会あるいは個別の表現の評としては、意味のあるものではない。
発言者としても「これは良くないな」と思ったからこそ、自己リプライで要望を書いて、
自分の望むようなものであれば応援したいのに、というポーズを見せているのだと思われる。
あと、ドクメンタや瀬戸内芸術祭にだって、発言者が不快に思うような
プロパガンダと解釈しうる展示がまったくないとは思えないけど(なにしろ大きいから)、
それはまた別の問題である。耳に入らなければOKなのかもしれないし。
ただし、勝手によその芸術祭の権威を借りてきて論難の武器に使うようなのは、
あまり責任感のある言動とは言えない。虎の威を借るなんとやらに見える。
名前を出すなら、せめて一つくらいはモデルケースを挙げて論じて欲しいところである。
ついでなので、上記ツイートに自己リプライで書き足されている部分についても、
悪意を感じる箇所を指摘しておく(埋め込みは省略)。
どのメディアを指していってるのか知らないけど。
6)「プロパガンダをアートに仕込む行為も全く否定しないけど正直
アートとしての魅力は俺には全く響かなかった」
アートとして失敗してると思うなら、プロパガンダとしても効力は薄いと予測できるわけで、
ひっそり敵失を喜んでいればいいんじゃないでしょうか。
そういうわけにもいかないのかな。
以上のようなわけで、拙ブコメの
「人の目に触れるところに文字を書いちゃ駄目な人」
というのは不当で過剰な個人攻撃だったかも、という視点から再検討してみたんだけど、
主に2)の理由によって、撤回するほどでもないな、という結論になりました。
もちろん露悪的な言い方であることは進んで認める。
反日少女像が表現の自由から擁護されるのであれば、彼女も擁護されなければ筋が通らない。
サヨクの一番良くないところは、自分の都合のいいところで表現の自由を盾に取り、都合が悪くなると見て見ぬふりをするところ。
碧志摩メグが志摩市の公式キャラから外された3年後に、同じ伊勢湾内の愛知トリエンナーレに特大ブーメランが飛んで行ったという因果応報。
建前上の輸出管理強化を内実は徴用工問題への対抗措置だと見破れる人々が、平和の少女像は本当に名実ともに平和の少女像なんだと言い切っているんだから、その慧眼を信頼するしかない。
韓国の事実認定では強制連行、監禁、強姦、殺人された被害になってる
それを認めさせる為の像なんだから、流石にプロパンガスやめてなってだけ
何をそんなに騒いどるんや
この一点だけの明白な理由で、展示を中止するだけの正当な理由になるよね。
はてな界隈では「芸術とは、表現の定義とは何か」を理詰めで答えを探ろうとしているけど、もう面倒くさい。
ラノベ表紙を批判していたヤツらが言っていたことが、ラノベ表紙は女性を性的消費していて、女性達の「お気持ち」を傷つけているというロジックだった。
例の少女像の展示が中止になったけど、サヨクに見事に特大ブーメランが飛んでいったよね。
「あいちトリエンナーレ」は、神田真秋弁護士が愛知県知事選の公約として掲げて当選、発足した、最初から官費ありきの、極めて公的性質の高い国際展 わかる
主催は「あいちトリエンナーレ実行委員会」実行委員長は大村秀章・愛知県知事ですが、大村知事は農水官僚出身の元自民党代議士 わかる
不自由展は今回が初めてではない わかる
撤去されたものを取り扱ってるので不謹慎なものがあるのはむしろ当たり前 わかる
過去に撤去されたものを集めてるはずなのに左派に都合のいいものしかない わからない
「男女平等」など芸術そのものの内容とは別の切り口でのPR わからない
ってお思ってたのでこの記事はとても参考になった
https://jbpress.ismedia.jp/articles/-/57247
こんな事態にしてしまったのは、芸術監督の判断と行動に原因があることで、明確にそれを指摘しておく必要がある
アマチュアが間違った椅子に座り、面白半分で打つべき対策を打たずに徒手していれば、人災を招いて当然です。
率直に言って不謹慎、興味本位で面白半分な、キュレーションをおもちゃにする様子
内容以前に、こうした「隠し玉」を準備して「炎上」させる意図があった時点で、官費執行に責任を持つ芸術監督としての大前提に瑕疵があった
「隠し玉」として炎上を狙うなど、芸術の母屋に両足の着かない、無責任な野次馬の発想
国内のごく一部で内輪受けする程度の「芸術」判断基準と、地域振興動員数向上あたりに照準を当てたお役所との利害が変に一致して、グローバルな人道と文化を感じ考える芸術のオリンピックが、弄ばれていた
「決定」に際して、芸術監督であるはずの津田大介氏は、作品「平和の少女像」の作者、彫刻家のキム・ソギョン、キム・ウンソン夫妻と、直接対話して納得を得るプロセスを経ていない、と報道されています。事実なら、あり得ません。展示作品を、自分自身がそれを依頼し、決定した作家や関係者に確認を取らず、「展示中止」つまり「撤去」などということをしてしまったら、それは芸術監督でもなんでもない。子供がおもちゃを弄っているのと変わりません本来なら、足を運び、土下座でもなんでもしてやることは山のようにあるわけで、ただ徒手していただけなら、意味のない素人ということになる。