はてなキーワード: 大川隆法とは
ボーナスの季節になりましたね。
巷では
「何買う?」
「今でしょ!」
そこで
なんて言おうものなら
「夢がない」
「何のために生きてるの?」
いやいやそんな事ありませんって銀行に預けておけば勝手に銀行が投資をしますって。
そういうのはタンス預金してる人に言いましょう。
おっと話がそれた。こりゃまた失礼。
お金を使うことこそが未来への投資だと言う人もいますしそれを否定はしません。
未来において自分が切れるカードを増やすことが投資なんだと私は思ってます。
その手段としてお金を使って色んな経験を積んでおくのもいいでしょう。
買えるものが沢山有る。
お金って本当に何にでも使えるんですよ。
今上手に使う手段が思いつかないからって無理して使う必要はないんです。
とりあえず銀行に預けるなり潰れそうもない所の株式にでもするなりして取り敢えず取っておけばいい。
お金で解決できないものは沢山ありますけど、解決できるものだって沢山あるんですよ。
なにより切り札ってのは持っているというだけで強気に勝負が出来るようになる。
むしろ、切り札をろくに持っていないと勝負の仕方が制限されちゃうんです。
自分の人生を組み立てる時に、お金を取っておくことで選べる選択肢が増えるんですよ。
今すぐ投資すべきものが見えていてそこに投資するのが最高なんですがね、そうじゃないなら貯金でいいんです。
貯金がいいんです。
折角あるんだから使わないとなんて焦ることはないんですよ。
以上。
相田みつをでした ナハナハ
以上。
大川隆法でございました。
」
なんだろう、胸が色々と痛くなってる。自分の中にこんな感情が存在するのか。yahoo!のトップに踊り狂う、幸福と科学の文字。新興宗教=危険な敵というストーリーは、とってもわかりやすくて、スマホを覗き込むバラバラな「個人」となった僕たちに、そいういや日本人という集団の一員だった!とアイデンティティを再認識させてくれる。気持ちいいよね。
俺の父も、今回の清水さんとほとんど一緒。20年くらい前に”幸福”を求めて出家したんです。今回の騒動で「出家」なんて言葉使うんだと驚いてるんだけど、普通の企業をやめて宗教団体の職員になった父。出家、というのを”瀬戸内寂聴”と、お笑い芸人さんが笑いに変えていたみたいだけど、実際は坊さん的な状態になるわけでは無いと思われる。髪の毛もそのままでいいだろうし、食事制限もなさそうだ。お寺というより、彼らの趣味は教会に近い。建物は大体、古代ローマ神殿みたいな感じ。父がお祈り用の仏壇みたいなのを部屋に持ち込んだ時期があったけど、ドラクエばっかりやってた俺は「これはもしや…ダーマ神殿ッ!?」と思ったものだ。
父はずっと家にいなかったから、俺と家族は宗教への接点はほどんどなかった。そんな俺が「幸福の科学」のコミュニティに具体的に触れたことがあるのは、人生で3回。
【コラム】すごい昔「幸福の科学」の東京ドーム集会に潜入した時の話
http://rocketnews24.com/2017/02/13/862050/
これだよ、まさにこれ。リンク先見た途端、記憶のドアが開いた。23年前だから、当時10歳足らずの俺を、まだ宗教のことをよくわかってない母親がビクビクして連れて行った。姉は物心つく年齢だから置いてかれたんだと思う。この記事のように15歳くらいで見に行ったら、裏読みで楽しめたかもなんだけど、俺の脳が危険を察知したのか具体的な内容は覚えていない。(ただ竜に乗ったシーンは、リンク先を見ることで蘇った。脳すごい。)ただ、イベントが始まるとき、彼らにおける「お経」みたいなのをみんなで読むシーンだけ、今でも覚えている。周りは自分より背の大きな大人たちで暗いブルーな照明。黒山の人だかりが一斉に立ち上がり、全く前が見えなかった。子供ながらに感じたのは、大人たちの高揚感と空気。内容は違うにせよ、大人になって同じ場所でミスチルのコンサートを見たときと、感じ取る空気感は変わらない。彼らにとってはハレの日であり、インディーズバンドがメジャーデビューするような、お祭りだったんだね。
これも小学生の時。父親の仕事を見る、的な学校の課題があったのか?母と見に行ったら、ダーマ神殿内部の集会場みたいな場所で、老人相手に説法を説いている父がいた。イメージは葬式後に坊さんが喋る、ありがたい系の話だったような記憶がある。職員はそこの運営をやったり、教えを説いているっぽい。今回の清水さんは広告塔しての貢献度が高いから、映画出演や広報や選挙戦出馬とかさせられるんだろう。ただ出家して職員になったら、教えを広めるのが基本の仕事だろうから、まあ似たようなイメージなのかと推測する。
これは大人になってから、なので7年くらい前かなあ。父親から話がある、と、おそらく人生一度きりになるだろう召集がかかった。どっかの山奥。この施設に永代供養できる場所があり入りたい。お前の了承が欲しい、と。俺とか母は嫌なら自分で別の墓を選んでもいい、みたいな確認をして、かくかくしかじか。結局了承したんです。ずっと避けていた父の決意というか意思の固さやピュアさを前にして、何も言えなかった。というか、あれ?自分に彼を否定できる根拠ってあったっけ?とも感じました。他者への想像力の無さも、自身の信念があまりに脆いことも体感した。あの時は、あまりに無力だったなあ。んで、ずっとその場所っておじさんの声で呪文がテープで流れてるんですよ。なんかこりゃ聴いたことあるなあ?って思ったら、あ!16年前の①のライブのセットリスト1曲目のやつ!
散々コスられてきているように、俺もネタっぽく書いたように、”普通”とか”世間”と比較して見ると、みんなで嘲笑できるトンデモな面白い対象なんです。
③の施設を見学したんだけど、彼らにはコミュニティがあって(地方の経営難のゴルフ場なんかを買い取って作ってるから相当疎外された感はある)そこに怪しい金ピカのモニュメントとか作って、学校なんかも作っている。隔離されて、オリジナルの歌とか教科書とかを元に教育を受けるのだろう。子供はそれが当たり前だと思うんだから、洗脳されちゃうよね。歴史の教科書とかは興味本位で見てみたい。勝手に乗り移って本出せちゃうくらいなんだから、アパホテルなんて比じゃないクオリティなんだろう(と予想される。ちゃんとした内容だったらすみません)。
出家して職員になった父を憎んでいたけど、尊敬していることもある。自分が信じている絶対の世界を全く家族に押し付けて来なかったこと。これは問題になっている清水さんの両親と圧倒的に違う差だと思う。本来は自分の課題や状況に合わせて、必要だから門を叩く存在であるのが宗教だと思うんだけど。生まれた時から両親から信じ込ませられてしまったら敵わないでしょう。まあ信者の人からしたら、身近な子供に自然と教育してしまうんだろうし、そうやって宗教って続いてきた歴史もあるんだろうけけどさ。”必要とされている人”のところに、クリーンに行き届けばいいのになあ。
時は流れ、俺は結婚して子供が生まれた。寝息を立てる愛しい我が子を左横に見ながら、ベッドの上で増田に投稿する文章をぽちぽち考えている。iPhoneをスクロールしていくと、件のニュースに紐づいた感情的なヤフーのコメントたちが姿を表す。”普通”の感覚からしたら、よくわかる。だけど自分が生きている世界が、価値観が、本当に正しいと”信じ込んでいる”という側面では、どっちも50歩100歩じゃないなのでは?とも思ってしまう。信じる人にかける言葉も、感情的なコメント欄の彼らにかける言葉も、想像してもあまりにも答えがなくて、難しくて。どちらも真剣で、本当は笑っちゃいけない気がするんですよ。
そして自分の子供が物心ついた時にどんな言葉をかけられるのだろう。誰かを嘲笑するのをためらう想像力と、自分が信じるに値する経験を積んで欲しい。それってどう教育すりゃいいのだ?難しくね?
答えが出ずに途方にくれる、新米父さんの自分語りにお付き合いいただき、誠にありがとうございました。
「大川隆法は大嘘つきで騙されてるから目を覚ませ」っていうのをちょくちょく見るけど、人が死ぬことなく希望を持ててるというだけで宗教としての価値はあると思うんですよ。
「いい年こいて○○なんかにハマってるのかよ!いい加減まともな趣味探せよ!」って言われたらムッとくるでしょ? 〇〇にはアニメでもソシャゲでもなんでも補完できるはず。
「人の幸せは他人には決められない」っていうのがわからん人はそういうこと言えるんですよ。
騙されてる君がかわいそうなので僕が目を覚まさせてあげるよ的な上から目線の思いやりは、むしろ宗教を信じて生きる人の希望を否定してる感あってサイコパスとしか言いようがない、夫の鉄道模型を捨てる妻だと思うんです。
キングコングというお笑いコンビの西野さんという人のブログがホッテントリ入りしていた。
(「まだ『情報解禁』とか言ってんの?」http://lineblog.me/nishino/archives/9250121.html)
「今の世の中は、ネットの発達もあって、すべての人がクリエイターだ。
だから、みんなで一緒に何かを作り出して、たとえば10万人でものをつくれば、10万人に売れる。
そんな時代に、制作の秘密にして、小出しに『情報解禁』なんてやって期待感煽るやり方をしてるなんて、ダセーよ、馬鹿じゃないの?」
といいたいのだと思う。
言ってることは、それなりに正しいと思う。時代認識は鋭い人なんだろう。
マスな広告を派手にうちつつ、情報への飢餓感を刺激してものを売る方法が、昔ほど通用しなくなっているのは確かだと思うし。
でも、なんとなく、自分は西野氏のいうやり方では、たいしたものが生み出されないような気がしている。
そりゃ、多くの人が関わって「俺たちが作った!」という実感を持てるモノは、多くの人に売れるだろう。
自分たちがかかわっているんだもの、そりゃ愛おしいし、人にも薦めたくもなるだろう。
でも、それって結局、仲間意識や達成感を売っているだけであって、生み出されたモノ自体のクオリティとは関係ないところでモノが売れるってことじゃないのかな?
時々、はてなで、大して内容のないブログに妙に絶賛するブクマがついたりスターがついたりして、その背後に「互助会」の存在が指摘されているけれど、同じことが起きる気がしている。
かつて、それほどクオリティの高くない映画とかが、マスコミが派手な宣伝攻勢と情報操作で売れた時代があったが、現代ではそういうやり方は通用しにくくなった。
それは、悪いことではないと思う。
でも、そこで、新しい手法でモノを売るのは勝手だけど、それで、どうでもいい仲間内でほめあっているだけのモノがあふれるんなら、それもなんだかなあ、という感じだ。
「仲間」を「買い手」にしてモノを大量に売るという手法は、実は別に新しいものでもない、とも思う。
その究極の形は、大川隆法氏だろう。
彼の本は、少なくともここ25年を累計すれば、日本出版史上でも特筆すべき売り上げを叩き出していると思うが、まあ、まともに論じる人はいない。
それでも、売れる。
「10万人を作り手にすれば、10万人に売れる」という発想は、これと一脈通じていると思うのだが、どうだろうか?
そういえば、ある程度知名度ができて信者が囲い込めるようになったら、はてぶからの批判をシャットアウトした、いんちきりんな著作家がいたけれど、それも似ているのかもしれない。
まあ、仲間内で盛り上がってモノを買うのは勝手だけれど、部外者の自分には関係ない。
よければ買うし、つまらないければ買わないだけだし。
そういえば、以前、アメトーークに出ていたとき、西野という人は「とりあえず俺のファンになってよ! そうしたらドキドキさせてあげるから!」みたいな事を絶叫していた。
なにを言ってるんだコイツは、と思った。
順番が逆だ。
ドキドキ(じゃなくてもいいが、腹抱えて笑わせてもらったとか、感動させてもらったとか)させてもらった経験があるから、人はファンになるんじゃないのか。
あと「コイツはあんまり好きじゃないけど、でも漫才はめっちゃ面白いよな」というスタンスもありだと思うが、そういうのはダメなのか。
「俺の信者になれば、幸せになれるよ」ってのは胡散臭い宗教の教祖の言い草だが、西野という人はもしかしたら盲目的な信者に囲まれた教祖になりたいのだろうか?
本日おこなわれた全日本合唱コンクール東京支部大会に、幸福の科学の合唱団が出場。
男性は白衣のような服、女性はドレスで肩に紐状の飾り(将軍とかが身につけてるやつ)を装着。
見た目のインパクトで観客も少しざわついていた。
ひょっとして幸福の科学の正装なのか?と思い画像検索したが、大川隆法が天使のコスプレをした画像しか見つからなかった。
課題曲はいいとして、自由曲は「勝利の歌」、作詞:松本弘司 作曲:水澤有一
作詞者、作曲者ともに信徒らしく、過去にも幸福の科学のために作品を残しているらしい。
どんな歌なのかドキドキしていたのだが、予想通りエルカンターレの讃美歌だった。
演奏が始まる前は、金に物を言わせてクオリティの高い映画やアニメを作っている幸福の科学のことだから、
ひょっとして合唱もかなりの実力があるんじゃないかとドキドキしていた。
全国大会まで行って、エル・カンターレの宣伝をされたらたまったものではない。
しかし、それは杞憂で、まぁひどい演奏だった。というか、エル・カンターレの前で披露したら怒られるんじゃないかな。
基礎出来てないし、そもそも音取れてないし…。
まぁしかし、今でこそ幸福の科学はカルトだが、数十年後には大きな団体になっているかもしれない。
こいつらの悪趣味を政治や文化に持ち込まれるのは、本当に御免だ。
創価学会しなの合唱団は、名前の通り創価学会の合唱団だが、歴史も実力もありとても良い演奏をする。
やはり創価学会というのはそれだけ力を持った集団なのだと思う。
同様に、幸福の科学合唱団の演奏を聴くことで、幸福の科学の実力が測れるかもしれない。
今後、賞を取るような合唱団に成長していくようなら、要注意だ。