はてなキーワード: エヴァとは
シンジの隣で嬉しそうに笑うアスカを見て、もうそれだけで充分だった。
お祭り版とも言える本作はまさにその名の通り学園祭での風景が描かれる。
シンジと連れ添って楽しそうに練り歩くアスカ。楽しそうな2人が描かれるその画面端には今までの作品と地続きのキーパーソンが何度も見切れる。
しかしシンジに連れられたアスカは彼らに遭遇することはない。ただの一度もない。
この作品はまさにそういうことなのだ。ありえる可能性、現実に引き戻される可能性をことごとく排除した後に残った世界。シンジは彼らに遭遇することのないルートで、アスカを連れ歩く。決してフラグは立たないように。
終盤、学園祭も終わりの時間が近づき、ベンチに座る2人のシーン。遠くに片付け始めるクラスメイトの姿が見える。とりとめのない話からアスカの髪の話になる。大好きな両親からもらった大切なものなんだと自慢げに話す惣流・スカーレット・アスカ。確かに彼女の髪の色はその名の通り小さなスカーレットの花のようだった。
気がつくとアスカはプラグスーツを着ていた。パステルピンクのプラグスーツにパステルブルーのシースルーの蝶があしらわれていた。数え切れないくらいの地獄を繰り返してきたんだから、1回くらいはこんなことがないとやってられないわよね。そんなことを言う。何も言葉を継げないシンジに対して、アスカは一言呟く。いい夢だったわ。
そこで目が覚めた。そんな夢を見た。
2023-01-14。4時32分。
二度寝を試みるも、この夢の内容を思い出して、寝れず。書き出す。
たとえば「20年前は○○」というのを見かけて、よく調べてみると「それ30年前だよ、、、」ってなる事が多い
いったん「エヴァは20年前」「ファミコンは30年前」「ビートルズ解散は40年前」とおぼえちゃって、そこから年数更新できてない
水星の魔女の脚本家は?と聞かれて大河内一楼の名が出る人は結構多いのではないだろうか
じゃあ小林寛(こばやし ひろし)監督の名前や仕事を答えられる人はどのくらいいるのだろう
本来作品の評価を一番に受けるべきは監督のはずなのに、水星の魔女に限らずアニメ監督の名前はあまり知られていないというか興味を持たれていない気がする
アニメ監督の仕事って要は脚本も含めた作品に関する全部で、その膨大な仕事量のわりに評価されにくくてなんだかなあと思う
シンエヴァや鬼滅の刃ほどの作品でも監督を答えられる人は意外と少ない
逆に作品が荒れたり発言が悪目立ちする人のほうが有名だったりするのはアニメ業界に限らずか
別に作品への愛を語る上でスタッフの名前を覚える必要はないんだけど、せめてその作品で一番働いている人の名前だけでも覚えているといいなと思う
「デスストもらえて嬉しかった」
ぐらいまでしか思い出せんね。
3ヶ月以上前になると3年ぐらい前の記憶と勘違いしてる気がして不安になってくる。
たとえばシン・エヴァとか全然前なのに「今年じゃね?」って気がしてくるし、シンウルトラマンを「去年じゃね?」って言われるとそうだった気がしてくる。
無理だー。
皆どうやって2022年まとめとかやってるんだろう。
やっぱそもそもの2022年事態を「最後にまとめるぞ」ってつもりで過ごしたのかな?
ブログとかやってたら振り返って一気にまとめるのとかも楽なのかな。
でもブログなんて週に1度更新してたら50件にもなるけど、いくら冬休みだからって見返すか?
それもうシンエヴァでみたやつ
書きかけの増田なんだけれど、たぶん書き上げないだろうからそのまま投稿する
供養
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世界初のOVA「ダロス」をリアルタイムで見た、おじい増田だ。
その頃はまだ生きていた兄と一緒にグゴゴゴゴカガガガガ!!!すげええぞこのアニメ!!!薬莢が!!!階段を!!!川の流れのようだ!!!と感動したのを昨日のように思い出す。
そのOVA「ダロス」の基本ストーリーは、月の開拓民3世のレジスタンス達(テロリストとも言う)が地球の支配に対して反旗を翻し武装闘争を繰り広げるというものだ(初代ガンダムブームの余韻燻る時代だからこういう企画が通りやすい時代だったんですね)。
さて、ここからが本題。
このアニメの中で登場するメカのネーミングで兄と言い合いになった。
月の公安警察が使用する空を飛ぶパトカー(ブレードランナーの空飛ぶ車みたいなの)で下からフラミンゴみたいな足がニョッキリと出てきて
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「お互い歳をとったなあ。」
映画館にいる面々を見て、まずはそう思った。
年齢層が高いな、と思ったが
それよりも何よりも若いファン層を獲得するために様々な努力をエヴァしてきたんだろうなということをあらためて認識した。
全く成功していないのだ。
女性客も少なくはないのは
この映画は言うまでもなく
以前、マンガ夜話でも取り上げられていたが
そのこだわりがページを埋め尽くさんばかり
そういった音を実際に耳で体感できるのだ。
騎士が飛ぶように走る様子、
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・見てて恥ずかしくなる映画
・音を聞きに行く映画
・最後の恥ずかしい声優紹介も含めてニュータイプコミックを映像として再現するとこうなる
・最後の少し、えっ?と感じるところまで含めて
・メディア化しない理由というのを色々と理屈付けしてるがただ単にメディア化したくないからメディア化しないというのが真相だろう。
こういう作家の意図的なマイナー思考をどうやって無理くりに変化させるかがプロデューサーの仕事だとおも
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すごく良かった。あれは原作ファンへのファンサービスだなという内容で、おそらく2ndに向けて大きな広がりを作りつつ(つまり新規ファンの裾野を広げつつ)、かつ原作ファンを号泣のるつぼに落とすという、なんというかバトンを繋ぎながらファンサービスをするような、理想的な「今昔繋ぎ」だったと思う。こんなことはなかなかないし、できることではない。すべてを卒業させたエヴァとはまた全然違う、素晴らしい出来だった。
ただ。ただね。これだけは言いたい。桜木は「合ってない」。
予めいうと、既存アニメ崇拝者ではないし、むしろアンチだ。正直アニメは作画はキレイな部分が多々あったが内容はそんなに好きではない。声優陣も思い出補正で好きだと言うレベルを脱してない(もちろんレジェンズへの敬意はある。しかし現実の俺の感情として)。そして木村昴も大好きだ。ジャイアンも好きだし、おはスタも見てるし、この人の能力の高さは心から認めている。
しかしこの桜木…俺にはクサすぎた。もっとストレートにやってくれ。ストレートってのは何も考えず正直にやれというのではない。「素人桜木になりきって完璧に演じてくれ」ということである。難しいことだろうが、それを求めたい。なぜならそれだけ素晴らしい出来だった。だけに。だけに。
と思う。
FF10とDQ1,2,3はRPGをあんまやらない俺でもクリアしたし。
SEKIROはアクションゲームが得意でない俺でもクリアしたし。
こういう名作を知る術が意外とないので困る。
二日前くらいに同じ内容のエントリを適当に書き散らしたけど、結論めいたものが出てこなかったんだけど、ちょっとだけ反応があったのでもう一回書いてみる。
いちおう結論ぽいのは出てくると思う。
まずロボットアニメにおけるロボットってなんなん?っていうと、これは例えばスポーツ漫画でいえば競技になる。
スラムダンクならバスケットボールだし弱虫ペダルならロードレースだ。スポーツじゃないけどゆるキャンならキャンプでもいい。
それで、このスポーツ漫画における競技は物語でどういう役割を果たすか?というとキャラとキャラを繋げる仕掛け、媒介になる。
スラムダンクなら流川と桜木花道で、ゆるキャンならしまりんとなでしこというキャラを繋げる役割がある。
普通は現実では人間は、嫌いな人間、合わない人間とは積極的コミュニケーションをしない。気の合った仲間と遊ぶものなんだけど、漫画や小説ではそれは面白くない。
性格の合わない人間、水と油のようなキャラたちが交流したりぶつかり合ったり、そして理解しあえたりあるいは決別してしまうこともある そういうものが見たい。
スラムダンクでバスケットボールがなかったら桜木花道はただのヤンキーのままで冴えないままで終わっていただろう。
バスケがあったから流川は桜木というライバルに出会えて、刺激されてバスケットボールに対する姿勢をもっと真摯なものした。
キャンプという共通の趣味があったからなでしことしまりんは友達になって、しまりんは、なでしこを通じて世界を広げていった。
ここで「スポーツ漫画の競技の理由は分かったけど、じゃあロボットなんて出さずに既存のスポーツとかでよくない?」という疑問が出てくるんだと思う。
ここでは作家の描きたいものが「スポーツで勝ちたい!」とか「アウトドアを楽しみを伝えたい」とかならそれでいいんだけど、もっと複雑で表現の難しいものになることがある。
たとえば世界に対する考え方とか政治とか生き方とか。ようはガンダムで扱われるような要素。
最初に「スポーツ漫画の競技はキャラとキャラを繋げる媒介」と書いたけど、じゃあ、ロボットアニメのロボットはキャラと何を結びつけるのか?というのは、まずは考え方、生き方、政治、つまり「世界」になる。
そして考え方や生き方の違うキャラ同士のぶつかり合いを表現するのに「ロボットで戦う」という絵的なインパクトが必要になる。
この絵のチカラというのは重要で、たとえばベルセルクっていうファンタジー戦記があるけど、あれは色々壮大なストーリーはあるけど本筋を雑に言うと「ガッツとグリフィスのキャスカをめぐる恋愛ストーリー」だ。
でも三浦健太郎の画力で片手と片目を失ってまだモンスターと戦うガッツの姿がないと「ガッツのキャスカに対する思い」や「グリフィスに対する愛憎」という情念を描き切れないんだと思う。
さらにもう一つ、ロボットが主人公を結びつけるものがあって、それが「女の子」になる。ようはヒロイン。
ロボットアニメのストーリーって主人公がいて、それを繋げるロボットが居て、半分は世界に関する物語があって、残りのもう半分は主人公とヒロインに関する物語のふたつでできてる。
どのロボットアニメでも物語のなかの「世界」と「女の子」の価値は同じで、それくらい女の子というのは重要な要素になる。
なんでロボットがつなげるのがヒロインなのか?というと、まず「ロボット」というのは「人の形をしているけど人ではない」ものだ。
年頃の男のにとって、同世代の女の子というのは謎な存在だ。ついこないだまで同じ「子供」だったはずがいつのまにか体つきが変わって、考え方もなんだか大人びた感じがする不思議な存在だ。
自分たちと同じ「子供」ではない。大人のように完成されている「人間」でもない。女の子は一日ごとにどんどん変わっていく。
男の子にとって女の子は「人間のようで人間でない」存在で、そういう意味でロボットのようなものなのだ。
ロボットアニメは主人公の男の子がロボットにはじめて乗るところから始まる。同時に、ヒロインの女の子との出会いが始まりでもある。
ボーイミーツガールというお話の型があるように、男の子が女の子に出会うことは、それだけで一つの物語が生まれるほど衝撃的な体験になる。
男の子にとって、女の子はそれくらい未知の存在で、知らない世界そのもの。ロボットのような理解できないもので、同時に魅力の存在なんである。
ここで、女性からすると、なんでそんなロボットを通じて男の子と女の子を繋げる必要がある?と思われると思う。「男の子と女の子の話を書きたいなら単純に恋愛を描けばいいじゃないか」と。
そこは悲しい話でエロの話だ。年頃の男の子はエロ抜きに女の子を見ることができないのだ。
少年向けの漫画や小説に純粋な恋愛作品がないのはそれである。あっても"恋愛要素のある探偵もの"みたいなおまけになる。
あるいはラブコメみたいに「主人公には意中のヒロインがいる。主人公はモテるけど、ほかのヒロイン候補のエッチな誘惑を跳ねのけてヒロインと結ばれる」というものになる。
男の子は恋愛するのにエロをどうするか?というのは避けられない問題なのだ。
そこでロボットを通じて女の子と分かり合うという仕掛けが出てくる。男の子とヒロインの間にロボットが立ってくれることで、ようやく男の子は繊細な感情や機微、言葉のやりとりができるようになる。
たとえばエヴァではシンジが「なぜエヴァに乗るのか?」という問いをアスカとレイから出されて、同時にシンジも二人に向けてなぜ乗るのか?という対話が発生する。
バスケがあるから性格的に合わない桜木と流川が一緒に試合に出たり練習したりするように、「ロボットが居る世界」があるから男の子はエロ抜きに女の子と向き合えるのだ。
とりあえずここまでのことをまとめると「ロボットアニメのロボットは作家の描きたいことを描くための必要な舞台装置」「男の子とヒロインの恋愛を描くための媒介」とかそういうのになる。
と、書いてきたけど、この内容を全部のロボットアニメに当てはめることはできない。あたりまえだけど。
水星の魔女はガンダムが作中でどう扱われるのかよくわからないし。
そもそも「日本のロボットアニメ」のようなものって海外では無いのだ。
アメリカでパワーレンジャーとかパシフィックリムとか、あるいはベイマックスとかアイアンジャイアントとかあるけど、アメリカのロボットって日本とは違うし、そもそもウケがあまりよくない。
海外ならティーンの恋愛は普通にドラマでササッと描いちゃう。アニメのスパイダーマンバースでマイルスとグウェンがしっとりとした大人ぽい恋の駆け引きみたいなやりとりをしてて「やっぱ恋愛先進国のアメリカは違うなあ」って思った。
日本みたいに奥ゆかしくて恥ずかしがり屋の国民性に恋愛は難しいのだと思う。
あとはとにかく男だから男の視点でしか書けなかった。「女の子だって男の子が不思議な生き物に見える」とか「女の子だってロボットが好き」とかあると思うけどさすがに回収は無理だった。