はてなキーワード: 自覚とは
「やってる」は俺個人であればニューラルネットワークのバックプロパゲーションが手計算できるくらい、モデルも自分で作ってトレーニングしてプロダクションに入れてるけど
そこを聞いている話なんだけど「残念ながら使ってる方」だという自覚があるようなのでつまりやってはないんだよね
ゾコーバ適応だけどどうする?と聞かれ、自覚症状は喉がちょっと調子悪いくらいで割と余裕だったのでなしに。
昼ご飯食べたら薬飲んでダラダラ横に。
15時ごろ熱はかったら36.9度だったので余裕だな、明日には治るか?って思ってたのに晩御飯食べてちょっとしたら悪寒が。
熱はかったら38度。やべーなめてたなー。
今測ったら39度だし。
子持ち(あるいは妊婦)が突発的に休む
↓
その分の仕事を比較的タスクが少ない人や知識レベルが同じ人がカバーする
↓
繰り返していくうちに負担になる
っていう流れを誰かがXで嘆くと、「悪いのは子持ちじゃない。一人休んだくらいで回らなくなるような会社が悪い」て言う人が必ず現れる。
本当にそうなのだろうか。
もちろん子供の事情で休むのは仕方ない。だけど「仕方ない」と言っていいのは、その分の仕事をカバーしてあげているその人だけであって、「自分もカバーしてきたから」とかいう理由で他人がとやかくいうのはお門違いじゃないか。
明日戻ってくるのかも分からないし、明後日だって分からない。そんな状況でが増えたりなんかしたら、もうその人に回すのははじめから避けようってなってもおかしくない。
よく「病気になったら、事故にあったら自分だって休むだろ」みたいな理論言う人いるけどさ、子供って自分が計画しないとできないだろ。病気や事故で休むことがあるって自覚してて仕事する人なんていないけど、子供の場合はそうじゃない。
周りの人だって皆、子持ちのカバーをする前提で働いているわけじゃない。それなのに、度々休むって自分で分かってるのに職について「子どものために休むのは当たり前、権利だ」なんて言ってればそりゃもう…反感は買うよ。仕方ないよ。
とはいえ、予備として一人くらい人員を用意しとけばいい論は分かる。
でもそれって、専門的な知識や技術だったりが必要な場合はかなり厳しくないか?
有能な人はそれなりの人件費がかかるから、予備として置いておくなんてほぼありえない。
ありえるのは、それくらいなら休みが増えがちな子持ちじゃなくて、はなからその人だけを雇えばよくね、てなる方だと思うよ。専門知識が必要なタスクは回すの辞めとこ、とかもね。
子持ちを雇うなら予備の人員としてプラス一人雇わなきゃいけない、なんて状況になるならどこも子持ちなんてとらなくなるよ。
・専門性がなく誰にでも引き継げて、
・タスクは一つずつとか少なめで、
とかだけ引き受けてた方がいいよ。休みやすくなるし、周りだけじゃなくて自分のためにも。
子供のためだろうがなんだろうが、休むのって当たり前じゃないからね。カバーしてくれてる人に感謝の気持ちすら持たないのは、社会人としてだめだと思うよ。
それは今回の問題点を、ドラマ制作サイドの意図が原作者に充分伝わっていなかった、つまり「説明不足」に求めているところ。
本打ちメンバーが当該原作の設定を変えようと試みたことには、それ相応の議論と積極的な理由があった。しかしながら、本件原作者の上記返信内容をみる限り、本打ちメンバーで議論した内容・意図が十分伝わっているとは思えない状況であったことがうかがえる。
いや、そうじゃないんだよ。原作が何を大切にしているかプロデューサーや脚本家を含めた制作サイドがまったく理解していない改変を繰り返すことが原因なんだよ。だから原作者が誤っている箇所とその理由を事細かに指摘し、それを繰り返しても一向に直ならない状況に絶望し、心身を疲弊させていく羽目になったんだよ。
以下なんてまさにその無理解を露呈してるよね。
原作では朱里が短大に進学した設定があるが、本打ちでは、同設定に関して、「短大に進学するよりも専門学校に進学する方が近時の10代、20代としてはリアリティがあるのではないか」、(短大進学の原因となっている)「父親のリストラはドラマとしては重すぎるのではないか」等の議論を経て、高校受験の際に、父親が勤める会社が不景気になり、母親から「高校は公立でいいんじゃない?」と言われて本当は友達と一緒に制服がかわいい私立校に行きたかったけど、「うん、そうだね」と笑って受け入れたという設定に変更する旨のプロット案を送信した。(中略)上記プロット案に対する本件原作者の返事として、かわいい制服の私立高校に行けなくなったことなどは「心底どうでもいい」ことである、原作のジェンダー要素も逃げずに書いて欲しい、制作サイドは短大での設定を避けているのか?といった趣旨の記載がなされた文章が送信された。
日テレの報告書は、調査にあたった外部有識者(弁護士)が、本件以外取引がなく、独立性・中立性が担保されているとわざわざ冒頭に記しているが、上記を見れば外部有識者が日テレの側に立っていることは明らかだ。日テレも外部有識者もこれで騙くらかせると思ったんだろうか。舐めすぎじゃないかね。
再発防止策を本気で練るなら以下以外にありえない。
日テレ側は当初(3月9日あるいは29日打ち合わせ)で「本件原作者の意見を無視するような改変はしない、リスペクトをもって取り組むという趣旨の話をした」と日テレ報告書にあるが、それがなかったのは上記からも明らかである。
リスペクトとは何か。それは原作が、畢竟原作者がその作品で大事にしていることを同じように大事にするということであろう。
原作者は一切の改変を許さないというスタンスではなく、むしろ当初は上手く料理されることを願っていた節さえある。
芦原氏は、監修者として漫画とドラマは媒体が違うので、ドラマ用に上手にアレンジするのがベストであることは理解している。全てお任せして「ああなるほどそうくるのか!面白い!」と思える脚本が読めるなら、一番良いが、「ツッコミどころの多い辻褄の合わない改変」がされるなら、しっかり、原作通りの物を作ってほしい。脚本で 100 点を目指すのはもう無理だと思うので、演技や演出力で、なんとか80~90点に、引き上げて欲しい。ベストは無理だと判断したので、限りなく全力でベターを目指して欲しい。と一層の努力を求め、原作者として「作品の根底に流れる大切なテーマを汲み取れない様な、キャラを破綻させる様な、安易な改変」は、作家を傷つけることをしっかり自覚して欲しいと要請しつつ、役者スタッフ等多数人の労苦に感謝しており、「闇雲に原作を変えるな!と主張しているわけではなく、よりよいドラマになるように、自分を守るために、現段階でできるベストを尽くしているつもり」と結んで本件脚本家の理解を期待した。
上記は小学館側の記載だが、原作者の当初の期待とそれが失われていった様を如実に表した一文であろう。
両報告書を読んで最も強く感じたのは原作者の孤独と絶望である。原作者は小学館を間に挟んでドラマ制作サイドと戦っている感覚だったのではなかろうか。
本来なら原作者と同じスタンスで原作によりそい、ともにドラマを作り上げていく仲間であるはずの制作サイドが敵となってしまったのは、本事件における最大の不幸である。
なぜそんな不幸が生まれたのか、制作サイドが真剣に反省し再発防止策を明文化し、プロデューサーからADに至るまでそれを徹底的に学び、実行しなければこの悲劇は繰り返される。
のではあるが…
●今回のことを受けて
・これで怖がっちゃいけない。安全にドラマを作る方法なんてない。それはみんな意見が違うし考え方が違う。その中で人間の生き方みたいなものを提示していかなければいけない。意見の食い違いもケンカもいろんなことがあって、プロデューサーが代表して、こういうドラマを世に問うんだと原作者、脚本家をまとめやっていかなきゃいけない。それを怖がっていたら面白いモノが出来なくなってしまう。そういう危険は今後もはらんでいるだろうけれども、だからこそ話し合ってコミュニケーションをとってやっていくしかない。
・放送局としてはまず第一に社員を守ることが仕事。社員を守るために早く結論を出すとか、その原作に係るトラブルの際に早く赤信号みたいなものをキャッチし、社員ができるだけクリエイティブに物を作る環境を整えるのが会社の仕事。
・若手プロデューサーの起用については、(トラブルになりやすいというのは)正直言ってあるとは思うが、それを恐れていたら駄目。失敗しないと学ばないからこそ、失敗してもフォローが出来る体制を作っていく方が大事。
「あしながおじさん」はぬいペニとは対極でしょ
読めばわかるが作中でジュディはジャーヴィスとは別ルートで出会って関係を深めるのが描かれている
(本人と知らないから、「今日出会った男性はいけすかない生意気なやつ」みたいなことを書き送ったりしている…)
でもだからジュディには彼の「人間として、男性として」の内面を知る時間も猶予もあった
ジャーヴィス側は、ジュディへの恋心を自覚してからは、嫉妬からやや荒っぽい手段に出たりもするものの、
ジュディが受け入れられる範囲でアプローチし続け信頼を勝ち得ており、性急に自分の欲求をむき出しにしたりはしない
最終的にジュディは彼を愛するようになってからジャーヴィス=あしながおじさんが判明→大団円
ぬいペニとは対極の話であり、「いきなり男として性欲まるだしで迫った(クリスティーヌ視点)」のオペラ座の怪人とはまったく違う
雑な決めつけだが、女性作家だけあって、というかロマンス小説だからか?
そのへんの心の動きは丁寧に描かれているよ
長い話じゃないから読んでみては?
地域に学ぶ中学生・体験活動週間「トライやる・ウィーク」https://www.mext.go.jp/a_menu/shotou/career/05010502/026/007/001/006.htm
(1) 趣旨
中学生が職場体験、福祉体験、勤労生産活動など、地域での様々な体験活動を通じて、働くことの意義、楽しさを実感したり、社会の一員としての自覚を高めるなど、生徒一人一人が自分の生き方を見つけられるよう支援する。
また、「トライやる・ウィーク」への取組を通じて学校・家庭・地域社会の連携を深め、社会全体で子どもたちの人間形成や社会的自立の支援を行うことで、子どもたちを中心とした地域コミュニティの構築へと発展することを期待するものである。
何が極悪なの?
連絡こないとこっちも連絡しなくてもいいみたいなスイッチが自動的に入るのが友達がいないやつの思考回路
セクシー田中さんの両社の報告書を流し読みしたが、日テレ側に書いてあった故・芦原先生に関する行動や心境の記述が、小学館側では何故か触れられていない。
具体的には以下。
7 話のプロットのラリー中の同月 16 日に、本件原作者から A 氏に対し、ベリーダンスのショー観覧の誘いがあり、本件原作者、C 氏、A 氏、F 氏が同席した。本件原作者と A 氏はここで初めて会ったものである
本件原作者は本件脚本家の 1 回目の投稿があった直後の 2023 年 12 月 25 日に関係者と食事をした。食事の際、本件原作者は以下の内容を関係者に話した。
・ A 氏は最初から本件ドラマについて改変ありきで進めていたのではないか疑問に思う。
・ 1 話から 8 話までは自分が大変な思いをして修正したものであるのに本件脚本家の手柄にされており、自分が脚本として作った 9,10 話が駄作と言われているのが許せない。
(中略)
関係者は、本件原作者他とグループ LINE をしていたが、本件原作者の投稿後、本件原作者から「こんな騒ぎにしてしまって申し訳ありません」というメッセージが来た。
関係者が「謝ることはないですよ、言いたいことがやっと言えてよかったですね」というメッセ―ジを送ったところ、本件原作者は「ありがとうございます。」とメッセージを残した。
これらは先生の心理を紐解くヒントになる重要な出来事であるにもかかわらず、日テレ側では調査できているのに小学館側が載せていないこと自体が、何らかの意図があると感じる。
先生からの制作サイドへのベリーダンスへのお誘いは、先生からの唯一の歩み寄りだったはず。同行した小学館関係者は、この時の先生の心理を説明できるはずでは?
また小学館側は1~8話の制作過程は詳細に記載しているが、9話、10話に関しては、先生が執筆することに決定後、それに関する記述はほとんど無くなる(クレジット問題を除き)
原作者が書いたからそこには何も問題が生じていなかったというスタンスだろうか。上記の関係者の内容やブログを見る限り、執筆した為に生じた苦悩があったことは明白であると思う。
全体的に、小学館側は芦原先生の代理人・代弁者という立場で仕事をしていた自覚がないようにみえる文書になっている。
芦原先生が強硬姿勢になる原因を作ったのは日テレ側の制作プロセスの問題だが、原作者と日テレ側が直接やり取りしない体制に合意した以上、それを制御できる立場にあったのはパイプ役の日テレ側の窓口・編集者だけだった。
にもかかわらず、強硬姿勢になるまでの間に小学館側が何らかの具体的なアクションを取ったり、先生の苦悩を慮る配慮をしていた様子が見られない。または報告書の中からカットされている。
日テレ側が負担や問題を押し付けてた結果生じた事件であるということを強調したいが為か、恣意的な、ドキュメンタリー感ある報告書になっているように感じる。
あとついでに。
(2) クレジットについて
本件ドラマの第 9 話、第 10 話の脚本を書いたのは芦原氏であり、その著作者は芦原氏であるから、芦原氏が単独のクレジット表記を求めることはおかしなことではない。
この主張はヤバくないか?
関わっていないと断定して外部の人間のクレジットは外せという要求は、明らかに著作権の範囲を超えた越権的行為だ。
スペシャルサンクスに書かれてる人間全員何もしてないだろ!消せ!とか言ってる人間いたら、どの立場でも顰蹙買うだろう。
(補足:前提として、制作サイドが提案したクレジット案を原作サイドが全て拒絶して9話に脚本家はどの役職でもクレジットされなかった。10話はオールクレジットという手段で認可された。小学館側はこれを妥当とする主張)
・クレジットとは本来敬意を示す箇所であり、直接携わっていなくても表記するケースは慣例として幾らでもある
・脚本家は9話は第5稿、10話は第4稿まで提出していて、その中のアイディアが決定稿に使われていると主張している
・日テレ側は脚本家が9話と10話に関わったことを認めていて、脚本家の名前をクレジットするつもりだった
・氏名公表権の観点から、(利害を人質に)他者のクレジットを消させる行為は、違法である可能性がある
これらのことを考慮せずに、制作側ではなく、取引先でしかない小学館が、一方的に判断してクレジットに口を挟むことを是とすることが強い違和感がある。
小学館はクリエイターファーストの精神であるのであれば、クリエイターの尊厳を軽視するようなことを主張すべきではないだろう。