はてなキーワード: ジェンダーとは
フェミニズムには女子教育の遅れを補うエンパワ方便として怒りや感情論を「男のする理論」と並ぶ対極に置く発想が根っこにあるんだけど、それが現代の性中立的社会では悪意としか捉えられない側面が出てる気がする
大学生女子を捕まえて論者として立てると、学歴とか議論の訓練不足が出て「やっぱり女はバカ」とか「現実にバカだから無理じゃん」って話になっちゃうんで、それを回避するために「女のカンは男社会の論理では捉えきれないパワーがある」みたいなことを言って刷り込んで活動家に仕立て、「多少甘くても認めてやらないと女性の地位向上が進まない」って言い訳するんだよね。ところが時代が下ってまともに教育を受けてスキルを上げた「 人 」が当たり前に増えてくるとこの方便がイマイチ通じなくなって、現代では「スーツを着たシス女性ジェンダーだと何の特権があるって????」って最早困惑しかないっていうかさ
大元の増田はまだこの方便寄りなんだけど、結局はこのお気持ち優先理論って女性の(注: マイノリティや障害者などは含まない。アッパーミドル以上で自分の選んだジェンダーにアイデンティティを持っているアルファ「女性」に限る)の地位向上の役には立ったということにしても、現在進行形の社会問題には…
https://twitter.com/occhi12345678/status/1601464883719311361
ほかの子供が喜ぶようなイベントで喜ばない子供って、親と子供は別人格なんだぞ!って早期に教えてくれる子供ってことなんじゃないのかな。
自分が幼少期に喜んだこと、ほかの子供が喜んでいるように見える (本当に喜んでいるかは不明だよね?!) ことって、別にその子が喜ぶことではないということをちゃんと教えてくれる。
たとえほかの子が喜んでいるように見えても、親に気を使って喜んでいるように見せているのかもしれないしと思ってしまう。
ちなみに、うちの子は親がわざわざ連れて行ったところでつまらなそうにしていると親ががっかりするのをどこかで理解し、いつも「楽しかったー」と言ってくれるようになっている気がする。
そのたびに、本当に楽しかったのか、自分たちに合わせてくれているのかとちょっと疑心暗鬼になるところがある。
親が妄想する子供が喜びそうなことを子供が喜んでいる様子ばかり見せつけられると、親も勘違いするだろう。
そのルートは親子の密着がひどすぎて思春期迎えてから、子供が自我を確立しようとしたところからが地獄だろうな。
別人格だと理解している親は思春期のころはすでに一歩引いて見られるというかすでに見ている気がする。
まあ、一歩引くルートでも、親が思う社会性フィルターをどう適用するかで悩むところなんだよな。
逆のジェンダーのものだと思われているものや行動を好む子供を、親が妄想する正しい気がする方向にどの程度更生するか悩むよね。
リベラル・フェミニズムは「人は生まれながらに自由」「男女は同じ人権を持っている」「互いの権利を害さないよう法律や条例があるしその調整もする」という方針で、はてなー的にはおそらく異論があんまないタイプのフェミニズム。
ポストモダン・フェミニズムは「ジェンダー(社会的性別)は許せないからそれを再生産しそうなあらゆる物は批判する」「法律や条例では快適な社会には足りないのでアップデートした倫理や規範で更に強い制約を設ける」「弱者の意見が常に正しいので女性の言うことに従わなくてはならない」という、社会学者とかジェンダー論とかを大学で専攻した人が染まるタイプの奴。
どっちも一応フェミニズムだし、後者の方が近代の議論だから余計タチが悪いんだけど、どちらも学問を名乗っていて社会運動の側面もある。社会的性別を徹底的に排除した社会というのがどうあるべきか(目指すべきか?)などは考えてみる価値はあると思う。
後者の方はその理屈の振り回し方が活動家や宗教家に便利過ぎたという致命的欠点があるせいで、例えばミサンドリーをこじらせただけの人が萌え絵を封殺するための棍棒としてフェミニズムを使う。
あと矯風会の「女の権利を制限して肌の露出も娼婦も許さん」みたいなパターナリズムゴリゴリな思想も倫理や規範みたいな顔をしてフェミニズムを振り回す。もちろんリベラルとは真逆なのでこいつらをリベラルと呼んではいけない。
ジェンダー解体の観点から萌え絵批判をする場合、社会にある性差を再生産しそうなあらゆる物(シャネルの広告でも男性アイドルでも良いけど)もすべて否定しないと一貫性が無いし、棍棒として振り回す奴らは自分に都合が良い部分だけしか勉強してないからちゃんとポストモダン・フェミニズムを勉強した人からすらも馬鹿にされる。
アップデートした倫理なんて物は学問の世界ですら答えは出ていないのに、宗教家は適当に都合が良い部分だけつまみ食いして自分が正しいと言い出すので矯風会的にはかなり使い勝手が良いんだろうなポストモダン・フェミニズム。
そもそも学問ってのは「誰の口から出ようが正しい物が正しい」っていう再現性こそが要なのに、ポストモダン・フェミニズムは「弱者が正しい」と言い出したから弱者以外が何を言っても間違いとしてしまった結果、学問ですらなくなってしまって袋小路に迷い込んで失敗した学問なんだけど、そこを反人権の全体主義者やミサンドリズムに目をつけられて乗っ取られたから活動家や宗教家が便利にフェミニズムを名乗ってる。
俺は他人の思想や市場の経済活動を法律やら倫理やらで制御しようという考えがそもそも間違いだと思うので、規範を押し付ける事で他人の思想を制御しようとしてくる奴らは残らずクソだと思ってるし、絵を焼く奴らも服装を押し付ける奴らも反人権な巨悪だと思う。
でもフェミニズムって名乗って活動してるからこの辺の経緯と実体を知らない人から敵視されずに済んでるんだと思う、ガン細胞みたいなやつだ。
今は消されたのか検索で出て来なくなっちゃったけど、ジェンダー社会学の教員が「『常識を疑う』という社会学の紹介も間違ってる」とブログで書いてたことがあるよ。
常識を疑うことを常に許すと、ジェンダーフェミニズムの研究成果として確立された正しい常識まで疑い始める輩が大量に湧いて逆に有害なんだって。
疑うべき常識と、完成されててこれ以上疑う必要のない、疑うべきでない常識とを見分けられるようになるのが社会学と言った方が正確かも。
『セルフネグレクトするのが男らしさ』というジェンダーロールによって、男さんは自ら寿命を縮める。女で『不摂生して早死したい』という奴がいないように。toxic masculinityは直訳で『有毒な男らしさ』と読むべきと思う ジェンダー 健康 タバコ 酒 増田
https://b.hatena.ne.jp/entry/4729285825193205892/comment/cinefuk
げに
【甲】 | 〇〇選手がすごくイケメンだった! かっこよかった! |
【乙】 | 〇〇選手のユニフォームを脱いだ時の肉体美がすごかった!!! |
【丙】 | 〇〇選手の裸体が見れて興奮した |
【丁】 | 〇〇選手がすごく美少女だった! かわいかった! |
【戊】 | 〇〇選手、ユニフォーム着てても浮き出るおっぱいがすごかった!!! |
こういうの、男性側としては、「別に不快とは思わないが男女は平等に扱うべき」っていう感想になるんだよな。
「【甲】」「【乙】」「〇〇選手と〇〇選手のゴールを決めた時の絡みがBLっぽくて云々」「【丙】」みたいなの、俺はちっとも不快じゃない。これを不快に思う男性は少数派だと思う。実際の選手側でもそこまで嫌がる人いないんじゃない?
でも、男性視聴者が女性選手に向けて、「【丁】」「【戊】」「〇〇選手は尽くす系の良いお嫁さんになりそう」「【丙】」って言うのはアウトなんでしょ?
同じノリと内容なのに、女性が男性に向けて言うのはOKで、男性が女性に向けて言うのはダメ、というのはジェンダー不平等だろう。どちらもOKにするかどちらもNGにするかのどちらかにすべきだ。
なので、「【甲】」って書き込んでる人は、当然「【丁】」という書き込みに文句は言わないはずだし、逆に「【戊】」という書き込みをアウトだと思う人は、当然「【乙】」なんて書き込みはしてないはずだよね?
もし日本の女性の多くが「【甲】」っていう書き込みを是認するなら、当然、男性側が「【丁】」と書き込むことに文句を言われる筋合いはなくなる。俺は「どっちもOK」の方向に持っていくべきだと思うから、「【甲】」「【乙】」みたいな書き込みも許容すべきだと思うぜ。男性側も積極的に「【丁】」「【戊】」と書き込んでいこう! 自由な社会ばんざい!
こういうの、男性側としては、「別に不快とは思わないが男女は平等に扱うべき」っていう感想になるんだよな。
「〇〇選手がすごくイケメンだった! かっこよかった!」「〇〇選手のユニフォームを脱いだ時の肉体美がすごかった!!!」「〇〇選手と〇〇選手のゴールを決めた時の絡みがBLっぽくて云々」「〇〇選手の裸体が見れて興奮した」みたいなの、俺はちっとも不快じゃない。これを不快に思う男性は少数派だと思う。実際の選手側でもそこまで嫌がる人いないんじゃない?
でも、男性視聴者が女性選手に向けて、「〇〇選手がすごく美少女だった! かわいかった!」「〇〇選手、ユニフォーム着てても浮き出るおっぱいがすごかった!!!」「〇〇選手は尽くす系の良いお嫁さんになりそう」「〇〇選手の裸体が見れて興奮した」って言うのはアウトなんでしょ?
同じノリと内容なのに、女性が男性に向けて言うのはOKで、男性が女性に向けて言うのはダメ、というのはジェンダー不平等だろう。どちらもOKにするかどちらもNGにするかのどちらかにすべきだ。
なので、「〇〇選手がすごくイケメンだった! かっこよかった!」って書き込んでる人は、当然「〇〇選手がすごく美少女だった! かわいかった!」という書き込みに文句は言わないはずだし、逆に「〇〇選手、ユニフォーム着てても浮き出るおっぱいがすごかった!!!」という書き込みをアウトだと思う人は、当然「〇〇選手のユニフォームを脱いだ時の肉体美がすごかった!!!」なんて書き込みはしてないはずだよね?
もし日本の女性の多くが「〇〇選手がすごくイケメンだった! かっこよかった!」っていう書き込みを是認するなら、当然、男性側が「〇〇選手がすごく美少女だった! かわいかった!」と書き込むことに文句を言われる筋合いはなくなる。俺は「どっちもOK」の方向に持っていくべきだと思うから、「〇〇選手がすごくイケメンだった! かっこよかった!」「〇〇選手のユニフォームを脱いだ時の肉体美がすごかった!!!」みたいな書き込みも許容すべきだと思うぜ。男性側も積極的に「〇〇選手がすごく美少女だった! かわいかった!」「〇〇選手、ユニフォーム着てても浮き出るおっぱいがすごかった!!!」と書き込んでいこう! 自由な社会ばんざい!
そんなことありえないだろ。って思うじゃん?
わかるよ。東京ならたとえ10人前後の事務所でもかなり気を使ってるから、ありえないよね。
地方だと今だに「セクハラにあうなら女が悪い!!」って言いのける社長とか普通におりますよ。
大体転勤とかではなく。ずっと地方に残ってる男性ってデキが良くないので。
理想に燃えてもいないし「そんな社会変えなきゃな」とか一切思いませんから、その社長に追従します。
そういう社長のコピーみたいな男性社員が社内にたくさんいるわけですよ。
だから地方から若い女性いなくなるんですよ。過ごしにくいからね。
ジェンダー平等は女性が不利益を受けているかどうかを問題とする概念。
国際的に進んだジェンダーギャップランキングの各種指標でも採用されている基準なんだけど、男性より女性の方が恵まれている状態(女性の方が多く高等教育に進学する、女性の議員の方が多いなど)は、それも男女平等が実現された状態(満点)としてカウントされるよ。
社会的な性規範の内在化されたものを心の性と呼ぶのは大きな誤りを孕んでいる気がしてならない。人間の心がまずあると仮定してもそこに性別があるなんてどう考えてもおかしな話である。これはLGBTの方々への権利の制限に賛成する話ではない。むしろあらゆる権利はあらゆる個人とあらゆる形式の集団に付与されるべきである。
婚姻制度なんてものはあらゆる人間のあらゆる組み合わせに対応すべきであり現在の状況がおかしい。そもそも法の下の平等概念からして法に男女という概念を持ち込んだやつの頭がどうかしている。同性婚を禁止している現民法はどう考えても憲法違反である。そして重婚を禁止するのも、複数人による婚姻を禁止するのも憲法違反である。というのが私の個人的な意見だ。また恋愛感情などという定義不可能なものを前提としない純粋な資本の接続制度に作り変えるべきだと信じている。これはただの意見だ。もちろん国家や宗教のいくつかのレゾンデートルの一つとして性規範の固定化があるのは言うまでもないことであるが、そもそも国家も性規範も大嫌いな私にそんなものを持ち出しても意味などないし届かない。
しかしそれはそれとして、心の性などというものは私には看過できない概念だ。そんなものは存在しない。血液型性格分類と変わらない無価値で有害な幻想だ。
近年、ある程度は心の性がない人という概念も広く知られはじめてはいるがそれはあくまで特別な人とされている。多くの人にはどちらかの心の性があると考えられている。これがおかしい。そんなものはある訳がない。常識的に物事を考えろ。心の性なんてものは元々人には備わっていない。これは事実であり現実だ。
心の性概念などというものはくだらぬ性規範が内在化されたものにすぎない。自由主義においては規範の内在化に反抗すべきであり、あらゆる性規範の破棄を求めるべきだ。社会的性などというものは当たり前だが許されない。そして性を前提とされない社会においては心の性なんてものはある意味がない。よって存在しない。そこにあるのはどういった生殖器が付いているかによる機械的分類だけだ。我々は人間である。まともな社会においてはそれより先にはなにも要らない。
女に生まれたが心の性が男である、というのは現在の性規範に縛られた糞のような観念だとあり得る。確かにあり得るがそれは性規範を内在化してしまっている、という意味では従前のゴミのような性別概念とほとんど差異はない。結局のところ自由度が2から4に増えるだけだ。そんなちっぽけな自由など自由ではない。無限のバリエーションのある心を二分法で分類する心の性と呼ばれるものなど許される訳がない。性規範を信じる人間と性差別者に本質的な差異などない。心の性なんてものはその実際として現在の性規範に照らし合わせて自身の価値観をどう縛り付けるかを考えより良いものを選択した結果にすぎない。二者択一のジェンダーのうちより自身にとって有利なものを意識的にもしくは無意識的に選択した結果に過ぎない。
心の性など存在しない。そもそも性別などは付いている生殖器の違いに過ぎない。付いている生殖器によって何かしらの束縛を受ける謂れなど我々にはない。自由主義において我々はこう言い切るべきではないのか。
そしてそもそも人は自らを知り得るのか。
恋愛は性欲の詩的表現を受けたものであると言う。恋愛感情という自己認識としてのその主観事実を否定するべきではないし、当人の自己認識は自由権のもとで尊重されるべきだ。しかし性欲について言及した今もう一度考えてみたい。人は独りでに心の性を持ち得るか?
持たない。上述のとおりである。
人はあくまでも社会的に心の性を与えられるだけである。もちろん心の性というものは確かに存在し得るがそれは生得的なものではなく獲得的なものである。身体機能としての性に一対一対応した心の性なんてものはない。ある訳がない。あるのは社会的性の役割であり、ジェンダーと呼ばれるものだ。
スカートを履き、可愛いものを好み、ピンク色が好きで、私立文系に進み、事務職をする、男に恋愛感情を抱く実存。のようなそういう唾棄すべきステレオタイプの集合を心の性と言っているにすぎない。
人が持つのは極めて純粋な身体機能としての性と、社会的な役割としての性の二つだけだ。そして後者は破壊すべき対象である。心の性などというものはそもそも存在すべきではない。