はてなキーワード: 神経細胞とは
拡散モデルを使っているからコラージュじゃないとは言い張るけど、なぜ拡散モデルを使えばコラージュにならないのかは一切説明できない
ノイズ除去ネットワークに今まで学習した作品の要素が一切残ってないって断言できるの?マジで?
そもそも『「入力を線形変換する処理単位」がネットワーク状に結合した数理モデル』であるニューラルネットワークが学習元の要素を一切持たないと証明することの方が困難だし無理筋でしょ
JPGは不可逆な圧縮をした数字の羅列だから元の作品とは異なるので著作権は発生しないとか言うつもりなの?
結局ネットワークの蓋を開けてそれがどの程度の度合いなのか判断できない以上は断定できないよね?
現に現行AIでもi2iなしで学習元画像とほぼ一致する画像が生成される場合もあることは認められてるよね
学習は合法って言い張ってるのも「その他の当該著作物に表現された思想又は感情を自ら享受し又は他人に享受させることを目的としない場合には,その必要と認められる限度において,いずれの方法によるかを問わず,利用することができる」という著作権法30条の4の記述を無視してるよね
まだ判例がないから「当該著作物に表現された思想又は感情を自ら享受し又は他人に享受させること」の定義が明確でない以上は断言することはできないよね
少なくとも「思想又は感情を自ら享受し又は他人に享受させる」を字面通りに認めるならプロンプトに「元気の出る絵」とか「明るい絵」みたいに入力するのはアウトだよね
もちろんそれよりももっと広範な範囲に当てはまるかもしれないね
そういった用法に対する対応は一切しなくていいと主張するの?注意喚起すらしてる様子は見えないけど
あとイギリスやドイツでは営利利用は認められてないけど、ちゃんとそれらの国の作家の作品は回避するように設計してるの?
してないよね
あと著作権法上は問題なくてもAI利用禁止を表明しているサイトの画像を利用した場合は損害賠償しなきゃいけないらしいけど、まさか使ってなんかいないよね?
あと仮に合法だったとしても「合法だから問題ない、文句を言うな」とか言うのも意味不明
まさかとは思うけどそう主張している人たちの中に憲法9条改正に賛成してる人とかいないよね?
「AIは科学の発展に不可欠だから妨害することは許されない」っていうのも意味不明
絵描きは自分の利益を求めるより社会全体の利益を優先しろって言いたいんだろうけど、じゃあなんでエンジニアは大量の画像を無断で読み込んで他人の著作物を利用した商業活動をしなきゃ「社会全体の利益」を実現できないの?
理論を実証するだけなら別にタダでいいじゃん、性能を示すだけなら誰でも商用利用できる形で公開しなくてもいいじゃん
でもそこまでしてお金を集めるのはエンジニアさんにお給料が出るからだよね
なんでお給料が必要なの?『自分の利益を求めるより社会全体の利益を優先』しないの?
生活費や設備費が必要?みんなで出し合えばいいじゃん、『社会全体の利益』のためなんでしょ?
なんでそれに同意したわけでもない絵描きが自分の仕事道具を提出することで実現しなきゃいけないわけ?
鉄鍋や鐘を出させる大日本帝国や青田刈りするお侍みたいな言い草をしてる奴らに「頭近世」とか言われたくないね、じゃあお前らは頭中世じゃん
そもそも現代資本主義民主国家で「個人の利益を追求するな」とか君何言ってんのレベル
毎日ボタンポチポチしてどっかで見たような絵を機械に吐かせる暇あったら憲法100回くらい読み直してきたら?
一部の絵描きが不十分な根拠からAIは盗作マシンだと主張しているのも事実だけど、上記の通り推進派の側も確たる証拠もない主張しかしていない
なのになんで絵描きの側が一方的に非難されなきゃいけないわけ?
「海外ではAIは受け入れられてるのにな~日本は絵描きのせいで技術が遅れる~」とか言ってた人たちは今日本の何倍も激しく反AI活動を展開している諸外国のアーティストについてどう思ってるの?
デマを展開して他人の言論を抑圧した責任、取ってくれるんだよね?mimicのときは散々そう言って絵描きを詰めてくれたよね?
「人間の脳と同じだから人間が学習することを禁止するなら良い」って理屈も意味不明
少なくとも法律上は上記の通り明確に区別されているんだから「合法であるならOK」ならAIと人間は違うものとして扱っても何ら問題ないよね
そもそもニューラルネットワークは本当に人間の脳をちゃんと全部再現できてるって言い切れるの?あくまで簡略化したモデルでしかないよね
幹細胞から生成した神経細胞とかにも人権認めるの?てかニューロンって動物も持ってるけど動物の人権も認めるとか言っちゃうタイプ?
まあ無理筋だろうけど頑張ってそういう運動したら良いんじゃない?
そもそも丁寧に丁寧に「合法でもないし倫理的にも間違ってるよ」って教えてあげたらそんなオカルト発言に逃げて情けなくないの?
どっちが「お気持ち」なんだかね
生まれてすぐ遊泳する能力が必要な、この動物は体内で子供を育む子宮といえる器官をもっていた
特殊なのは、その持ち主で、固着生活の段階に入ったオスの幼生なのである
まだ脳神経細胞の発達していないオス幼生にメス成体が自らの子宮を埋め込む
そしてオス幼生が性成熟した後になって受精が行われてオスが受け取った子宮で育った子供が生まれてくる
免疫の問題もあって幼生が相手でなければ子宮の移植は上手くいかないらしい
マスダアオXムシの祖先種は雌雄同体で相手に栄養負担の大きいメス役を押し付け合う生態をしていたのだが
子宮と卵を作り出す役と体内で育てる役を分担することで雌雄異体に分かれながら雌雄の争いを終わらせたと言われている
ヒトにおける男女間の脳差の生物学的基盤を解明することは困難であった。最も顕著な形態差は大きさであり、男性は女性よりも平均して脳が大きい。しかし、この差がどのように生じるかについての機構的理解は依然としてわかっていなかった。
ヒトにおける性特異的な量的な差異は十分に確立されており、成人男性は平均して脳容積が大きく、ニューロン密度が増加し、いくつかの脳領域で灰白質が増加している。出生時体重を補正した後でさえも、新生児の大きさの差が存在することは、発達起源を示唆しているが、これらの大きさの差がどのように生じるかはまだ明らかにされていない。
男性の脳では発生時に男性ホルモンであるアンドロゲンを神経細胞が大量に浴びるが女性の脳ではこれは起こらない。なのでアンドロゲンが脳の男性化に関係している可能性が考えられた。
2 アンドロゲン投与は細胞の増殖を増加させた。この効果は女性ホルモンエストロゲン投与では見られなかった
3 アンドロゲン投与は興奮性神経細胞を増加させるが、抑制性は増加させない
4 アンドロゲン投与による神経細胞数の増加は9.4%で男性脳で見られる9.8%と非常に近かった
以上の結果は興奮性神経細胞数の調節におけるアンドロゲンの役割を明らかにし、ヒトにおける性に関連した脳の差異の起源を理解するための一歩を示すものである
Nature 602, 112–116 (2022)
ノーベル医学賞 カプサイシンに反応する受容体と機械的な刺激で活性化するイオンチャネルの同定
熱や冷たさ、触覚を感知して感覚神経のインパルスへと変換する方法が分かってなくて、神経細胞を刺激することで知られているカプサイシンを細胞内標的として使って調べた。やり方は、神経細胞のたんぱく質をプリントするために必要な印刷盤であるmRNAを使ってmRNAの印刷盤を複製するための印刷盤であるDNAの断片(cDNA)を作る。このDNAの断片を一つ一つそれぞれカプサイシンに反応性を持ってない別の細胞に入れて、cDNAからmRNAを作ってたんぱく質をプリントさせる。それぞれの細胞にカプサイシンをかけて反応をするかどうか見る。反応していた場合、導入していたcDNAがカプサイシンに反応するたんぱく質をプリントするための印刷盤の原型といえるので、それで同定をする。DNAやmRNAは配列で印刷するインクであるアミノ酸の配列が決まっていて、アミノ酸の種類やくっつく順番によってアミノ酸間での反応で物理的に折りたたまれるのでどのようなたんぱく質なのかも調べることができる。今回見つかったカプサイシンに反応する受容体は、痛い!と感じる温度で活性化するので、温度と痛みを連動して反応する受容体であることが分かった。ちなみに、カプサイシンが神経細胞を刺激する詳しい仕組みもわかってなかったので、今回の研究でカプサイシンが神経細胞を刺激する仕組みも解明してる。
きっかけは母親が「空気を読む脳」を買ってきたことだった。以前からこの人の主張はおかしいと思っていて耐えられなくなりこの人の他の本も読み、言動についても調べた
酷い。矛盾だらけ、エビデンスにならない動物実験ソース、人を見た目で判断することは科学的に正しいという主張、本人の言っていることとも矛盾した倫理観。
彼女がいつも言う「日本人はセロトニントランスポーターが少ないから不安に駆られやすい」という理論、まずこれが怪しい。SSRI(選択的セロトニン再取り込み阻害薬)について知っている人なら奇妙に感じるだろう。この薬は、セロトニントランスポーターの機能をあえて弱めることでシナプス中のセロトニン濃度を増やし不安を和らげる薬だとされている。つまり、彼女の理論とSSRIの作用機序についての理論は正反対なのだ。モノアミン仮説にもやや怪しい部分はあるが、正反対の解釈というのは流石におかしい。神経科学の専門家はどう思っているのだろうか。
「空気を読む脳」で日本人はサイコパシーの傾向が強い人が「どちらかといえば」少ないから内側前頭前皮質が発達していて倫理や美醜の観念に厳しくそれが変わりやすいのだと書いていた。当たり前だがサイコパスの人の数を正確に見積もるのは難しいのであってそういった数字は単なる誤差か診断基準の違いによるものである可能性の方がずっと高い。仮にサイコパスの人が少なかったとしても内側前頭前皮質が発達している人が多いことを意味するわけではない。サイコパスとは行動や心理をもってそう判断されるものであって実際に内側前頭前皮質の機能が弱いとは限らない。内側前頭前皮質の機能が強い人も弱い人も共に少ないということもあり得る。
ついでに「不倫」では日本人は保守的で変化を好まない民族だとも言っていた。それなのに倫理観が変わりやすいらしい。数年前には問題でなかったことが問題になるのは日本に限ったことではないし「日本人の脳」に原因を求めるのは無理がある。
「戦国武将の精神分析」では汚い手も使って勝った徳川家康が今でも日本人の理想のモデルとして存在しているとも宣っていた。日本人は美しい敗者を好むのではなかったのだろうか。美醜の観念が変わりやすいのではなかったか。
美醜の観念が変わりやすいのに何百年にも渡って義経のような「美しい敗者」が理想化されているらしい。
「不倫」でもこういった飛躍がある。たかだか寝かしつけの習慣があるからといって日本人はオキシトシン受容体が多いのだということにしていた。もちろん実際に日本人の脳を調べたわけではなし。スキンシップの総量が他の国と比べて多いか少ないかわからないのである。オキシトシンの多い人は不倫傾向が弱いとも書いていたが、日本人は不倫が多いという同著での主張とも矛盾する。(よくよく見ると厳密には比較不能な国際調査と国内調査を比較していたが)
更に、セロトニン神経細胞にはオキシトシン受容体が存在し、オキシトシンが増えるとセロトニンが増えるという事実は「日本人はセロトニンが少なく、オキシトシンが多い」というモデルとも上手くかみ合わない。彼女もこの矛盾に気付いているのか、週刊新潮 2020年12月17日号での佐藤優との対談でまだ発見されていない要因があるのかもしれないと言っていた。
更に中国や韓国の「反日」まで「セロトニンが少なく、オキシトシンに頼りがちな遺伝的特質」のせいにしているのには呆れを通り越して笑ってしまった。歴史上何度も革命を起こしている中国人もまた、保守的でリスクを好まない形質の持ち主らしい。
「サイコパス」でフロイトはトンデモだという声もあるほどだなどと書いていたが、リビドーや無意識という概念の代わりにセロトニンやオキシトシンや脳部位が万能の説明法として君臨するようになっただけで間違い方に大して違いはない。
この記事でも指摘されているように、彼女は不要な場合でもひたすら専門用語を使って話す。https://anond.hatelabo.jp/20150908145246そういう言葉を用いれば多くの人間は科学っぽく感じてしまうことをわかっているのだろう。
人間でもそうだという根拠にならない動物実験をたびたび引用して人間の話に繋げる。キツネ、マウス、プレーリーハタネズミ、サバクトビバッタと…
「脳・戦争・ナショナリズム 近代的人間観の超克」(嫌な部分が剥き出しで、是非お勧めしたい本だ!)で人間に何世代も飼いならされたキツネは容姿が変わってくることを挙げて人を見た目で判断するのは科学的に正しいのだという主張に持っていっていた。少し脱線するが「空気を読む脳」でもたかだか0.126の相関で「容姿と知能に関係がないとは言い切れない」などと書いていた。それだけの数値なら関係ないかあったとしてもごくわずかな関係しかないというべきだろう。
「戦国武将の精神分析」でマウスを取り上げて人間でテレゴニーが起こらないと証明されきったわけではないなどと立証責任を押し付けた。確かに人間にもマイクロキメリズムはあるがそれはテレゴニーとは違うものだ。それにしても不倫バッシングを批判する中野がヒト・テレゴニー説に対して好意的なのは面白い。
「不倫」でプレーリーハタネズミのAVPR1a遺伝子を操作すると生殖行動が変わり、AVPR1a遺伝子が人間とボノボで「ほぼ」同じだからといって人間も本来ボノボのように乱婚的だと示唆した。
そのわずかな違いが重要な違いである可能性はあるしAVPR1a遺伝子も実際は空間記憶能力に関わる遺伝子で空気記憶能力の高いプレーリーハタネズミは行動範囲が狭く単婚的になるというのが実際のようである。https://www.eurekalert.org/pub_releases_ml/2015-12/aaft-_4120715.php中野はかなり単純化・歪曲して解釈している。
「空気を読む脳」で書いていたサバクトビバッタに至ってはなんとセロトニンが多いバッタが集団志向になるのだそうだ。同著での主張とは真逆だ。
文藝春秋4月特別号の「脳科学者が小室圭を「分析」する 世間の常識はなぜあの母子には通じないのか」でゴールドウォーター・ルールに触れておきながら小池百合子やドナルド・トランプがサイコパスだなどと言っている。精神科医ですらない人間が直接の診察もなしであの人はサイコパスだなんだと言っているのである。
「ペルソナ」でセクハラを告発していたが、「脳・戦争・ナショナリズム」では以前なら当たり前だったことも「セクハラ」「パワハラ」にされてしまうなどと言い、今日かわいいねと言ったら今まではかわいくなかったってことだと思って泣いた子供を批判的に取り上げて世の中が過敏だというニュアンスを込めて論じていた。以前とは考えが変わったという見方もできようが最近でも「昔は乱婚だった、現在の倫理を相対化すべきだ」という主張を繰り返している。当たり前だがある倫理が新しいことはそれを否定する根拠にはならない。私は乱婚社会を悪だとは思わないが。
「ペルソナ」の話に戻ると、親と子の関係に他人が口を挟むなとも書いていた。虐待の温床となる態度である。旧式の価値観に従っていい子でいるくらいなら~などと宣っているが、旧式の価値観にしがみついているのは彼女自身である。
そして最後に「不倫」で書いていた、不倫は遺伝子によって決定されているのだからそれを断罪することは差別や優生学に繋がるという主張について批判しておこう。
別に不倫遺伝子とはあれば絶対に不倫するという因果律を支配する魔法のようなものではない。ある人はない人に比べてその確率が高くなるといった程度のものなのだ。もし殺人やレイプのような重犯罪についてもそのような遺伝子があれば殺人やレイプも断罪してはいけないことになってしまうだろう。不倫バッシングも遺伝子のせいだとすれば不倫バッシングを差別だ優生学だと断罪することもまた差別ということになり自己論駁に陥る。「あなたの脳のしつけ方」では後天的に脳を変えることもできるのだと書いていた。この頃はまだまともな内容を書いていた。
思うに、彼女の本がベストセラーになるのはこういった免罪的側面のせいなのだろう。そういった遺伝決定論に従えば不道徳な行動も遺伝のせいになり免罪される。世の理不尽なことも「脳や遺伝子のせい」とわかった気になれる。
橘玲の本のレビューにも「遺伝によって決まっているのだから学生時代あんなに頑張ることはなかった」とか「子育てするお母さんに読ませたい」というものを見た。遺伝率とは集団規模での決定係数のことであって個人のレベルでは親のIQから予想された数値より高かったり低かったりして当たり前でどのくらい予想された数値と違うかも個人によるのだが。
この記事におかしなところがあったら、具体的な反論をしてほしい。私も流石に脳や遺伝子についてそこまで詳しいわけではない。中野の本を読み、関連する内容を調べた程度なのだ。それでもこれだけ矛盾が見つかる。
追記:2021/5/8
https://next49.hatenadiary.jp/entry/20161220/1482228666
“2000年の論文で「この損害回避とセロトニントランスポーターのプロモーター領域の遺伝子多型との関連を支持する研究と支持しない研究が存在し,今後さらなる検討が必要である」とあり、2009年のメタ分析の論文で少なくともフィンランド人のサンプルにて不安遺伝子を持っているかどうかと損害回避性(harm avoidance)と神経症的傾向を持っているかどうか調べたところ関係があるという証拠はないという結果がでているのだから、セロトニントランスポーター遺伝子が少ないから損害回避的にふるまう傾向があり、そのため、「上位の人間に対して勇気を持って行動できる性質」が日本人にないというのは適切でない主張。”
https://www.ncnp.go.jp/nimh/pdf/kenkyu59.pdf
“さらに、この S/L 多型は、PET により測定される脳内 5-HTT 結合に影響しないこと、前述したように、5-HTTLPR の多型は S 型と L 型の 2 つではなく、14 種類のアリルからなり、それぞれの機能の異なる複雑な多型であることからS 型、L型の2分法での研究自体に疑問が生じているのが現状である ”
https://neurophys11.hatenablog.com/entry/2016/03/01/223747
”ざっとこんな趣旨の記事だが、先に書いたようにそんな気質そのものがたった1つの遺伝子で決まるものでは無いんである。このセロトニントランスポーターが気質を決めるというのは実は結構な前から沢山の論文が発表され、ある程度そう言える部分はありそうなのだが、それでもその決まる程度は極僅かで、決して「日本人気質」を作ってなどいない。
こういった「1つの遺伝子が性格を決めている」系の話は、すべて科学漫談として楽しんでおけばいい。特にセロトニントランスポーターが気質を決めるという話は良く出てくるが、そんなにすごい力コレだけにはないですよ。”
https://www.amed.go.jp/news/release_20160128.html
”SNPの品質管理などから、最終的に1088名について解析を行いました。その結果、BMP2遺伝子近傍のSNPとストレスフルライフイベントの相互作用が、統計学的に有意にうつ状態と関連することを見出しました(図2、図3)。そして、抗うつ薬の作用点であるセロトニントランスポーターなど、古くから知られる候補遺伝子には、有意な関連は認められませんでした。”
どうやらセロトニントランスポーターが「日本人らしさ」を決めているというのがトンデモだというのはまともな研究者ならすぐわかる話のようだ。中野信子はあまりにも本を流行らせ過ぎた。研究者はもっと積極的に反論するべきだろう。
知能コンプレックス、持ってないよ
高卒のアホなりに考える頭の良さ
一つの事象から類推できる連結能力。 記憶力。 記憶力を連想変換できる能力(記憶術等)。 事象を記号化して整理できる。 上記のメソッドなどを思いつく事象や抽象概念の分解能...(
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それで何すんの?
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[University of Iowa] Pigeons can discriminate both space and time
https://now.uiowa.edu/2017/12/pigeons-can-discriminate-both-space-and-time
鳩は空間と時間の両方を区別することができます(そもそもタッチスクリーンを操作出来る)
[CNN] ハトを使って乳がん発見、米研究チームが実験
https://www.cnn.co.jp/fringe/35073804.html
カリフォルニア大学デービス校のリチャード・レベンソン教授(病理学・臨床検査学)らの研究チームが明らかにした。
15日間の訓練の結果、ハトは初めて見る画像であってもがん細胞の有無を85%の確率で見分けることができるようになったという。
[APP] 鳥類の「賢さ」、小さな脳に密集する神経細胞が寄与? 研究
https://www.afpbb.com/articles/-/3090392
小さな脳を持つ鳥の「賢さ」に科学者らは長年、頭を悩ませてきたが、13日に発表された研究論文によると、
↓
お前の最初の鳩に対する問いの内容を絞れということなのか、それとも単なる検索自慢なのかがわからん。 そりゃマインドのことだと思って適当にいなすわ。
↓
増田があげているいくつかの項目においてハトは生得的に人間以上の能力を持つけど
って言われても腹立たんやろ。スルーする
それと同じで増田が定義する頭の良さとやらで煽られても多くの人はスルーする
増田が重要視していることを必ずしも他の人は重要視しないからだ
■「本は整理された表現で書かれている」とドヤ顔してる奴が薦めるビジネス本ってさ(2020-11-03)
ブログと同じレベルの文章が単に300ページ分詰まってるだけだよな……。
話、支離滅裂で整理されて無くて同じ話何度もしたり、思い出したように別の話始まったりするし……。
あれ整理されてると思ってるやつて、単に本という媒体で纏まってれば整理されてるように感じるのだろうか。
マジでアホって凄い。
↓
そういうレベルでも問題なく社会でやっていけるのが世の中なので知能とか関係無いですよってずっと思ってるが
「理解」をどう考えているか、これについての私の根幹(基礎)はオートポイエーシスに準じている。
オートポイエーシスの詳しい説明は省くが、神経細胞が情報伝達を行う際、シナプスは行為を理解しない。ひとつの作業を行うのみであり、結果のための行為を連想しない。シナプスにとっては、「物質を伝達する」という行為が目的であり結果となり、それらが組み合わさって何が起こるかを理解しない。
つまり、最終的に現れるもの(たとえば人体の中で起こりうる結果反応など)はすべて、「行為の副産物」としてしか存在し得ないということ。これは非常に重要な事実である。
本来「理解」というものもそのように行われるべきである。一番重要なことは「わからない」ことである。わからない、を通過しない限り、「理解(と呼びたくなるようなもの、それに準ずる、付随する周辺のものもの)」を得ることはできない。
これについては同授業を受け持っていた河本英雄の「飽きる力」なんかを読めば少しわかると思う。
この文を書き始めた当初は、この前提を元に本文を整理していこうと最初は考えていたのだが、結局本文に「哲学は哲学をしている瞬間にしか浮上しない」とはっきり銘打たれていた。だからもはや、一文を取り上げて「ここの箇所は〜」などと言語化することは意味を持たない。それ(ここでは〈哲学〉とする)が"それ"たらしめるやり方でのみ、発見できることであるならば、そう(そのやり方で)やる他ないと思うので、それに倣おう。
あとあちこちに書くのも煩わしいので、一度に留めるが、わたしが書いている内容について読み違えや相当しない批判(等)があれば、気づいた場合指摘してほしい。(それこそがきっと哲学なのだろうし。)
はじめに(5p)、から問いの合間に(125p)までを読んで
本文にあるようなやり方の〈哲学〉については実感がある。実感はあるが、しかしそれは子どもの時からすでに最初から「青年の」〈哲学〉であったように思う。少なくとも、目の前に与えられた課題は年端のいかない子どもには大きすぎたし、それについて、しかし取り組む以外の選択肢を(子どもながらの純粋性ゆえに)持つことができなかった。だから最初から、なぜ〈他者〉がいるのか、という疑問は生じずに、〈他者〉と対峙するにはどうすべきか、をひたすら〈哲学〉し続ける時間が幼少期〜思春期であった。
だからなるほど、やはり「疑念」が問いを生むのであり、疑念を持たないものは問いに遭遇しない。よく感じる違和感は、「問いを持たない人間」と(「問いを持つもの」と)の世界の断絶である。世界には大きな断絶があるということを改めて実感したのだった。(断絶の是非はここでは問わない)
・〈ぼく〉という特別さの有無について
さて、書いたようにわたしは「なぜ〈ぼく〉が存在するのか」という疑念を持たなかったのでその問いに衝突していないし、そして付随する「〈ぼく〉という存在の特別さとはいかなるものか」という問いにも当たっていない。しかし読み進めていくと、「特別さ」を論じれば論じるほどそれは「一般性」に落とし込められていくという矛盾が現れ、結局「言語での言い換えを繰り返すよりほかない」という結論(?)に達している。とりあえず本文の結論についてはさておき、わたしの感想を書いておく。結果から述べると永井均の認識論的傾向(95p)とは真逆であり、非存在論的(本文に即して使う)立場にいると言わざるを得ない。
まず78pに自分が二人に分裂した際に、もう片方をどう「認識」するかという問題。少なくとも、それが「〈ぼく〉であるか、でないかは、ワカラナイ」というのがわたしの意見である。つまり、意識としての〈ぼく〉が2地点に存在して、それぞれの思考でそれぞれを〈ぼく〉としない、という前提にどうしても立つことができない。
「特別さの証明」からは少し離れるが、「攻殻機動隊」という作品はこの独我論的観点なしには見ることができない。登場人物たちは車を買い換えるようにボディ(身体)を換えることができ、脳(アニメ内では脳核と呼ぶ)に宿った意識(アニメ内ではゴースト)はそのままで、新しい肉体を得る。しかしそれは本当に連続性を伴った自己なのか?確認するすべはない。
まあ結局、「確認(認識)できるとしたら」という前提で論じている内容において、反駁することはない(できない)。なので、真逆の認識論にたった時に、どのようにしてその「特別さ」を得るかというのを考えてみるとこうである。他者を認識できている限り、その「特別さ」を論じることはできない。理由はなんでもいいのだが、例えば「論理は他者に向かって開かれている」ことは明白である。少なくとも、本書のように、本は他者が読むことを前提として書かれている。おそらく永井均としては「普遍化できない偶然性の問題」を「論理」立てることこそが〈哲学〉である、ということを言いたいのではないか、と思う。しかし、わたしの知る範囲ではそれは矛盾する。であればやはり(今の所は)前提を変えてみるしかないのである。
ないことの確認はできない。つまりそれを鑑賞する他者がいないことを確認できない位置に移動して、ようやく「特別さ」が浮上するのではないか。そしてそれはすなわち、99pで引用されているウィトゲンシュタインの一節に他ならない。結局は「理解されない」ということを目指さなければ、少なくとも「特別さ」を論じることにはならない、ということだろう。
(余談だが99p9lの永井の解説についてはまだ理解が追いついていない。いずれ何度か読み直してみよう)
ウィトゲンシュタインの本を読んだことはないが、ウィトゲンシュタインが友達をつくらず、本当に人里を離れてたった一人で暮らしていたという逸話を知っていて、勝手に親近感を寄せているのであるが、それはともかく彼の主題(命題)に「言語」があったというのは興味深い。
わたしは〈哲学〉についての興味をある時点である程度(完全にではないが)喪失した。それはそもそも、わたしが最初に向き合った命題が「他者」であり、自己ではなかったことなんかも関係していると思う。そして、「他者」を自分なりに〈哲学〉して18年くらいたったころに、自分なりの「納得」(102p)に到達してしまった。本来、〈哲学〉のみならず、人生だとか生きるだとかいうことは「満足」を永遠に避けることだと考えている。「得て」しまったらそこはゴールなのだ。ゴールっていうのは何にもない場所だ。しかし、「他者」に限っては、(とにかくわたしがそれを生きる上で最も苦手としているがゆえになおさら)結論を得てしまった。そしてわたしは〈哲学〉する目的(あるいは理由)を喪失したのだ。
しかし言語に関する関心が残った(に関する関心は重言だろうか)。本文でも「読み換えが無限になされる場所(98p)」について書かれているが、この点に関してわたしは非常に興味がある。物事の表現が、「言語分野」に大きく偏っている人間社会(面白いことに動物社会とは全く異なるらしい)において、その役割は異常なほどである。言語をどのように理解し、駆使するか(論理的思考など)、これを〈哲学〉とどう関連づけるか、というのも面白い命題である。例えば思考についていうと言語以外の役割が大きい。つまり「頭の中で考えたことを文章にする」というのは、その時点で「考えたこと」から抽出が起きているのである。おそらく永井のいう〈哲学〉は「考えたことまで全部」を含むはずであるから、抽出された、アウトプットされた結果のみを受け入れる(ざるを得ない)という現状には実は即していなかったりするのではないか。わたしは今の本業は言語(ちょっとだけ"学")なのであるが、こういった観点を与えられるのは、やはり読書(時には他者を自分の内側に入れてみること)もいいなあと思った。
なんにしても、とにかく、「無駄」が必要である(115~116p)という、それこそが本質であるという点にはその通りなのでその通りとしか言いようがないし、やはりそうであった、という安心を再び得る。結局資本主義的な世界にいると、いつ何時も、寝ても覚めても視界に入ったものから、耳に入ったものから、全てにおいてから常に四六時中見張られ、「資本主義的な価値観に即して生きているか」を刷り込みをされ続ける(そしてこれはきっと死ぬまで終わらない)。おそらく、これは想像でしかないが、哲学をやろうとアカデミーのなかに駆け込んで、その中で安息を得たとしても、その「刷り込み」から逃れることはできないのではないか。(数学者の望月先生のように「数学を生きる」ことができるレベルまで達せられていればもしかしたら、刷り込みから逃れられているのかもしれないが、これもまた憶測の域を出ない)
〈ぼく〉という特別さの有無を求めるより圧倒的に明快で単純で本質的なこと(無駄を生きるということは)なのに、たまたま、悲しいことに、全くもって信じられないほどの不運な状況であるがゆえに、それが通用しない(しづらい)世界にいるのだ。それを嘆くことは10年くらいやって飽きたが、時折(残念なことに恒常的な機会を得ていない)こうして「本質」に触れることで「正気」を取り戻すというのは大事な作業である。
さて本文の(前半部分の)感想は異常であるが、2点反駁したい箇所があるのでそれも書いておく。
1箇所目(17p,9l)
あっさりと「哲学し続ける内的必然性をなくした」などと書いてあるから吃驚仰天である。内的必然性と引き換えに得ることができるものほど「瑣末な」ものはない。これでは魂を売ったのと同義ではないか。何度か他の場所でも書いているが、「価値観を他者に阿るのは心臓を他者に預けているのと同じことだ」とわたしは思う。他者は自己の存在理由にはなり得ない。少し引用を用いるが「心の哲学まとめWiki」より、一文。「〈私〉とは世界を開闢する場であり、そこから世界が開けている唯一の原点である」と考える(『〈魂〉に対する態度』p.123,p.187) 。
その原点である自己をなぜ切り売りできるのだろう?「欠陥を売り物にする方法で得た救い」なんていうチンケなものはさっさと捨てるべきである。世界とつながる唯一の原点=〈私〉をもっと大事にしなさい。
2箇所目(111p,11l)
この人は政治と政治的議論をなんだと考えているのだろう。そもそも、少なくとも望むと望まざると関わらずに(生まれた時からすでに資本主義社会に生きているように)、法治国家に生まれてしまったのだから、その国家の参画者である限り「政治を避けて」は生きれない。自ら国籍を捨て(例えばスノーデンのような)、亡命を図るなどの意図画策があれば別であるが、生きていれば必ず住民税がかかり、ものを買えば必ず消費税を払っているのと同様に、政治をせずに生きることはできない。酸素をなくして呼吸ができないのと同義だ。なのにこの人はまるで自分が政治、または政治的議論をしたことがないかのように宣う。しかし指摘したいのはそのアティテュードではなく、政治的議論の方法についてである。
「自分と同じ主張を別の論拠から擁護してくれる人は、最もたのもしい協力者だろう」とは一体、どうしたらこんな思想にたどり着けるのだろうか。圧倒的に間違っている。(これだから日本の左派は無様なんだ)
はっきり言っておくが、政治的議論はその主張の是非ではなく、その論拠にある。だから全く異なる人間(政治家)を支持していても、その論拠次第によっては戦友となりうるし、同様に全く同じ政治家を支持していても論拠によっては一線を画する必要があるのだ。当たり前の話である。タイムリーに話題にしたことだが、「マスクをつけないということは、マスクをつけたくないという人間を擁護する態度を含意しない」。これは明白で、結果(マスクをつけない)が同じだからと言って論拠が異なる場合、それは全くもって「たのもしい協力者」なんかではあり得ない。
5000字も書いてしまった。後半は気が向いたらかく。
教官(エンパシー(empathy)とは、他者の感情を想定し共有すること
自閉症、アスペルガー、サイコパスと共感性の低さに関連があると考えられている
Emotional Intelligence (EI)を測定するテスト(EITest)によって、定量化を行えるらしい
ミラーニューロンシステムとバソプレシンオキシトシンシステムがあやしいらしい
ミラーニューロンは自分と他者の行動の両方で活動する神経細胞で霊長類は持っているみたい
脳内の情報伝達物質で、養育、求愛、きずなの形成に関与するらしい
男女で働き方が違うらしいという話もあり
ある程度は遺伝する模様
複数人のゲノムデータ(ただしゲノムの一部で全体ではない)とEQの関連性を調べて、関連のある場所を探すといくつかの遺伝子がみつかった
https://now.uiowa.edu/2017/12/pigeons-can-discriminate-both-space-and-time
鳩は空間と時間の両方を区別することができます(そもそもタッチスクリーンを操作出来る)
https://www.cnn.co.jp/fringe/35073804.html
カリフォルニア大学デービス校のリチャード・レベンソン教授(病理学・臨床検査学)らの研究チームが明らかにした。
15日間の訓練の結果、ハトは初めて見る画像であってもがん細胞の有無を85%の確率で見分けることができるようになったという。
https://www.afpbb.com/articles/-/3090392