はてなキーワード: 情報量とは
仲良し機能は、マイなんたらが、本当に親しい人から知っているだけの人になって、表面上は関係性を保ちたいけど、実は冷戦だったり、破綻だったりと複雑な人間関係を隠蔽するためのものなのかなと思った。
規約上あんまり若い子はいないと思ったけど、学校でいうと、ハブりとか仲間はずれとも言えるような気がした。
クラスでそんふうになったらいやだよね。学校はクラス替えはあるだろうし、3年で終わりだから我慢しとけよ。
この機能を使っている人は、なんだか裏と表を使い分けているようで、なんだかなぁ。
さっさとマイなんたらを解除すればいいのにね。
そんな疑念が思い浮かんだときにSNSが結びつけていた思い込みの人間関係って希薄なものだと思った。
そんなふうに思った人は、ちょっとのぞく程度のユウレイ会員みたいなものになるのだろうけど。
この会社の中の人ってこのSNSをほんとうに使っているのかなとも思った。裏切り機能みたいなのは精神衛生上よろしくない。
仕事で作っているものはプライベートで使いたくないような気もするし、他社のSNSも偵察しないといけないだろうから、自社以外のものも使っているのだろうし。社長とか部長が日記でお知らせとかしてんのかなぁ。社内の派閥ごとに仲良し機能がつかわれていたりとかさ。
長期的には徐々に人がいなくなってしまうんだろうなとニフの歴史を思い出してみたり。
押すボタンが多くなって、だんだんとめんどくさくなっているのは間違いない。処理できる情報量とそれを楽しめるしきい値のバランスがよくないのかもしれない。作業ゲームみたいになると何をやっているのかわけがわからないよ。
前回、「引き寄せの法則をリアルタイムで実践する」というエントリーを書いたものです。
まず、ネット上を徘徊し、引き寄せの法則に関する色々な情報を調べ
前回の失敗の原因を探る事をしました。
どんなに素晴らしい理論、メソッドであっても、「願望を引き寄せる事が出来ません。どうしたらよいでしょう」
という問い合わせが必ず発案者(?)の元に寄せられているのです。
その度に発案者の方達は親切丁寧に根本的な問題を指摘し
何がなんだか分からなくなってきました。
結局どれか一番いい方法なんだ!!
僕は何で願望実現に失敗したんだ!!
と、自分に入ってくる情報量に反比例して、解決策との距離が離れて生きました。
そこで、引き寄せの法則の原点に戻りました。
我々に起こる現象は、全て我々の思考を宇宙が現実化したものである。
これに例外はない。
なるほど!!
失敗の原因は「逆ナンなどされるはずがない」という思考があったからだ!!!
何となくだけど、サッカーを例にして考えるとこんな感じかなぁ。
まず、「逆ナンされたい!」って考えた瞬間に僕はフリーキックの位置からボールを蹴る。 ゴールは「可愛い子が逆ナンしてくる」と書かれたネット一つだけ。 この思考が宇宙に向かって発信されると同時にボールがゴールに向かって跳んでいく。 このまま何もディフェンス等されなければ絶対ゴールに入る。 でも、「逆ナンなどされるはずがない」って考えると、「逆ナンされない」というゴールが新しく出来、 ディフェンダーが飛び出してきてボールに当たり、方向がそっちに変わっていく。 さらに「可愛い子にすれ違うくらいならあるかも」と考えると、同じようにゴールが新設され またもディフェンダーが飛び出してくる。 結局「逆ナン」される。というゴール以外のゴールに入る。
書きながら、可愛い子に出会って、話しかけられたけど逆ナンされた。みたいに2つ以上の現象が起きたら
ゴールはどこに入ってんだ?って気づいてしまったが、最終的に言いたい事とは違うので続行した。
とりあえず、宇宙は我々の思考を必ず現実化し、例外はないのだから
願望を持った瞬間にはそれが叶えられる方向に事が進む。
でもそれを否定する考えを持った瞬間に、それも実現されるから
当初の願望は絶対に実現されなくなり、否定的な思考が現実化となって現れる。
って事なんじゃないかと。
さっきの自分の考えからすると、「願望が実現されません」と相談している人は
まだ宇宙が実現途中なのにも関わらず「実現されていない」と決めつけていることにより
自分の失敗の理由は完全にそこだったんだと思う。
先の例のように、思考した瞬間にゴールに向かって玉が跳んで行ってるとすれば
一回だけ願望を思考して、あとは否定的な思考をせずに放っておけばよいのでは。
よくネット上でも見かける「願望を手放す」というのはこうゆう事なのかもしれない。
でも、多分初めのうちはどうしても否定的な考えが浮かんでしまうと思うので
ちょっとありえそうな願望から初めてみるか、ちょっと大きいと思ってるものでも
絶対現実化する!!と信じきって、万が一否定的な感情が浮かんだらリセットしなおせばよいのではないか。
という訳で、前回の失敗を活かして、まだ買ってから削っていない状態の宝くじが
絶対に1等が当たる!!と信じ切って、この願望をちょっと忘れかけたころに削って
また報告したいと思います。
では・・・
キャラクターの名前考えてるんだけど、カタカナより漢字の方が有利だよね。
名前って、単なる識別記号としての機能以外に、そのキャラのイメージ作りにも役立ってる。
名前を見れば、そいつが主人公ヒロインクラスなのか、味方なのか敵なのか、またはその性格や能力まで大体分かることが少なくない。
だから、なるべく名前にイメージを付加してキャラ立てを強化したいと思ってる。
漢字なら読み以外に漢字そのものがイメージを持つので、そのイメージを活用できる。
ゲームやラノベだと名前の字が視覚情報として常に使われるので、このイメージは割りと有効だと考えられる。
カタカナでもラストネーム(?)は自由にイメージを付加できるが、普通ゲームやラノベ中に常時表示されたりせず、弱い。
ただ漢字名前にも弱点があって、世界観がファンタジーだと使えないんだよなぁ
全く使えないワケじゃないけど、基本的に苦しい。
中高生の片想いだとかフィクションの恋愛だとかストーカーならいざ知らず、付き合ってる「恋人」の情報量が少ない(まま)って、おかしくね?
色々考えてみた。
ネットがなかった時代を。
僕はよく2chをみる。見るたびに不幸になる気がする。
例えば恋愛のことについてを取り上げてみよう。
僕はモテる方ではない。背も低いしイケメンだとは思わない。これは主観的評価である。
それでは2chに書きこんでみよう。例えば恋愛ネタの掲示板があったとする。
他の人は嘘を書いているかもしれないし、本当のことを書いているかもしれないが、
本当のことを書いたとしても、見人にはそれが本当かどうか分からない。自分の時も然りである。
ここでネットがなかった時代に戻ってみよう。僕はこういった話を誰かにするだろうか、そして皆の纏まった情報を聴く機会などあるのだろうか。
噂や人の話の上では、不特定多数の情報を膨大に得ることなんて出来ない。大阪に住んでいて、見も知らない新潟の人の噂話を聞くなんて
まあないだろうと思う。殆ど小さなコミュニティの中だけだ。そういった話を得るためには、女の子の情報網や、積極的に収集する力がなければ
そもそも叶わないだろう。しかしながら僕はコンビニに置いてある週刊誌や、投稿による「実話」マンガなんかを元にしてそういった情報を得るかも知れない。
インターネットの正確性なんてこの際どうでもいい。
ただその膨大な情報量が人を不幸にさせる可能性がある、ただそれだけなのだ。
海の広さを知ることは本当に良いかどうか分からない。そもそも海ではないかもしれない。
井の中の蛙は池に行ったこともなければ、湖に行ったことさえないのだから、それが何なのかさえ
理解出来ないことだろうと思う。
この広さが心地良く、いつも止めることが出来ないでいる。
不幸さと同時に、時々すこしばかり幸福を分け与えてくれている気がしてならないのだ。
コメントも、トラックバックも、2chならレスをくれることだろうか。
ものの危険性を知ることは良いことだと思う。ただし止めることが出来なければどうしようもないのだが。
おそらく後世に長く語り継がれることになるだろう。
それは間違いない。
まだまだ予断を許さない状況ではあるが、いずれ落ち着いたら詳細な調査が行われるだろう。
今現在も含め、発生から収束に至るまでの膨大な情報が生ずるに違いない。
5年後、10年後には、あたりはすっかり見違える様になっているだろう。
建物は残っているだろうか?残せるだろうか?
いや、是非とも負の遺産として残していただきたい。残すべきだ。
そうして、多くの人が訪れるだろう。
そうすれば、チェルノブイリを超えて多くの人が訪れる事が可能なのだ。
しかし、それは難しいかもしれない。そのまま残すのは不可能かもしれない。
それはTwitterや東京が悪いというよりも、だれもが発信者で受信者であるネットでは、特に理由が無い限り、人数の多さがそのまま情報量になるからだよ。
例えば、余震あったとき、Twitterの俺のタイムラインの奴らが一斉に「ゆれたー」と言う。計画停電がまるで日本全国の話題って勢いでデフォルト扱い。少なくとも半分は首都圏とその周辺じゃないか?まるで俺以外、関東にしか人間がいないような錯覚に陥ることさえある。
俺は北海道だが、北海道で地震があったとき俺が「ゆれたー」と言っても、言ってるの俺だけだったりして寂しくなる。フォロー数120人くらい。botやニュースや芸能人や外国人や報道関係除くと残り90人くらいかな。わかってる限りで、北海道が自分含めて4人、仙台の人が2人、岩手が1人だな。仙台の奴は地震でヒビ入って家が文字通り傾いてるのにネトゲやってる。長野が1人、沖縄が1人。岡山が1人、こいつはいつも大都会ネタにされて喜んでる。宮崎と山形にも1人ずついるな。関西が数人いるが・・多分10人いるかどうか。リアル関係じゃなく、もともとネトゲの知り合いだから全国から集まってるはずなのにこんなもんだよ。ネトゲのオフ会を東京でやると、沢山がごく普通に参加して参加あたりまえのようにできるからだれも開催場所について突っ込まないくらい関東に住んでる奴多い。
ネットで四国の人にあったことがないから、「四国の人にあったことないんだ、TLにいない?」って聞いたんだけど、一人もいなくてがっかりした。
普段でさえこんなだから、被災地ではまだネットできない人もいるだろうし、さらに圧倒的な関東からの情報の多さに埋もれる。
ちょっと気になって調べたらこんなのがあった。
15~39才の人口比はネットやって頻繁に情報発信する世代だろうからかなり参考になる。
大体俺のフォローしてる人の体感ともあってる。つまり、適当にネット知り合いをランダムで100人抽出すると、殆どの県は一人か二人もいればいいってことになる。首都圏だけで合計35.7%になる。そこに大阪と愛知足したらほぼ50%になる。これだけの人数差があるのだから、悪意や意図がなくとも被災地の情報は埋もれてしまう。
Twitter含むネットには、距離の壁がないという特徴もある。加えて、アルファツイッタラーやアルファブロガーみたいな存在になれば大きな影響力も持てる。だから可能性があるとすれば、これからは地方在住のアルファなんちゃらが出てくるかもしれないし、被災地から情報発信するアルファなんちゃらが出てくるかもしれない。ただ、アルファなんちゃらが出てくる確率も人数多い所が有利だから難しいかも。
テレビを全く見ない自分がいうのも変な話だけど、むこう10年くらいネットに対するテレビの優位性は保ち続けるように思う。
しかし、ネットの影響力はテレビのそれを超えることなく、ほぼ同等になったあたりで均衡するのではないかと思う。
超えたとしても、ネット7に対しテレビ3くらいには残してるはずだ。
たしかに、自分が知りたいことを知るためには、ネットのほうがテレビよりも強力なツールだ。
しかし、みんなが同じ知識を共有するためには、ネットでは不十分なんだ。
たとえば、テレビだったら、民法10社とNHKに地デジ化のお知らせを流せば、テレビを殆どみない僕なんかにだってその情報はいずれ伝わってくる。
あるていど同じ知識を共有しないと、議論も出来ない。
広告媒体としてネットよりもずっと優秀だから、お金が集まるし、権力も集まる。
しかし、一方的で、権力者寄りの放送であればあるほど、必然的にテレビ以外のメディアに注目が集まってくる。
テレビなくしてネットの隆盛がない以上、ネットがテレビに置き換わることはない。
池田信夫には賛成だ。
テレビの重要性は認めるが、それでも最もいい帯域はデジタル通信に当てるべきだ。
しかし、ネット、テレビの他に、もう一つ、メディアの第三極があるべきだと思う。
いくつかの点で、ネットは貧弱だ。
まず、既存のメディアの焼き直しの情報がほとんどだということだ。
既に出版された本や、既に放送されたテレビを元にしている場合が多すぎる。
それに関しては、いくぶんは改善されているようにも思う。
一次情報をテレビや本の形ではなくネット発で流すことが多くなってきたように思う。
それでもまだまだという印象は拭えない。
そこに入り込むのが、SNSになるんだと思う。
なにが見える、なにが聞こえる、という未編集の一次情報をダイレクトに伝えるのがその役割だ。
きちんと体裁と論理が整った情報は、今まで通り通信社がテレビや新聞に(あるいは直接ネットに)売り、ネットはそれを再編集したり、視点を変えてユーザーに情報を届ける。
一方的で情報量が少ないがリーチ力のあるテレビ、圧倒的に情報量が多くマスメディアを監視するネット、未編集だが加工されていない情報に触れられるSNS、メディアは天下三分の計で安定すると思うんだ。
アフリカや中東で起こっている動きをTwitterを通して精力的に翻訳し発信していた方が、先ほど「原則として、翻訳ツイートやめることにしました。」とツイートした。残念でならない。
彼がやめる事じゃない、彼が追い詰められるほど、見せ掛けの中立を求める人々が多かった事が残念でならない。(彼には少し心を休めてほしいと個人的には思う。)
英語やその他言語の情報を追うと、主要タグのツイートだけでも恐ろしい情報量なんだ。滝のようなツイートから翻訳して伝えるには選別する必要がある。その選別する見極める作業だけで時間も精神力も知識も判断力も使う。だから彼がこの先翻訳をやめて、英語情報のRTメインになるとしても、選別作業の重さを考えれば十分ありがたい。
現実の情報量に対して個人は非力だから、情報の選別が必要だ。選別が必要ということは意思が必要なんだ。この時点で理論上の中立は無理なんだ。個人だけじゃない、大手メディアにしてもそれがすべての情報をそのまま垂れ流すものでない限り、神のような理論上の中立は不可能なんだよ。
アルジャジーラのようなメディアは、「様々な角度から、視点から」報道することをモットーにしている。メディアには、自らの立場を明確にした上で偏向した報道をするものもある。
アルジャジーラがエジプトの革命を命がけで報道し続けた時、彼らは明らかに民衆=革命側についていた。それを明確にしていた。そうでなければあれほどの報道は無理だっただろう。
そこに、見せ掛けの中立を持ち込むとどうなるだろうか?混乱が現実に起きていることであっても、結果を見出せないからポジション取りができない、報道できない、情報が遅れる、ことなかれ主義な内容になる。見せ掛けの中立が確かにある現実をあやふやなものにし、速報性を犠牲にする。結果的に正しい情報が伝わらなくなる。
見せ掛けの中立にはもう一つの危険性がある。それを妄信してしまう人がいることだ。
例えば、右派新聞と左派新聞があって、それぞれ立場を明確にしているとする。多角性を売りにしている新聞があって、記事が記名ありで右派記者と左派記者の記事が入り乱れているのでもよい。そうであれば、人は色々な視点から現実を見て、自分で考えるだろう。
逆に、中立を標榜するメディアが立場を明確にしないまま中立を後ろ盾に報道を続けたらどうなるだろう。もう一度言う、大手メディアにしてもそれがすべての情報をそのまま垂れ流すものでない限り、神のような理論上の中立は不可能なんだ。結果、何も考えない受身な人たちはそれを信じ込み、少し賢い読者は疑心暗鬼になり、そのうちのいくつかは途方もない陰謀論に救いを求めるだろう。
見せ掛けの中立の中で、本物のジャーナリズムが生き残ることは難しい。
ネットの利点は、多角的な生の情報が得られる事だ。何かを知りたいとき、多角的な情報の中から自分で判断する自由がある。それがどんなに素晴らしいことなのかもっと気づいて欲しい。本物のリテラシーは重箱の隅をつつくような知識などではなく、そうした自由と判断の中にこそあるべきなんだ。
一人の翻訳者を偏向だ、公平でない、と責めるのがどんなにナンセンスなことかわかるだろうか。ネットの利点を中立性だと勘違いしていないだろうか。だとすれば、そんな人たちは、見せ掛けの中立の報道に頼りきりで何も考えず信じ込んでいたいのと同じ気持ちでネットを利用したいだけだ。
もっと多くの人が、見せ掛けの中立を求めるのをやめ、多角性の大事さに気づくように願ってならない。
昨日、フジテレビ系列のニュースJAPANを薄ぼんやり観てたら、「ネットの影響力が拡大していますが……」と話を振られた解説委員のナントカさんが全力でかみ合ってない話をしていたのでツッコんでみる。
例えば、オバマ大統領は選挙運動にネットも使ったが、彼の魅力は演説の上手さにある。
日本でもスピーチで自分をアピールできるように、早くからそういう教育をすべきだ。
とかなんとか。
何が的外れかというと、「スピーチ」は「コンテンツ(内容)」で、「インターネット」は「メディア(媒体)」なのに、同列で語ってしまっていること。
というか、尖閣諸島問題で、動画が流出って散々やってたじゃん。
インターネットはただの媒体で、そこに盛り込むコンテンツは、文字情報でもいいし、静止画でもいいし、動画でもいい。(古代ローマの文書を収録したデータベースだってある。パピルス文書の画像だって見られるのだ)。
「インターネットの影響力が拡大している」というのは、「誰でも発信者になれる」というメディアの特性について意見を述べて欲しかったのであって、そこに盛り込むコンテンツの好みなんて聞いてない。
それなのに、この解説委員のナントカさんは、「ファミコンもいいけど外で遊ぼう!」みたいな的外れな意見をドヤ顔で延々と述べてしまっていた。
新しいメディアの登場と普及、という現象は過去にも起きていて、1920年代ころから、「映画」「ラジオ」「テレビ」の順で普及していった。
前後関係は分かんないけど、「蓄音機」「レコード」「テープレコーダー」もある。
これらの過去の「新しいメディア」の特徴は、メディア(媒体)と、そこに乗せて運ばれるコンテンツ(内容)が、だいたい一対一対応していたことだ。
だから、「テレビの普及」は、「動画の普及」と言い換えても、そんなに間違いではない。
"video kills radiostar"ではないが、「テレビが普及したので、これからは音声だけじゃなく身なりにも気を使わないといけませんね」というのは正しいのだ。
デジタル化してしまえば、文字情報も、音声も、動画も、すべて同じように配信できてしまう。
これが、大昔(なぜか1920年代より昔に感じる)「デジタル時代の到来」だ何だと騒がれていたことの、そもそもの本質ではないのか。
あのころ、一通り大騒ぎをしたはずなのに、この解説委員のオッチャンはきれいさっぱり忘れて、インターネットを文字情報主体のコンテンツと一対一で結びつけようとしている。
せいぜい、「2ちゃんねる」とか「ブログ」とか、ひょっとしたら「ツイッター」くらいしかイメージできていないのだろう。
そんなわけで、このオッチャンは恐ろしく不勉強で、過去の経験すら忘れ、メディアとコンテンツの区別という基本的なことも出来ていない。
そのため、「ネットよりスピーチ」という的外れな話題で時間をつぶしてしまった。
しかも、そのことに気づくチャンスは、ちゃんと番組を観ていれば、それなりにあったはずなのだ。
この質問の前のニュースでは、色々な国で、若者や庶民の不満がネットを通じて共有され、政治運動につながっているという話をやっていた。
つまり、「無名の人々が双方向性のメディアで意見を交換し合い、結合していく」という、まさにインターネットというメディアに特徴的な現象を話題にしていた。
彼の主張は、この直前のニュースとすら、噛み合っていない。
オッチャンは、「スピーチも大切だ」という。
オバマさんは、大統領候補だったから、そのスピーチを多くの人が聞いたのだ。
聞いてもらえなければ、スピーチの上手い下手なんて関係ない。
普通の人のスピーチが問題になるのは、顔の見える範囲、せいぜいが会社のプレゼン程度だろう。
そういう意味ではスピーチ能力は重要なのだが、そういう話は誰もしていない。
そこで「スピーチ」がどういう位置を占めるかを論じないと意味がない。
ここでは、コンテンツ同士の優劣が問題になる。
受け取るのにコスト(手間)はかからないが情報量の少ない「テキスト」と、コストはかかるが情報量の多い「スピーチ(動画)」が対比されなければおかしい。
インターネットで政治運動を繰り広げている人々は、無名だからこそ、「テキスト」で意見を交換する。
しかし、例えばグループのリーダーとして、知名度が上がれば、「スピーチ」を再生してもらえるようになる。
また、集会などを開けば、「スピーチ」が会合の中心になるだろう。
そのときのために、スピーチ能力も磨いておかなければならない。
というのなら、まだ分からなくもない。
しかし、このオッチャンの言ってるのは、そういうことじゃない。
専制国家で、政治に不満のある人々がインターネットを通じて意見を交換している。
そこでオッチャンは言う。
「たしかにインターネットも大事だけど、スピーチも大切だ。そこで、日本人もスピーチ能力を磨いて……」
どうしろと言うんだ。
僕が中共政府の民族政策を素晴らしいスピーチで批判したら、それが中国の民主化に繋がるとでもいうのか。
そもそも、僕のスピーチは、どういうメディアで聴き手の元に届けられるのか?
彼の解説は、ガンダムオタクが、「最近はアニメ増えてるね」と言われて、「でもガンダムの最新作の評判はね……!」と聞かれてもいないことを語り出すのと同じ構図になっている。
要するに、彼の思うところの「インターネッツ」(たぶん掲示板とか)の影響力を過少評価したくてたまらなくって、インターネットについて話を振られた瞬間、もうそういうことしか話せなくなってしまったんだと思う。
■ニンテンドー3DS 思わぬ 落とし穴 @ニコニコVIP2ch
http://nicovip2ch.blog44.fc2.com/blog-entry-2070.html
目が痛くなるとか目が悪くなりそうだとか、3DSの裸眼3Dについて色々と出てるけど、
そもそも今回の3DSの、裸眼3D機能事態が、任天堂の壮大な釣りだったりしないの?
PSPが今までNDSに対して持っていたアドバンテージとかぶる部分が多く、
画面の大幅なクオリティ向上。明らかにPS2かそれ以上のレベル。
2画面をそのままに、上画面はワイド設定で、情報量が大幅UP。
キーにスティックも装着され操作性も向上。タッチペン操作はそのまま。
DSとPSPはいわゆる棲み分けが進んでいる状態だと思うのです。
お互いは、お互いに足りない部分をメリットとして持ち、
画質 PSP>NDS
操作法と画質をほぼそのままに、据え置きクオリティを持ち運べることに重点を置いたPSP、
新しい試みづくしでもって、携帯ゲーム機に新たな風を提供したNDS。
PS2のソフトはPSPに移植されるけど、NDSへの移植は少ない。
箱とPS3のようなマルチ発売もない。だってゲームが違うんです。
ドリキャスとPS2のような、メーカーが一個つぶれそうになるくらいの
骨肉の争いをする必要はそもそもない。
でも3DSはどうでしょう。
画面の大きさはPSP>3DSだけど、どうだろう。
どうせLLでるでしょ?
3DSはPSPとほぼ同じ土俵に入った。
そもそも何故バッテリーがこれしか持たないかというと、PSPがOKだったから。
高校生や大学生といったPSP世代は充電器も一緒に持って移動してる。
PSPがそういう習慣を植え付けてくれたから、3DSだってできない訳がない。
3DSの投入目的を「PSPに持っていかれた携帯ゲームシェアの奪還」としたときに、
裸眼3D要素はそこまで重要じゃない。ただ単にアピールポイントとしての、お飾りの存在。
近年の3Dブームを予測した上で搭載した結果、(任天堂は新しい物好きだし)
闇に閉ざされた世界。
愛を、夢をいだき進んできたはずのこれ。
やめておけって、そこからは何も生まれないんだって、
分かってるんだって、誰か俺の脳みそを交換してくれ
何もかも、もうおそすぎた。
何もかもが嫌になってしまう前にほら笑ってくれよ。
そしたら僕は骨がバラバラになるくらい風に吹かれて。
どうでもいいけど歌詞を書くってどうよ。
どうなのよ。一体どうすんの。キリのない物語。
私は私であるために、生きている。
自我統一性。なんでもないけどなんでもねーよ
かまんべいべー 抱きしめたいユールックミー
全部が穴場だぜ。全部が山場だぜ。
元気を出して生きていくんだって誓ったのはどの口だい?
本気を出して生きて行くんだって誓ったのはどの口ダイ?
ひたすらに、僕は文章を書く。書き記す。だって楽しいから。
これが楽しみだから。ぼくの楽しみだから。これこそ、生きている証だから。
何もなくてもいい。トラックバックなんて0でもいい。いや、本当を言うと反応が見たい。
だけど諦めてるんだ。どうせこんな文章、誰も読みやしねーよって。
文章を書くこと自体を楽しめるようになれたらいいな。最高にハッピーだな。
情報量。最高料。大好きビームを放ったらそくかっぱらったら一気にばっくれ
ヾ(・ω・)ノ ギャースと思いっきり吹き飛ばされても健康でいられるように。
君が君を忘れぬように。大好き大好き大好き大好き。
なんでもいいから吹きとばせ。ぶっ飛ばせ。そのふざけた幻想をぶち壊せ。
なおさら、take me take my hands.何もない。何もない世界で俺は生きている。
いいんだ。これでいいんだ。最高な想いは輪を描いて降臨していく。
俺は地に根をおろし、生きていく。大体分かる。
∩(*・∀・*)∩ファイト♪、自分。頑張った自分へのご褒美(笑)
ほらstand up。ゆるく、たくましく生きていけ。まったり最高、
まるで脳内の理解回路がぶち壊れたみたいに、吐き出す有象無象。
元気を出していけよ、がっちりファイトだぜ。何もなくてもいいんだぜ。
分かってるんだろ、全部全部わかってんだろ、知ってるんだろ。
俺のやり方
教科書はほとんど使うな。よっぽどのときサポート用として使え。辞書みたいなもんだ。
きったーなーい字でいいから超スピードで書け。書きながら授業中感じたことがあればそれも書くんだ。「そうだったのか!」とか。
その日の終わりにそのきたなーいノートを別のノートにきれいに書きなおせ。このとき構成も工夫しれ。感想がさらに浮かべば追記しれ。分からない字が出てくるから授業を必死で思い出せ。この作業が記憶の強化につながる。
週末、きれいなノートを読み返しながら、赤で添削したり関係あるとこを棒でつないだり四角で囲んだりしれ。感想があればさらに追記しれ。
これで記憶の量と質が両立できる。授業中猛スピードで先生が言葉でしゃべることをメモっていくことで量を確保。そして人間は記憶が失われるタイミングの直前に見直すと忘れないという法則があって、そのタイミングが「その日の終わり」「数日後」の2回なのだ。そこで最初に記憶が消えるタイミングを清書にあて、次のタイミングを添削に当てる。
このルーチンワークでかなりの成績は保証できる。そこから先は工夫と才能しだい。
なぜ、感想記入が大事かというと、ノートとは、授業内容の情報としての記録では決してなく、自分が受けた授業の日記なのだ。日記として思い出すためのツールなのだ。
君が他人の3年前の日記を読んだとしても、あまりその情景は浮かんでこないだろう。しかし自分が書いた3年前の日記ならバーっと思い出すことも多いと思う。なぜなら、君が書いた日記は君の体験が書いてあるからだ。実際に体験していることが書いてあるから思い出せる。同じ情報量でも実際に体験してないことは思い出せない。だから授業という体験をノートに書き込むことによって、そのときの気分や感覚(納得いったときの感じとか、さっぱりわからなかったときの感じとか)を思い出し、それによってそのときの情報まで思い出してしまえるのがこの日記的ノートの利点なんだ。
※独学のときは(独学自体をあまりおすすめしないが)、問題集を使おう。
まず問題集をいきなりやってみる。全然できないと思う。でも一生懸命考えることは重要。で、一回終わったら答えと解説を見る。そして、その解説を授業だと思って、ノートに書く。この際、丸写しは難しいはずだ。なぜならある問題に関する解説だから、普遍性にやや劣る。そこで、君がその特化された解説を普遍的な知識(やり方)のように構成しなおし、ノートに記録していく。このとき感想記入も忘れずに。そして週末に赤で添削。
このようにして一回最後までやったら、もう一度最初からやる。ある程度できるようになってるはず。2回目やりながら足りないとこを追記してもいい。そして、満点だった項目はOKとして、できなかった項目だけ3回目やろう。このようにして万点取れた項目を減らしていけば、3回目から5回目には全制覇してると思う。それでその問題集は終わりだ。その分の力はついてる。
※勉強を家でやろうと思わない方がいいよ。喫茶店とかの、どっか身の回りに誘惑がない環境を探して、毎日そこで30分なり1時間なりやる習慣にしたほうがいい。
※このやり方のメリットは、やり方について悩まなくてよくなることなんだ。決まったことを毎日やるだけ。やることの量は多いんだけど、やり方について考えずにどんどんやれるからある意味効率的。
何って言われても・・・
何かわからないから恐れてる・・・んだと思うとしか。
正体がわかってりゃ世の中そんなに怖いものはないと思うけどね。
警察が強くなりすぎて、下手に因縁つけれられたら、たとえそれが
冤罪であったとしても人生ゲームオーバー・・・っていう「風説」。
敢えて言うならこれか。それが自分に降ってくる確証は当然ないけど、
降ってこない確証もない、どうなるかわからないから怖いんだろね。
その辺は情報量でカバーするしかないけど、情報飽和状態のネットで
それにプラスしてTVや新聞まであるんだから、情報整理だけで手一杯。
(てゆーか、情報整理すらままならない状態なワケで・・・)
これで自分への影響だけ絞ろうったって、やってられん。
ま、雷怖いと同じとでも思って、笑ってくれてればそれでおk。
話はガラッと変わって。Permalinkがブチっと切れてるから何事かと
思えば、切れてる根元、記事消してるね。よく見ると638usersとかw
よっぽど食いつかれたんだな、コイツ。ご愁傷様。(-人-)
切れちゃってるので、大元のURL書いとこ。・・・タイトルじゃなくて
記事中でもPermalinkになるのか、見てみたいしね。実験も兼ねて。
:::前説:::
ここ最近ネット界隈の著明な人の発言において「キュレーション」の重要性が語られるのをよく目にします。
それを読むたびに、とても共感していたのですがふと気がついたら、昔に自分がメモして考えていた事と同じだと気づきました。
以下の文章を書いたのは2009年11月23日。ふふふ、これって俺が前から考えてた事じゃん!って自己満足もきっと入っていると思いますが、
自分で読み返してもあらためて、考える所があったので、始めてはてな匿名ダイアリーに投下してみます。
みなさんの、考えるきっかけになりましたら幸いです。
■情報化社会(インターネット社会)における「学芸員」もしくは「DJ(ディスクジョッキー)」的存在の重要性について
近年のインターネットの普及に伴って、
個人が触れることの出来る情報の総量は指数関数的増加の一途を辿っている。
この事は「世界のフラット化」あるいは「情報格差の是正」という言葉で語られる事もあり、
基本的にはそれぞれの個人レベルの存在にとっては歓迎すべき事である。
しかしながら、現状のインターネットにおける
真の意味での情報化社会の完成された形態であるとは言えないのではないか。
潜在的なパフォーマンスを完全に活かしきれていないという事である。
インターネットを生かし切れない具体的な一例としては、
「情報過多」とい事が、まずあげられる。
■社会に存在する情報量が多すぎる為に、本来必要とする(ユーザーにとって価値のある)
情報を見分ける事が難しくなっている事。
この事柄の解決策として飛躍的な進歩を遂げたのが
いわゆる「検索システム」である。
現在の検索システムの主流といってよいGoogleの独自のアルゴリズムによる検索システムである。
特にGoogleによる検索システムの登場はインターネットの活用という面において
その優秀なアルゴリズムによって、ユーザーが求める情報に対する
検索の精度・効率は飛躍的に向上したのである。
インターネットの潜在的なパフォーマンスは完全に引き出されたのだろうか?
答えは『否』である。では現状で足りていない要素とは一体何であろうか?
まず検索システムが持っている基本的な特性として
「ユーザーの能動的な行動」を必要とする点があげられる。
能動的でないユーザーに対してより効率的に情報を提供する方法はないか?
(これまでのマスメディアによる一方的な手段でなく)
☆そこで必要になってくるのではないかと思われる新たな情報収集・提供システムの候補が、
『学芸員』あるいは『DJ』的位置づけの存在、あるいはシステムである。
「キュレーター」などとも呼ばれる。
学芸員に求められる役割は第一に、
各分野における専門知識をもって対象の管理・監督を行う事であり、
第二に持ちえた専門知識を元に普及・教育に努める事である。
情報化社会での役割として考える場合、特に重要になってくるのは、
第二の役割の「専門知識を基にした情報の普及・教育」という点である。
つまりある事柄における専門家とそれ以外の人々を橋渡しする役割である。
彼らは美術における専門家であると同時に美術自体の実践者、生産者でもある。
それぞれの職業や専門分野、あるいは生活を行っており、
それゆえ、生活時間のほぼ全てを美術にあてている専門家(つまり美術家・芸術家)
しかしながら、専門家(この場合は美術家)が生産したモノや情報の持つ
価値を享受する為にはある程度の専門知識を必要とする。
その際に必要となるのが両者の中間に位置する「学芸員」である。
しかしながら、その専門知識を持って、美術の専門知識を持たない人間に対して、
本来の情報を分析・咀嚼して、専門家でなくとも理解できる(その価値を享受できる)
「非・美術専門家」達はその気になれば(能動的意思を持てば)、
自ら専門書や、インターネットを使用して専門知識を得ることも可能であるが、
能動的意思の有無や、時間的制約からそれを完全に実行するのは難しい。
そこで学芸員(中間的位置づけのシステム)を間に挟む事により、
より効率的に、より短時間で対象の情報を得、理解し、その情報やモノの価値を享受する事が可能になるのだ。
必要とされている事ではないだろうか。
従来の考え方とはまったく別のシステムに変わっていくであろう。
(あるいは変わるべきである)
つまり従来の広告システムとは、販売主体が多大な広告(販促)費用を計上し、
【デメリット】
この従来の「広告」という考え方自体を
わざわざ広告という費用やマーケティングを考える必要はなくなるのではないか?
つまり、ユーザーが求める情報を完全にフラットに、効率よく提供・共有するシステムがあれば、
企業はいかに価値のある製品をつくるか?という本来の役割だけに集中できるのではないだろうか?