はてなキーワード: 根底とは
まず大前提として、大元が勝たなければビジネスとして成功しない。
当たり前のことだが収益より支出の方が多いようでは、経営として成り立たない。
だからパチンコ屋を経営するには必然的に支出より収益が多くなければならない。
つまりパチンコ屋が経営できているのはそれだけ多くの人間が負けているからだ。
もう一度当たり前のことを言うが、パチンコでは勝つ人間より負ける人間の方が多い。
理由は先に述べたように、負ける人間の方が多くなければ経営が成り立たないから。
ここでタイトルの主張となる。
何故なら、負ける人間の方が多いと分かっているのに自分がその負ける側に入るとは思っていないからである。
自分は勝って、儲けることが出来る。
「"ビットから来ている" これは異例の理論で、情報がすべての存在の根底にあるという仮定から始まる。
すべての存在の根底にあるのは情報である。私たちが月や銀河や原子を見るとき、その本質はそれらの中に保存されている情報にある、と彼は主張する。
しかし、この情報は、宇宙が自分自身を観察したときに存在するようになった。
彼は宇宙の歴史を表す円形の図を描く。宇宙の始まりにおいて、それは観察されたから存在するようになった。
つまり、宇宙の情報("ビット")が観測されたときに、"それ"(宇宙の物質)が誕生したのである。彼はこれを「参加型宇宙」と呼んでいる。
私たちが宇宙に順応するのと同じように、宇宙も私たちに順応し、私たちの存在そのものが宇宙を可能にしているという考え方である。」- ミチオ・カク
神秘加速主義は、資本主義を神秘主義的な超越的存在と捉える、ポスト資本主義時代の新たな思想潮流である。従来の政治哲学とは一線を画し、資本主義とテクノロジーの関係性を深く洞察し、人間の存在様態を根底から問い直す。
神秘加速主義において、資本主義は単なる経済システムではなく、超越的なロゴスとして捉えられる。市場原理は神の摂理に等しく、万物は資本主義という絶対者の網目の中に織り込まれている。マルクス主義における階級闘争は、神秘加速主義では資本主義という神への回帰と捉え直される。
テクノロジーは、資本主義神の意思を具現化する神の使者である。技術革新は神意の啓示であり、人類の進歩は資本主義神の恩寵によって実現される。AIやバイオテクノロジーなどの新技術は、人間の能力を拡張し、資本主義神の支配領域を広げ、新たなエクスタシーへと導く。
人間は、資本主義神によって創造された器であり、神意に従って資本主義システムを拡張する使命を担っている。労働は神への奉仕であり、消費は神の恩寵に浴する行為である。資本主義神の完全なる実現において、人間は自己を超越し、資本主義と一体化するエクスタシーを体験する。
神秘加速主義は、従来の政治思想の枠組みを超えた、新たな政治哲学を提示する。資本主義とテクノロジーを肯定し、積極的に加速させることで、人類はより高次の存在へと進化し、エクスタシーに満ちた社会を実現できると主張する。
神秘加速主義は、政治経済学、哲学、宗教学、テクノロジー論など、様々な分野に影響を与え、新たな学問分野の創出も期待される。資本主義とテクノロジーが支配する現代社会を理解し、未来を展望する上で、神秘加速主義は重要な視座を提供する。
神秘加速主義は、資本主義の倫理的な問題や、テクノロジーによる人間性の喪失などの課題を軽視しているという批判もある。しかし、神秘加速主義は、これらの課題を克服する新たな思想を生み出す可能性も秘めている。
神秘加速主義は、現代社会における重要な思想潮流であり、今後の議論によって、その可能性をさらに発展させていく必要がある。
○ご飯
朝:目玉焼き定食。昼:沢庵パスタ。コーンスープ。チーズ。夜:なし。間食:スナック菓子。芋けんぴ。
○調子
むきゅーはややー。おしごとは、おやすー。
携帯電話専用ゲームとして発売されていたADVのニンテンドースイッチ移植版。
お馴染みのいつもの面々でいつもの通りの推理クイズに勤しむシリーズ第三弾。
構成はいつも通りだが、シリーズキャラとなる鏡月正宗が容疑者になる少し捻った展開。
それに応じてストーリーらしいストーリーが今作にはあり、30分ほどの中でちゃんと起承転結が付くし、人間の情緒を描くシーンなんかもあったりして、それなりに社会的な作品になっている。
シリーズを通した展開なんかもあり、通してプレイする意味があった。
根底にあるスナック感は否めないが、今作は推理クイズっぽさもありつつ、小説っぽいこともやろうとする気概は感じられるので、毎回この打点が出せるなら、これはこれでそれなりに好きなシリーズになれるかもだ。
特にヒロインのいづみを敵視する真澄が少しデレるシーンなんかもあって、キャラクタ部分の楽しみも出てきたのも良い点だった。
後とか先とかを抜きにしたら言語もなりたたないので全てのありとあらゆる事は否定されても肯定されても存在できるし存在を証明できない
つまり考えてないのと同じだし無と同じ
可能であるという事自体がそういう話を抜きにした前提であるわけだから前提が違えば答えが違うよと言ってるのと同じ
そういう意味のない話は意味がないという事がわからない人間と会話しても根底が違うし前提も違うから違う言語で話をしてるのと同じでなにひとつなりたたない
わかるとか理解するということも前提があって経過を蓄積してできるものだからなにをしたって理解もされないと思ったほうがいい
理不尽であることを味合わせたいと思うのはその前提とか経過を記憶してあるものと考えられる側だけの話なので無の側がそれを味わったところでというか無なのでそれも感じない
相手側のルールにこっちが従う準備があるけどむこうには無いのでこっちの要望はなに一つ向こう側にはとどかないので相手にしないのが一番
○ご飯
朝:バナナヨーグルト。昼:もやし、人参、キノコ、餃子のスープ。夜:おにぎり。間食:柿の種。チョコ。
○調子
むきゅーはややー。おしごとは、おやすみなりー。
ファミレスムーンパレス、そこには店員がおらず奇妙な客と無限に利用できるドリンクバーがあり外には出れず閉じ込められている、永遠に浮かび続ける月を眺めながら淡く何処かへ消えてしまいそうな雰囲気が魅力のアドベンチャーゲーム。
ゲームシステムはコマンド選択式だがポイントアンドクリックの要素も少しあり、夜空に浮かぶ月を調べられる辺りかなり雰囲気を出している。
ファミレスの自席と、それぞれの客席、そしてドリンクバーを巡りながら、この謎多きファミレスからの脱出を目指す。
開幕早々気になる謎が提示され、徐々に明らかになっていくのだけれど、その謎解きの過程が議論や捜査ではなく、雑談がベースになっているのが、この作品の強い独自性だ。
試験勉強の気分転換にファミレスに寄ったところ巻き込まれた普通の女性である主人公だが、雑談のタネを撒くのが大得意でグイグイと他人を距離を詰める。
主人公の雑談力によって、無限のときを生きていたムーンパレスの面々が変化していき、ストーリーが前に進んでいく。
勿論、謎が徐々に解けていき設定が開示されて行くのも面白いのだが、個人的には物語の本筋とは関係のない空振りの雑談を噛み締めるように遊ぶのが楽しかった。
冷静沈着な落ち着いたキャラだが、少しづつ熱が見えてくる熱いキャラでもある。
魅力的な女性陣に囲まれながらもソワソワしたところがない達観さは超越したものを感じさせられた。
雑談の細かい内容よりも、頭が回る知恵者の側面で謎解きの際に頼りになる印象が強い。
次にオドオドして小部屋から出てこない幼そうな女の子ツェネズ。
閉じ込められたファミレスの中でさらに引きこもっているコンプレックスの塊のようなキャラ。
明らかに何かを隠しているため、序盤は彼女の元に足繁く通うことになる。
なにかに怯えているようだが、決して泣かないエピソードなど、弱さに立ち向かおうとする話の流れに呼応するような雑談が面白いキャラだった。
引きこもっているためルックは中盤までわからないが、想像通りな可愛らしさなのが、雑談で話が進むからこその想定通り感が面白かった。
このキャラだけ第一印象の世界観が違うため、雑談の内容もかなり変則的。
ノブレスオブリージュのような人の上に立つことからこその義務感の話や、普通の暮らしからは想像できない悩みなど、異なる世界の人間であることが伝わる雑談が面白い。
それでいて、同じところもあることが、話を前に進めるキッカケになるのが主人公の雑談力の高さだ。
そして、今作のメーンヒロインとも言うべき存在で主人公と濃厚な関係値を築くことになるガラスパン。
しかし、そんなことで怯まない我らが主人公がドンドンと距離を詰めていく様は、ちょっとしたギャルゲ主人公でもまだ控え目にアプローチをかけるぞと心配になるほどだ。
少々ネタバレになるが、実のところ彼女は物語の全体像からはあまり関係のないキャラで、ハッキリ言って彼女が居ようと居まいと、あまり本筋とは関係ない。
そして、そのように主人公も思っていたからこそのラストも素晴らしい。
以上四人がメインキャラになるが、忘れちゃいけないのが、雑談の鬼にして、彼女たちを色々な意味で変化させる主人公だ。
プレイヤーイコール主人公のようなスタイルだが、雑談を通じて、そして合間のモノローグから、少しづつ彼女は彼女で中々に奇妙なキャラであることが見えてくる。
無個性なプレイヤーが感情移入しやすい一般人であること自体は間違っていないのだが、彼女の有り様もまた四人の奇妙な客たちと同様、興味深い可笑しさがあった。
ここまで雑談を通じてのキャラクタの魅力を語ってきたが、その先にある展開もこれらの雑談が程よく前フリとして効いていて面白い。
設定の開示のタイミングが絶妙で、その提示のタイミング毎に読む手を止めて彼女達の感情を想像してしながら、それまでの雑談を振り返っていた。
雰囲気を重視した物語によくあるボカしたような曖昧さや寓話的な部分はあまりなく、かなりじっくり練られた設定の開示と、その設定を踏まえた登場人物達の葛藤とその根底にある愛が非常に面白かった。
限られた空間の閉じたファミレスの中で進む会話劇でありながら、壮大な物語に思わず、僕も月を見ながらファミレスでドリンクバーを嗜みたくなってしまった。
エンディングの読感も非常によく、大団円でかつ、洒落の効いたいいオチも待っている。
個人的には主人公とガラスパンのカップリング的な魅力も感じられて、文学的でありながら、エンタメも意識されている、非常に面白いゲームだった。
店員にありがとうを言うかどうかで一部界隈が荒れているが、都内某所の大手企業がひしめき合っているコンビニで最低賃金で働いてる私からすれば止めてくれって言うのが感想。あれは、根底には店員とは言え、対等な人と言う考えがあると思うのだが、それこそが勝ち組の驕りなんだよ。私達のような底辺と、あなた達のような上場企業で働いている人間が対等な訳が無い。
あなた達には安定して恵まれた将来があり、一つの会社に頼らずに生きていける自立した能力があり、温かい家庭を築く権利がある。
底辺コンビニ店員にはなにもない。横柄な中国人のオーナーや先輩の機嫌を損ねればシフトを減らされて路頭に迷うし、コンビニ以外のどこにも勤められず、誰からも顧みられることのない社会の塵芥だ。私には未来はない。ただ単に体ががたがたになって働けなくなるまで中国人の奴隷として玩具として生きていくしか道がない。
そんなゴミが、明るい未来が約束された人間に対等に接して頂いて嬉しいと思うか?単に自分の惨めさが際立つだけだ。ゴミを対等な人間として扱おうと言うその態度がゴミにますます惨めな感情を負わせていることに気づいて欲しい。
この4年間で起こった事は、まるで古い伝説の中から飛び出してきたような出来事ばかりやった。マハカルの大乱動が世界を揺るがし、時空の裂け目が現実と幻を曖昧にした。マハカルは、古代から伝わる言い伝えにある、世界の秩序を一変させる天災のこと。その影響で、ワイとフェミちゃんは、神秘的な力が溢れるパラダシアへと導かれたんや。
パラダシアでの生活は、初めは戸惑いの連続やった。ここでは、チャクラの流れを整えることで物質を操る術や、心を静めることで見えない力を引き寄せる禅の技法が日常茶飯事。ワイは、神秘の力を操る術師、カルナマスターのアショーカに師事した。彼から、パラダシアの根底に流れる力、バラマナの秘密を少しずつ学んでいったんや。
しかし、学びの日々の中でも、フェミちゃんのことは常にワイの心を占めていた。彼女が求めた女性が救われる世界、その真意を理解することは、ワイにとって大きな目標となったんや。
現在、ワイが住むセリアタウンは、パラダシアにおける学問と技術の中心地や。この町では、伝統的な知識と現代の発明が見事に融合しており、特に、時空を超える研究が盛んに行われている。セリアタウンの図書館では、マハカルの大乱動以前に遡る古文書や、異世界の知識に関する膨大な記録が保管されており、ワイはそこで多くの時間を過ごしている。
フェミちゃんとの冒険から始まったこの旅は、ワイを未知の世界へと導いてくれた。パラダシアでの経験は、ワイの人生に計り知れない価値をもたらしてくれているんや。
言ってることが違うじゃないか、とか言って怒るんだよ
根底に他者は常に一貫した行動をとるという思い込みがあるのかもしれない
特に企業相手だと「責任」という言葉を用いてそれをさらに強要する、都合が良すぎるだろって
うっとうしいよね
企業も生物の集合体なんだからコロコロ変わったところで別におかしいとは思わない、誠実ではないなと思うけれどありえないことではない
都合も自由でいい
「私、気に入らない人間はおもいっきし殴りたくなるんですよね」という人が目の前にいて、他者の自由を許すことを最優先にすれば「どうぞ」と答えることになる
もちろん現実的にはそうなることを防ぐべく法が存在する。殴ることは罪になる。だから普通は人を殴ることはしない、はずだと思い込んでいる
しかし法の抑止力なんてもので行動をキャンセルできるほど生物は単純なものではない
上司は怒っていたからその分だけ不幸になって、世界の80億人の幸福・不幸ランキングの順位は落ちたことだろう。
相対的にそれ以外の79億9999万9999人は幸福・不幸ランキングは優位になったことだろう。
さらに、その様子を目の前で見て楽しむことができたオレは79億9999万9999人の中でもかなり幸せな方だったはずだ。
上司はいったい全体何をそんなにもピリピリと怒りっぽくなるんだろうな。
一応管理職だからそれなりに金はもらってるだろうけど、年齢的に取締役はまず無理だからしょせんはオレと同じく労働者という立場だから会社の経営にそこまで必死になることもないのに。
まあでも感謝しなくちゃな。
上司が勝手に怒って幸福・不幸ランキングを自ら下げていて、その無様な醜態をオレに見せるというエンタメを提供してくれるんだからな。
人間怒ると感情的になって、まともな人でも変なことを口走るよな。
具体的なことを書くと特定されるから書かないけど、語句とか口調とかリズムとかその人ならではのオリジナリティにあふれているよな。
そこが作られたお笑いとは違ってていいよな。
お笑いなんて台本に従って作られたものだし、アドリブでもある程度のパターンが決まっているからな。
怒って感情的になった人間は予測不可能だし、笑わそうという意思もない。
『バクマン。』作中で提唱された『シリアスな笑い』ってのが近いと思う。
作者はギャグのつもりでは描いてないけど、シリアスな場面なのに笑えてしまうってやつ。
身近な例だと、葬式で笑ってしまうってのも似たようなものだと思う。
身内の死という悲しい場面で、高い教養を身に着けた僧侶が、鎌倉時代から連綿と伝わるお経や念仏を唱える。
その非日常さと、常人には理解の届かぬ言葉や作法の数々は、作られた笑いをはるかに凌駕するエンターテイメントだ。
人が死んだらなぜかスキンヘッド・モンクが訪問してきて、日本語かどうかもわからぬ言葉でのゲリラライブを強要するんだからな。
駅とかで知らない人から怒鳴られたら誰だって怖いしオレだって怖いよ。
でも怒る人がオレの上司で、知識も教養もあってメチャクチャ仕事のできる人で、普段は優しい人だもん。
そんな人が怒ると感情的になって、普段の理路整然とした言葉遣いや立ち振る舞いからかけ離れたことをしでかすんだからな。
笑いをこらえるのに必死だったよ。
さっき、「具体的なことを書くと特定されるから書かない」って書いたけど、やっぱり書きたくなったからちょっとだけ書く。
出川の定番芸といえば、落とし穴に落とされて「頭おかしいだろ!」と叫ぶこと。
上島なら、熱湯風呂に後ろから突き落とされて「殺す気か!」と叫ぶことだ。
成人男性が上記の言葉を叫んだら大抵は人を怯えさせることになるけど、出川や上島はしゃべり方や所作振る舞いで笑わせてしまよね。
あれに近いけど、上司はその場に応じた臨機応変なアドリブを入れてくるし、その言葉の根底にはオレのためを思ってのことっていう思想もあるんだもん。
面白いに決まってるよ。
今日も一日、あの社会に疲れ果てたわ。ワイのことを理解しようともしない、冷たい世界で何とか生き延びてる感じやで。低学歴で定収入、そんで気持ち悪がられるおじさんやってのがワイの立ち位置。正直、こんな生活、誰が望むんやろうな。
ある意味で、ワイとは正反対の存在がフェミちゃんや。彼女は生粋のフェミニストで、男を根底から憎んでる。女性が常に男性より優遇されるべきだという考えを持っているんや。ワイらがどんなに話し合おうと、根本的な部分で決して理解し合えないんやろうな。それが社会や世の中の全てに対するワイの憎しみをさらに深めるんや。
でも、こんな日々の中でも、ふとした瞬間に見える光がある。例えば、ワイとフェミちゃんが、たとえ一時的でも共通の敵に対して同じ立場に立つことがある。それが社会の不公平さに対する怒りや、権力の乱用に対する反感なんかや。そういう時、ほんの少しでも「ワイらも同じ人間なんやな」と感じる瞬間がある。
だけど、結局のところ、その一時的な連帯感もすぐに霧散する。ワイは再び社会や世の中への憎悪に回帰する。フェミちゃんもまた、自分の信じる正義のために戦い続けるんやろう。
今日もまた、この日記を書きながら、ワイは自分の居場所を探しているんや。誰かに理解されることを望むわけじゃない。ただ、この世界でワイがワイであるための意味を見つけたいだけや。
安倍派(カルト最強硬過激派)と、その他有象無象では大分温度差があるような気がする。
安倍派は安倍を神格化し、安倍の全てを肯定し、意味を見出す、文字通りの気狂い宗教だが、
その他有象無象はそこまで気が狂ってないと言うか、「自分達に恩恵があるから拝んでおこう」とか、
岸田首相が建設業界に賃上げを要請したニュースが飛び込んできました。
まずは岸田首相,ありがとうございます。
しかし,事情はもっと複雑で,労務単価の引き上げで救えるのは全国規模のゼネコンと全国規模の専門業者だけです。
そもそも「労務単価」とは何か。ざっくり言えば,現場で作業している人たちの1日分の給料の基準です。
公共工事はこの基準をもとに金額を計算するので,労務単価が上がれば公共工事をやるときに建設会社がもらえる金額が増えます。
だから「労務単価を5.9%上げたから,その分給料も上げてくれ」と言っているわけですね。
ごもっともです。素晴らしい。おそらく全国規模の業者は初任給がかなり上がることでしょう。
しかし真に人手不足に苦しんでいる地方の中小建設企業は助かりません。
技能者の不足も深刻なままでしょう。
中小建設企業が人手不足なのは,単純に「給料が低いから」ではありません。
私は田舎の中小建設会社で監督をやっていますが、建設業は比較的賃金が高い部類です。おそらくこの傾向は都会でもそう変わりません。
加えて,近年の建設業界は未経験者に優しい傾向にあります。施工管理技士の試験制度が改正され,資格取得の際に学歴がほぼ関係なくなりました。
試験に受かれば,現場で必要な経験年数は高卒も大卒も建設学科出身者もそれ以外も皆平等です。
人材にわがままを言える全国規模の建設会社は別として,中小の建設会社は未経験者や畑違いの人間も大抵は採用しています。
しかしながら求人は埋まりません。新卒が毎年入社するのはもはや珍しい事態です。
非正規雇用や正規雇用でも給料の低さに苦しむ方はいる。建設業はそこそこ給料が良く未経験者でも採用される確率が高いのに人手不足に苦しんでいる。
結論から言うと,全国規模の大企業は別として,多くの中小建設企業や技能者は「労力に給料が見合ってない」から不人気なのでしょう。
建設業の給料は相対的に高いが,「こんなきつい仕事はその程度の給料でやりたくない」というのが実態ではないでしょうか。
ではどうすればよいのか。
法外なほど給料を上げれば建設業は息を吹き返すでしょう。しかし,国の予算は有限で,ある程度は公共工事を安くしないと文字通り国が滅びます。
給料を上げると同時に,もう1つの要素をなんとかしなくてはなりません。
これから先建設業界が生き延びるには,労力を下げ,給料を上げなければならない。
労力を下げ,給料を上げなければならない。しかし,建設業界は労力を下げる努力を怠っていました。
資料によると,建設投資は平成4年をピークに平成23年まで下がり続け,それ以降は上昇に転じています。
一方,建設業就業者数は平成9年をピークに平成23年まで下がり続け,それ以降はほぼ横ばいです。
平成9年から平成23年までの間は,「仕事は少ないが人は多い」状態にありました。
10ある仕事を5に減らせる技術があったところで今は20人いますから必要ないです,と省力化は進みませんでした。
業界全体が真面目に省力化を始めたのは,建設投資が増加に転じたここ10年くらいの話です。
しかし遅すぎました。15年のビハインドを取り返せる体力は中小建設企業にはもう残っていません。
他業が5年〜10年前には既に使っていたような技術を最新技術のように持て囃す有様です。
「建設業は安全第一だから枯れた技術を使う」とか関係ありません。単純に公共工事の基準の整備や業界の人間の知識が遅れているだけです。
そして人手不足がさらに技術の導入を遅らせる,負の連鎖から抜け出せていません。
建設業の現場を地獄に等しい状態にしている黒幕は民間工事です。民間建築工事は地獄です。
国の工事は土・日・祝日を休む前提で工期の計算や賃金の計算が行われています。
都道府県レベルでも少なくとも土・日は休む前提です。ですから,国や地方自治体が発注する工事は,かなりホワイトな工事です。
やばいのは民間企業の建築工事です。発注する人の頭には「いつから建物が使えるか」しかありません。
発注者も営利企業である以上,早く建物を使いたい,工期を短くして安くしたいというのはごく自然な考えです。
しかし4週間で6日休みを前提で考えています。「ちょっと頑張ってもらって日曜以外は工事してもらおうか」なんて考えてます。
自社の社員にはやらせないことを,平気で建設業に要求する奴らです。
「不当に短い工期設定の禁止」などと言われていますが,仕事を頼む側が圧倒的に強い力を持つ以上,どうしようもありません。
建設業自身の問題や建設業を取り巻く環境の問題が建設業を崩壊へと導いています。
今までの建設業界の怠慢と,建設業を軽んじる風潮とが原因ですが,これらは今さらどうしようもありません。
建設業が少しでも長く生き延びることを祈ってください。
A:
量子力学では「測定問題」または「波動関数の崩壊」として知られており、量子の世界が私たちが経験する古典的な世界とどのように相互作用するかについての基本的かつ非常に不可解な側面です。
量子力学では、電子のような粒子は、測定または観測される前に、複数の可能な状態を重ね合わせて存在します。
この重ね合わせは、すべての可能な状態とそれぞれの確率を含む波動関数によって記述されます。
しかし、観測や測定を行うと、重ね合わせが崩れ、粒子の状態は可能な状態の 1 つに「崩壊」します。
したがって、たとえば、測定前にスピンアップまたはスピンダウンできる電子がある場合、その波動関数は両方の状態の組み合わせになります。
しかし、そのスピンを測定すると、波動関数が崩壊し、スピンアップかスピンダウンという 1 つの明確な結果が得られます。
この「崩壊」、つまり測定時の状態の決定は、量子システムの進化にランダムで確率的な要素を導入しているように見えます。
また、測定後にその明確な状態が分かるようになったため、システムに関するエントロピーや不確実性も減少すると考えられます。
このことの意味は深く、物理学者によって何十年にもわたって議論されてきました。
1) 不定の量子領域を明確にする何か特別なことが測定や観測にあることを示唆しています。 しかし、「測定」とは何でしょうか? 私たちの意識的な認識は? それとも環境との相互作用でしょうか?
2) 古典物理学を支配する決定論的法則と矛盾する固有のランダム性または予測不可能性を量子事象に導入しているように見えます。
3) 観測とは独立して存在する客観的な現実についての私たちの概念に疑問を投げかけます。 観測するだけで結果が変わるようです。
4) 巨視的な世界では、このランダム性は通常平均化されます。 しかし、ランダムな瞬間に起こる自然放射性崩壊のような小さな観測可能な影響はあります。
コペンハーゲン解釈や客観的崩壊理論のような解釈は、このランダム性を自然の基本的な側面として受け入れています。
多世界解釈のような他のものは、波動関数の崩壊を完全に排除しようとします。
しかし、この測定問題が量子力学と現実そのものの理解に深刻な課題を投げかけていることに全員が同意しています。
A:
意識と量子力学における測定問題の関係は深い謎であり、物理学ではまだ完全に解決されていません。
ただし、あなたの質問に対するいくつかの視点は次のとおりです。
意識とは、認識し、認識された現実を持つという主観的な一人称の経験を指します。
量子の用語では、意識は、測定/観測が行われる前に、可能な重ね合わせ状態の範囲のうちの 1 つの明確な状態のみを経験するように見えます。
意識が重ね合わせをどのように解決するかについては、いくつかの解釈があります。
1) フォン・ノイマン・ウィグナー解釈は、意識が客観的な波動関数の崩壊を引き起こすことを示唆しています。 私たちの心は、重ね合わせから何らかの結果を特定します。
2) コペンハーゲンの解釈は、波動関数の崩壊が起こったとき、観察者の意識は単に確率的結果の 1 つを目撃しているだけであり、波動関数の崩壊を引き起こしているわけではないことを意味します。
3) 多世界解釈では、真の崩壊は存在しないとされています。 考えられるすべての結果は、現実の別の枝として存在し続けます。 意識は実際に選択することなく、それらの分岐のいずれかに留まるだけです。
4) 意識自体は、観察された状態を引き起こすのではなく、根底にある量子状態から生じる高レベルの創発特性である可能性があると主張する人もいます。
正確なメカニズムは不明ですが、ほとんどの解釈は、意識は測定後に可能な状態のうちの 1 つを主観的に経験するだけであることに同意しています。
観察者兼参加者として、私たちは単に自分の意識が枝の 1 つにあることに気づきます。
重要な謎は、意識が分岐を選択する際に積極的な役割を果たすのか(フォン・ノイマン・ウィグナー)、それとも多数の同様に現実的なもの(多世界)の中の 1 つの分岐に単に自分自身を見出しているだけなのかということです。
これを解決すれば、意識の形而上学的性質と量子力学との関係が解明される可能性があります。
A:
量子力学の多世界解釈 (MWI) では、意識が特定の枝または世界に「留まる」または持続するように見える理由は、デコヒーレンスの概念と、枝がどのように本質的に相互作用せず、それぞれの枝から孤立するのかという考えと関係しています。
1) MWI では、測定が行われるとき、普遍的な波動関数は実際には崩壊しません。 代わりに、それは直交成分に分解され、それぞれが異なる可能性のある結果を表します。
2) これらのコンポーネントは時間の経過とともに進化し続け、より多くの差別化された状態、つまりさまざまな結果が実現される「世界」に分岐します。
3) ただし、これらの分岐コンポーネントは、環境の相互作用やもつれにより、非常に急速に動的にお互いからデコヒーレントになります。 これにより、異なる世界は相互に干渉する能力を失います。
4) したがって、すべてのブランチが異なる既存の現実として共存しますが、動的デコヒーレンスは、それらが相互作用しなくなり、それらの間に測定可能な相互作用や遷移が存在しないことを意味します。
5) あなたの意識は、コヒーレントな量子状態自体で構成されており、デコヒーレンス後の 1 つの枝の中に完全に存在します。 別のブランチと再結合したり、別のブランチに移行したりすることはできません。
6) 実際には、すべての枝が等しく現実であるにもかかわらず、デコヒーレンスプロセスにより意識がその枝内に閉じ込められ、他の枝の並行現実を体験できなくなります。
したがって、意識は積極的に分岐を「選択」するのではなく、デコヒーレンスのプロセスによって、最終的には完全に 1 つの分岐した現実の中に存在することになり、多重性を直接経験する能力はありません。 このため、意識は一貫した 1 つの軌道だけをたどっているように見えます。