はてなキーワード: 大家族とは
★数日前、「喫煙飲酒する妊婦比率」のニュースがネットにあったが、ネットのタイトルしか見てなかった。
日経本誌には他の調査、妊婦のマグロカツオ摂取比率も掲載されてる。
★妊婦に喫煙飲酒が良くない、と言うのは、もはや常識であり、にもかかわらず喫煙飲酒するアホ妊婦は、
いわば「確信犯」であり、言っても治らない、言うだけムダ。つまり啓蒙効果薄いので報道の必要性低い。
★一方、妊婦にマグロカツオが良くない、と言うのは、最近になってもようやっと厚生労働省が
重い腰上げて啓蒙始めた程度。妊婦内でも知らない妊婦は多いし、まして他世代(姑世代)は殆ど知らない。
むしろ「妊婦に栄養付けさせよう」と敢えてマグロを食べさせる姑も多いのでは?
★妊婦世代の啓蒙、それ以上に姑世代の啓蒙の為にマグロカツオ摂取率の警告記事こそ、
あのタイトルだと、喫煙も飲酒もしない妊婦は本文読まない可能性あり。事実、自分は最初本文読まなかった。
喫煙妊婦、飲酒妊婦はそれぞれ4~5%程度だから、遥かに高率。
厚生労働省の啓蒙行政の敗北とも言えるし、「啓蒙の余地がある、伸びしろがある」とも言える
★地域別偏差も著しい。沖縄高知の妊婦のマグロカツオ摂取率は極めて高く、沖縄に至っては3割の妊婦が過剰摂取。
★沖縄高知で妊婦のマグロカツオ摂取率が高いのは、食文化の影響も大きいが、大家族制なのも大きい。
「おじいちゃんの好物を中心に献立が組み立てられる」ため、妊婦のマグロカツオ忌避の必要性など計算外になる。
★だからこそ、沖縄や高知のような保守的土地柄では、妊婦世代への啓蒙以上に、親世代への啓蒙が重要になる。
★沖縄や高知のマグロカツオ妊婦過剰摂取を見てると、農水省が旗振りする「地産地消」は
「地産地消は、土地固有の重金属摂取リスクが高まるので、医学的には薦められない」と看破してたが、その通り。
★カツオマグロの水銀は、妊娠中期後期よりも、妊娠そのものに気付かない初期の方がダメージ大らしい。
そもそも 生む機械だなんておもってないし。
ていうのは もともと 大家族で 家族が面倒見る物って話だったのが 核家族化しているから 制度が追いついていないだけ。
とまれ 親がいない 孤児ってのはいるから それは 例外で 本来そういう人のために 保育園とかがああるんだが・・・核家族家庭が使っちゃってるから社会がおかしくなる。
でもいま、だいぶ親元に戻るが増えているでしょ。 手に入れた権利を返す事で 幸せになる人が増えているんだよ。
とまれ、 どういう風に、優しくしてほしいのかは 言ってよ。 可能な事なら だれか考えるべき増田が考えるだろ。
具体的な困っている事なら 具体的に解決できるけど
http://d.hatena.ne.jp/miyakichi/20120731/p1
『ファイアーエンブレム』って名前しか聞いたこと無いし勿論プレイしたこともないし興味もないけど、この記事は一方的でひどいなぁと思うから叩かせてもらうわ。
たかがゲームって書いたけどゲームというジャンルを貶める意図はないよ。
でもたかがエンタメ寄りのゲームのシステムひとつ取ってなに馬鹿なこと言ってんの。『サマーウォーズ』を田舎賞賛・大家族賞賛がキモイとか言ってる奴と同じくらい馬鹿だぜあんた。
製作者は政治家じゃねぇんだよ。作ってるのは法律じゃなくてたかがゲームのシステムなんだよ。
このゲームで同性婚がOKだったら、同性婚に理解があって素晴らしいと賞賛するのはアリだろう。
でも同性婚がシステム上NGだからといって、それは同性婚に理解がないってわけじゃないだろ。
結婚は異性同士のものと無意識に思ってたかもしれないわな。でも「同性同士の結婚はどう思いますか?」って質問したら「個人の自由」って答えるだろうし、同性婚を法律上可能にしようと動く政治家が居たら、無関心ということはあるかもしれないけど積極的に不支持とは限らないだろ。異性愛者がこんな感じの希薄な意識でもそれは「理解がある」ってことだろうし、あんたのように意識が希薄なことに積極的にいちゃもんをつけてくるなら、それは逆側の圧力だぜ。
海外で販売する際の配慮についてはよく分からないから口を噤むが、あんたは
同性同士をこれだけイチャイチャさせているシリーズが、結婚システムだけ異性間限定にしなければならない理由がよくわかりません。海外にも販売するゲームなら、なおさら。
ってあるように別に海外で販売されなくても不満なようだからdisらせてもらった。
つーかさ、暗黙のうちに「結婚は異性同士」って前提されているような事例なんていくらでもあるだろ。例えば『TARI TARI』っていう今年7月から放送しているアニメの1話には、
「少し待ってくれれば、この子(お腹の子)紹介してあげるけど」
「男の子なんですか?」
「さあ?性別にこだわるほう?」
「当たり前です」
って女性同士の会話があるけど、これだってそういう前提があるわな。この場合は結婚じゃなくて交際だけど、同じだ。異性愛者同士の会話だからセーフってのはナシだぜ。そういう無意識の前提がないとこの掛け合いは面白くないから、この掛け合いを書いた脚本家はその前提を持っているはずだよ。
私は上に書いた理由からこれに問題があるとは思わない。けど、あんたはこういう事例にいちいち文句つけてるの?ねえどうなの?
また夏がくる。
だから話しても良いだろう。
サマーウォーズは表層的には、「デジモン」や「攻殻機動隊」に良く似て見える。
もっと有り体に言えば「デジモン2 ぼくらのウォーゲーム」の焼き直しに見えるだろう。
しかし違う。
アカウントを盗まれてパニックに陥りながらなんとかたどり着いた自分の偽物(どうみてもネズミの魔法使いの弟子だが)に対して彼はこう言う。
『ネットの中だからって、何でもやって良いと思ったら、大間違いだ!』
既に携帯電話と結びついたアカウントを盗まれているために、彼は携帯電話を使えなくなり、
実害が起きているにも関わらず、彼の言葉はひどく軽く聞こえる。
それほど彼の言葉は軽い。
確かに軽いのだ。
実感を伴わないからだ。
なぜならそこには「ネット」と「現実」が違うという暗黙の前提があるからだ。
ここから細田守は丁寧に丁寧に劇場内に『実感』をしみこませていく。
ネットで管理されている社会を愉快犯がイタズラして回る様子を、大家族の親父たちが「仕事が忙しくて帰れない」という形でもって見せることで。
イタズラだとわかっていても「いかなければならない」職場の人たち。
劇場にはまだ笑いがある。
しかし、ネットワークが現実の世界と地続きであると誰もが理解し始める。
単なるイタズラ。
黒電話、古いアルバム、黄ばんだ手紙。社会とつながりのある古い老人。
社会の人と人のつながりを暖かく感じる。
そして、ひとまずの小休止を経て、大きな喪失が胸を打つ。
ここにきてやっと劇場内にも、『仮想空間』と『現実空間』とは表裏一体であり、地続きであり、
そのどちらもが紛れもない『現実』なのだという『実感』が浸透する。
大家族の誰もがそれぞれの立場で行動し、そして仮想世界の住人が助けになる。
細田守は、子供にしか見えない世界や、魔女の世界を通過して、青春を描ききり、最後にデジタルとリアルをきれいに繋いで見せた。
現実とはそこにあり、誕生があり喪失がありそしてまた誕生がある。
成長があり老いがあり、後悔も希望もある。
仮想世界とは人と人がつながるための単なるツールであって、またそれは黒電話となんら変わることは無い。
その先には生きた人がいて、生きた人間が社会を築き上げている。
「ここではないどこか遠い世界」から、「いままさにここにある世界」へと細田守は帰ってきた。
宮崎駿がついに彼岸へと続くトンネルから帰ってこない物語を描いたのと対照的に。
21世紀の人類の課題、なんて大きく出たけど、僕らの叡智はこの1点に集中すべきと思う、とぼんやり考えている。
縮んでいく世界でどう楽しく生きるか。
ホント、これだけ。市場がどんどん拡大して、どんどん儲かる時代はもう終わった。
(ついでにタイの洪水でサプライヤさんが止まってしまってモノが作れない)
やる気なくなっちゃうよなあ。
実家に帰省するたびに過疎化が進んでいるなあと寂しい思いになる。
バスや電車の本数はどんどん減って、駅前には老人ホームが新設され、パチンコ屋くらいしか賑わっていない。
今、住んでいるのは両親と祖父の3人だ。きっと寂しい思いをしていると思う。
祖母は自殺をした。
体の不調を感じ、(または過度に思い込んでしまって)自分の介護をさせるくらいならと死を選んだ。
自分が介護に苦労したから、母にはそんな思いをさせたくなかったし、そんな姿を見せたくなかっただろう。
でもなんで……
遊びに来るときはケーキを持ってきてくれて、年末年始の親戚の集いでもよく参加する元気の良い人だった。
老体にむちうって、鉄道にメンテナンスをやっているといっていた。
「やっぱり俺は農家の人間だった。商売人には、なれなかったなあ」
親戚の集いでふと僕に言った言葉を思い出す。おじさんは営業畑で生きてきた人だった。
何を思ってこの言葉を言ったのだろうか……
社会や家族や共同体が小さくなって、吸収しきれない絶望だけが個人の中に膨らみ積もっていく。
家も古くなっていく。手入れされない田畑が増える。
自分の身体は老いて、頭もはっきりしなくなっていく。
僕らはどう楽しく生きるか。
局所的に拡大しているサークルに身をおくのか? でも外側の老いていく両親はどうするの?
悩ましい。
悩ましいけど、どんなところであれ明るく楽しく生きていくのは人の義務だと思う。
全く新しい考え方が求められている気がしてならない。
違うよ。全然違うよ。
嫁にやたらと苦痛やら疲労やらを感じてしまう人たちは、非常に古い「家」概念の持ち主に苛まれている人だよ。
運悪く嫁がこき使われる大家族に嫁いでしまったとか、時代遅れの「○○家の嫁として」家訓(そんなものがあるような家柄でもないのに)にかぶれた姑が干渉してくるとか、そもそも核家族化が進む前に生まれたお年寄り(大姑)に未だに「嫁」扱いされているとか。
あとはそういう実態に無知無関心で「え、いいじゃん別に嫁で」とか言い出す輩が周囲を取り巻いているとかね。
http://d.hatena.ne.jp/islecape/20110801/yome
上の2つのエントリーなどで、有名ブログ「中国嫁日記」が差別的かどうかという話題が妙な盛り上がりを見せているようで。とはいえ、この手の議論の常として、互いに感情論を飛ばしあうだけの、ぐだぐだな結末になっているようですが。
少なくとも今回の議論に限り、ここまでぐだぐだになった原因は問題提起側、すなわち「嫁などという性差別的な言葉を使うとは何事か!」と言い出した側にあります。なにしろ、嫁という言葉を再三再四あげつらっておきながら、なぜ「嫁」という文字の使用に問題があるのか一度も説明していないのですから。
たったこれだけの「自分の感覚」をよりどころに、あれだけの長文を書き上げ挙句社会まで語ってしまうと言うのは、その壮大な構成力に賞賛を贈らせて頂くより他にありません。その果て、このブログ主さんは
しかしそれにしても、前述のTogetterの ものの役に立たなさはどうしたことでしょうか。「これが差別なんて、なにを考えているのか」という自身の感覚の披瀝や、「こういう人は他人を差別するために機先を制して自分が差別と言っているだけ」という主張に熱心な人が多いのですが、 …(途中略)… だいたい未来にむけて記録すべき思考の痕跡とも思えません。「当時」の大衆の程度を知る材料にはなりますかね。
と嘆いておられるのですが、そりゃ「嫁なんて言葉はけしからん!」という「自身の感覚の披瀝」に過ぎないtwitterに対して、客観的かつ論理的な反論を要求するのは無茶というものでしょう。自分が見えていない人間とはよくよく怖いもの無しのようです。
しかし折角なので、ここではその無茶への挑戦をしてみたいと思います。上のエントリーの中国嫁けしからん!嫁は差別!精神が疲れる!という切なる悲鳴に対して、どこまで客観的な「反論」をなし得るのでしょうか。単純化のために、ここでは内容については一切議論せず、「中国嫁日記」というネーミングの是非だけを考えましょう。
さて、客観的と言うからには、ここで「俺は嫁って別に差別的じゃないと思うけど」と張り合ってみても意味がないのは明らかです。ここで必要なのは中立的な第三者の視点であり、そして私の手元にはこれ以上は望み得ないくらいに客観的な視点があります。広辞苑と新漢語林。要するに辞書です。
広辞苑によると、嫁は
(1) 息子の妻
(3) 結婚の相手としての女。嫁した女。妻。
(4) 「嫁が君」(ネズミ)の略
とあります。二番目の意味から、まず中国嫁日記の嫁の使用法が間違ってはいないことが分かります。まだ新婚さんみたいですから。さらに漢語林を引くと、
とあります。恐らく、嫁という字が一部の人たちから忌み嫌われる理由の一部がここにあります。家の従属物的な意味合いを感じ取って、それが性差別であるという論法のようです。とりあえず事の是非は置いておいて、代替語についても調べておきましょう。
妻: かんざしに手をやり、髪を整え飾る女性のさまから、つまの意味を表す。
奥: 貴人の妻の称。貴人の居室。大切にすること。など多数の意味を持つ。室も同義。
婦: 女+帚。帚はほうきの意味。ほうきを持つ女性、家事に服する人の意味を表す。転じて、一家の主婦。一家の切り盛りをする女性。または子の妻。
細君: 細は小さい、かぼそいことを示す字。愚妻などと同じ謙譲表現。ただし、最近は細にこまやかという意味もあるせいか、他人の妻をいう語に用いられることが多い。
他にも連れ合いとか家内とかありますが、もう十分でしょう。妻というのはなかなかに色っぽい文字で、言葉自体には結婚関係を表す意味合いがないのが嫁との違いです。ちなみに、夫も大人が冠を付けている様をしめすだけの文字なので、夫妻という言葉は男女という言葉と解字上はあまり差がありません。一方で生活感が溢れまくっているのが婦の字で、家政婦や助産婦など、女性が多く働く職業にこの文字が使われるのも、事の是非はさておき自然と言えるでしょう。
奥・室は、元々家の神を祀る場所を意味したこともあって実にエレガントな言葉で、自分の配偶者を「奥さん」と呼称する人もいるようです。しかし、元は貴人の妻を表す表現である以上、日本語表現としては非常に据わりが悪い。そもそも、定義から言えば自分が貴人と言うことになってしまいます。配偶者は実に中立的ですが、3文字を費やした挙句に性別も分からないというのは、法律用語としては便利でも本のタイトルとしては問題外です。
こうしてみると、本のタイトルとして使い物になりそうなのは嫁か妻かの2択と言うことになりそうです。この2つの文字が決定的に違うのは、嫁には「移動する」という概念が強く存在する点です。生家から夫の家へと。だからこそ、嫁に来る、嫁に行く、という表現はあっても、妻に来る、という表現はあり得ません。責任転嫁に嫁の字を当てるのも同じ理由からでしょう。中国嫁日記というのは、中国からやってきた奥さんが異文化の日本で楽しんだり悪戦苦闘したり、旦那さんと新婚生活をエンジョイするのを描く日記です。ならば、単純に中国人の配偶者であることしか意味しない中国妻よりも、「中国から来た嫁の日記」とするほうが遥かに適切でしょう。
もちろん、このように語を連ねずとも、常識的な日本語感覚を持つ人にとっては、中国嫁日記の方が据わりが良いというのは直感的に明らかなのですけれども。
さて、問題の差別性の有無についてですが、今回の騒動でひとつ明らかとなったのは、「嫁という言葉は差別的である」と思う人とそうでない人が両方存在すると言うことです。どちらかといえば、差別的と感じない人の方が多いようにも見えます。ここからは私個人の主観になりますが、嫁が嫁ぐ「家」の概念が過去数十年で大きく変わったためであるように思います。昔は女性の嫁ぐ先は夫の実家であり、夫の親兄弟との同居を意味しました。ここでの家は正に「夫の家」であり、「妻の家」にはなりえません。ついでに、義理の親兄弟の世話まで任されることも多かったわけで、妻にとってはなかなかにストレスのたまる環境であったことでしょう。この状況下で「嫁」という言葉にネガティブな意味合いが生まれるのは無理からぬ事かも知れません。
しかし、核家族化の定着すると、花嫁が嫁ぐ「家」には夫と妻の二人しかいません。この「家」を夫の家、と考えるのには無理があります - この「家」はふたりだけのものなのですから。多くの日本人にとって、この「家」に嫁として嫁ぐこと自体は、特にネガティブな意味を持たなくなって来ているように思います。もちろん、女性であるが故のディスアドバンテージがこれで消えたわけではないでしょう。しかし、それはもはや「嫁」であることのディスアドバンテージではなくなってしまったのです。
こう考えると、嫁にやたらと苦痛やら疲労やらを感じてしまう人たちは、非常に古い「家」の概念の持ち主なのかも知れません。運悪く嫁がこき使われる大家族に生まれてしまったとか、時代遅れのフェミニズムの教科書(そんなものがあるのかは知りませんが)にかぶれてしまったとか、そもそも核家族化が進む前に生まれたお年寄りであるとか。どちらにせよ、嫁の字を見ただけで辛い思いをするというのは、同情に値する境遇であることは間違いありません。嫁でこれなのですから、女に帚の婦を見た日には心臓発作でも起こしかねない。全国津々浦々の結婚式場で「新婦入場です」のアナウンスがかかるたびに、その言葉の差別性をこんこんと説き起こし説伏する。その果てにしか彼らの心の平穏はあり得ないのです。彼らフェミニストの想像を絶する試練の日々を、私は涙と共に見守りたいと思います。
主婦と呼ばれる人のうち、
という人の生活が気になった。
人それぞれなのは百も承知なのだけど、どうしてそうしたのだろう。
家事が好きなのか?料理が上手なのか?夫の収入が十分にあるからそのぶん家事を…という感じなのだろうか?夫の母が専業主婦だったりして夫も妻に完璧な家事を求めるのか?
自分は家事や家計管理が疎かになることより自分の収入が減る方が怖い。いやそもそも家事がさほど好きではないというか苦手だ。
あと妊娠出産育児の間と親の介護が必要な間、収入が減ったり休職したりすることが物凄く怖い。お金のことを思うと子供は作れないとすら考えてしまう。
こういうこと言いながらも、自分は家計を支えているわけでもなければ仕事ができる人間であるわけでもないのだが。能力も資格もない一般職OL。結婚→寿退社→主婦が当たり前のような。
そもそも私は結婚に向いていないのだろうな。
ベーシックインカムに対して感情的になる人があえて見たくない現実を提示しよう。
あんたらの大半は働いているように見えて、「働いているフリをした社内ニートでしかないから!」
会社勤めを一度でもした人を誰でも実感している、というか気付かざるを得ない事があります。というか気付かなかったとしたら鈍感すぎる事実があります。
会社で働いている人のうち、会社の生産性に貢献しているのは多くて全体の3割。酷い会社だと1割にも満たないという事実。あとの大半の人間は、「働かなくてはいけないと思い込んでる」被雇用者と「雇わないと体裁が悪いし行政から指導を受ける」雇用者側の都合によって雇用されている「利益に貢献しない、働いているフリをした社内ニート」です。
景気の良い時代なら、みんな被雇用者側は働いているフリをしている満足感に浸り、雇用者側も社会に貢献しているや会社が大きくなっている満足感を得て、winwinな関係を築く事ができたでしょうが、今の日本の状況下では「雇用している人間に働いているフリをさせる経費」、「働いているフリをさせる手続き」、「働いているフリをさせる時間」を無駄に浪費しているだけで企業体質を衰えさせる「給料ドロボー」にしかなってないわけです。
中には会社の存在そのものが無用の長物に成り果てている企業も少なくありません。
さて、ニートを見下している皆様、あなたたちは雇われている会社の利益に貢献している自信がありますか? さらに言えば会社そのものが社会に貢献できていますか? さらに言えばあなたの会社は社会に必要である自身はありますか?
ぶっちゃけ、本当の意味で経済を活性化させたいのなら、こういう「社内ニート」たちを全部リストラして、ベーシックインカムで最低限の金だけ与えて養っといた方が良いのですよ。そして徹底的なワークシェアリングとOA化、機械化、IT化を進めて、「利益の出せる人間だけが働く」、「利益の出せる分だけ働く」という事を徹底させるしかないんですよ。
こうして考えると、わざわざ経費をかけて無駄な仕事を作ってやった上に社内ニートに20万↑の給料を与えるより、10万程度の最低限の生活保障だけ与えて「利益の出せる仕事」だけさせるベーシックインカムの方が遥かに効率が良いわけです。
このカラクリを理解していないと、ベーシックインカムの本当の意味がわからず、それから企業経営者や財界関係者の中にもベーシックインカムの論者がいる理由が理解できると思います。
ようするにベーシックインカムというのは、究極的な社会のリストラクチャリングなのですよ。
大昔は、田んぼから米を採るのに大家族が、村中の人間を総動員して多大な人手をかけて作っていましたが、今は徹底的な省力化が計られています。
私に身近な出版業界で言えば、社内の人間や関係者を働かせるために、利益に貢献していない雑誌や本を作っては潰し、作っては潰ししている。さらに利益を挙げている部門にしろ、本当に利益を挙げている作品は、雑誌や本の全体の1割で、あとの作品はただの寄生虫にすぎないという事実。
もうね、どこの企業もこんな有り様なのですよ。
仕事のための仕事を増やしながら、それがさらに仕事を作ってという「生産性に繋がらない仕事ばかりが雪だるま式に増えていく」のが事実という。
これからの時代は「労働は美徳」という言葉に次の言葉をつけなくてはいけないのです。
この言葉に基づいて、その職場で働いても利益の出せない人は全部リストラ。ベーシックインカムで最低限の生活だけ保障して、生産性に繋がる人材だけに高報酬を与えるべきなのです。それが本来の資本主義のあるべき姿なのです。
そしてベーシックインカムで暮らしながら、いろいろとワークシェアリングでチビチビ仕事を探しながら「天職」を探していけば良いのです。
今働いている人間の大半は給料や報酬分の利益を挙げられていない社会の寄生虫に過ぎない。だったら、無駄な給料や経費に金を使うよりはクビ切ってベーシックインカムで養ったほうが効率が良いという事実。
反対する人はこういう事実を踏まえておいた方が良いのです。
長い間、「勤労の義務」とか「労働は美徳」と思わされていた人にはショックが大きいでしょうが、新卒の人たちですら雇いきれないという現実から、もう日本人は学ぶべきなのですよ。
その方が合理的な行動なはずだが、はバブル崩壊後のこの20年、現に世帯数は増加傾向。
一世帯の平均人数は低下してるんだな。
独居老人が増加してるんだろ。
大家族化するにはでかい家が必要だけど、東京近郊はコストが高すぎて無理。
かといって田舎は仕事が無さすぎるので家賃が安かろうとネットの収入は東京でそれぞれ核家族やった方がマシ。
って感じなんじゃないの?
「ある弱小野球部が、甲子園を目指すことになる。上手い選手はピッチャー1人だけ。残りの選手は一見カスだが、ある者は家が金持ちなので、練習場所や特注のバットを提供する。ある者は実はコンピュータの天才で、パソコンで戦術をシミュレーションする。ある者は心理戦に長けていて大人たちを懐柔する。陸上部からの助っ人は、まともに打てないが駆け足だけはべらぼうに早く、非現実的な盗塁をやってのける。そんな感じで全員が協力し、見事県大会で優勝する」
上の話は今適当に考えたものだが、強烈な既視感を覚えないだろうか。恐らくこのような物語は過去、何十作品、何百作品、下手すると何千作品と存在する。「それぞれがそれぞれのポジションで頑張って目標を成し遂げる」話は、超王道なのだ。
サマーウォーズも例に違わず、この王道パターンを踏襲した話である。ある者は数学で、ある者は花札で、ある者は格ゲーの腕で戦って敵を倒す話である。なので、全体の骨格について批判するのは賢いとは言えない。サマーウォーズの骨格を否定するならば、スポーツ漫画、バトル漫画の過半数も否定しなければダメだ。
では次に検討の対象になるのは、肉付けの部分だ。サマーウォーズの肉付けの特徴は、次の2点である。
1は今日既に珍しいものではない。マトリックス以降、サーバーパンクはもはや王道ジャンルの1つである。
2はどうだろう。実はこれ、珍しいんじゃないだろうか。ほとんどの協力バトル物語では、仲間は部活のメンバーだったり、クラスメイトだったり、軍隊や会社の一部門であったりする。「田舎の大家族」設定は、サマーウォーズ独自のものと言って良いだろう。
では、この設定は本作において生かされているだろうか。答えはYESだ。「部活メンバー」や「クラスメイト」設定に比べて、年齢も職業も違う家族のほうが能力のバリエーションがつけやすい。より多角的な戦い方が出来る。その分散漫に鳴りやすいという欠点はあるものの、試みは一応成功している。
というわけで、僕のサマーウォーズの評価は、「協力バトルものという王道の物語を、田舎の大家族という設定で味付けした、無難で普通に面白いアニメ」である。特別斬新な試みがあるわけではないが、disる要素もない。
サマーウォーズを楽しんで観ている層は、情弱でもないしオタクでもない。普通に面白い作品を普通に面白がりたいという、ごく普通の人たちである。叩いている層は、このアニメにエヴァのような何かを求めていたのではないだろうか。それは完全にお門違いである。サマーウォーズはエヴァではなく、むしろドラえもんである。