はてなキーワード: もやしとは
きょうのーおひるはーうまかっちゃん
片手鍋にもやしと水入れてー
煮えるのを待つ間にどんぶりに水と卵いれて混ぜて500w2分レンチンしてー
煮立ったら麺いれてー
ぐっつぐつ煮込んでー
どんぶりに入れてー
うめえええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええ
「うっせぇわ」という曲が話題らしい。
かなり大きなヒットとなっているらしく、ついには近くのラーメン屋にその音が流れだす始末である。
その時は、
「あのサビの不協和音とかが聞き手にとって良いアクセントになっているのだろう」
と、
音楽素人風情がもやしを頬張りながら感じた程度であったが、どうやらそれどころではなさげな感じだ。
その現状は
・高い再生数
等々々が物語っている。
かなり直接的かつ攻撃的にみえるものであり、厨学二年生的な全能感と痛々しさに溢れているような歌詞である。
大学生の自分ですら「こういった時期あったなぁ」とか少しノスタルジックになってしまった。
歌詞を見る限りは、
いわゆる難関大学を卒業した「社会の優等生」がルサンチマン拗らせてコンプ発症しました
といった感じのシチュエーションだろうか?
もしくは、
あたりだろうか?
嘲罵された、あるいはそう思っているだけの人間」
であるようには感じた。
なんとなく思うのは、
「この曲に気づいてはいけない」
ということである。
内容自体は、尾崎豊やamazarashiなどが
若者の苦しみなどを各々の文学的センスに包んで提供してきた「それ」に類似したもの
かもしれない。
しかし、この曲が圧倒的に違うのは
「汚く品のない歌詞」
とでも言うべきその短絡的表現、そしてレスバトルでのマウンティングのような直接性にある。
「私を見ろ」
と喚いているだけなのかもしれないのだ。
こうなったらどうしようもない。
同じ土俵に立つ(反応する)時点で相手の目的は達成されてしまうからだ。
もし無視しようとしても、あの奇天烈な音階のサビと尊大な発言に否が応でも
「何言ってんだコイツ」
とか
「手前よりまともだわ」
とか
「そんな時期だよねw」
とか
反応してしまう。
しかも大抵は相手にとって嘲笑・侮蔑となりかねない反応である。
共感する人たちからすれば気に食わないものであり、荒れるのは必至だろう。
延焼する野次馬もやってきて、更に注目する人が増える。
そうして「あの子」は色んな人に見てもらえる。
歌い手の方は歌詞のバックグラウンドに共感し、若者として歌ったのかもしれない。
しかし、その歌詞は一般的な「お約束」を踏みにじるかのような逸脱したものだった。
故にたった今、自分たちはこの曲に踊らされている。
「自炊の方が実は健康に悪いんだぞ」という記事や意見を時々目にするが、いつも「んなわけねえだろ」と思っている。健康に悪い自炊をしている人もそりゃいるんだろうが、全体としては、自炊している人の方が絶対に健康的だよ。
そもそも「自炊」というのは、貧乏人には非常にしんどい作業。材料を揃え、包丁でカットし、フライパンや鍋で調理し、食べた後は片付けなければいけない。自炊なんて、精神的に余裕がないと絶対に無理。もやしを炒めるだけ、そっちのほうが絶対に安いと言われても、自炊をするための気力が起きない。そもそも母親がまともに料理をしていなかったし、料理の仕方もわからない。
一人暮らしの貧乏人は、家帰ったらまず缶ビールやストロングゼロを開ける。食べるものは、近所のスーパーで半額になった惣菜や弁当。Twitterをだらだら見ながら、いつのまにか泥酔して嫌なことを忘れて、いつの間にか寝る。金が本当に厳しくなると、食費を切り詰めて第3のビールとストロングゼロだけになる。
普段の食事も、すき家とマックとコンビニおにぎりのローテーション。少し金があると、ピザのバイキングで三食分を済ませる。どこからどう見ても炭水化物だらけで、健康にいいわけがない。野菜は、たまに百円の野菜ジュースを買うだけ。
結局のところ、自炊する人は精神的に余裕がある。余裕があるということは、当然ながら健康に気を使う余裕もある。だから暴飲暴食はしないし、適度に運動をし、ちゃんと健康診断や人間ドックにも行っている人が多い。貧乏人は自炊もしんどいと感じるのに、運動なんかする気も起きない。健康診断や人間ドックなんて別世界の話。そしてたまに金があると、暴飲暴食に走る。
待って待って引き返さないで。俺のおすすめ餃子を聞いてからにして。
いきなり地域特性皆無やないかい。でも手間とコスト考えるとめちゃくちゃ旨い。櫻井翔が旨い!って言ってるんだから旨いに決まってる。
とりあえず無性に餃子食いたくなった奴はこれ。いつも冷凍庫にストックしてる。
全国流通してるので地方スーパーにもたいてい置いてあって助かる。ありがとう味の素。
愛知(ギリ数店舗)と山梨(ギリ一店舗)まではある静岡ローカル中華ファミレス。これは浜松餃子。静岡の店舗でも愛知の店舗でもたぶんメニュー名は浜松餃子。皮は薄めでパリっとした感じ。具沢山。もちろんもやしがついてくるし円形(数が少ないのは横並び)。
ファミレスなので安いしいっぱい食べられる。あとすごいファミリー向け。お子さんが机をめっちゃ荒らしても店員が片付けるので気にしないでくださいってポスターが貼ってあるから世のパパママは気が楽になりそう。俺は独り身なので関係ないが。さわやかに並ぶの飽きたらこっちにしろ。浜松駅ビルに入ってる。カウンター席あるし一人でも行きやすい。持ち帰りメニューも充実してるのでコロナ禍でも助かる。
餃子以外だとレタスチャーハンがめちゃくちゃおいしいので是非一度食べに来てください。
餃子は好みなので手作りしろ。結局それしかない。俺は皮薄めがいいしニラよりキャベツを入れたいし羽はパリパリについててほしいしもやしがないのは論外。自分で作れば変わり種(チーズ・キムチ・海鮮類・ほうれん草とかがおすすめ)もできるし量も調節できるし成型するのが楽しい。餃子づくりはいい文明。とにかく具材を細かく刻むのがポイント。みじん切りさえ徹底的にやればだれでもサイコーの餃子と出会える。ナイス餃子ライフ。
浜松歴20年超でも「浜松餃子ってなんなのよ?」と聞かれてもはっきりとは答えられない。もやしが添えてあったら大体許されるような気はする。中には浜松餃子を名乗ることを許したくないような餃子もたまにあるが、まあ人の好みは千差万別なので仕方がない。人には人の浜松餃子。
宇都宮餃子と名の付くものを食べたことがないので、宇都宮餃子がどういった代物なのか全くわからない。なんか特殊製法だったりするのか。気になるけど栃木に行く機会が全くなくて食べたことがない。浜松でも宇都宮餃子が食べられるところがあったら教えてほしい(そんな強気な職人がいるのかわからんが)。
恥の多い体育の時間を過ごしてきました。
そんな言葉で締め括れるぐらい、私の生涯は運動と恥がセットである。身長に恵まれながらも運動の才能に恵まれなかった私は、動かし方の分からない手足を持て余し、球を投げれば飛ばず、プールでは泳げず、大縄を踏み、悪目立ちし、ドッヂボールの的になりながら生きてきた。克服しようとして体操教室に通っても一番下のメニューすらこなせず、スイミングに通えば幼稚園児と同じクラスになった。
読者に少しでも運動のできない人がいれば共感が得られるかもしれないが、運動音痴は恥によるスパイラルに陥りがちだ。周りと同じように動けていないことが恥ずかしく、緊張でさらに力み、輪をかけてぎこちない動きになり、またそれを恥じる。そうしてどんどん周りについていけなくなり、しまいには運動そのものから自らを遠ざけてしまうのである。
私も完全にそのタイプで、高校の授業を最後にもう10年近く運動らしいことをしていなかった。通学通勤で歩くぐらいならしていたが、ステイホームに入ってそれもなくなった。先日、肩こりがどうしても治らず整体に行ったら「あまりにも筋肉がなさすぎて何ひとつ支えられていない」と言われた。そうでしょうねぇ。
そろそろ運動しなきゃな……とは不調の度に思っていたが、走るのもヘタクソすぎて表に出られないレベルなので何も始めようがなく、私はこの貧弱な体と一生を共にする覚悟を半ば決め始めていた。
別に石田彰のファンではない。ただ、私は物心がつく頃からさまざまなアニメで彼の声を聞いていた。
だから、1に続き冷やかしで買って寝かせていたフィットボクシング2を起動し、初めて彼の声を聞いたとき、幼少のみぎりに出会った色んなキャラクターが一度に脳裏へ蘇ってきた。すごい。石田彰の同窓会だ。石田彰の詰まったタイムカプセルだ。
好きとかときめきとかそういうのを超えて、ただただ懐かしかった。小学校の担任の先生の声を20年越しに聞いたような感覚に近い。それが嬉しくて、思わず鬼モードを選んでしまった。
鬼モードは鬼だった。もやしのくせに無理をした。それでも久しぶりに会えた石田彰を失望させるのが嫌で、最後までリタイアせず続けた。
翌朝起きると、体がレゴブロックの人形みたいになっていた。肩関節と股関節しか動かない。ストップモーションアニメのようなカクカクした動きでデスクに行き、リモートで1日の仕事を終えた。そうして、「昨日あれだけ運動したんだから今日はやらなくていいだろ」と思った。
でも、やっていた。その日のうちに。石田彰が恋しくなったのだ。鬼モードはやめて、易しいモードにした。昨日は厳しかった石田彰が今日は優しい。好きになるからやめてほしい。
私のボクシングは醜い。ヒョロヒョロの手足をクタクタに動かして何とかパンチの形になっているかどうかだ。でも、石田彰は気にしない。気にしないでいてくれる。それが本当にありがたい。
たとえ運動音痴でも、視線がなければ少しは落ち着いてものを考えられるのだ。そんなことに気がつく。
ジャブの腕が下がっていると言われる。次は上げてみよう、と思う。3パンチ後にようやく改善する。すると今度は、息を吐きながらパンチを打てと言われる。うまくできない。けれど、できなくても恥ずかしがる相手がいないから、ヒューヒュー言いながら不格好にパンチと呼吸のタイミングを合わせていく。
石田彰はうまくパンチが打てた時に「それ!」と言ってくれる。普段は敬語なのに、ここだけタメ語を使ってくれるのだ。私は生涯で、体育の教師やインストラクターのような生き物に好かれたことがない。そんな私なのに、こうして距離を詰めて、褒めてくれる。脳から知らない汁がメチャクチャ出る。運動して褒められるの気持ちいい。みんなこんな楽しいことやってたの?
人の目を気にせずできる運動が、こんなに救いのあるものだとは知らなかった。何だかやみつきになってしまって、もうここ何日も、毎日フィットボクシングをつけては石田彰の導きで虚空を殴っている。