はてなキーワード: 情報量とは
終了時は大学3〜4年生だった私も社会人になり、やがて引っ越して現在の住まいはその病院からは遠くなった。
当時の担当医も、私が社会人になる前ぐらいに退職したんだかどこかに異動だか開業だかしているようだ。
割と最近までリテーナーが長年就寝時のおともだったのだが、無くしてしまった。
リテーナーをなくす前から気になっていたのだが、最近、前歯の1本が徐々に「戻っている」感覚がある。矯正前に唯一出っ歯だった上の1本。ちなみに治療は下のガタガタ治しがメイン。
見た目はほぼわからないのだが、歯のうらとかから歯と歯茎が剥がれていくような(?)感覚とかが、昔歯並びが悪くなって行く過程のおぼろげな記憶とダブる。
気になって現在の近所の歯科で見てもらったところ、「大人なので多少の戻りはあるだろうし、客観的に見た限りでも問題は無い」と言われる。
見た目の問題はまあそんなところらしいが、本人が一番気になっていることは、実は口内炎。
1本だけ前歯が前進しているもんだから、その下に当たる下唇の内側を巻き込んで噛んでしまいがちなのだ。これも矯正前の「症状」と同じ。
普通に口閉じようとしたり、物を食べようとしているときにその1カ所だけかんでしまうって、どう考えてもQOL低下じゃないだろうか。
口内炎は栄養とかその他の問題によるところも大きいかとは思うが、あまりにこれが続くようだったら頼み込んででも再矯正するかなあ…と仕事そっちのけで悩んでいる。だって今まさにその口内炎で痛いから。
かつての担当医は予約を頼めばかつての病院にて診てくれるようだが前述の理由でかつての病院に受診するのは面倒だ。
(新勤務地は聞いてないし、医療職の個人情報うんたらで聞いても教えてくれなさそう)
だからといって今行ってるところの(かかりつけとは呼べない)病院で新たにお願いするのも費用的にもカルテ等の情報量の無さ的にもたいへん。
ひとつだけ希望があるとすれば、左右の親知らず抜歯か。右は埋まっているのでともかく、左が出て来ており、これがもとで前歯が圧迫されて前進してきている恐れも大だから。。抜けば前歯も後退してくれるなーんて保証は無いが、前進は止められるかもしれない。
ラジオが成り立たなくなってきたらしい。まぁ、予定調和であり、誰もが「いつ来るかは解らないがその内来る未来」として考えていたことが、ついに現実になっただけ、と言ったらそれまでのことです。さて会社が続けられなくなる理由は単純で、「出ていくお金」が「入ってくるお金」より多い状態が続き、その限度が一定の程度を超えたときがその会社が終わるときです。
ラジオ局等のメディアについては、「スポンサーにもらえるお金」より「番組を続けるために要るお金」が多い状態が続いてしまって、赤字になる、というパターンですね。
スポンサーはどうやってその量を決めるかといったら、どれだけ自分が「目立てるか」の度合いに比例した量お金をくれる、と考えていいでしょう。
すると目立たないメディアは当然もらえるお金の量が少なくなる訳です。
そんなこんなで、ネットで目立つことをする人たちが沢山増えてくるにつれて、ラジオなんかは相対的に目立たなくなっていった訳ですね。
「相対的に目立たなくなった」これが敗因な訳です。これ、果たしてどうしようもない事なんでしょうか。
まずは通信する情報量の違いです。現代においては、ネットの方が断然情報量は多いといえるでしょう。
しかもネットは「下り」の通信だけでなく「上り」もできます。
どうみてもネットの方が便利なツールですねぇ。
あるにはありましたラジオの利点。受信する人が増えても大丈夫だ、という事です。
ネットは人が集まってしまうと鯖が大変です。でもラジオならどれだけ人が増えても、電波が飛んでいる限りは受信できます。
この唯一の利点を活かした商売をすればもしかしたら「目立つ」事が出来たのかもしれませんね。おれはなんにもおもいつかないけど。
毎日120円で買っている缶コーヒー
日常的に飲んでいるものなので、飲んだ時の刺激にも慣れ、特にこれといった感情はわかない。
しかし、職を失い、明日を生きる余裕すら無くなるとそんな缶コーヒーを飲むことすら出来なくなる。
そうなった時に、この缶コーヒーを飲む価値に気付かされるのだ。
その価値とは、必要なものだったり、実はいらなかったものだったり様々。
この事に気付き、いらない物、必要な物の選別を心がけようとしても、これがなかなか難しい。
その時必要だと思った物は、確かにその時必要だと手にしてしまう。
その時いらないと思ったものは、確かにその時いらないと否定してしまう。
後々の事を考えると、と思えば無限の情報量に押しつぶされかねない。
こうして、得られた答えは、2つ。
目の前の物に価値を付けることは不可能だと言う事。
この答えに行き着いて、少し身が軽くなった気がした。
初めはほとんどの人がパニックに陥ると思います。
しかしそれだけではなく、統合失調症は何故か合理的な判断ができなくなるのです。
例えば死んだおばあちゃんの声が隣の部屋から聞こえたとすると、
統合失調症だと何故か「生き返った」とか「天国と通信できる機械が発明されていた」とか
「実は自分は死んでいるのではないか」と考えてしまいます。
そうなるとなにがなんだかわからなくなりますが、それでも生活していかなくてはなりません。
となると時計仕掛けのオレンジのように平静を装うか、
視覚だけを信じて聴覚を無視する戦略をとろうと漏れは思いました。
聴覚より視覚の方が信頼できるのは、情報量が圧倒的に多いからでしょう。
いっそうのこと耳が聞こえなくなればいいと思いますが、
幻聴なので耳をふさいでも聞こえます。
逆に盲目のひとは不確かな聴覚に頼りを置いて生きていかなければならないので大変だなと思いました。
んで幻聴はいつもいい加減な嘘ばかりなので、
次第に嘘ですらなくなりただの雑音になります。
ときにひとりでぶつぶつ喋ってる人は生真面目だなと思います。
ちなみにもれはテレパシーを使えるようになったので、
発音しなくてもいいので楽ちんです。
それでも時に、幻聴に惑わされるときがあります。
確かな事実を積み重ね冷静に考えたとしてもです。
「高くて固い壁があり、それにぶつかって壊れる卵があるとしたら、私は常に卵側に立とう」と思っています。
いちど親戚に結婚式をボイコットしようと考えたことがありましたが、卵側に立って出席しよかったと思います。
逆に出席しなかった時のことをいま考えると恐ろしいです。いちど奥さんを夜中に閉め出してしまったこともありました。
反省して次からは閉め出すことは絶対にしないとこうと思いました。
統合失調症はとても寂しい病気で、世界中の人が敵に回り、自分をいじめているように感じます。
そしてどうして自分を信じてくれないのか、どうして自分に聞いてくれないのかと心の中で訴え続けています。
よく戯言を言う人を統合失調症なんじゃないの?とレッテリ貼りする人がいますが、
統合失調症の症状は本人がそのときの常識を保とうとする結果です。
もし大切な人が統合失調症みたいだったら、病院に行けなんて言わず、
まずその人のいちばんの味方になるように心がけてみて下さい。
嫌いな人だったら「死ね」とつぶやいてみましょう。聞き慣れてるので無視されるでしょうが。
どうしようか
やっぱり増田に書くべきか
今、社内の雰囲気はピリピリしている
解雇されたSさんは、正当なことを要求していた
休みをください
給料を上げてください
パワハラは止めて下さい
働いている俺らを代弁していた
不当な要求は飲まない 強い人だった
こちらも毎日見ていてつらかった
この記事書け 書けません
なんで書かないんだ 書けないからです
Sさん メンヘラになって潰れそうな状況
もう辞めたいと漏らしていた
解雇したと聞いてやっぱりとみんなが思った
俺も辞めようか迷った
先の見えない労働条件
ひたすらパソコンとにらめっこ
面白い記事を書け
そんなにすぐに出るか クソ
味付けして投稿
体当たり取材
現場に行こうにも心の余裕がない
財務状況は非公開
どんだけ貯めこんでいるのかわからない
財務状況を公開してみろ
俺らの方がどんなにワープアか
なんで俺らに八つ当たりするのさ
どうしようか 迷っている 俺も辞めるかどうか
いや どうせ辞めさせられるだろう
それまで待つか
とにかく 今は雰囲気がひどい
昔のように笑いもなく、楽しさもなく
とにかく編集長の顔をうかがっている感じ
昔は勢いがあったし、現場が楽しかった
人も面白かった
だが今はとにかくピリピリした緊張感が漂う
次にクビを言われるのは俺か俺かと不安な状態
さっそく会社を休むものも出てくるだろう
恐怖政治の始まりだ
こんな状態で面白い記事なんか書けるか
とにかく不安だ
何かが間違っている
でもどうしたらいいのかわからない
俺は弱虫なんだろうか
こんなところに吐露してもしょうがないのに
編集長と顔を合わすのがとにかくつらい
とにかく気持ちを外に出してみる
増田がいてくれて
増田に聞いてもらえて
書いていたらなんだかすっきりした
新聞によって情報量に差があったので、メモとしてまとめておく (脚注記法使えない事に後から気が付きました。読みにくくてごめんなさい)
父親で横浜市戸塚区原宿1、自称タイル職人、大塚明容疑者(34)と同居の無職、佐々木加奈江容疑者(36)
(( http://mainichi.jp/select/today/news/20100724k0000e040010000c.html ))
「22日午後9時ごろから23日午前6時ごろにかけ、自宅で男児を台所に正座させ、全身を木刀で殴ったり、首を絞めたりし」
(( http://www.asahi.com/national/update/0724/TKY201007240142.html ))
「全治2週間のけがを負わせた疑い」 (( http://www.fnn-news.com/news/headlines/articles/CONN00181306.html ))
「同署は主に佐々木容疑者が暴力を振るっていたとみている」(( http://www.asahi.com/national/update/0724/TKY201007240142.html ))
「多少手や足を出したが、しつけの一環」(( http://mainichi.jp/select/today/news/20100724k0000e040010000c.html ))
「けがをさせるほどじゃない」(( http://www.fnn-news.com/news/headlines/articles/CONN00181306.html ))
「警察が騒ぐことじゃない」(( http://www.asahi.com/national/update/0724/TKY201007240142.html ))
「そんなにひどいことはしていない」(( http://www.sponichi.co.jp/society/news/2010/07/25/07.html ))
「冷蔵庫内の空揚げを勝手に食べたという理由で、罰として5日前から食事を与えられていなかった。」(( http://www.jiji.com/jc/c?g=soc_30&k=2010072400179 ))
「男児は「このままでは死んでしまう」と23日朝に」(( http://www.asahi.com/national/update/0724/TKY201007240142.html ))
「親が寝たすきに逃げ出し」(( http://mainichi.jp/select/today/news/20100724k0000e040010000c.html ))
「自宅近くのコンビニエンスストアでおにぎり二つとパン一つを万引きし、トイレ内で食べているところを店員が発見」 (( http://mainichi.jp/select/jiken/news/20100724k0000e040010000c.html スポニチでは客が発見になっている http://www.sponichi.co.jp/society/news/2010/07/25/07.html ))
「店長が不審に思い警察に通報」(( http://www.jiji.com/jc/c?g=soc_30&k=2010072400179 ))
「通報を受けて駆け付けた署員が、男児の全身にあざがあることに気付き、事件が発覚」(( http://www.asahi.com/national/update/0724/TKY201007240142.html ))
「警察によると、長男は全身あざだらけで、およそ1年間にわたり虐待を受けていたとみられている」(( http://www.fnn-news.com/news/headlines/articles/CONN00181306.html ))
「約1カ月前から、主に佐々木容疑者から全身を木刀で殴られたり手の甲にお灸(きゅう)をすえられ、今年度は学校に数日しか通っていないと話している」(( http://mainichi.jp/select/jiken/news/20100724k0000e040010000c.html ))
「発表によると、2人は2年前から同居」「両容疑者はそれぞれに子どもがおり、子ども5人と計7人で生活していた。」(( http://www.asahi.com/national/update/0724/TKY201007240142.html ))
「警察は、長男の弟や妹に対する虐待がなかったかも含めて調べる方針」
(( http://www.tv-asahi.co.jp/ann/news/web/html/200724026.html ))
そうなの?
自分で勉強する方法のない技術についての話だと思ってた。だって元増田はマンガの描き方について
手塚とか石の森の描いてた、子供向け「漫画教室」に描いてある程度の情報量。あるいは「個人の思い込みの発表の場」でしかない。
メジャー向けなら「ショー・エンターティメント」の技術を学ばないと駄目だ、というのは常識かと思っていたが、その「ショー・エンターティメント」を教えてる場所がインターネット上に全然無いことに愕然とした。
いや、ちょっと前はあったが消滅した。「ショー・エンターティメント用語辞典」があった。でも消えた。ショックだな。
って書いてるし。参考書が一杯あるCとは違うでしょ。
ちょっと下のほうで「自称」漫画家を目指してる、けど実は何の努力もしてないという、まぁありがちなヤツの相手をしていて、その流れで「ショー・エンターティメント用語辞典」を検索してみて、消えてるのが判って、悲しくなった。
---
「売れるストーリーを作る」ことを職業とする人間なら、誰しもが「ショー・エンターティメント」の技術を学んでいる(あるいはショー・エンターティメント文化にふんだんに触れて、ショー・エンターティメントの考え方を自分のものにしている)。
ネットでは、イラストの描き方講座などはものすごく発展している。
pixivなどで細かい技術論議、基本的なデッサンの取り方、ポーズマニアックスなどのツールの出現、などなど。
10年前に絵を描き始めるのと、今の時代に描き始めるのでは、かなり差が出ると思う。実にうらやましいよ。
だけど。
漫画の描き方講座は、全然発達してない。
手塚とか石の森の描いてた、子供向け「漫画教室」に描いてある程度の情報量。あるいは「個人の思い込みの発表の場」でしかない。
メジャー向けなら「ショー・エンターティメント」の技術を学ばないと駄目だ、というのは常識かと思っていたが、その「ショー・エンターティメント」を教えてる場所がインターネット上に全然無いことに愕然とした。
いや、ちょっと前はあったが消滅した。「ショー・エンターティメント用語辞典」があった。でも消えた。ショックだな。
---
ショー・エンターティメントの技術って、pixivでタグ付けて描いたりしたら、ウケるだろうか。
「そんなの誰でも知ってるよ」で煽られて終わるのがオチだろうか。
---
そもそも「おかしいな」と思ったのは、バクマンでショー・エンターティメント技術が全く出てこないことなんだよな。
少なくとも80年代ジャンプは、全ての作品において「ショー・エンターティメント技術」の基本から、ちゃんと勉強させてもらってたように見える。作品の作り方がことごとく計算の上で成り立ってて、その計算がショー・エンターティメント技術によって裏づけされたものだから。
ひょっとしたら。
技術断絶が起きてるのか?
ショー・エンターティメント技術に頼る世代と、勘と才能だけで面白い作品を作ろうと頑張る世代。その2世代ができてしまったということなのか?
後者はツラいぞ。運の要素大きいし。
前のん: http://anond.hatelabo.jp/20100620143255
前回エントリのブコメ/トラバに逐一答えることはできないけど、眺めていて誤解があったかなと思う点について補足しておく。
まず一つ言っておくと、俺は自分の英語学習の成果としての英語力に「満足している」。俺の英語力は俺に対して果たすべき役目を十分に果たしてくれている。そして同時に、自分には場合に応じてネイティブの力を借りなければならない状況があることを知っている。しかしその自覚は、決して自分のコンプレックスを掻き立てるようなものではない。
なんつーかな、例えて言うなら、超サイヤ人になれなくてもクリリンにはなれる、ってことです。フリーザ一味のザコならガチでボコれるし、フリーザ相手にだって気円斬駆使して、クラッチプレイヤーとしての役割を果たすことはできるわけですよ。しかしやっぱり最終的にはサイヤ人やナメック星人の力を借りて立ち回らなきゃいけないわけ。
「クリリンにだって重要な役目がある」ことと、「でも結局クリリンはクリリン」との間のバランスを取ることはとても大切なわけですよ。「どうせフリーザには敵わないんだから俺何もしねえよ」でもなく、「俺はもうフリーザとも互角だぜ」でもなく。修行の成果を自分の糧とし、修行していなかったら見ることのできなかった世界を見ることの意義は、「ラスボスを独力で倒せない」ことによって失われるものでは無いんです、全然。
しかしですね、今日本人に向けて英語をやれと言う人達。主として経営者であり役人であり、もしくは煽り口調でいうなら「中途半端に英語ができる人間」ですね。英語をやれと言うこと自体はものすごく合理的だし理解できる。そこを問題視しているのではない。問題は、往々にして彼らは、「(今の段階の)クリリンにできること」の限界がわかってないと思われる点にある。そこから出てくるのは無いものねだりであり、無いものねだりされた側に植え付けられる英語コンプレックスである。その意味で、俺が指摘したかった問題は「レベルの高い」ことではなく、むしろ日本における初級以降の英語学習者の扱いなんである。
一つ例を挙げましょう。金谷憲の「英語教育熱 過熱心理を常識で冷ます」より(今手元に本が無いので記憶に基づいて。多少不正確かも)。文科省の高校英語の学習指導要領に「実践的コミュニケーション能力の育成」という項目が入った。で、教師が「実践的コミュニケーション能力って何、具体的には何を教えればいいわけ?」と問うた。当然ですな。そしたら文科省側は「例えば英語で電話をかけることができるような能力です」と答えた、というエピソード。
しかし(ここからは金谷さんではなく、俺の意見)、英語圏で生活をしたことがある人間なら皆実感として知っていると思うんだけど、「英語で電話をかける」のはものすごく難しい。
これはちょっと考えれば当たり前の事なんです。まず、今時「電話での会話」が必要とされるのは、緊急性が高く、複雑なコミュニケーションが必要な状況に限られる。それ以外だったらメールや、自動音声ガイドに従ってプッシュホンのボタン押すので済むわけ。わざわざ電話で相手と話さなければならないのは、何かすぐに解決しなければいけない問題があって、その問題は単純なYes/No疑問文の応答では解決しないようなものである場合、ということになる。
そして電話である以上、視覚情報は全て遮断される。ジェスチャーや指さしを使うことも、相手のジェスチャーや指さしや表情から情報を得ることもできない。単純な音の聞き取りにすら視覚情報は大きな役割を果たしている(「マガーク効果」でググれ)。さらには頼みの綱の音声すら、電話回線を通して劣化していて、生で聴くよりも情報量が減っているのだ。この失われた情報の埋め合わせをするのは、確固たる英語能力に基づくトップダウン型解釈しかない。
というわけで俺は、日本人の高校生に電話での会話能力を習得させるのは実質不可能だと思う。そもそも順番がおかしい、「面と向かってなら十分に会話ができる」レベルに達して初めてそれよりも困難な電話に挑むべきだ。しかしお上にやれと言われた教師は、とりあえずやらざるを得ないわけですよ。なので電話での定型文を適当に教えてお茶を濁すことになる。Hello, this is Bob speaking.
で、高校生は卒業後、アメリカに旅行に行く。そしたら目的地の空港でスーツケースが出てこない(アメリカの国内線ではよくある)。空港のカウンターに行ったら、「後でここに電話しろ」と電話番号を渡される。ホテルの部屋から電話する。全然向うの言うことがわからない、こっちの言いたいことが伝わらない。惨めな思い。「学校英語なんて役に立たない!」となる。俺は六年英語をやらされたのに電話一本かけられない、ああ何て日本の英語教育はクソなんだ、もう英語はイヤだ。
しかし、仮にこれが中国だったらどうか。中国の空港でスーツケースが出てこない、ここに電話しろと言われた、電話したら中国語で何言ってるか分からない。大抵の日本人は、ここで頭を抱えて自分の中国語能力の無さに身悶えたりしない。まあ当然わからんよねーそりゃ、あーまいったなーと言いつつフロントに向かい、フロントマンに筆談や身振り手振りや片言の英語/中国語を組み合わせて意志を伝え、代わりに電話してもらうだろう。首尾良くスーツケースが届いたら、上手いこと言語の壁を迂回した自分のコミュ力にニンマリするはずだ。
この非対称性を日本人は深刻な問題と捉えるべきだ。例えば、「学校英語が役に立たないのではなくて、学校英語ではできるようにならないことがあるだけ」という、ごく単純な真実を覆い隠しているのものは何なのか。それは元を辿れば、「クリリンは超サイヤ人にはなれない」という認識の欠如で、さらにその大本にあるのは「超サイヤ人にならなければ生き残れない」という思いこみなんじゃないか、と思うんだよね。違う違う。学習のどんな段階においても、英語に関して「できないこと」は無くならない。どうしてもそれをやる必要があるなら、ネイティブにやってもらえばいい。「ネイティブにやってもらう」のは、恥ずかしいことでも、難しいことでもなんでもないのだ。
http://www.toyokeizai.net/business/interview/detail/AC/810ee47297d49033c2a4b43a0a5216e0/page/1/
http://blog.goo.ne.jp/mit_sloan/e/12e944b3494ce767ea7f03b7b7d051d9
楽天の社長さんが「英語の出来ない役員はクビだ」と言ったのが色々と盛り上がっているようで。海外で働いていると、この社長さんの危機感が痛いほど分かるので、少し書いてみた。
「これからの時代は英語が出来ないと~」というネタは既に数十年は語られた手垢のついたネタであって、それに対する反発も大体類型化されている。そのひとつが、「英語が出来なくても、実力さえあればちゃんと認めてもらえる」というもの。これは間違ってはいない。東大の先生でも、英語をしゃべるのも聞くのも全く駄目なのに世界的な知名度を勝ち得ている人はいる(ハーバードだかどこかのセミナーでは、全ての質問に"I don't know"で通して聴衆を困惑の渦に叩き込んだとかいう武勇伝を聞いたことがある←うろ覚えだが)。ただし、これはそこら辺の常人から抜きん出て優秀な天才にだけ通用する文句だと思ったほうがいい。
大概の場合、説得力を生むのは話の内容ではなく、本人の態度と場の雰囲気だ。まず、英語が出来ないと自信を持ってしゃべれない。これだけでプレゼンの説得力は2割は下がる。更に聞き手は、聞き取りづらくて文法間違いがあちこちにある英語を、脳内で補正しながら内容を咀嚼せねばならない。この場合、プレゼンは完璧に理路整然と組み立てられていないと、聞き手のストレスが限界を超える。そこまでのプレゼン巧者はそうはいない。それどころか、日本人のプレゼンは英語以前の問題として構成が下手糞なケースが多いように思う。これで更に2割引。
更に厳しいのは質疑応答。質問に対して短くかつ的確に答えるのが理想だが、そもそも質問を聞き取るのが一苦労だ。特に、予想外のところに突込みが入ってしまうと類推が効かないのでお手上げになる。ここで聞き返す勇気を持てずに適当な返答をしてしまうと、「こいつはただの馬鹿なのか」という疑念が聞き手の胸中にわきあがる。そしてこの疑念は、「お前は何の資格があって俺の貴重な1時間を無駄にするのか」という怒りに直結する。ちなみに、この怒りをはっきり口になさる正直者も少なくない。
1年ほど前に他社のプレゼンに顔を出して日本人のプレゼンを聞く機会があったのだが、ほぼ上のケースにはまっていて頭を抱えたくなった。後ろのほうで聞いていて、聴衆が盛大な誤解をしているのが分かる。そしてその誤解に基づいて的外れな質問をして、それにスピーカーの日本人がイエス、とか言ってしまっている。そのプレゼンは日本で採用されている或る技術規格を欧米でも採用すべきか、それとももっと急進的なプランを採用すべきか、というものだったのだが、聞き手は「日本が急進的な規格を採用しなかったのは、奴等が臆病だったからだ」という確信を左手に抱えて会議室を出ていった。
ちなみに、この日本人の英語力は日本でならば十分に水準以上、TOEICなら900点は余裕で超えているだろうというレベルである。能力的にも、少なくとも聞き手の多くより優秀だったのではないかと思う(主観)。それでも、この体たらくなのだ。おつむが多少足りなくても英語の出来る人間を採りたくもなる。さもなければ同時通訳を同行させるかだが、あんなコストの高い人たちを社長重役以外の出張にも同行させるのは現実的ではない。
欧米はコネ社会である。人脈作りに対する意識は高い。じゃぁどうやって人脈を作るのかといえば、やっぱり酒が手っ取り早い。国際会合か何かの後には、大概みんなでバーにしけこんだりするものだ。そこで仕事の話の続きをしたり、馬鹿話をしたりして仲良くなって、顔をつないでいく。大切なチャンスである。
なのに日本人は大概これに参加しない。気持ちは分かる。苦痛だもの。席のあるディナーなら、話の輪からはじき出されはしないという安心感がある。でもバーではそうは行かない。みんなめいめい話の輪を作って話し込んでいる。彼らの話もろくに理解できないのに、いったいどうやって話の輪に混ざるというのか?女性なら壁の花を気取っていても絵になるが、男が壁際でちびちびビールをやっていても見向きもされない。つい何度もトイレに行って時間をつぶしてみたりしてしまう。あんな苦痛を味わうくらいなら、マクドナルドでハンバーガーでもかじっていたほうがましである。
でも、それをやっている限り、誰も太平洋の彼方、ガラパゴス諸島よりも更に遠い島の出来事を気にしてはくれない。知らないんだから、気にかけようがない。これで日本が失っている有形無形の利益は、無視できる大きさではないと思う。
人脈をつなぐ方法は酒だけじゃない。メールでもいい。バーで立ち話よりも100倍簡単だ。でも、特に用もないのにメールを送るのもはばかられる。そういう時に物を言うのが手持ちの「ネタ」の数だ。何か面白いネタを仕入れて、「これ面白いよ」と送る。何人かからは返事が返ってくるかもしれない。そこから何か話が回りだすかもしれない。こういうことをまめにやっている人は結構多い。しゃべるのは下手でも読み書きなら何とかなる日本人にはお勧めの方法だ。
しかし、普段英語のニュースソースを読みなれていないと、これが出来ない。もちろん、日本語の情報量は馬鹿にならない。世界トップクラスだとは思う。仕事で日本語の本を読んでいると、たまにこう驚かれる。「なんで仕事で日本語の本を読むの?」 ほとんどの国では、専門書は英語で読むものであって、現地語でマニアックな本が翻訳出版されていることなど、考えられないのだ。
しかしその日本語でも、英語の情報量には及ばない。なにしろ、世界中の優秀な人の大多数が使う言語である。アメリカ人と日本人の教養のレベルが同じか、仮に日本人のほうが上だったとしても、英語話者の教養水準は日本語話者のそれよりも高くなってしまうのは、残念ながら事実だ。日本語ソースだけで、「おっ」と驚かれるネタを提供し続けるのはかなり難しいと思う。大体、日本語ソースだと翻訳しないといけないので、時間がかかりすぎてやっていられない。こんなことは仕事の片手間でないと継続できるわけがないのだから。
もちろん、以上の話は現在と将来に海外の人と付き合う可能性のある人にだけ当てはまる話であって、それ以外の人をクビにする必要などない。大体、英語学習は本当に時間がかかる。年を取れば取るほど効率が悪くなる。必要もないのに「なんとなく」英語を勉強するのは人生の無駄遣いだ。それよりも子供と遊ぶ時間を増やしたほうが遥かにましだろう。
でも、将来海外を相手に仕事をする可能性があるのなら、早い段階で一度海外で仕事をする選択肢を考えたほうがいいと思う。もし理系のスキルを持っているのなら、海外で仕事を得るのは思っているよりも簡単だ(最近どの国も労働ビザを出し渋る傾向があるので、現地の大学院に留学して、そこで同期と一緒に就職活動をするのが手っ取り早いと思う)。欧米の会社は、特にアメリカでは、日本人が想像する以上に機会をくれる。その会社が必要としているスキルさえ保持していれば、英語はそこまで問題とはされない。こんなえらそうなことを書いている自分も、入社した当初は「お前が何をしゃべってるのか全く理解できない」と言われていたんだから。
上で書いたことと矛盾してるじゃないか、と思う人もいるかもしれない。でも、最前線の兵隊にプレゼン能力もコネも必要ない。言われたことをちゃんと出来さえすれば、それ以上は要求されない。そこから軍曹殿に成り上がるためには、どちらも必要になるのだけれど。でもどうせ軍曹クラスにまで出世するには数年はかかる。その数年、必死で食らいつけば、最低限の英語力は身につくというわけだ。そこからは自分の努力と能力と社交性を賭けた勝負になる。
そして、そのころには、楽天の社長さんと同じような「危機感」を共有するようになっているんじゃないかと思う。
(ちょっとだけ追記:酒が飲めなければ、コーラを飲んでおけばよい。宗教上駄目な人も多いし、その辺りにはおおむね寛大。大学生とかだと事情は違うかもしれないけど。要は、その場でくっちゃべれるなら問題ない。)
洗濯ものを畳みながら見たりしてて、なんだかんだで、いままで放映された分は二回ずつくらい、繰返し観ている。
なんでこんなに面白いと思うのか?
備忘のために、まとめてみたい。
--
筋だけを面白いと思うなら、アニメを繰り返しては、観ないと思う。
絵も動きも音も好きだから、時間を費やして、原作本を読むのではなく、アニメを観るのだと思う。
(※私は同内容ならば、映像を観るよりも、活字を読む方が速いので...。)
今のところ、このアニメで私が最も好きな場面は、第四話の樋口師匠がデルタ突端(川の砂州部分)に座って歌う場面。
実際、それは話の筋には必要ないイメージ映像(歌詞だってナンセンスだし)。
でも映像が作り込まれて、時間もだいぶ割かれていて、素晴らしい!
(録画をしたままで未見のひとがいたら、第四話の、10分を過ぎたあたりを観てみてほしい。
主人公が亀の子タワシを探し終わって、夕暮れのなか、妹弟子の明石さんと帰る途中で、歌う樋口師匠を橋の欄干から眺める場面がそれ。)
この作品を通じてのキーアイテムのひとつである「海底二万里」をモチーフにして、
樋口師匠が居る砂州が、魚のように、潜水艦のように盛り上がって、
半袖で過ごす京都の夕暮れ、川べり、半袖と髪を揺らす風。
むかし何度か遊びに行った京都の空気が克明に思い出されて、「あっ!」と言ってしまった。
デフォルメがはげしいキャラクターデザインを、実写ベースの背景に配置していることで、
観ていて楽しい。
そして、とても面白い本だと思った。
とくに「何度繰り返せたとしても、きっと自分は同じことをするだろう(してしまうんだろう)」
という主題を、とても気に入った。
それから、村上春樹の書くものの一連の通底にも、同じ主題が流れていることを思い出した。
私はこの主題・考え方について、とても大事な考え方だと思っている。
不器用・不健康な精神の持ち主が、できるだけ健康的に生きていくためには、とくに有用だと思っている。
この考え方が出来ない場合には、過去のことを悔み続けて現在を過ごし、未来をダメにしていく可能性が高くなる。
(村上春樹は、あんなにも同じモチーフを繰返し描いて、繰り返すたびに昇華していった稀有な良い例のように見える。
近年は、あのモチーフから脱したようにも思われるし。)
ところで、話が逸れるが、この考え方のまま、すべてを放棄してしまうと、それはそれで未来がダメになることも、念のため書いておく。
出来るだけ健康的に生きていきたいなら、この考え方を、立脚点として使うと、有用になる。
「今」しかない視点を捨てて、「過去」「いま」「未来」を見渡す視点の立脚点として使うと、有用になる。
「未来からみて悔いのない、過去を繰り返せたとしても同じことを繰り返してしまう、そんな選択や行動を今その都度していく」
みたいなそんなかんじ。ヴォネガットのトラファドール星人いわくの時間の概念のことも書き加えてみたいけど、脱線しすぎなので自重。
さて、ひるがえって四畳半のアニメは、原作に忠実に話をすすめていきながら、繰返しを、主題をとても楽しめるものにしているように思う。
アニメならではの情報量の多さ(絵とか音とか)が、楽しめるようにとても工夫されていると思う。
思いもよらないところで、絵や音を繰り返したり、
状況の繰返しにおいて、絵や音を繰り返さなかったり。
--
長くなりすぎた。 続きを書くことができたら、また。
http://anond.hatelabo.jp/20100516040812
弟曰く彼女は、うちの母親みたいに何もなくたって二人で子育て出来る!ってのを知らないそうで
小姑とかいうけど今だ彼女の名前覚えてない程興味ないから問題ないとは思う。
ヒキ体質、出来れば人と係わりたくないんで親戚付き合いとか勘弁・・・気を使わないでスルーして欲しい。
私は子育てするってのは「一人前の社会人として育てること」と思っているので、私的には元増田のお母さんの育て方は失敗ってことになる。回りの人間に頼らないから、子供が他人慣れしなくてヒキ体質になるんだよなあと思う。うちの親戚にもいるよ。息子は引きこもりまっしぐら。しかも、似たような環境の子が集まる私立に入れたから、立ち居振る舞いはお上品だけど、親戚の集まりとかあると、ほかの人間が立ち働いているときに座って茶飲んでたりして、自分以外はみーんな「お手伝いさん」かなんかだと思ってるみたいなカンジ。まあ、元増田はそんなことしないんだろうけど。
(※家族とはどちらかのサイドの影響下の元に居るべきではなく、どちらの影響下にもない場所で独立してあるべき派。
世間一般常識的には、子育てってのは、世間様のたくさんの影響下の元で行われ、親に出来ることって言ったら、情報量の多さとでたらめさに子供が惑わされないよう、一定の指針を与えておくくらいのこと。それだって、本人が中学生くらいになったら「反抗期」って言って、親の価値観全面否定する時期があり、親子の考えが合わずにぎゃんぎゃん言い合うことになる。
駆け落ちしておいて、弟さんの結婚式に出席してくれる親戚が10人もいるのなら、元増田のご両親も自分たちで言うほど親戚づきあいしてこなかったわけじゃないと思うしね。
親が無くても子は育つ。
でも、見守ってくれる大人が、まったくいなかったら、死んでしまう。24時間子供に張りつくわけじゃなし、他人に預ければ他人の影響をうける。いろんな人のいろんな考え方を知って、スケールの大きい人間に育って欲しいと、私なら思うけど。
どう、子育てするのか、弟さんと奥さんになる人は、よくよく話し合ったほうがいいし、結論が、元増田の家のやり方とかけ離れていても(逆になったら、奥さんの家のやり方とかけ離れるわけだし)、弟さんの選択を支持してあげればいいんじゃないかなと思うよ。お姉ちゃん。
「洗浄剤の通販」→日光テレフォンショッピングのありえなさすぎる入れ歯洗浄剤の通販。
「テレポーター事故」→テレポート装置の実験台の女性の腕が吹っ飛ぶ動画。フェイクっぽい。
「ごっしーの理科情報室」→なんかいろいろとやっちゃってる教師のサイト。生徒の動画とか載せてる。
「タラヲ」→「タラヲ死ね」というスレが大量にひっかかる。別に危険じゃない。
「ウォーリーを探さないで2」→BGMと画像が少し変わっている。
「BATH ROOM 真相編」→モザイクのかかった部屋がでてきて、しばらくすると目玉ひん剥いた金髪の女性の画像が悲鳴と共にでてくる。
「カービィ 鏡の大迷宮 奇妙」→カービィがボス戦で壁にめり込んでいく動画。めりこみすぎると…
「動的椅子」→椅子がひとりでに動き出す動画。…と見せかけて実はビックリ系。
「モンキーシュガー」→グロ画像が大量に表示されるFLASH。危険度MAX。
「スクーターの恐怖」→トラックの運転手が前のスクーターに気づかずにひいてしまう。スクーターの乗り手はタイヤに巻き込まれ…
「せっせっせ」→エジエレキ氏が製作した狂気系フラッシュ。不気味だが、出来の良さは完璧。
「細木数子ワールド」→サイトに入った瞬間、ものすごいおばさんの画像が悲鳴と共にでてくる。
「うんこゴキブリハンバーグ」→今世紀最大、そして最低かもしれないと言われる画像。
「ブスの歌」→見る人によってはショックを受ける。
「死死死死死 呪い」→サイトに入ると、ミイラのような女性の死体画像と悲鳴。
「goooogle」→goggleに次ぐgoogleの偽サイト。マジで検索しちゃいけない。ウイルス。正直goggleよりもヤバい。