はてなキーワード: 組体操とは
辞めた今でも「あいつのせいで、あいつのせいで」と辞める原因となった色々な顔が頭に浮かんできて、された事や言われた言葉を思い出す。恨みで頭が一杯になって何時間もずっと同じことを考えている。
「過去のことなんて考えるだけ無駄だ」と頭で分かっていても恨みを頭から追い出すことは出来ない。
「俺より能力が低いくせに楽な部署に行って楽しくやりやがって」「経験も無いくせに偉そうな事言いやがって」「俺よりも給料低いくせに給料高いアピールしやがって」「大した仕事でも無いくせに粋がりやがって」「俺より辛い思いしてないのに仕事辞めやがって」挙げたらきりが無いが、気付くと仲の良かった同期や友達、果てはテレビで見た知らない人やTwitterでツイートが流れてきた人など、ありとあらゆる人に対して無意識に恨みを抱くようになり、その度に「何故自分はそんなことを考えてしまうのか」と自己嫌悪に陥っていた。
そんな時に沼田和也さんと言う方の一連のツイートを見た。以下に引用させて頂く
〜〜〜
教育ってすごいな/怖いなと思うのは、小中での「とりあえずぶん殴る」というシゴキ教育のなかで育ち、高校の剣道部でも先輩からこってりやられた体験が、未だに自分のなかで、理性的なものとは別次元で、「年功序列や鉄拳制裁でどうにかできるのでは?」という身体的誘惑になっていることである。
園長をしていた折、職員室に入って来て騒いだ子どもたちに「やかましい!外に出んか!」と怒鳴ったことがあり、副園長から「(子どもだけでなく)職員が萎縮するからやめてください」と注意されたことがある。子どもの頃あれほど嫌だった力技を自分がしていると気づき、悲しかった。
だから、「体罰はよくない」「組体操は危険である」等の批判がなされるとき、理性では「まったくその通りだ。それが正しい」と理解しているのに、身体が苛立ちを覚えてしまうのである。悲しい苛立ちである。時代遅れの苛立ちである。
〜〜〜
沼田さんのツイートの主旨とはずれるだろうが最後の「理性では理解しているのに、身体が苛立ちを覚えてしまうのである。悲しい苛立ちである。」の一文を読んだ時、言語化できていなかった自分の「恨み」という感情は「悲しい苛立ち」だったんだと、少なくともこの世に一人は自分と同じ「悲しい苛立ち」を感じた人がいるんだと、自分だけでは無いんだと救われた気持ちになった。
考えてみると人生で会った人の中で本当に嫌な奴というのは少数で、殆どの人は良い人だった。今まで多くの人に助けられてきたことを忘れ、あまつさえ恨んでいた自分を恥じた。何と神に愛されぬ生き方だろうと。
自分がこれからどうするのか考えた。今まで与えて貰い、返していない恩をどうしようと。もう会えない人もいる、それならまだ会える人と、生きていく上で会う人に恩を返そう。良い人にも、嫌な奴にも
そう決めると頭の中に嫌な顔や思い出が出てこなくなった。
あのね
とか関係なくていいんだよ
それを閲覧可能で直接接触可能にしてその結果を自己責任といっているシステムがおかしいのは
前置きがなくてもわかること
正論で大衆の悪しき行動の恐怖とかいうものもそれとまったく同じエンターテイメント
むかしのコンテンツにはそういう演者と人間が同一視されないように事務所やマネージが対応してた
一人一人がどういう行動をしよう、なんて声掛けするのは無意味
それは大衆の基礎行動を刷り込むってことでしょ?
組体操をしておなじ教科書で道徳を学びしていいことと悪いことを一律にしてそれを破るものを罰する
それを作りましょうと声を上げたら軍事だの戦争だの70年前とか言い出すじゃん
だったら最終的に何人束になってこようと結局一人を狙ってくるのだからその前に分厚いバウンサーを置くほうが確実だし効果的だよね
テレビが低コストになるということは人を保障するものがなくなって命の危険性を自己責任に任せて
なんでもコンテンツにしてるそれが大衆の欲求だといってまかり通ってる
おいしいと感じるものを無限に出されたら摂取してしまうのを自制心の問題だというには供給体制がおかしくないか
私たちは自分たちが健全であるために供給量の制限を望んでもいいのではないか
議論というのがただのおしゃべりでツイート合戦だというなら現状議論はできているかもしれないけど
議論というのが問題を見つけそれを解決するための方法を確立するためのものだとしたら
同じ事件がおこらないように体制づくりをすることと、できたことの確認を示すものを成り立たせる
だれが殺したかをはっきりさせたら再発しないのだというならそれでも良し
湧き出る誹謗中傷を片っ端からことごとく対応できるならそれでも良し
だれが悪いか声高に指さすヒーローになって広告料を稼ぎたい以外に問題を問うている人をみない
そういうことが問題だと思うわ
はてなーが脊髄反射で非難しがちなテーマ(例えば、うなぎ漁とか、高校野球とか、高齢ドライバーの事故問題とか、組体操とか、そういうのを想像してくれればいい)について、とある扇動者が、データの数字を都合よく使って(自分にとって都合の悪いことは隠して)、さらに煽るような記事を書いて賛同を得まくっていたことがあった。
自分もそのテーマは嫌いだったのだけど、あまりに感情的な非難が多かったので、「非難するにしても、もっと冷静に非難しないと、バカと思われるぞ」という思いから、元データを精査し、別データも検証しながら、可能な限り誠実に試算して、「その非難はおかしい」という論陣を張ったことがある。
そうしたらそこそこのブックマークがつき、半分ぐらいが批判のコメントで、★も集まっていたのだけど、そのときは、「半分も賛同してくれたなら上出来だ」と切り替えた。
あと、試算にはそれなりに自信があったので、「自分の正しさは後日証明される」と確信を持てたことも、精神安定に役立った。
結果、現状ではだいたい試算の通りになっているので、まあなんつうか、当時感情的に批判していたはてなーたちには、「ばーか」という言葉をおくりたいかな。
どうせ反省なんてしないだろうけれど、忘れているのだから仕方がないし、全く恨んでもいない。こっちも、にやにやしながら「ばーか」って思うだけなので。