はてなキーワード: 公理とは
一般教養として数学の応用価値と実用性(算術、数式、図形)の観点を
学ぶことを重視すべきだろうけど、
ある意味それ以上に、数学が形而上学として成立している生命線、
論理的合理性の諸観点(無矛盾、完全、独立)、そして自然科学を含む
と思うのは私だけだろうか。
数学の記述としては座標系を入れないのは不自然というのは同意するよ
一旦入れた後で取り払って公理系を作ったりしないといけないのだろうし
ただ、数学の自然な記述が人間の原始的な形への理解の形と近いか、というのは、人によるだろうが大半の人にとってはNOだと思ってるし、中等教育の数学の単元は数や図形を扱う方法を学ぶ演習(名前変わってるけど算数の延長)、ぐらいの意味合いだと思うので学問としての数学からみた自然な記述である必要がないと思う
積木や製図用具を目で見て触って得られた経験則をひとまず整理してみた、という出発点で教育を始めるのなら、
脳内にあるモデルとの差異が少ないから受け入れもしやすいでしょ。それが直感的という意味
中等教育までぐらいは、経験則を拡張して肉づけしていくのが目標の一つだと思う。それが学問など必要のない人たちの底上げにつながる
三角形の内角の和は180度、確かに外角と内角の和は180度というのは明らかに見えるからそうだな、という確度のレベルで拡張してやればいい
高等教育では、学問をやらなきゃいけないので経験則を要素還元してなるべく経験則でない形にして、仮定を減らしていくのが目的となるだろう
定規と分度器で各公理を実験できるBirkhoff's axiomsが座標を使った幾何学より直感的ということにはあまり異存はないでしょう
Birkhoff's axioms方式を推奨されてるようなので質問します
面倒なら答えなくて結構ですが、関連情報のリンク先を提示いただけると幸いです
001.アメリカのどの教育課程で導入されているのでしょうか?
(全州、もしくは州ごとに異なるなどあればぜひ)
003.これが学生の学力向上に貢献している定量的分析がされているのでしょうか?
004.内容は初等幾何のどのくらいまででしょうか?
005.良いのなら日本で導入検討されてもいいと思うのですがそうならない理由は?
(あなたの推測でもかまいません)
ここでいう「ユークリッド幾何学」とは、座標空間、ベクトル、三角関数、微分積分などの解析的手法を用いないいわゆる総合幾何学のことです(*1)。2020年8月現在の高校数学のカリキュラムでいえば、「数学A」の「図形の性質」に該当する分野です。
ユークリッド幾何学が不要だと思う理由は単純明快で、何の役にも立たないからです。大学に入って、「補助線を引いて、相似な三角形を作って~」とか「コンパスと定規による作図」みたいなパズルゲームをやることは絶対にありません(*2)。これは常識で考えても分かると思います。たとえば工学の研究で、ある物体の弧長や面積などを測定しなければならないとして、ユークリッド幾何学の補助線パズルが適用できる多角形や円などしか測れないのでは話になりません。一方、座標空間、ベクトル、三角関数、微分積分などの手法は一般的な現象を記述する上で必ず必要になります。
もちろん、たとえば三角比を定義するには、「三角形の内角の和は180度である」とか「2角が等しい三角形は相似である」といった初等幾何学の性質が必要になります。そのようなものを全て廃止せよと言っているわけではありません。しかし、高校1年生で習う余弦定理:
を証明してしまえば、原理的にはユークリッド幾何学の問題は解けます。それ以降は、ユークリッド幾何学的な手法や問題設定にこだわる必要はないと思いますし、実際それで問題ありません。
現状、少なくない時間がユークリッド幾何学に費やされています。数学の1単元を占めているだけではなく、その他の単元にもユークリッド幾何学の発想に影響された例や問題が多く登場します。たとえば、複素平面において4点の共円条件や垂直二等分線を求めさせる問題など。そして最も労費されているのは生徒の自習時間です。以前よりマシになったとはいえ、大学入試等には技巧的な図形問題が出題されるため、受験生はその対策に多大な時間を費やしています。
高校数学では以下のような事項が重要だと思います。ユークリッド幾何学を学ばせている時間があったら、このような分野を優先的に修められるようにすべきです。
これらの分野は数学の手法としても非常に強力ですし、大学以降で数学を学ぶ際、現実的な問題を数学や物理の問題として正確に記述する際に必ず必要になります。仮にユークリッド幾何学が何らかの場面で応用されるとしても、微分積分などと同レベルに重要だと真剣に主張する人っていらっしゃるでしょうか?
ユークリッド幾何学を初等教育で教えるべきだとする根拠には、大雑把に言って以下の4つがあると思います。
まず①は明らかにおかしいです。ユークリッド幾何学に限らず、数学のあらゆる命題は証明されるべきものだからです。高校の教科書を読めば、相加平均・相乗平均の不等式、点と平面の距離の公式、三角関数の加法定理、微分のライプニッツ則や部分積分の公式など、どれも証明されています。そもそも、数学の問題はすべて証明問題です。たとえば、関数の極値問題は、単に微分が0になる点を計算するだけではなく、そこが実際に極値であるかそうでないかを定義や既知の性質に基づいて示す必要があります。したがって、ユークリッド幾何学だけが特に証明の考え方を学ぶのに有効だという理由はありません。
②もおかしいです。図形問題を扱うのはユークリッド幾何学だけではないからです。ベクトルや微分積分でも図形問題を扱います。たとえば、三角形の5心の存在や、チェバの定理、メネラウスの定理などはベクトルを用いても容易に示すことができます。また言うまでもなく、曲線の接線は微分で求めることができ、面積や体積は積分で求めることができます。また、ユークリッド幾何学の手法は問題ごとに巧い補助線などを発見しなければいけないのに対し、解析的な手法は一般に方針が立てやすく汎用的です。したがって、図形問題を扱うのにユークリッド幾何学の手法にこだわる理由はありません。
③は単なる個人の思い込みであり、科学的な根拠はありません。そもそも、数学教育の目的は「地頭」などを鍛えることではなく、「大学や実社会において必要な数学の素養を身につけること」のはずです。また、これも上ふたつと同様に「ユークリッド幾何学以外の数学では、『数学的直観』などは鍛えられないのか」という疑問に答えられておらず、ユークリッド幾何学を特別視する理由になっていません。
④もおかしいです。そもそも「歴史的に重要である」ことと「初等教育で教えるべき」という主張には何の関係もありません。歴史的に重要ならば教えるというなら、古代バビロニア、インド、中国などの数学は特に扱わないのはなぜでしょうか。もっと言えば、文字式や+-×÷などの算術記号が使われ始めたのでさえ、数学史的に見ればごく最近のことですが、昔はそれらを使わなかったからといって、今でもそれらを使わずに数学を記述するべき理由があるでしょうか。
数学で重要なのはその内容であるはずです。ユークリッド幾何学を擁護する論者は、「(表面的に)計算問題に見えるか、証明問題に見えるか」のようなところに価値を置いて、一方が数学教育的に有意疑だと見なしているようですが、そんな分類に意味は無いと思います。
大昔は代数の計算や方程式の解法(に対応するもの)は作図問題に帰着していたようですが、現代でそれと同様の手法を取るべき理由は全くありません。記述する内容が同じであれば、多項式や初等解析のような洗練された方法・重要な結果を導きやすい方法を用いればよいに決まっています(数学史家は別として)。同様に、ユークリッド幾何学も、解析的な手法で解ければそれでよく、技巧的な補助線パズルなどに興じたり、公理的な方法にこだわる必要はありません。
たとえば、放物線は直線と点からの距離が等しい点の軌跡として定義することもできますが、初等教育で重要なのは明らかに2次関数のグラフとして現れるものです。放物線を離心率や円錐の断面などを用いて導入したところで、結局やるのは二次関数の増減問題なのですから、最初から2次関数のグラフとして導入するのは理にかなっています。数学教育の題材は「計算問題か証明問題か」などではなく、このような観点で取捨選択すべきです。
三角比などを学んだあともユークリッド幾何学を教えたり、解析的な手法では煩雑になるがユークリッド幾何学の範疇ではエレガントに解けるような問題を出して受験生を脅したりするのは、意味が無いと思います。それは、「掛ける数」と「掛けられる数」を区別したり、中学で連立方程式を学ぶのに小学生に鶴亀算を教えるのと同様に、無駄なことをしていると思います。
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(*1)
現代数学では、n次元ベクトル空間R^n = Re_1⊕...⊕Re_nに
(e_i, e_j) = δ_i,j (クロネッカーのデルタ)
で内積が定義される空間上の幾何学はすべてユークリッド幾何学に分類されます。したがって、上にあげた座標空間、ベクトル、微分積分、一次変換なども敢えて分類すればユークリッド幾何学です。しかし、ここではその意味でのユークリッド幾何学が不要と言っているのではありません。飽くまでも、技巧的な補助線問題や、公理的な方法にこだわることが不要だと言っています。
(*2)
数学科の専門課程で学ぶガロア理論では、コンパスと定規による作図可能性が論じられますが、これは「作図問題にガロア理論が応用できる」というだけであり、「ガロア理論を学ぶのに作図の知識が必要」というわけではありません。
もともと教育に関心がある家庭ではなく、「高校を出ればすぐ働くべきである」みたいな家庭で、なんの疑問も持たず高校も親が決めた工業学校に通った。
高校卒業後はそのまま地元の工場に就職した。毎日単純労働を繰り返して、「つまんねえなー」と考えたこともあったが、「仕事なんてお金を受け取っているんだからつまんないものだろ」という認識もあって、それになんの疑問も持たなかった。
数年そんな生活を送ったのちに、趣味つながりで友人ができた。彼は生まれも育ちも東京で、いわゆる高学歴の部類に入る人間だった。
話してみて驚いた。彼にとって数学は娯楽で、休日もほとんど数学のことばかり考えているらしい。仕事はその専門的知識を生かす仕事をしており、俺はそこで教育の意味を知った。あと仕事は我慢の対価ではないということも。
彼に勧められて、数学を勉強し始めた。彼の教え方がうまいのだろうが、理系の高校数学の範囲程度までは理解することができた。公理というルールから発展させ、問題を解いていく事はとても楽しいと思った。
俺ののめり込み具合を見て彼から進学を勧められた。今なら授業も楽しいと思えるかもしれないし、進学したかったが、今更親に頼みこめないし(頼み込んでも理解してくれない気がするし)、自力で働きながら通えそうな夜間大学に進学することにした。
授業は楽しい。数学に興味があるだけだろう、と思っていたが、他にも面白いと思える科目は多かった。仕事をしながらの学習は時間もお金もなくなるが、楽しいからいいか、と考えていた。
しかし歳をとり、周りは結婚や転職、色々な変化が起きている。自分だけ取り残されているような気分になった。働きながら勉強している話をしたときに「今から勉強してなんになるの?」と聞かれたことが心にきた。
それまでもたまにふっと考えることがあった。周りには「やりたいこともないしとりあえず進学することにするわ」という人が大勢いて、他の人が当然のように持っているものを自分だけ必死に手に入れようとしている気がして、なんとなく惨めさを感じることもあった。
正解は多分周りの声や状況など気にせず、好きなことを勉強するべきだろう。しかし、できることなら勉強した好きなことを仕事にしたい、という思いも生まれているし、それを実現させようと思ったときに、卒業した時点で30オーバーの学部卒業生(夜間)を採ってくれる会社はあるのだろうか。と不安になる(卒業するまでにそういった仕事に転職しようかとも考えたが、そっちの方が難しいかな、と思った)。
どうすればいい方向に進めるのかな。
【追記】
沢山反応してもらえて嬉しい。鬱屈した気分で深夜に殴り書きしたような感じだったから色々と答えてもらえてありがたい。貴重な体験談を書いてくれた方もありがとう。
かなり救われました。全部のコメントに目を通して、後ろ向きでいる必要がないと思えた。この機会を大切にする。
より厳密には「フェミニズムの論理的な誤りを認めない事が可能である」の方が正しい。
もし、そこから元増田の論理を導けるなら、「フェミニズムの論理的な誤りを認める事が可能ならば、必然的に誤りを認める」ことになってしまう。詳しく説明しよう。
以下、「フェミニズムの論理的な誤りを認めない事が可能である」ならば「フェミニズムの論理的な誤りを認める事が可能でない」が成立すると仮定する。
命題 p を「フェミニズムの論理的な誤りを認める」とすると、
◇¬p → ¬◇p
が成立する。対偶もまた真なので
◇p → ¬◇¬p
公理 ¬◇¬p = ◽︎p より
◇p → ◽︎p
したがって、「フェミニズムの論理的な誤りを認める事が可能ならば、フェミニズムの論理的な誤りを必然的に認める」が成立する。
さて、元増田で省略されている主語は、"フェミニストは" だと思う。そうすると、
フェミニストは誤りを認められるなら必ず認めるとなってしまうのだが、フェミニストはそれほど誠実な集団という事でよろしいか。さもなくば背理法により元増田の主張「フェミニズムの論理的な誤りを認める事が可能でない」は成立しない。論理的な誤りである。
嫌悪感と言いましたが、そう言った感情すら大して持っていません。
忌避していません。強い興味はありません。
今まで書いてきた文章から僕のイデオロギーらしいものを見つけようとしていますが
強い関心がありません
無視してください
真剣にお話してくださってありがとうございます
見えていないのなら、ただのイヤイヤの天邪鬼にすぎんのではないか?
知恵を持ってしまったから性を否定できるようになって、できるから否定してみただけで、自分では俗人の一周先を行っていると思っているかもしれないが、その一周先には冷静に俯瞰すれば圧倒的に肯定するしかない現実があるんじゃないか?
正直、俺に言わせれば、性嫌悪とかトランスジェンダーとかいうアイデンティティを内面化する人のうちの一定割合は、遺伝的な障害を抱えるわけでもなく社会文化的な『賢さ』の刷り込みによって「若気の至りでヤンキーしてました」というのの逆バージョンが起きている、本質的には同じ類の「こじらせ」なのではと思う。つまり無骨さ方向に意識を高めてマウントを取るのがヤンキーとすれば、繊細さ方向で意識を高めてマウントを取るのがこれ。
誰がこれが公理だと言ってるの
たとえば、数学がまともにできる人で、(a + b)(c + d)の展開公式を覚えている人はいないだろう。分配法則を知っていれば計算できるからだ。そして、多項式に対して分配法則が成り立つことは(もちろん厳密に証明することはできるが)自然な感覚であり、これも覚える必要はない。
こんな自明な例に限らず、数学で何かを覚えることが、遠回りであり、本末転倒であることを説明する。
また、読解力の低い奴のために補足しておくが、「覚えなくていい」というのは「勉強しなくていい」ということではない。まあ、こういう勘違いをする奴らはこの一文自体読めないから無駄なんだが、少なくとも俺が「ここに書いてあるだろボケ」と言うための根拠にはなる。
無い。
「定義や公理は他の事実から導かれないので覚える必要がある」という意見があるが、間違いだ。
それは単に論理的に導かれないというだけであって、考えている問題に対してそのように概念を定義すべき理由は存在するからだ。
たとえば、複素数は実数係数の2次方程式の解として生じるからi^2=-1と導入するのは自然であるし、三角形は2角と1辺の長さが決まれば決定されるから三角比の定義は自然なものである。
そもそも、どのような経緯でそのような概念が導入されるのか理解することは、別に数学に限らず重要である。
無い。
数学の公式はすべて論理的に導出できるのだから、覚える必要はない。特に、高校数学程度の定理・公式などに大して証明が難しいものは無いのだから、瞬時に正しく導けなければいけない。
また、大抵の公式は、その意味が理解できていればいくつかの具体例で試せば分かる。たとえば、三角関数の加法定理は、cos(π/2+θ)とsin(π/2+θ)さえ分かれば求められる。
無い。
用語などはどうでもいい。
たとえば、平方完成という名前を知らなくても、二次方程式の解の公式の導出や、二次関数の極値問題が解ければ全く問題ない。
無い。