はてなキーワード: 儒教的とは
しかし儒教的性倫理は、武家社会の男系維持のために、武家の女性の性を縛るという側面が強い。
もちろん文化と独立に存在できる人間はいないから、本来の男性の性倫理とか本来の女性の性倫理というものがあるわけではないだろう。
とはいえ、大部分の日本人は武家の子孫ではないのに、あるいは武家の血など極めて薄いのに、その倫理にいつまでも縛られるもどうかと思う。ましてや、それが本来の女性のあるいは男性の倫理だと思うのはおかしいのではないか。
アメリカだと性的にセクシーに見られるのは美人の証拠で、むしろほこらしいことだとされる。
もちろんアメリカでも、女性を性的なシンボルとしてアイキャッチに使うような広告や、そのような発言や表現は厳しく糾弾される。が、それはシンボル化がいけないのであって、女性を性的に見ること自体までは糾弾されていない。ここの線引き。フランス人が「口説く権利」とか言ってたが、おそらくこういう発想から来てると思われる。
翻って日本。体感では韓国や中国など東アジアの国々では、儒教的なアレで性的なことがアレされてきたせいか、女性にとって性的に見られること自体のハードルが高い。よって、社会に求められる性的に見ないハードルもまた高い。
そういうイメージ。
すごく儒教的な教育を受けてきたんでしょうか、親の愛は∞、みたいな?
親も世間からみれば片手落ちの教育だけど自分はかなり助かって今の自分になれた
その自分を気に入ってくれる人がいたら結婚する、結婚しただけでお互い得したとおもうような生活をする
その生活が病気などで崩れそうになったらメンテナンスの一貫として病院とか付きそう
それは「冷蔵庫が調子が悪いから業者を読んで修理しよう」「リモコンの電池が切れたからとりかえよう」くらいの普通の生活だとおもいますけど。
リモコンが普通どおりうごいてくれるだけで十分にありがたくて、恩返しは普段からうけているわけです。
いちいち鬱っぽくなっちゃうことがあるんでしょうか。
さっき虐待かなっていったけど家財や家族をいっぺんに災害で失った経験がお有りなんでしょうか。
重い事故や障害、あるいはブラック企業づとめ、貧乏な暮らしへの対応などがあって、
外国では日本社会と違い、大人や子供のどちらの国民もこれまで社会に参加できていたが、日本では長らく儒教主義の時代があり、今も同じだ。日本の儒教カーストの下位には人権もない状態である。つまり、今の欧米で起きている国民皆兄弟としての建前もなく「自分を支持してくれる大人世論にだけ徹底特化して、そうではない未成年層は無視して切り捨てるような社会」が、日本ではこれまでまかり通っていた。
お金が幅を利かせる大人ばかりが社会に台頭し、そうでない未成年者は例えば人口は大きくても「階層社会」で軽視された。結果、学生は成人に使われるだけ使われ、大量のエネルギーは大人のエネルギーに使われた。学生が汗水たらして学ぶほど、その成果は現状のカーストの維持力に代わっていったのが昭和日本だ。つまり日本では下位の人間は上位をアテにして上位のヒモのような形で寄生して生きていた時代が長かったのである。
平成不況や安倍政権の左傾化などでこうした「利己主義・儒教的な社会」にメスが入ったのが1990年代以降のことだ。結果、これまでのように階層社会を介して弱者に依存するような他力本願で生きていた強者は立ちいかなくなり、あぶれる者が出てきて、そうした者たちの中には、虚業などに手を染める者も出てくるようになった。
教育勅語は、過去の歴史的においては、日本の近代化に一定の役割があったと考えられるが、時代を経るについて、その位置づけが変わっており、どの視点に立つかによって評価が変わってシマウマ。
江戸時代以前、幕藩体制下においては、人々は藩(クニ)というコミュニティへの帰属意識はあったが、日本という統一された国家への帰属意識は存在しなかった。しかし、欧米列強のアジア進出に直面し、明治国家は統一された近代的な「国民」を創出する必要性に駆られた。そこで、井上毅が中心になって起草されたのが教育勅語である。
江戸以前の封建社会では、お殿様がいて、家来衆がいて、そのまた家来がいて、農民・商人・工人がいて・・・と、多層的な社会構成となっていた。欧米を直接視察した当時の指導者たちは、このまま身分により分裂した社会では、我が国が近代化を成し遂げて欧米に伍してゆくことは難しいと考えた。そこで、表向きは日本人に馴染みのある儒教的な用語を使いつつも、勤勉であれというプロテスタンティズムの精神を注入したものが教育勅語である。(米英独における近代資本主義の形成にプロテスタンティズムが果たした役割についてはマックス・ウェーバーの説に譲る)
教育勅語の登場により、日本人の中にプロテスタンティズム的な精神が形成され、曲がりなりにも、なんとか我が国は近代国民国家を創りだすことに成功した。また、一番問題になっている「一旦緩急アレハ義勇公ニ奉シ・・・」の文言についても、歴史的には欧米の「国民軍」形成の流れと相似をなすものであると位置づけられる。(というのも、それ以前は武士階級のみが軍事に専念して、一般市民にとっては軍事は全くの埒外であった。このままの意識が続いていたとしたら、本邦は他のアジア国家と同様に、欧米の植民地となっていたであろう)
ただし、時代を経て昭和の激動期に入ると、明治憲法と同じく、長所よりも欠点が目立ち始める。
欠点の第一要因は、明治憲法や教育勅語が、現人神である天皇から臣民に下されたもの(実際は、明治の元勲が起草したものだが)という形式を取ったことであろう。明治憲法も、首相の権限が明記されておらず、その基盤が弱小である等の問題をはらみつつも、「不磨の大典」化してしまったため、政治家が軍事官僚を縛ることすらできなくなってしまった。教育勅語も時代に即して改定を行う動きもあったものの、やはり天皇から下された「聖典」という位置づけから改定ができなくなり、戦時下においては国民を総動員する装置となってしまった。
以上を踏まえると、教育勅語は日本の近代化を推し進めた功績があり、現代資本主義社会においても引き継がれる価値観を含有するという点では一定の「普遍性」を持つ一方で、戦時下においては国民を動員する装置となったという点で「負の側面」も多く有するという、なんとも白黒つけがたい存在であると評価できる。
なお、現代では教育勅語は、その歴史的役割をすっかり終えており、今さら道徳のために引っ張り出してくる必要性は無いという私見を最後に付け加えておく。
儒教文化では法律は「冷たく不完全」なもので、仁徳のある為政者が法律を超越して善政をなすことが理想的な状態である。
まあ、水戸黄門であり、暴れん坊将軍である。法律の届かないところで悲しむ国民をお上が超法規的に救うことを良しとする価値観である。
つまり、法律を無視して民の声に応じるのが、儒教文化における理想的な為政者であり、法律に則って国民の声を無視するのは儒教的な観点からすると良い為政者ではない。
かの儒教国の政治が法律に則っていない、とか、国民感情第一で国際ルールを無視している、というような批判はだからうまく通じない。
なぜなら「国民感情を優先して、法を曲げること」は儒教文化の中にあると「良い事」だから。
というようなことを海軍旗の話し見ながら思った。
問題は昔の政治家は嘘が言い逃れできないとなったら、あっさりやめたものだが、
誰かさんは言い逃れし続けて、ネトサポ駆使すれば逃げおおせると考えてるところなんだよな。
まあ、まわりも、新自由主義+緊縮財政+消費税増税で不景気ぶち込みそうな奴らばかりだから、他に預けるのは怖いから他に預けづらいから一定の支持があるというのもあるが。
でもさ、美しい日本とか言ってたよね。あのおっさん。儒教的観念だったら、むしろトップはトップなりに非常に清廉さを元に自ら行動するものなんだねぇ。
まあ、あのおっさんたちの美しい日本ってのは「トップが好き勝手しても下が隷属してくれてトップが嫌な思いをしない美しい日本」だからなぁ。
昔話桃太郎
http://www.arc.ritsumei.ac.jp/artwiki/index.php/%E6%98%94%E8%A9%B1%E6%A1%83%E5%A4%AA%E9%83%8E
桃を食べた爺さん婆さんが若返り、身ごもった子供が桃太郎だった。
・猿・犬・雉
『昔話桃太郎』では、この順に登場し、同じようなことを言って家来か従者になる。犬は「仁」、猿は「智」、雉は「勇」を、三徳を持って鬼退治に向かう背景には、江戸期の儒教的思想がある。
なぜ、この3匹の動物が描かれたのか。曲亭馬琴の『燕石雑志』によると、「鬼ヶ島は鬼門を表せり。之に逆するに、西の方申・酉・戌(さる・とり・いぬ)をもつてす」とある。「鬼門」は、鬼が出入りする方角として嫌われている方角で、東北(うしとら)の方角である。これは「陰」で、その反対の南西(ひつじさる)の方角が「陽」である。東北に位置する鬼を退治するには、その対極であるべきで、そこには、ひつじ・さる・とり・いぬが並んでいる。羊は弱者なので省かれて、さる・とり・いぬが選ばれている。鳥の中でも雉が選ばれたのには、よく闘う鳥とされていたかららしい。
方角説はこんな感じ。
吉備津神社縁起物語によると、吉備津彦命が、犬飼部の犬飼健命(いぬかいたけるのみこと)、猿飼部の楽々森彦命(ささもりひこのみこと)、鳥飼部の留玉臣命(とめたまおみのみこと)という三人の家来と共に、鬼ノ城に住む「鬼」である温羅を倒したとされているが、この家来たちを桃太郎の逸話に置き換えると「犬飼健=犬」「楽々森彦=猿」「留玉臣= 雉」となるとする説がある。
儒教的に先祖を敬えだの、わびさびを受け入れろとか辛気臭い話をしているのでもなくて、過去から続く事実を書いたまでだが、
自分は**が好かんから君の考えは間違っていて私のこれがいいでしょ?とかそんな話の振りって、友達でもないのに意味わからなくない?ってことなんだけど、それもわからないかな?
趣向が違うレベル程度が起点なら、そんなことで意見を同じくまとめようとしてくること自体無駄だよね。同じ部署にいるとか一緒に暮らしていたりするわけでもないのにさ。
個人的には、都合の良い方向ばかり進むように考えてる時点で、典型的な「B層」なんだろうなといった感じ。カネだけで社会が成り立っているわけじゃないんだよね。