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2023-09-20

AIによる『性的イラスト』とは何か

AI規制問題は、そもそも性的イラスト』とは何かという根本的な問題を投げかけている。

PIXIV等におけるAIイラスト投稿は、『性的イラスト』の規制ということに関して、何を性的と考えるかというそもそもの疑問を呈している。

 

AIには「性器」という概念はない。

AIは、身体のパーツを概念として認識して、それを描いたり描かなかったりするわけではない。

AIはただそこにありそうなシルエットを連想的に描くのであって、それが「性器であるかどうかという判断力を持たない。

 

PIXIV等に投稿された大量のAIイラスト例外ではない。

それらには時として「性器のように見えるもの」「本来規制されるべきものに見えるもの」が描き込まれている。

それらは時にレギュレーターにより規制対象判断されるが、そうでない場合もある。

それらは実際AI自身にも、性器なのかどうなのか、規制されるべきなのかどうなのかがわからない。

その性器のように見える何かの色彩が「規制されるべき対象であるかどうかは、誰にもわかっていない。

 

しかしこれはそもそも人間が描いた絵でも同様である

人間が描いた『何か』が性器であるかどうか、R-18タグがつくべきものであるかどうかは、人間同士の合意の中で決められているに過ぎない。

描いた人間が「性器ではない」と主張すればある時はそれが通ってしまうし、規制側が「性器である」と判断すれば有無を言わさず規制されもする。

漫画イラストを幅広く知るものならみな知っていることだが、この判断グレーゾーン流通に乗った『明らかに描かれちゃってる奴』は出版史枚挙に暇がない。

 

一時より沈静化しているとはいえ、今もまだPIXIV等には毎日、毎時間、大量のAI生成画像投稿されている。

その中には、モデレーターの目を逃れたと見られる「本来規制されるべきものに見えるもの」が描かれた(生成された)イラストがまた大量にある。

これらはAI自身にも、生成者にも、他の第三者にも「性器であるかどうか」「規制されるべきものであるかどうか」の判断は難しい。

 

この状況が早晩破綻を来すことは目に見えている。

しかしそれは『AI生成によるイラスト規制』をどうにかするだけで治まる問題ではない。

そもそも「『絵に描かれたもの』が性的であるかどうかを第三者判断する」「絵に描かれた『性器』にモザイク等の規制を課す」という行為にどれだけ意味があるのか、という根本的な問いが投げかけられている。

2016-12-21

キンコン西野的な「売り出し方」されても、魅力的なものは生まれなさそうな理由

キングコングというお笑いコンビ西野さんという人のブログホッテントリ入りしていた。

(「まだ『情報解禁』とか言ってんの?」http://lineblog.me/nishino/archives/9250121.html)  

自分なりに理解すると

「今の世の中は、ネットの発達もあって、すべての人がクリエイターだ。

クリエイター受け手・買い手の垣根はない。

から、みんなで一緒に何かを作り出して、たとえば10万人でものをつくれば、10万人に売れる。

 そんな時代に、制作秘密にして、小出しに『情報解禁』なんてやって期待感煽るやり方をしてるなんて、ダセーよ、馬鹿じゃないの?」

といいたいのだと思う。

言ってることは、それなりに正しいと思う。時代認識は鋭い人なんだろう。

マスな広告を派手にうちつつ、情報への飢餓感を刺激してものを売る方法が、昔ほど通用しなくなっているのは確かだと思うし。

でも、なんとなく、自分西野氏のいうやり方では、たいしたものが生み出されないような気がしている。



そりゃ、多くの人が関わって「俺たちが作った!」という実感を持てるモノは、多くの人に売れるだろう。

自分たちがかかわっているんだもの、そりゃ愛おしいし、人にも薦めたくもなるだろう。

でも、それって結局、仲間意識や達成感を売っているだけであって、生み出されたモノ自体クオリティとは関係ないところでモノが売れるってことじゃないのかな?

時々、はてなで、大して内容のないブログに妙に絶賛するブクマがついたりスターがついたりして、その背後に「互助会」の存在が指摘されているけれど、同じことが起きる気がしている。


かつて、それほどクオリティの高くない映画とかが、マスコミが派手な宣伝攻勢と情報操作で売れた時代があったが、現代ではそういうやり方は通用しにくくなった。

それは、悪いことではないと思う。

でも、そこで、新しい手法でモノを売るのは勝手だけど、それで、どうでもいい仲間内でほめあっているだけのモノがあふれるんなら、それもなんだかなあ、という感じだ。



「仲間」を「買い手」にしてモノを大量に売るという手法は、実は別に新しいものでもない、とも思う。

その究極の形は、大川隆法氏だろう。

彼の本は、少なくともここ25年を累計すれば、日本出版史上でも特筆すべき売り上げを叩き出していると思うが、まあ、まともに論じる人はいない。

それでも、売れる。

信者」という「仲間」が、がっちり買い支えいるからだ。

10万人を作り手にすれば、10万人に売れる」という発想は、これと一脈通じていると思うのだが、どうだろうか?

そういえば、ある程度知名度ができて信者が囲い込めるようになったら、はてぶから批判シャットアウトした、いんちきりん著作家がいたけれど、それも似ているのかもしれない。

まあ、仲間内で盛り上がってモノを買うのは勝手だけれど、部外者自分には関係ない。

よければ買うし、つまらないければ買わないだけだし。



そういえば、以前、アメトーークに出ていたとき西野という人は「とりあえず俺のファンになってよ! そうしたらドキドキさせてあげるから!」みたいな事を絶叫していた。

なにを言ってるんだコイツは、と思った。

順番が逆だ。

キドキ(じゃなくてもいいが、腹抱えて笑わせてもらったとか、感動させてもらったとか)させてもらった経験があるから、人はファンになるんじゃないのか。

あと「コイツあんまりきじゃないけど、でも漫才めっちゃ面白いよな」というスタンスもありだと思うが、そういうのはダメなのか。

「俺の信者になれば、幸せになれるよ」ってのは胡散臭い宗教教祖言い草だが、西野という人はもしかしたら盲目的な信者に囲まれ教祖になりたいのだろうか?

自分は、信者が絶賛する教祖様作品なんて、その時点で興味が失せてしまうけれど。

 
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