はてなキーワード: 男性自身とは
基本的には、男性ジェンダーで出来上がった男社会が、その中で女性ジェンダーを抑圧しているという構造なのだが、
しかし男社会の男性ジェンダーも、結局は男性を弱者と強者に分断するだけで、あまり男性自身を救ってはいない、
だったら自分たちフェミニストと共闘して、互いに互いのジェンダーから自由になろうではないか、
というのが、エマ・ワトソンの主旨では?
当たり前だが、男性でも女性でも、そのジェンダー観から自由になるため最初の一歩は「自覚」しかない。
自分が苦しんでいる原因が、自分のなかにあるということに気づくこと。
エマ・ワトソンはそれを促している。
で、気づいたら次に、社会に対して働きかけよう。それを一緒にやらないか?という誘いかけの主張だと読んだんだが。
それが正しいかどうかは知らん。
>
>ここで問題になってくるのが、男性性欲の暴力性について男性自身が否定的になると、定期的にオナニーして射精することを義務付けられ、親しくない女性に対しても十分に性衝動を感じ得る自分の性も、同様に暴力的で良くないんじゃないか、ということになってきてしまうことだ。
そうかだから痴漢のポスターには加害者の顔のイラストがないんだろうか。
だから痴漢を非難する話をすると自分が非難されたかのような反応をする男性が居るんだろうか。
勿論、何回も何回も何回も語られたように、性衝動を感じることとそれを行動に移すことには違いがあって、その境界こそが問題なんだけれども、例えば極端な話勃起って勝手にしちゃうやつじゃん。なんかここらへん男女で感じ方違うのかな。
http://anond.hatelabo.jp/20150114203151
これはまぁ、そうなのかもだけど。抑圧の過程、抑圧してる存在って割と明らかなんじゃない?
あの抑圧されていた時代の空気は良く覚えている。メッシー、アッシー、貢ぐ君とか。「結婚したくてもできない男 結婚できてもしない女」なんて本もあったり。男女共同参画会議ができてからは「男は仕事も家庭も両立しろ」というメッセージ(ただし、今では女性も言われるようになった)。男性からの告白がセクハラになる一方で、女性が素敵な告白を求めてたりするダブルバインドもある。
今は結婚して子供も2人いる。結婚すると自己嫌悪みたいなものがだいぶ和らいだ。私でも誰かの役に立てる、というのは嬉しい。あと別に私は「私の全人格」を嫁さんに肯定して欲しいとは思ってない。 一緒に暮らすと内緒にしたい要件というのもある。
ただあの時の、抑圧されていた気持ちは忘れていない、男性に向けて酷い発言が多い時代があった。そういう時に欲しかったのはムチャクチャ言う女性に対してフィードバックする存在がいて欲しかった。昔だと上野千鶴子。 いまだとid:Chikirinへツッコミいれてる人をみると安心する。インターネットができて良かった。
意識さえされれば、男性性を適切に解放するための物の考え方(具体的に言えば女性とのコミュニケーションの取り方)は現状の知見でも十分過ぎるものが揃っている。
責任の所在はどこにあるのか、と言えば、全てにある。女を自分のお遊びとしてしか考えていないオッさんたちにも、それについていってしまう女の子たちにも、そして彼女たちを救えない若い男性たちにも。
岡田斗司夫のような男性に女性が引っかかってしまうことについて「彼女たちを救えない若い男性たちにも」「責任の所在」があるという内容に否定的なコメントが多数寄せられているが、この部分について否定的なコメントが男性から寄せられるという事実そのものが、鶉氏が嘆いている「救えない若い男性たち」の内情を示しているように思う。
まず私は彼女いない歴=年齢期間を長々と過ごしていた「若い男性たち」の一人なので、この内容に否定的なコメントを残したい男性の気持は良く分かる(ただし、単純な女性蔑視でコメントを残している荒らしの心理はこの記事では扱わない)。
今の若い男性の多くは、自分の中の男性性が暴力性を伴っていることに対して敏感である(少なくともまったく無反省ということはない)。
岡田斗司夫の事件は極端だけれど、様々なシーンで男性性欲の暴力性が女性を傷つけていて、世の中の女性がそういうことに憤っていることをよく知っている。
ここで問題になってくるのが、男性性欲の暴力性について男性自身が否定的になると、定期的にオナニーして射精することを義務付けられ、親しくない女性に対しても十分に性衝動を感じ得る自分の性も、同様に暴力的で良くないんじゃないか、ということになってきてしまうことだ。
男性性欲の暴力性に否定的になることは自分の中の男性性欲の存在そのものに否定的になることに直結する。
そうなった結果現れるのがいわゆる「草食系男子」というものだ。
彼らについて性欲が少ないとか無いとか平然と言ってしまう人は認識を改めたほうが良い。
早い段階で男性性欲の暴力性を認識し、自分の中の男性性欲を表に出ないように徹底的に抑圧しているのが草食系男子である。
この抑圧の過程の多くは男性本人にとっても無意識下に行われるのが厄介だ。
ここでやっと冒頭に戻るが、そういう男性からしてみると、日々自分の性を抑圧して苦しんでいるところに「救えない責任がある」などと言われてしまうと、いやいやあなたたちが怒るから必死に女性を傷つけないように頑張ってるのに責任があるとかおかしいでしょ。ましてやメンヘラとか自己責任だし。自分で自分を救えよ。という風に感じてしまうのは無理からぬことなのだ。
だが、こういう反応そのものが鶉氏の言う「若い男性たち」(その実この問題は「若い男性」のみではなくあらゆる世代の男性にあてはまるのだが)の問題点を示している。
それはどういうことかというと、彼らは「救う」、「責任」という言葉を字義通りに解釈して反発しているのであって、鶉まどか氏という一個人が本当は何を言いたいのかという点には目を向けていない。
鶉氏の言いたいことは、その後のツイートに端的に書かれている。
鶉まどか @uzuramadoka
わたしは男性に「女の子をお姫様扱いして大事にしろ!」なんて言うつもりは毛頭ない。責任は、目の前にいる異性をちゃんと等身大の存在として認めないことにある。女だって苦しんだり悩んだりするし、そして当然男だって同様だ。それをお互い理解しようよ。お互い理想ぶつけあってどうすんだよ。
「目の前にいる異性をちゃんと等身大の存在として認め」よう、つまり「他ではない私を見て」ということなのだが、そもそも自分自身の男性性がまったく受容できていない男性にはただ一人の他者も受け容れる余裕がない。
女性からしてみれば、周囲の男性の多くが自分のありのままの存在を受け容れてくれず、男性性の葛藤からの逃避過程で生まれたファンタジックな女性像に夢中になっているのは、やはり「救われない」状況なのではないだろうか。
少なくとも岡田氏の愛人のような女性に実際に関わって救う義務が全ての若い男性にあるというような議論が展開されているわけではないことは明らかだろう。
ただ、男性性が抑圧下にある男性には目の前の女性の個性を受け容れる余裕がない。
私が提言したいのは、男性性の抑圧の過程が男性自身によって明確に言語化され客観視されるべき、ということだ。
意識さえされれば、男性性を適切に解放するための物の考え方(具体的に言えば女性とのコミュニケーションの取り方)は現状の知見でも十分過ぎるものが揃っている。
追記:
ただ、私は森岡氏が『草食系男子の恋愛学』で定義するように「草食系男子」に「異性と肩を並べて優しく草を食べることを願う」というような属性を付与できるとは考えていません。
この間洪水でナショナルレイルが一部区間運休になって、バスに乗り換えろと言われた駅に行っても違う駅からバスがでているから電車に乗ってそこまでいけということを言われた。
日常生活に困らない程度の英語はできるが、現地の人も右往左往しているような状況で、しかも別の国から電車を乗り継いで帰って来たところでかなり終電の時間も近く、正直半泣きになってたところで助けてくれたのはイギリス人男性だった。
こういうとき、イギリス人女性はだいたい見て見ぬふりをする。英語があまり自由でないらしい外国人にたいして親切なのは中年以降のイギリス人男性だ。
そういえば昨日も土曜市でバスの予定が狂っていたが、それを教えてくれたのは地元のおじいさんだった。
若い人は乳母車や車いすを乗せたりおろしたりするときには活躍するが、それ以外では基本的に女性と同じくまわりを無視している。
ちなみにヨーロッパの大陸に移動すると中年以降の男性・女性ともに困ってたらなにかと声をかけてくれるが、若い人の場合は詐欺を目論んでいる場合がほとんどなので応対をしてはいけない。特に中東系・インド系には注意しなければならない。
閑話休題。
しかし親切にするイギリス人男性が礼を言われているところはあまり見かけない。
基本的にベビーカー・車いすに乗っている人は当然という顔をしている(まあ子供は仕方がない)し、その介助者も当然という顔をしていることはよくある。一応目があうとにっこりする国なのでおなざりな礼はいうが、感謝して話しかけまくるというのはあまり見かけない。そもそも手伝った男性自身が礼を言われる前にさっさとどっかに行ってしまう(若い子らの場合後で仲間内で「俺かっこいいだろ?」みたいなことを言ってたりはするが)。
彼らにとって困っている人間を助けるのは当然のことで、礼を言われるまでもないことなのだろうとおもう。助けるという行為自体はかっこいいという認識があるようだが、それは自分がそういう行為をしたということが誇らしいのであって、礼を言われるためではないようだ。
翻って日本だが、日本では少なくとも江戸時代くらいから「仕方ないから助けてやった」「へへーありがたやー」「礼はいらねぇよ」が様式美としてある。助ける方は恩着せがましく礼を要求しつつ、礼はいらねぇと強がる。たぶんこれは江戸っ子のいう粋なのではないかとおもうが非常にめんどくさい。しかし残念ながら我々はその影響をモロに受けており、ゆえに席を譲るにしてもハードルが高いし、譲られる方も断りがちだし、かつ礼はいらねぇというには礼を言われないとならないので、それがないと猛烈に腹が立つのだ。
http://anond.hatelabo.jp/20141130043309
ちなみにイギリス人というか欧州の人々が礼を言うかどうかは人によりけりだが、アメリカ人の場合感情表現が非常にはっきりとしているので感謝感激してくれるだろうと思う。この人の場合、多分アメリカに行ったほうが馬が合うんじゃなかろうか、などと思った。
東京ゲームショウ2014に行ってきた。
ぷらぷら周回していた僕は、便意(大)を催した。そこで、そこそこ並んでトイレに入ったんだけど、そこの個室が洋式じゃなくて和式だった。
何気なく用を足した後、以前から悩んでいたことに改めてぶち当たった。その悩みとは「水洗レバーを手で操作するか、足で操作するか問題」だ。
たいていの和式トイレには、しゃがんだ時にちょうど手元に来るあたりに水洗レバーがある。そうでなくても、低い位置にレバーがあったりする。そうすると、用を足し終えて、眼前に横たわるブツとティッシュペーパーを確認しつつ、さて水を流すかとなった段で、毎回その問題に向き合わなければならない。
「そこは当然、手で操作でしょ」と道徳的な思考は命令するんだけど、一方で「いや、他の人は足で操作しているに決まっている。そうすると汚いわけだから、足で操作しろよ」と論理的な思考が邪魔をしてくるのだ。
まさにゲーム理論で言うところの囚人のジレンマが発生するわけだ。
囚人のジレンマ(しゅうじんのジレンマ、英:Prisoner's Dilemma)とは、ゲーム理論や経済学における重要概念の一つで、「互いに協調する方が裏切り合うよりもよい結果になることが分かっていても、皆が自身の利益を優先している状況下では、互いに裏切りあってしまう」というようなジレンマを指す。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9B%9A%E4%BA%BA%E3%81%AE%E3%82%B8%E3%83%AC%E3%83%B3%E3%83%9E
名前も顔も知らない赤の他人を信用して協調すれば、手で操作することでより良い結果をもたらすことができる。しかし、足で操作すれば、皆が足で操作して汚いレバーを手で触らずに済む。
赤の他人を裏切って足で操作すればいいという結論に至ってしまうのも致し方なかろう。で、足で操作してしまうわけだ。そして実際に今日まで、そうして来た。
ところが今日の僕は違った。美人コンパニオンを眺めて頭が冴えていた僕は、「でも、ちょっと待てよ」と考えたのだった。
「そもそも足のほうが汚いと決めつけていいのだろうか?意外と手の方が汚いのではなかろうか。男性自身を触った手。尻を拭くときに紙越しに肛門に肉薄した手。そちらの方が、靴の裏よりもよほど不潔なのではないか?」
「そうすると、足で操作すれば、WIn-Winではないか。僕は足で操作したいし、他人にとってもそちらのほうが好都合だ」
こうなると、囚人のジレンマとは様相が異なってくる。皆が協調して足で操作すれば、皆が利益を得られるではないか。
そう判断を下した僕は、迷わず足で操作した。何だか長年の悩みを突破できた感じがして、爽快だった。和式トイレにゲーム理論なんて無かったんだ。
そして個室を出た僕は、手を洗わずにトイレから会場に戻っていく他人を何人も目撃した。
絶望した。
ここ数日、男女の不平等について面白い意見が連立して、増田かいわいが盛り上がっていた。
時間をとって読み込んだので、ここにまとめる。
男性は、交際相手の女性に、裸の写真を送って、と要求する。そしてフラれたときに、その写真をインターネットで拡散する。
これが"リベンジポルノ"だ。
リベンジポルノや痴漢への対策は、リアルで、ネットで、いろいろ言われている。
でも、そこには明らかな男女差がある。
被害者である女性は、「自分の身は自分で守れ」「そんなことをする男は付き合うに値しない」と警告される。その一方で、
加害者である男性には、何も言われないどころか、「それについて言及してはいけない」雰囲気、さえある。「やってない男に、『お前もやるかもしれないから気をつけろ』と言ってはいけない」。
このような現状に対して、Love Piece Club - リベンジポルノ男の扱われ方 / 田房永子の筆者は、疑問を投げかけている。
もし本当に「リベンジポルノをする奴」が男たちの中でそんなにハッキリと異質な者として存在しているんだとしたら、直接その人たちへ防犯アクションを起こしたほうが被害が減るんじゃないだろうか?
そのためにまず、言及してはいけない雰囲気、を何とかすべきだと主張した。
そのような雰囲気を作ったのは、誰だろうか。
男性批判を許さない『正義の大人たち』は、こんなことを言っている。
「うちの長男に『こんなことするんじゃないよ』と言ったら『やらねえよ』って言われちゃいました。ちゃんと分かってる子は分かってるようです」
これを受けて、増田へのエントリ許し難い言葉に、昔のWebページが転載された。増田は言う。”男女不均衡の理由が、ここに全部載っている”。
意訳すると、こういうことだ。
レイプやリベンジポルノのような性的な事件では、まず最初に、男女間のリスクの不平等がある。
だから、井戸端会議で、(たとえ相手の女性をはらませてしまっても)「結局、男の子は相手の女の子にお金払えばいいんだから。」と言って、笑い合う。
そして、
のような言説が、ネットで頻繁に見られるようになってしまった。
ところで、まだ謎がある。
このような事件において、
後者だ、と言っている増田がいる。彼女は、男は女をゴミみたいなものと思ってるからリベンジポルノは仕方がないと思っていて、
女を人間と思っている男が居たら「すご~い!レア~!でも本当?フリじゃなく?」って思うし、正直そういうフリして好感度対策しているだけだと思う。
確かに被害者である女性ばかりに対策が求められているが、その内容が”浅すぎる”と言った。
この増田は、『自分を大切にする』こと、その重要性を説いている。
「加害者になるかも?」という指摘は、「被害者になるかも?」という指摘に比べて受け入れ難い。
男性の性に関する教育こそ、もっとされるべきだ、といったブクマがあった。
男性自身さえ目をつぶっている、男性性の本質はあるかもしれない。
主夫であるnynuts氏は男性育児の「ケモノ」性 - Togetterまとめで、
と忠告している。
男女関係にかぎらず、「もっとXXXのことを想像しろよ!」というメッセージはネットでよく見られる。
言われた方は「ウザい」と感じてしまって、ついつい炎上ブクマしてしまう。
でも、短絡的に男性一般や女性一般を叩いていくと、キリがない。
それよりも、それが起こった背景、その仕組み、を想像するほうが楽しい。
特に、Webページを転載全文転載した増田の洞察を、とても含蓄が深いと感じた。だが転載という形をとっているため、初見では意図がわかりにくかった。
すべての記事において、意訳したところがかなりある。間違っていたらごめんなさい。
自分が何を言っているのかわかってるのかな?
「ぼくはモテない」
「自分は本当はオナニーしたくないけど『せざるを得ない』」という猿の反省ポーズと、「規制されたらオナニー『できない』」という被害者面。
本当にマスターベーションしたくないんだったら規制されたほうがいいはずだよね?
要はオナニーしたいんでしょ?
正直に言って欲しいな。「ぼくはオナニーを楽しんでいる」「少女を犯す妄想で女性への復讐を果たしている」って。
というと今度は開き直りな逆ギレ君たちが「二次元と三次元を区別している」とか言うんだろうなぁ。
あれ?二次元と三次元を区別しているのなら「モテないから合意の上でのセックスなんて想像できない」「モテないから強姦やロリでオナニーするしかない」は成り立たないはず。
なぜなら二次元と三次元を区別しているなら「二次元の成人ポルノ」も「二次元の和姦」も想像可能なはずだから。
「最低限文化的な生活」には性欲処理は含まれません。「オナニーするしかない」といっている人は「オナニーをする権利」をその中に含んでしまっているよね。
非モテの一部が言っていた「男に女を1人ずつ分配」「承認配給」と同じ論理。非モテが保守的な規範を言い訳にしていたように「オナニーするしかない」の人もまた「射精欲」を言い訳にしている。まるで「オナニーしなければ死ぬ」とでも言いそうな勢い。射精欲は他の排泄欲(排尿、排便等)に比べるべくもないほど弱いのは常識だよね?
「本当はオナニーしたくないんだ」
?
フェミニズム的に言えば女性の身体を見て欲情し、自慰により精液を噴出させるのは、男性自身の主体的行為。
「本当はしたくないんだ」「罪悪感に苦しんでいる」なんて宇野常寛の「反省の身振り」そのもの。
本当にしたくない、罪悪感に苦しんでいるなら止めているはず。または止めようと努力しているはずだよ。
それをせずに「罪悪感に苦しんでいるのだから少女を犯して愉しんでもいい」なんてロリコンを再強化してみたり「ロリでオナニーするしかない」なんて被害者面してみたり「規制されたら三次を犯す」なんて脅迫してみたり「二次と三次を区別してる」とか嘘ついてみたり。
「規制派は感情的で対話をしようとしていない!」なんて言ってる人もいるみたいだけど、一体「対話」を端から蹴ってるのはどっちなのか、自覚しといたほうがいいと思うよ?
萌えの根底には必ず擬人化で成り立っているんだ。擬人化というか理想化というものか。
この擬人化、理想化、いわゆる「胸キュン」にちかいものを起こさなければならない。妄想と呼ばれる物な。このときに発生した物が「萌え」だ。
かじり知識で済まないんだが「アニマ」および「アニムス」を勉強した方がいい。「アニマ」とは男性から見た理想の女性像であり、「アニムス」とは女性から見た男性像になる。理想のキャラクタを組み上げようとすれば分かるんだが「アニマ」および「アニムス」に近い形になる。たとえば、俺などこの文体もそうだが、しばしば俺は女性を演じたくなる。しかし、それを一カウンセラーの客観で捉えて貰った場合「アニムス」に似たものと評価を貰えた。つまり、俺の理想型は「俺の女性像=女性から見た男性像=腐女子の好きな男性キャラor気(我)の強い女性」になったと言うことだ。俺だったら「萌え」はバイセクシャル気味な感情であり、対象物もそういう物から引き出されやすい(ショタと執事大好きだもんな。無理に女性に歪めてるもんな/男優役のおんにゃのこにはぁはぁ)。
「アニマ」および「アニムス」というのは一種の理想型だ。たとえば男性が少女を率先して引っ張りしたい人は幼い子に萌えを抱きやすい。逆に男性自身が率先されたい場合の「アニマ」はお姉ちゃんという寸法。このどういう物なのかという部分がいわば属性なわけで、好みに近い。好みに近いのだが、こころの奥底で求めている何かがあるから造形が組み上がる。これをいわば「萌え」というわけだよ。かなり好い加減で的外れに近いんだろうが。
つまり、「萌え」っていうのは理想の異性に近いって事なんだ。これは別に知らなくても分からなくても発生する。何となく一目惚れで「いいな」と思った物によちよちよっていくと大量の男やら女やらが祭り上げて競争していることもしばしばだ。だが、これは偶像であり架空の産物であるから発生しやすい。リアルにももちろんいるんだが、この際、その話は置いておく。つまるところ何が言いたいのかと言えば、「萌え」とは理想のモデル化を起こすための原動力なんだ。恋愛感情でも性的感情でも良い。どちらとも当てはまるときもあれば片方の時もある。広義の場合はもっとアバウト。そのどちらでもないときにも使われる。猫が可愛い、犬が可愛い、なんかいやされる。それもまた「萌え」だ。
これを俗に私たちは「恋」といいまた「愛」というのだよ。
で、OK? 細かく考えたいようにみえたから好い加減な解説をしてみた。まあ、萌え要素がある人とか言われたら、理想に近い人でFAっす。
ムスコという表現に反するが、男性自身と言われる場合もあり。オレオレです。ただし女性の場合は女性自身とは言わない。週刊誌名になってしまうからだ(嘘)。
しかし娘(ムスメ)とも言わないですね。
海外では、女性が逆上して男性器を切断や火傷させる事件が度々ありますが、彼の最愛の"息子"を奪い殺したという見方も出来るわけです。息子よ。
続・男らしさって何?の元増田です。
前回シリーズまでの怒涛が嘘のような閑散っぷり(笑)回答者少な!
あまり男性からレスが無いようなら(そもそも質問の難易度が高すぎる?それとも自問するのに抵抗がある?)この話題は今夜をもって完結します。
余裕出来ちゃったので全レス。
http://anond.hatelabo.jp/20080529224551
すまんが、もうちょっと論理的に整理して書いてくれると助かる。
意味がよくわからないところが多い。
そもそも正解を決めているわけでも無いので、「全部俺にはわからない」でも立派な回答になります。
実際にあなたが考えてみる事に意義があるので、どっかに落ちていた回答を提出されたりしても困ります。ここまで言ってる意味は解りますか?
基本的に社会の発展とは生死の危険が少なくなって、価値観の多様性が増す(動物的本能から離れていく)事です。
要するに発展するほど自然状態からより人口的な世界になっていく訳。人間の価値観も。
例えば現在は未発達で原始的な狩猟社会からうんと発展して皆が安全に暮らせる世の中になりましたよね?
そうなると一昔前の定番句だった「男には狩猟本能がある」「女と子供を身体を張って守るのが男」だと言う概念が存在し得なくなります。だって私たちの暮らすコンクリートの街には狩場も危険地帯もないんだもの。
勿論これは例の一つですが、他にもいろいろあるので是非考えてみてください。
そう言えば男らしさを古代に遡って語る方、多いですね。昭和・大正・明治・江戸・戦国時代…そして原始狩猟時代。このまま行くとプランクトンレベルまでいきそうだ(笑)
http://anond.hatelabo.jp/20080529225522
男らしくあること、自分が男らしいと感じられることが気持ちいいし、それが自尊心に繋がるからです。
男らしさに拘る理由としては、実のところ、それ以上のものはないでしょう。
根拠の無い自尊心って感覚?でもそれに振り回され放題で人生トータル的に泣きを見る男性多そうですけど。
逆に敢えて捨てる事でプラスの生き方もできそうなもんなんですけどね。
そう思われるならQ1??Q3に答えていただけると助かったのですが。
補足文中にある「男性自身にも男らしさってよくわかんないんじゃないの?」についてのご意見も聞けるなら聞きたいところ。
http://anond.hatelabo.jp/20080529235300
なんて難しい質問なんだw
話がちょっと変わるけど、男は自分に男らしさを求めていないと思うんだ。
女が男に求めるものが男らしさなのだと思うのだよね。
その感想だけでも大収穫です(笑)丁寧なご回答ありがとうございました。
でも女が男に求める男らしさですか…私はよくわからないです。今すぐ思いつくのは攻撃的・暴力的な形で男らしさをアピールするのは勘弁ね、くらい。
私としては男らしさ・女らしさに捉われない恋愛もアリで、これから少しずつそうなっていくのではと思ってます。
言いたい事はhttp://anond.hatelabo.jp/20080529223503で全部言っちゃったからこれ以上ネタはないなぁ。
http://anond.hatelabo.jp/20080528222912
http://anond.hatelabo.jp/20080528232358の元増田です。今だかつて無いほどのトラックバックにビックリ(笑)
この手の話題って本当に関心度が高いんだなぁ。
昨日までの書き方で質問の意図がわかりにくかったり誤解を与えたりしたと思いますので
まずなるべく簡素に疑問点だけを抽出して書きます。
Q1.「人間力がある」という評価と一線を画する自分の「男らしさ」って何ですか?
Q2.男らしさの説明として父性を挙げた方がいましたが、あなたの父親はそもそも「男らしい」男でしたか?そうならどんな点が?
(飲んだくれ、暴力、愛人作りまくり等、通常なら離婚されてしかるべきDQN系の父親は除外)
Q3.仮に父親からでないとしたら生まれてから今日まで何処で「男らしさ」を学習したのですか?(男子校や女子校で無い限り学校教育は基本的に男女平等ですし)
Q4.自分の事を好きだと言ってくれてセックスもしてる彼女がいたとしても「俺の男らしさ」に惹かれたので無ければぶっちゃけ恋愛の意味が無いと感じる?
以上です。
主旨は以前から気になる事をこの機会に知りたいなぁと言う事だけで、他意はありません。
ちなみに昨日も書きましたが私の定義する「女らしさ」とは、方法にそれぞれ違いがあっても「男性の男らしさに魅力を感じて必要としている」という前提の上に成り立つもの、です。
例えば「オトコノコの世界っていいな☆」「強くて頼もしい男性が近くにいれば安心する」「なんで男の人って無茶ばっかりするんだろう…バカなんだから(だがそこがいい)」
→そういう男性の傍にいられるように様々なアプローチをかける。そんな感じ。
そこに「男らしさ」というものの価値が実感できなかったり、「別に男っぽくなくても彼とは楽しく付き合える」と思う女性が出る等、その大前提が崩れたら存在意義を失う。
よって社会が進歩すれば「女らしい女」が少なくなるのもある意味必然。女の方はその事を特に問題視していない。
そこが女性不在でも語られる固定的な「男らしさ」と決定的に違うところかな。
もっとも私には「男らしさ」は既に実体を失いつつあるように見えて、男性自身にも実の所よくわかっていなさそうなのに、
何で多くの人はこだわろうとするんだろう?
誰にも教えてもらえなくて、よくわからない「男らしさ」を目指そうなんて相当無理があるんじゃないか?
もしそれのせいで欲求不満になってるならいっそのこと捨てちゃってもいいんじゃないの?それでいて親しく付き合えるなら女だって気にしないよ。少なくとも私は歓迎するよ。
全然簡素でも無いし長いですね。
まったくのところポエミーな文章であり申し訳なく思っております。
暴力的な押し付けをしてるんなら直したいと単純に思ってしまうのですが、でも、押し付けの理想像でない、その本質ってなんでしょうね。
正直なところ、わかりません。
もうこの際ポエミーに徹してみようと思うのですが、人とはマーブル状に色の着いた「球」のようなものだと思うのです。
球を見る視点と、カットの方法を変えれば、表面や断面図はどうにでも変わります。
切込隊長だって、見方を変えれば「ちょお鬼才」だし、「童貞wプゲラwww」でおしまいになることもありえます。
ですが、それもその人のまぎれもない一部ではないでしょうか。
私が言いたかったのは、けして自分の望むように見られていない、という嘆きではないのです。
増田さんはしてこなかったであろうと思いますが、またそうではない人も多いと思うのですが、
「彼氏は、彼女からさまざまな理由で無言の要求を、当然のごとく課される切ない生き物である」
このことを言いたかったのであります。
たとえばそれは慣習というものであったり、彼女自身の理想というものであったりするかと思いますが、
それは、男性自身のいかなる情報も、紛れ込むことのできない範囲であります。
たとえば、「男はこうあるべきだ」や、「トキメキ」という判断でありますとか。ロマンチックではありますが。(あと、男性にもよく存在しますよね。)
彼女自身の脳内で、彼女自身の定義によって、男性が決定されているというか。
もともとある枠組みの中に現実の男性をはめこんでしまっていることが多々あるのではないでしょうか。
とりあえず、あなたの
との、疑問に不肖私が答えるとするならば、
「その本質とは、「その人それぞれに固有の特徴・思考」である」
だと思います。まったく定義どおりで代わり映えしませんね。
しかし、あの文章の中をさらいだしても見つかるべくもないものです。
女子は男子の本質を見ていない、といったこと自体が暴力的だったのかもしれません。
「女子は男子の本質を見てくれてはいるけれども理想像で上書きすることが少なからずありえる」
ということなのです。
私は、理想像や現実的でない評価で生身の人間をくくってしまうことにとても切なさを感じます。
まるで、バラエティに富む各個人が、パラメータ化され、ブラウン管に映っている人生ゲームの中のひとりの登場人物として扱われているような切なさです。
あなたは決してそういうことをする人ではないと思いますが、もし、あの私のちんちくりんな文章を浚う暇があるのなら、
そして、そのあるがままを愛してあげてくれませんか。
不満点も、不満点として、良い点も、良い点として。それこそが、あなたの彼氏の本質ではないでしょうか。
あと
あ、文章としてはこの段の上で本質の話は終わっていて、また別の話がはじまっていて、単純なる希望、好みのことを書いたということであれば、誤読ごめんなさい。文章の中に、上の疑問に対するなにか具体的なヒントがあるか探して、ここがやけに具体的だなーと思ったので。
その通りです。私個人の単なる好みでした。
それが酒の魔力だと思います。大学生はよいです。
主語のない文章さえも読んでしまえる、これも魔力です。
d:id:nichijo_1の元エントリで問題にされている「射精=イク」なのかどうかは、「イク」の定義が難しいので置く。
オーガズムの有無を論ずる前に、セックスについて語る前に、射精そのものについて、もっと語られなければならない。
射精の快感度を考える際、古き良き歓楽街の、客引きのオバサンの
「お兄さん、ちょっとスッキリしていきなさいよー」という台詞のうちの「スッキリ」という言葉がそれを見事に表していると思う。
まさに男は射精によって「男という性に対する自己嫌悪感」からスッキリと逃れるのである。
女子高生のソックスに、近所の奥さんの胸元に、コンビニの店員のお姉さんのポロシャツの脇からちらちら見える白い布地に、
d:id:soulfireの胸に……そういったものにいちいち一喜一憂する、そんな、男に特有の欲望からいっとき自由になる、
唯一の手段が射精だ。
ライヒの言う「嫌悪感をともなう排泄」というのは、それが一種の排泄行為であるというのはその通りだが、正確でない。
ライヒなんて全然読んでいないのだが、放出に嫌悪感を伴う、という言い方は、嫌悪の対象から自分自身の性、
男性自身を切り離しているところに違和感がある。また、単純な女性嫌悪と受け取られる可能性がある。
そうではなくて、いわば(男という)性に対する嫌悪感そのものを放出する行為が射精なのだ。
「性への自己嫌悪感を精子とともに排泄する行為」が射精である。
しかも、男性の場合はそれがまさに性行為そのものであるところに、男性の性の複雑さがある。
「射精する前の自分」と「射精した後の自分」、どちらが本当の自分なのか、どちらが本当の「男性たる自分」なのか、
それに答えることは難しい。
つまり、射精の快感は、満足感や充実感と似てはいるが、異なるものだ。
満足感や充実感は、その射精に、何らかのヒトやモノといった存在を介して様々な意味付けをすることで、初めて得られる。
決して射精そのものから満足感や充実感が導かれるわけではない。
しかしどんな射精にも「解放感」だけは存在する。そして射精の快感は一瞬だが、解放感だけはその後も持続するのだ。
その「解放感」は「敗北感」や「諦観」に近づく場合はあっても、「解放感」というだけの快感はある。
だからどんなセックスでも女性は「出されるだけの女」とか卑下することはないが、その場合、
男性はあなたから解放されるためだけにセックスをしているという、より残酷な可能性がある。
極論する。男は快感のために射精するのではない。自由を手に入れるために射精するのだ。
何から?男から、女から、そのセクシャリティから。